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8 筋肉は全てを解決します‼

「オランド?」

 夕飯時に。

 私は、レイガに「オランドに行かないか?」と言われた。

「オランドは確か……」

「そう。私の生まれ故郷だ」

 そう言って、レイガは頷いた。


 オランドは、私達が住む領都よりも北にある地方だ。

 アーマリアの記憶によれば、そこにレイガが五歳まで育った村がある。

「私の育った村の近くに、あまり高くはないが、エーデルワイスの花が群生する山があるんだ。今が見ごろの季節だ」

 エーデルワイス、という言葉が「有希」の私の心をくすぐった。

 「有希」が知るエーデルワイスは、映画「サウンドオブミュージック」で歌われる、曲の名前だ。

 それが、実際の花から取られた曲名だとは知っていたけれど、エーデルワイス事態は見たことがない。


「良いですね」

「ならば、行くんだな?」

 私が頷くと、伺うようにレイガは尋ねてきた。

「はい。私もエーデルワイスを見てみたいです」

 私は、笑顔でそう頷きながら答えた。


 エーデルワイスはまだ見たことがなかったから、とても見てみたいと、思ったのだ。

 私が笑顔で頷くと、レイガはほっとした表情になった。

 どうやら、緊張していたらしい。


 彼にしてみれば、自分である妻が自分の考えられないことを発言し、自分が止めてもやりたいことをしている姿を見て、「もしかしたら断られるかもしれない」と、考えていたのかもしれなかった。

 まあ、確かに嫌なことは「嫌」と、私も言うべきだし、実際口にはしている。

 レイガと共に裁縫を習ったことも、あれはレイガに「部屋で、刺繍でもしていろ」と言われたことへの反発もあった。


 だから。

 自分の提案を拒絶されるかもしれない、とレイガが考えるのも無理はない。

 しかし、この「お出かけ」は、そもそもロゼの発案ではあるけれど、言い出したのは私の方である。


 それに「エーデルワイスを見に行こう」という誘い文句は、なかなか心に来るものがあった。

 「旦那の故郷」「エーデルワイス」のキーワードは、萌える。

 これは、ツンデレ「受」が精一杯考えて、「断られるかも」と思いながらも、勇気を持って誘ったデートだと思うと……良いっ、これは良いっっっ。

 私はこのシチュエーションだけで、御飯が三杯行ける!


 もちろん、現実は私とレイガなので、萌えるシチュエーションも何もないのだが、私としては十分テンションを上げる理由になってくれた。

 そうこうしているうちに、一週間ほどの準備期間をおいて、私達はオランドに出発することになった。


「でも、エーデルワイスって高い所に咲くんじゃないの?」

 その馬車の中で。

 私は、同乗しているアマンダに尋ねた。


 「有希」の知識の中では、野生のエーデルワイスは、ヨーロッパアルプスなどの高山地帯に自生する植物で、自然界では非常に過酷な環境に適応して育つ。

 だから、自然のままの姿を人里で見ることは非常にまれのはずだ。


「まあ……簡単に言えば、観光客を呼ぶために作られた、人工的な群生地なのです」

 アマンダの恰好は、いつもの黒いワンピースではなく、体力作りで着ていた緑のチュニックのような服と白いズボンの姿だ。

 私の方も、薄い赤のチュニックに、白の長ズボンという恰好である。


「手入れが大変なのではないですか?」

 一方、そう尋ねる私の隣に座ったロゼは、庶民の「お姉さん」の恰好のために、綿のかわいらしいチェックが入ったワンピースを着ている。

「そうですね。うどんこ病、スス病もありますし、アブラムシ、ハダニのような害虫もいますから、大変だと思います」

「なるほど……」

 つまり、観光名所を作るために、レイガが育った村の人達は努力をしているのだ。


「オランドは、確か観光が主力産業でしたよね?」

「そうです。長い冬があるため、農業や畜産は、あまり生産性が高くありません。長い冬を利用した木工やアクセサリーなどの手工業と、観光が主力になっています」


 フォレスト公爵領は、北の国であるエーベルト公国の中でも、北に位置している。

 オランドは、そのフォレスト公爵領のさらに北に位置しているから、気候がとにかく「寒い」の一言に尽きた。


 特に冬は長くて、十月過ぎには雪が降る。

 でもその代わり、夏は涼しくて過ごしやすく、色鮮やかな山の風景や、のどかな田舎の風土は、貴族達の夏のバンカスの場所として、有名な場所になっていた。


「旦那様の生まれた村は、そのオランドでもさらに北にあるのです。とても長閑で風光明媚なところなのですが、観光客を呼ぶのに、今一つ目決め手になるものがなかったのです。そこで、エーデルワイスを人の手で育てて、群生する場所を作って、観光客を呼ぼう、となりまして。かれこれ二十年ぐらいになります。今では、りっぱな群生地になっているようです」

「じゃあ、旦那様も……」

「そうですね。手入れのお手伝いをされていたのかもしれません」


 アマンダの言葉に、私は、馬車の隣を馬で並走しているレイガを、窓越しに見つめた。

 本来であれば、レイガは私と共に馬車に乗って、アマンダとロゼが二台目の馬車に乗って、護衛の者達が馬って感じなのだけど、今回の旅路のメンバーは、私とレイガ、侍女の役目を担うロゼと監督責任者のアマンダ、護衛のコーランド、そして食事係のカイルである。


 実はミモザもオランドの出身とのことで、本当はこの旅行にも付いて来たがっていたらしい。

 しかし、さすがに身重の体で、馬車の長時間の移動は好ましくない、とアマンダは判断したようだった。

 ミモザは最後まで粘っていたらしいのだけど、カイルが旅行であったことは、ちゃんと詳しく話す、ということで納得してくれた、とのことだった。


 ……アーマリアの記憶の中では、「かわいらしいけれど、大人の女性」だったミモザだが、どうも違う面がちらほら見えているが、まあ、彼女もどうやら「アーマリア押し」のようなので、私は気にしないことにした。


「実はミモザは、旦那様と共にフォレストの館に来たのです」

 不意に、窓の外を見ていた私に、アマンダはそう声をかけてきた。

「そうなんですか?」

「はい。旦那様の母方の親類でもあって、年齢の近いミモザが、お側仕えとして、共にフォレストの館に上がることになったのですよ」


 アマンダの言葉に、裁縫教室の時に感じた二人の「親しさ」は、気のせいではなかったのだと、私は気付いた。

 小説の設定では、レイガは五歳まで、自分がフォレスト公爵の跡継ぎだとは知らなかったはずだ。

 それはおそらくミモザも同様のはずで、きっと二人は親しい親戚として、故郷の村では過ごしていたはずなのだ。


「ミモザも、強い女性なのですね……」

 私はため息を吐きながら、そう呟いた。

 あんなにちんまりして可愛らしいのに、まだ小学生高学年ぐらいの年齢で、生まれ故郷から知らない場所に来て、その知らない場所で、今まで「親しい親戚の子」として接していたレイガに仕え、その支えにもならないといけなかったのだ。

 それでも、きっと彼女は、軽やかな笑顔を浮かべながら、辛いことも嫌なことも、乗り越えて行ったのだろう。

 本当に、本当に、私が男だったら嫁に浮かべたいと、私はますますその思いを強くした。


「奥様……そこは、『旦那様、頑張ったんですね』と思うところなんですよ!」

 そんな私の思いが顔に出たのか、私の反対側に座っていたロゼが、そう突っ込んできた。

「何言っているの。今の話の主体は、ミモザでしょ。ミモザのことに思いを馳せる方が普通よ」

「そうかもしれませんが、そうかもしれませんが……!」

「まあまあロゼ、落ち着いて。旦那様以外のことに、奥様の意識が向けられるのは良いことですよ」

「パレス様、最近の奥様は、旦那様以外に意識が行きっぱなしなんです!」


 半泣きの表情になって、ロゼは言った。

 ロゼの言葉に。

 私は、確かにな、とは思った。

 「愛に飢えた受」という萌え設定のおかげで、完全に忘れ去ることは避けられているが、それがなければ、私の意識はレイガのことは、全くもって認識していなかっただろう。


「それでも、今の奥様は健康そのものです。私は、それはとても良い傾向だと思いますよ」

 だけど。アマンダはそう言葉を続けてくれた。

「アマンダ……」

「確かに、離縁は避けてもらいたいですが、これは別に奥様ばかりが考えることではないと思います。旦那様にも、努力は必要です」

 アマンダの言葉に、私はもう一度窓から見えるレイガを見つめた。


 馬に乗る彼を見るのは、これが初めてだった。

 栗毛の馬に跨る彼は、涼しげな瞳で前を見据えていた。

 頬に差す光が、端正な顔立ちをさらに際立たせる。

 身体に馴染んだ革のジャケットと、風に揺れる金髪が野性味を添え、鞍を握る手は力強くも繊細だった。


 ついでに言うと、レイガとコーランドは馬に乗って、私達が乗る馬車と並走していて、何と馬車の御者はカイルがしている。

 そうして。

 半日近く馬車に乗って、移動した後、私達は宿泊所へと到着した。

 

 オランドは、多少無理をすれば一日で行ける距離ではあるけれど、アーマリアの体力を考慮してのスケジュールになっているらしい。

 こういうところは、「アーマリアを気遣ってくれたのだな」、とわかる。

「そうですよ。旦那様は、奥様を気遣ってくださっているんです。だから、奥様の方も、もう少し旦那様に優しくしてあげてください!」

 そのことを口にすると、お茶の用意をしながら、ロゼが言った。

 アマンダは、隣の部屋にいるレイガの世話をしに行っている。


 イルンがいればイルンがするだろうけれど、彼は留守の館を任されていた。

 カイルやコーランドも、それぞれに役目があるので、アマンダがレイガの世話を引き受けたのだ。


「でもね、『部屋から出ないで大人しくしていろ』と言われて、詰問調に話されてみてよ? とっとと離縁したくもなるわよ」

「だから、それは公女たる方には……!」

「前にも言ったでしょ? 周りがどう思おうと、私は私のやりたいようにするわ。私は、幸せになりたいの」

 それは、本当に私の揺るぎない誓いだった。


「では、どういうことをお望みなんですか?」

 このままでは堂々巡りだと気付いたらしいロゼは、そんなことを聞いて来た。

「やっぱり、語り合いかなあ……」

 私がアーマリアとしての意識を持った後、レイガとの会話は、まあ……私の行動を咎める内容とか、私の発言に戸惑ったものとか、食事の内容とか……「普通」の語り合いがない。

「その語り合いですら、ご自身で混沌(カオス)混沌(カオス)にしていらっしゃるご自覚はおありですよね?」

「まあ…それは……」


 だがそれは、レイガがパワハラまがいの発言をしてくるせいもある。

 後、私の妄想に突っ込んでくるのも、混沌になってしまう原因の一つになっていた。

「奥様、私もあまり人のことは言えませんが、旦那様と語り合いたいのであれば、思いをそのまま口にするのは、避けた方が良いと思われます」


 ロゼの言うことは、最もだった。

 離婚をするにしても継続を選ぶにしても、まずは、レイガとの関係を進めないと話にならない。

 でも、それについては私にも言い分がある。

 レイガが強い言葉で問いただす様に話すから、私もストレートに返してしまうのだ。


「とりあえず、詰問調で話すのだけは止めて欲しいわね」

 お茶の入ったカップを手に取りながら、私はそう言った。と、その時だった。

「では、旦那様にそうお願いしてみては、いかがですか?」

 私の言葉に返す様に、そんなことを言いながらアマンダが部屋に戻って来た。


「アマンダ?」

「旦那様は、ご自身の話し方を自覚されていないのかもしれません」

 アマンダのその言葉に、私は目から鱗が落ちる気分だった。

「旦那様としては、普通に話していらっしゃるつもりなのでしょう。ですが、奥様にとっては、ケンカを売られているようなご気分になる話し方であることは、おそらく気付いていらっしゃらないと思います」


「それは……よろしいのですか?」

 この世界の価値観では、「妻は夫に従う者」と言うのが基本だ。

 夫に意見するのは、あまり好まれない。

 その価値観を刷り込まれているロゼは、アマンダにおずおずと尋ねた。


「ロゼ、あなたは少し勘違いをしていますね」

 そんなロゼに、アマンダは私の席の隣に立ちながら言った。

「確かに、古来より『妻は、夫よりも三歩下がるべし』という諺はあります。ですが、その意味合いは、本来は違うのですよ」

 そこで、一度アマンダは言葉を言った。


「夫の前にいるより、後ろにいた方が夫を操れるからです!」

 ドンっと、発されたその言葉に、ロゼは呆気に取られてしまった。

「歴史を振り返ってみても、どのような英雄の傍には、賢い妻がいました。女性は、どうしても体力的には男性には敵いません。ですが、冷静な判断力や周りを見る力は、女性の方が長けていることが多いのです。もちろん、それが全てではありませんが、歴史を等しく見ても、どの英雄にも、「賢妻」と言われる女性が必ず傍にいるのですよ」


 アマンダの言葉に、確かにな、と私は思った。

 農民から出世した豊臣秀吉には、どんなに出世しようとも、頭が上がらなかった妻・北政所がいた。

 織田信長の妻・濃姫はあまり有名ではないが、彼の活躍の裏には、彼女の働きがあったと言われている。


「ただ、奥様の場合は、旦那様を無視して突っ走って行かれているので、まずは、きちんと話すことから始めてください。それは、切にお願いします」

 そんな私に、アマンダは苦言するように言葉を続けた。

 その言葉を聞いて。

 私は、「あ。はい……」と、頷くしかなかった。


「では、奥様。食事の支度ができたようなので、お持ちしますね」

 私に言いたいことは言い切った様子で、アマンダはそんな風に話を変えて来た。

「え? でも、夕飯までにはまだ時間が……」

「奥様。興奮していてお気づきになられていないかもしれませんが、奥様は慣れぬ長時間の旅でお疲れです。お疲れが出る前に、食事を済ませて、湯あみをされてください」


 アマンダはそう言うと、ロゼに頷いてみせた。

 どうやら、事前に打ち合わせをしていたようで、ロゼは私が飲んだお茶のカップをテーブルから下げると、ワゴンに乗せて、部屋を出て行った。


「奥様は、このままお待ちください」

 アマンダは、椅子に座った私に、そう言葉をかける。

 私としては、彼らの打ち合わせ済みであろう「予定」を崩すわけにはいかないので、言われる通りに、椅子に座ったままでいた。


「失礼します」

 扉がコンコンとノックされ、ロゼと入れ替わるように、今度はカイルが入ってきた。

 いつもの白いコック服ではなくて、藍色のエプロンをしているのが、またその体つきの良さもあって、なかなかに良い。


 兵士であってもおかしくない体つきなのに、何故、料理人をやっているのか。

 母親であるアマンダは元兵士、叔父のコーランドも兵士だから、彼が同じように兵士になっても、おかしくはない。


 そんなカイルがワゴンを押して、私のテーブルの横に付いた。

 私の前に置かれたものは、ガラス皿に映える果汁をたっぷり吸ったパンが深い赤紫色に染まり、艶やかな光を放っていた。

 二つに切られた断面からはラズベリーやブルーベリーが顔を覗かせ、ぎゅっと詰まった果実感が伝わった。

「うわあ……」

 その盛り付けの綺麗さに、私は思わず声をあげてしまった。


「サマープティングです」

 そんな私に、カイルが笑いながらメニューを教えてくれた。

「サマープティング?」

「はい。この地方では、夏によく作られます。ベリーを煮て果汁を出し、パンに染み込ませて型に詰めたもの。一晩冷やして仕上げる、爽やかで見た目も鮮やかな夏の定番です」


 カイルが説明しながら、生クリームを添えてくれた。冷やした生クリームを添えれば、色彩と質感の対比がさらに際立ち、まるで絵画のような美しさだった。

 スプーンを入れると、ふんわりとしたパンに果汁が染み渡り、ひんやりとした甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。ラズベリーの爽快な酸味とブルーベリーの濃厚な香りが調和し、まるで初夏の風景を味わっているよう。

 添えられた生クリームがやさしく全体を包み、気持ちまで穏やかになるひとときだった。


「美味しい……!」

 私が一口食べてそう言うと、カイルは、にこっと笑った。

「ここの宿の女将さんが作っているんですよ。前に、ミモザとオランドへ戻った途中、ここに宿泊させてもらって、このサマープティングを食べさせてもらったんです。とても美味しくて感動したので、ぜひ食べてもらいたい、と思ってご用意させていただきました」

「ありがとう、カイル。とても美味しいわ」

 私は、笑顔でそう言った。

 

 実際。

 「有希」だったら、馬車で半日乗ったぐらいであれば、ずっと座っていた疲れはあるものの、食欲がなくなることは、まずない。

 だけど、このアーマリアの体は、休息を欲していて、本当は食べるよりも、眠ることを優先しているようだった。

 サマープティングを食べて、冷たく冷やされたアイスティーを飲んだ後、私は急に眠くなっている自分に気づいた。


「奥様、このまま湯あみをしてしまいましょう。用意はできていますので」

 そう言ってアマンダが、部屋続きになっているお風呂に案内してくれた。

 そこのお風呂場は、フォレスト公爵の館と違って、お風呂の囲いは木でできていて、お湯を汲む桶も、木製だった。

 でも、木製にできているはずの、黒いカビはない。


「すいません、この地方では貴族用の宿泊地は限られていますので、このような場所になってしまいます」

 アマンダは、私に案内をしながらそう言った。

「いいわよ。全然綺麗じゃない。すごいわ。木製の湯船は、カビが生えやすいのに。手入れがきちんとされているのね」

 さっき食べたサマープティングも、とても美味しかった。

 この宿の人達は、お客様のために、自分達がやるべきことを最大限にやっているのだ。


「……物事の道理を理解していると、自然に口にできるのですね」

 そんな私を見て、独り言のように、そう言った。

「アマンダ?」

 私はアマンダに声をかけたけれど、

「何でもありません。ごゆっくり入られてください」

 そう言って、アマンダは浴室を出て行った。


 私はそんなアマンダの態度を不思議に思いながらも、服を脱いで、置いてある籠に入れた。

 湯気が静かに立ちのぼる。

 檜に似た香りが空気を満たし、肌に触れる湯は、優しく体を包み込む。

 木肌に背を預けると、ぬくもりが心まで沁み渡り、馬車の移動の疲れが、静かにほどけていくことを、私は感じた。


 こんな時、「有希」である私は、日本人なんだな、と思う。

 湯の中で指を動かすと、波紋がゆらりと広がり、風呂の縁に映る灯りが揺れる。

 しんとした夜、木の音が小さく鳴っている。

 ふう、とため息を吐くと、ゆっくりと眠気が体に立ち昇ってくることを感じた。


 多分。

 アマンダの見立て通り、私は興奮して疲れを感じていなかったのだろう。

 眠気に吸い込まれそうになりながらも、私は自分で体を洗った。

 この世界では、風呂場までは使用人達も付いてこない。

 こうゆうところは、やはり人の創造で作られた世界なんだなのだ。


 まあ、お風呂ぐらいはゆっくり一人で入りたいし、自分の体を他人に見られることは避けたい私には、ちょうど良かった。

 昔の貴族の女性は、「入浴」というよりも、「着替え・髪の手入れ・香水の使用」を含むトータルケアとして「身だしなみの儀式」のように扱われていたし、特に貴族女性は、侍女たちに囲まれて入浴や着替えを行っていた。


 そもそも、「入浴は良くない」って考えが根本にあったから、入浴は滅多に行なわれていなかった。

 それを考えると、こうやって毎日お風呂に入れる環境にあるのは、「ひとひらの雪」を書いた作者さんが、日本人であるせいだろう。


 往々にして、「ファンタジー」が舞台の小説は、西洋の中世時代に似た雰囲気だけど、こと、水回り関係は、作者さんの願望なのか、あまりそこまで意識がいかないのか、途端に日本の事情に近くなる。

 さすがに、水道から水がじゃーとか、ボタン一つでお風呂が沸くとかは、ないけれど。

 特に違和感なく、お風呂が気軽には入れたり、トイレも清潔だったりする。

 「有希」の意識がある私には、この世界の設定は、とてもありがたかった。


 そんなことをつらつら考えながら湯舟に浸かっていると、

「奥様、そろそろ上がる時間です」

 コンコン、とドアがノックされて、アマンダの声が聞こえた。

「わかったわ」

 その声に、睡魔に引き寄せられたようなっていた私は、慌てて湯船が立ち上がった。


 籠の中に入っていた布で体を拭いて、下着のシュミーズとパンツを付ける。

「もう良いわよ」

 と、私が声をかけると、「失礼します」と言って、ロゼが入ってきた。


「あれ、アマンダは?」

 私がそう尋ねると、

「旦那様のお部屋に、夕食の準備に行かれました」

 私に、就寝用の服を着せながら、ロゼは教えてくれた。

 どうも、女手が少ないのでパタパタしているらしい。

 ここは、私が素直に寝た方が、アマンダ達もゆっくりできるんだろうな、と私は思った。


「では、こちらへ」

 お風呂場から出た私は、寝室へと案内された。アマンダは「貴族用の部屋はない」と言っていたけれど、この部屋は庶民である「有希」にすれば、十分に豪華である。

「お茶を飲まれますか?」

 と、ロゼは言ってくれたけど、私は眠くてしょうがなかった。


「ありがとう、ロゼ。でも、もう眠たいから休むわね」

 私がそう言うと、ロゼは「わかりました」、と頷いてくれた。

 ふかふかのベッドに入り、目を閉じる。

 そうして。

 私は、すぐに眠りにひきこまれた。


 で、次の日の朝。

 私は、さわやかな気持ちで目覚めることができた。

ほぼ半日馬車に座っていたのにも関わらず、腰も痛くないし、疲れも感じない。

 これは、十分に休息が取れた証拠でもある。

 すごいな、と素直に思った。日々ストレッチや瞑想やスロージョギングをした結果が、徐々に出始めている。


「……よし」

 私はそう呟いて、今日も朝のルーティーンをしようと、ベッドから降りた時だった。

 コンコン、と軽くドアがノックする音が聞こえた。


 寝室の壁にかけてあった時計を見ると、ロゼが私を起こすまで、まだ一時間ぐらいあった。

 私がいつも起き出す時刻ではあったけれど、ロゼ達が働きだすにはまだ早い時間帯だ。

 何かあったかなと私は思って、「どうぞ」と声をかけたのだけど、ドアは開かない。

 けれどしばらくすると、またノックがしたから、どうやらロゼではないのだ、と気づいた。


「……どちら様ですか?」

 だから、私はおそるおそる声をかけた。

「……アーマリア、起きているのか?」

 すると、レイガの声が聞こえた。

「旦那様⁉」

 私は慌ててベッドから降りて、ドアを開けた。


 すると、そこには、いつもの姿とは違って、庶民の……と言うか、美術の教科書に載っていた、十八世紀ぐらいの一般人の男性がしていた恰好をした、レイガが立っていた。

「起きていたか」

 私がドアを開けると、ほっとした表情になって、レイガが言った。


「どうしたんです、このような朝早くに」

 私は驚いてそう声をかけてしまった。

 基本的に、この世界では貴婦人の部屋に男性が訪れるのは好ましくない、とされているが、レイガは夫なのでその辺はあまり厳しくはない。

 だが、やはり身なりを整えていない時間帯に、妻を訪れるべきではない、とはされている。


「エーデルワイスを見に行かないか」

 けれど。

 レイガは、私が思ってもいないことを言った。

「エーデルワイスをですか? ですが、これは本日出発するのでは……」

「見せたいものがあるんだ」

 戸惑う私に、レイガはさらにそう言葉を続けた。


 本来であれば、私はこのレイガの申し出を断るべきなのだろう。

 主人たる者が勝手な行動をすると、困るのは使用人達だ。

 人に仕えてもらっている立場であれば、それは絶対に避けなければならない。―そう、アーマリアは父親から躾られていた。


『一緒に出掛けない?』

 けれど。

 不意に、私は思い出したことがあった。

 一度だけ、私は旦那から遊びの誘いをされたことがあった。


 それは、結婚して半年ぐらい経った頃だった。

 でも、それは私に直接声をかけてくるわけではなく、ラインでの誘われたのだ。

 今、考えれば。

 旦那は旦那なりに、私達夫婦の仲を改善するために、色々と考えてくれていたのかもしれない。


 だけど、そのやり方は、私にはとても受け入れられるものではなくて。

 「話し合い」ができない旦那は、コミュニケーションも拙くて。

 あの時の私は、そんな旦那を受け入れる余裕など、本当になかった。


 だから。

 「通信大学の試験があるから」と、断ってしまったのだ。

 実際、本当に資格試験のための勉強はしていたし、試験が間近だったのも本当だった。


 でも、それが友達からの誘いだったら―例えば、今日子からの誘いだったら―私は多分、ウキウキの気分で出かけていただろう。

 旦那と共に出かけることが既に苦行になっていた私は、旦那が心の底から勇気を振り絞ってしたであろう誘いを、あっさりと断ってしまったのだ。


 あの時。

 私が旦那の誘いを受けて、どこかに出かけていたのならば、少しは何かが変わっていたのだろうか。

 たとえ「離婚」となっていても、今とは違う気持ちを抱いていたのだろうか。


「わかりました」

 そんな苦い思いを抱きながら、私は頷いた。

 私の一番の「推し」であるアーマリアに、そんな後悔を抱かせるわけにはいかない。

 常識とか社会の目とか。

 気にしていたならば、「離婚」という選択肢も選べなくなる。


 アーマリアである私が頷くと、レイガは一瞬だけ驚いたような表情をしていたけれど、

「そうか……」

 と、はにかみながら頷いた。

 その表情が、何とも稚くて。

 ギリシャ彫刻のような体付きとイケメンな顔立ちの成年男子の表情に、私は、おおおおっ!と内心思った。


 ツンデレの受けが、愛を信じなかった受けが、差し出された「攻」の愛情を受け取って、少しずつ変わろうとしている。

 良い、本当に良い……!


「アー……マリア?」

 そんなことを思っていると、おそるおそると言う感じで、レイガが話かけてきた。

 その訝し気……と言うか、奇妙な物を見ているような表情に、私は、ハッと我に返る。

「あ、すいません。今から準備をしますので、お待ちくださいますか?」

 そして、慌ててそう言った。


「……大丈夫なのか?」

「はい。いつものドレスであれば、一人で着るのは少し難しいのですが、持ってきた服であれば、大丈夫です」

 私は頷いて、そう言った。

 実際。

 寝室の壁には、昨日着ていた、ミモザが作ってくれた服が、丁寧に洗濯されて、かけられていた。

 私が眠りについたのは、夕方だったから、あれから急いで洗って、干してくれたのだろう。

 夏の季節柄、一晩ですっかり乾いていた。


「では、外で待っている」

 私の言葉に、レイガは頷いてドアを閉めた。

 私は急いでベッドに近づくと、着ていた夜着を脱いで、かけてあった服を着た。

 髪の毛は、いつも丁寧にセットしてもらっているけれど、とりあえず櫛で解いて、一つに結んで、トップでお団子にした。

 メイクは、ドレッサーの鏡の前に置かれたものから、適当に目星を付けて、自分でした。

 この辺のことは、「有希」の頃は自分でやっていたのだから、手慣れたものだ。


「お待たせしました」

 私は念のため日よけの帽子を持って、部屋を出た。

 ドアのすぐ横で、壁に背を預けて私を待っていたレイガは、私を見て、驚いたような表情になる。

「……いつもと違うな」

「そうですか? いつもは侍女の人達にやってもらっていますからね」

 私としては、いつもよりはちょっとまあ……ちゃんとした格好ではないかな、と思っていたけれど。


「そちらの方が、俺は好きだ」

 私から視線を逸らしながら、レイガは言った。そのいきなりさに、私は目をぱちくりさせてしまった。

 そうして。

 頬が、熱くなることを感じた。

 人は、思ってもいないことを言われると、しばらく思考停止してしまうことを、私は初めて知った。

「行くぞ」


 私の前に立って、レイガは歩き出した。

「あ、はい」と、私は慌ててその後を追う。

 何というのか。

 こう……甘酸っぱいと言うのか、何か居たたまれない、そんな気持ちだった。

 こんな気持ちになったのは、いつ頃ぶりだろうか。


 学生時代、好きだった先輩と目があっただけで、こんな気持ちになった。

 今は遠い昔のことだけど、あれが初恋ってやつだったのだろう。

 そう考えると、アーマリアだって、レイガが初恋なのだ。

 レイガの方だって、アーマリアが初恋だったのに違いない。


 そう考えれば、彼がアーマリアに対して不器用になるのは、仕方がない部分もあるのかもしれない。

 そして、小説のアーマリアだって、レイガが初恋だったわけで。

 ……若干十七歳の、大切に大切に育てられた純真な女の子が、拗らせまくった、愛情に飢えた十九歳の男の子を相手するのは……、無理だわ。


 自分が十七歳だった時のことを思い出して、私は、そう思った。

 やはり、レイガは恋愛相手としては、かなり難題過ぎる。

 ただ。

 「離婚」を経験した有希としては、こうやって「初々しいな、オイ!」と突っ込みつつも、ときめいてしまう余裕がある。


 そんなことを考えながらレイガの後を歩いていると、旅館の外にある馬小屋らしい場所に来た。

「ここは……」

 と、私がレイガに尋ねようとすると、

「おはようございます、奥様」

 にこにこと笑ったコーランドが、馬の手綱を引いて小屋から出て来た。


「旦那様、準備できました」

 そして、レイガの方を向いて、馬の手綱を渡す。

「馬に……乗るのですか?」

 私は、思わずそう言ってしまった。

「馬は、乗ったことないのか」

 レイガにそう尋ねられた瞬間、私はアーマリアの記憶の中に、乗馬のレッスンも受けていたことを見つけた。


「いえ。乗り方はわかっております」

「そうか。だが、安全のことを考慮して、俺と共に乗ってもらう」

 私の言葉を聞くと、レイガはそう言った。

「何、固いこと言っているんですか。旦那様は、奥様とラブラブランデブーをしたいんですよね?」

 しかし、そんなレイガに対して、コーランドが呆れたような口調で言ってくる。


「ラブラブ……?」

 私は「ラブラブランデブー」と言うパワーワードに硬直していたが、

「な、何を言うんだっ」

 と、一方のレイガの方は、顔を真っ赤にして叫んでいた。


「奥様、姉上達は後から来ます。俺もガードに付きますから、ご安心ください」

 そんなレイガを見て笑いながら、コーランドは言ってきた。

「わかりました、よろしくお願いします」

 私はコーランドの言葉を聞いて、ペコリと頭を下げた。


「乗るぞ、アーマリア」

 けれど、レイガは私の手を取り、自分の方に引っ張り寄せた。

 その瞬間。

 私はトスっと、レイガの腕の中にダイブしてしまう。


「あ、すっ、すまない」

「い、いえ……」

 レイガの胸は、筋肉が程よく付いていて、一瞬だけ抱きしめられた腕も、なかなか力強かった。


 レイガは慌てた様子で私から離れると、これまた慌てた様子で、馬にひらりと飛び乗った。

 そうして、馬の手綱を引いて、馬を座らせる。

「乗れるか?」

「あ、はい、大丈夫です」

 本来ならばアーマリアは馬乗りのレッスンを受けていたから、乗馬の仕方もわかっている。

 でも、私はレイガの気遣いを、素直に受け取ることにした。


 今の私は、「心は攻」なのである。一瞬だけ私を抱きしめた時の、レイガの慌てぶりと言うか、緊張ぶりは、なかなかの初々しさだった。

 良い。すごく、良い。

 私はそんなことを考えながら、レイガの前に乗せられた。


「どうだ、アーマリア。不都合はないか」

「大丈夫です、ありがとうございます」

 手綱を握るレイガの手が私の手に重なり、鼓動が背中越しに伝わった。

 ぱっかぱっかと、馬のリズムに合わせて二人の体が揺れる。


 その振動で、時々私の背中とレイガの体が触れ合う。熱を帯びた筋肉が背に触れ、まるで岩に抱かれたような安心感が走った。

「旦那様も、なかなか良い体つきをしていますね」

 私は、思わずそう口にしてしまった。

「良い体つき⁉」

 私としては、褒めたつもりだったのだけど。


 レイガは、素っ頓狂な声で、そう言葉を返してきた。

「はい。やはり、体を鍛えられた方は、筋肉の付きが良いですね。しかし、旦那様は日々の鍛錬の成果もあるからわかるのですが、カイルはどうして、あのような体付きになるのでしょうか?」

 私は、レイガの体付きに感心しながらも、疑問に思っていたことを口にした。


「コックの仕事は、見かけによらず、かなりの重労働ですからね。牛を一頭さばくのも相当力が要りますし、重い物を持つのも日常茶飯事です。私達とは別の意味で、重労働の仕事です」

 そんな私の疑問には、馬を並走させているコーランドが答えてくれた。


 考えてみれば、この世界では肉や魚は、パックで売っているわけではないだろう。

 確かにお金を通しての売買はあるかもしれないけれど、魚も肉も、どんっと丸ごと!だろうし、下処理はしてあっても、部位ごとに切ったり分けたりしているに違いない。


「後、やはり体力を付けるためには、肉ですね。肉の食べ過ぎは好ましくないですが、体力を付けるには欠かせません」

「そうなのですね……」

 それは、「有希」の世界でもわかっていたことだった。


 筋肉を付けるためには、鶏肉や卵などの高たんぱく質の食材を摂取するのが良い、とはダイエットの本にも書いてあった。

 肉の他にも、玄米とかさつまいもとかの炭水化物、アボカドとかナッツ類の脂質、ビタミンやミネラルも大切なのだが、筋肉の一番の材料になるのは、やはり高たんぱく質の食材だ。


「カイルに頼んで、私も肉を摂取するようにしないといけませんね」

「奥様は、筋肉を付けたいのですか?」

「そうです。私は、カイルや旦那様のように、筋肉を付けたいのです」

「なるほど……」

 私は、筋肉を付ける良いアイディアが見つかったことに、ウキウキした気分でいたが、コーランドは苦笑しながら言葉を続けた。


「ただ、奥様。これは一人の男としてお願いなのですが、夫の前で他の男を褒めるのは、避けた方が良いですよ。男は、やはり自分以外の者を褒められるのは、面白くないです」

「あら。それは、コーランドもそうなのですか?」

「そうですね……」

「でも、コーランドは、旦那様を褒めていたじゃないですか。アイラさんが、旦那様を褒めたら、やっぱり嬉しくないんですか?」

「いや、『さすが俺の妻!』と思います」

「ですよね! やっぱり同じものを『良い』 と思うのは、嬉しいですね!」


 まあ、私としては。

 本当に、レイガの体付きも、カイルの体付きも、あくまでも「理想的なもの」であって。

 それ以上の意味はなかったのだけど。


「……アーマリア」

 と、その時だった。

 私の背後で、死にそうな声が聞こえた。

「旦那様?」

「お前は……私とカイルを褒め合いたいのか?」

「そうですね! でも、カイルだけではなくて、ミモザの可愛らしい可憐さとか、アマンダの恰好良さとか、そう言ったのも一緒に語れると嬉しいです」


「……それは、楽しいのか?」

「楽しくないですか?」

 もちろん、露骨な言い方は駄目だけれど。

 人の良い所を探して、報告し合うことは、やっていて、とても楽しいことだ。

「じゃあ、旦那様の良い所ってどこですか?」

 私達の会話を聞いて、コーランドがそう尋ねてくる。


 その言葉を聞いて、私はふむ、と思った。

 まず、レイガの一番の特徴は、そのイケメン度だ。

 そして、その体つきはギリシャ彫刻のように、理想的な体型である。

 でも、コーランドが言って欲しいのは、外見的なことではないのだろう。


 私はふと、馬から乗った風景を見つめた。

 整えられた街道、こうやって兵士のコーランドが付いているとは言え、安全に旅に出られる治安の良さ。


「良い仕事をされているな、と思います」

「良い仕事?」

「こうやって、今早朝にも関わらず、私達は安全に街道を通れています。きちんと道が整えられているから、こうやって馬が安心して歩けていますし、悪い人に襲われる心配もありません。これは、旦那様がきちんと細部にまで、目を向けているからだと思います」


 勿論、レイガ一人で全ての仕事ができるわけではない。

 だが、こうやって安全に旅がでかるのは、細部に至る所にまで、レイガが目を配っているからこその、治安の良さなのだ。


「……」 

 私の言葉を聞いて。

 レイガは、黙り込んでしまった。

 私は、余計なことを言ってしまったのだろうか。

 ふと、そんな思いを抱いてしまったが。


「奥様は、お仕事がデキる男がお好みなんですね?」

 代わりに、そうコーランドが答えてくれた。

「と言うより、己の役目をきちんと果たそうとしている人は、どんな仕事をしていても、かっこよいと私は思います」


 マーリンのように、トイレの掃除をしている者も。

 自分達の故郷を守るために、日々鍛錬しているフォレスト領の兵士達も。

 私達に仕えてくれるロゼや侍女達も。

 私が知らない仕事をしている人達も、一人一人が己の役目を果たしてくれているから、私達の生活が成り立っている。


「なるほど……」

 私の言葉を聞いて、コーランドは頷いた。

「我らの領主夫人は、なかなかに聡明な方のようですよ、旦那様」

「……そうだな」

 私の後ろにいるレイガが、そう頷いて。

 コーランドが、とても良い笑顔を浮かべていたが、私は前に座っていたから、レイガの顔を見ることはできなかった。


 そんなこんなで、私達は特に何の問題もなく道中を進み、レイガが言っていたエーデルワイスが群生する山の麓にたどり着いた。

「ここからは少し歩くことになるが、きつくなったら言ってくれ。馬は、引いて行く」

 私を馬から降りる手伝いをしながら、レイガはそう言った。


「わかりました」

 馬は山を登って大丈夫なのか、と一瞬思ったけれど、私よりも、レイガやコーランドの方が戦には慣れている。

 それに、昔から山岳地帯でも、馬は移動手段や輸送手段として使われてきた。

 何もわからない私が口を出すことではない、と思って私はレイガの言葉に従った。


 初夏の山は、若葉が風にそよぎ、緑の海のように広がっていた。

 山肌にはツツジのような花が点々と咲き、淡い紅が緑に溶け込んでいる。

 鳥の声が当たり響き、陽射しは柔らかく、登るごとに空気が澄み、心も軽くなる。


「大丈夫か? アーマリア」

 レイガが私の前を歩き、時々気遣うように、後ろを振り返る。

「はい、大丈夫です」

 私は歩きながら、そう答えた。

 実際、山道とは言っても、さすが観光目的に作られた場所ではあって、きちんと道は整えられていた。


「奥様、足元は気を付けてくださいよ」

 その私の後ろを、コーランドが二匹の馬の手綱を引いて付いてくる。

 二人とも、私の体力を気遣ってくれるようだった。

 まあ、実際。

 おそらく、近くの村に住んでいる人達には、ハイキングコースなのだろうが、アーマリアの体には、なかなかきつかった。


 早朝の山は澄んだ空気が気持ち良いけれど、やはり北の方にあるせいか、初夏だというのに肌寒い。

 それでも、動いている内に体は温まってくる。

『疲れてきたら、複式呼吸だよ』

 筋トレを進めて来た時、今日子はそう言っていた。

 そのことを思い出して、私は鼻から息を吸い、お腹を膨らませるように意識して、口からゆっくり息を吐き、お腹をへこませるように深呼吸をした。


「大丈夫か?」

 そんな私に気づいて、レイガが足を止めてくれた。

「少し休むか?」

 そうして、そう気遣ってくれたけれど、私は首を振った。

「いえ。このまま行ってください」

「無理することはないぞ?」

「途中で休むと、多分動けなくなってしまいます」

 レイガの申し出はありがたかったが、多分、一度座り込んでしまえば、歩けなくなってしまう。


「そうか……」

 レイガは私の言葉に、複雑そうな表情になったが、

「奥様、無理することはないのですよ? 自分の限界を知ること、大切なことです」

「ええ。その今の私の『限界』を知るのが、今の私には必要なのです」

 コーランドに答える私の言葉を聞いて、軽く頷いた。


 実際、私はこの世界に来てから、少しずつ体力づくりを行っている。

 最近では、筋肉を付けるためのストレッチを始めた。

 その結果、どれくらい体力が付いたのか、知っておきたかった。

 歩き出してから、そろそろ一時間近くだから、それぐらいはできるようになっているのだろう。


 「着いたぞ」

 それから、しばらく経った頃。

 レイガがそう言って、ある場所を指差した。


 レイガが示した先には、岩肌に抱かれた高山の斜面に、エーデルワイスが静かに群生していた。

 風に揺れる白い綿毛のような花々は、まるで雪の精霊が舞い降りたかのようで、朝日を受けて銀白に輝いていた。


「すごい……」

 私は、思わずそう呟いた。

「俺が育った村では、このエーデルワイスを交代で世話していた。……俺も、実母とよく一緒に世話をした」

 レイガはエーデルワイスの群生に近づきながら、そう話してくれた。


「どんなお世話をしていたのですか?」

 その後ろに付いていきながら、私は尋ねてみた。

「草取りや病気の葉っぱを取ったり、肥料をやったり……雨が降らない日が続いた時は、麓から水を運んだこともあった」

「そうなのですね」

「故郷の村を去る前日も、ここに母や村の者達と一緒に、エーデルワイスの世話をしに来ていた」


 そう語るレイガの瞳は、今ではない、遠い過去を見ていた。

 彼の心は母達と一緒に、エーブルワイスの手入れをしていた時に戻っているのだ。

「綺麗ですね」

 私は、そんなレイガに囁くように言った。

 レイガは、はっとなった表情で私を見たけれど、

「そうだな……」

 そう言って、頷いた。


「私は、エーデルワイスは初めて見ました」

「宮廷では育ててないのか?」

「育てたこともありましたが、なかなか上手くいかないようでした。それなのに、こんなに綺麗に咲かせるなんて、すごいと思います」


 私は、素直に感心した。

 宮廷で働いている庭師達は、言わばプロ中のプロだ。

 でも、ここのエーデルワイスを育てたのは、素人の村人達。

 彼らが試行錯誤を繰り返して、協力し合いながら、この風景を生み出しているのだ。


「たまたま、だ。お前が育った宮廷は、ここよりも南にある。高温多湿をエーデルワイスは嫌うからな。北にあるこの村では、エーデルワイスが低い標高でも育つことができただけの話だ」

「それだけで、これだけの風景を作ることはできませんよ。少なくとも、私にはできません」

 レイガの言葉に、私は首を振った。

 「言うは易く行うは難し」と言うことわざがあるけれど、とても手間がかかっているはずだ。


「……生活がかかっているからな」

 そんな私に、レイガはポツリと呟くように言った。

 「俺が育った村では、土地が瘦せていて寒冷なせいもあって、牧畜が中心だ。冬になると、雪が降るから、観光客も来ない。夏にどれだけ人が来てくれるか、それがその年の村の収入に掛かっているんだ。このエーデルワイスは、村の観光の目玉だからな」


「そうなんですね」

 レイガの言葉には、経験者にしかわからない内容(もの)が含まれていた。

「……面白いか? こんな話が」

 不意に。

 レイガは、そんなことを聞いてきた。


「面白いと言うか……人の営みには、さまざまな工夫がされています。そこには、土地の特徴を生かされたことが多く、人の知恵も生かされています。エーデルワイスは、本来であればもっと高い場所でしか見られません。でも、ここの気候を利用して、比較的手軽に行ける場所で見られるようになっています。とても良い考えだと思いました」

「考え……」

「はい。色んな人の営みを知っていくのは、とても興味深いです」


 私としては、「すごいじゃん、あんたの村の人達、とても良いアイディア出しているよ!」と言いたかったけれど。

 とてもシリアスな表情をしているレイガに、いつものようなテンションで返すことは憚られた。

 何というのか……レイガは、今心に揺らぎを感じているようだった。


 まあ、無理はないのだ。レイガにとっては、ここは思い出の地だ。

 まして、フォレストの館に連れて行かれる直前に来ていた場所ならば、多分、実母と過ごした最後の思い出の場所でもあるのだ。


 その気持ちを無碍にするほど、私は否人道な人間ではない。

 いくら社会のシステムや価値観が違うとは言え、僅か五歳の子どもを実の母親から引き離すなど、本来はやるべきことではないのだ。


「……キャロラインは、お前はそんなことには興味がないだろう、と言った」

「そんなことはないですよ。キャロライン様は、どうしてそのようなことを言われたのでしょうか?」

 私が、レイガの言葉にそう答えた時だった。


「おや、お客さんがいるよ」

 明るく快活な声が、後ろから聞こえた。

 振り返ると、茶色の髪を後ろに束ねて、頭を三角巾みたいなもので包んでいる、四十代ぐらいの女性が立っていた。

「お早いね。こんな時刻に、お客様が来るのは珍しい」


「すいません、お邪魔しております」

 彼女のすぐ近くにいた私がそう挨拶をすると、

「何、構わないよ。ただ、人が手入れをする姿は、せっかくのこの風景を幻滅させないかい?」

「それはわかっていますから、大丈夫です」


「エルザ、どうしたの?」

 彼女とそんな話をしていたところ、可愛らしい声がした。

「ファナ、お客様がいらしたのよ」

 私は、はしばみ色の瞳と赤い髪をした、ちんまりした女性を見て、目を見張った。


 エルザと呼ばれた女性と同じ、三角巾のような布を頭に巻いていたけれど、赤い髪が肩から下へと流れていたのだ。

 そうして、彼女の面差しは、ミモザに似ていた。


「義母上……母さん……?」

 と、その時だった。

 位置的に私の後ろにいたレイガが、茫然とした声で呟いた。


「旦那様?」

「レイガ殿……」

 エルザ、と呼ばれた女性は、レイガに気が付いて、目を見張る。

「どうして、お二人がここに……?」

「レイガ⁉」

 ミモザに似た面差しを持つ女性も、レイガを見て驚いたような表情をした。

 

 私は、すぐにはこの状況を理解できなかった。

 何故に、この女性二人組を見て、レイガから「義母上」、「母さん」という言葉が出るのか。

「どうして、お二人はここに……」

 そうして。

 私とは別の意味で、レイガも状況を理解していないようだった。


「レイガ、あのね」

 そんなレイガを見て、ミモザによく似た女性―ファナさんが、言葉を続けようする。

「ファナ」

 それを、片手を上げてエルザさんが止めた。


「レイガ殿。私達は、実は共に暮らしているのです」

 そうして。

 そう言葉を続けた。

 その言葉の固さから、彼女がレイガの「義母」なのだろう。


 そうすると、ファナさんの方が、レイガの「実母」になるのか。

 それならば、ミモザによく似ているのも納得できる。

 ミモザは、レイガの母親とは親戚同士だ。

「一緒に暮らしている……? ですが、義母上は、領地を頂いて……」

 一方のレイガは、自分が把握しているであろう、「事実」を言葉にしていた。


 私も、レイガの育ての親と実の親が共に暮らしているという事実に、理解が追い付いていかない。

「そう。確かに、私は父上様から領地を頂きました。しかし今は、このオランドの村で暮らしております」

「私達は『婦婦(ふふ)』として、共に生活しているのです」

 すると、説明を続けるエルザさんの後を追うようにして、ファナさんが言葉を追加してきた。


 ふふとは、「フフッ」みたいでかわいい言葉だな、とは思ったけれど。

「えっ⁉」

 思わず、その言葉の意味をアーマリアの記憶から拾い出した私は、言葉を発してしまった。


 どうやらこの世界では、同性同士のカップルも「夫婦」として、認められているようなのだ。

 「貴族社会」と言う、血筋が前提の社会が形成されているのに、なかなかに斬新な制度を取り入れている。

 これも作者さんの好みなのかもしれなかった。


 ただ。

 それはそれとして。

 旦那の実の母親と育ての母親が、夫婦。

「え……」

 「有希」の私でも思考停止するぐらいの衝撃だったから、当事者のレイガにとっては、思考停止ぐらいでは、言い表せないぐらいの衝撃だったに違いない。

 それ以上何も言えずに、固まったままだった。


「すいません、お義母様方。また後で、ご挨拶の機会を頂きたいと思います」

 私はマナーに沿った挨拶を、エルザさんとファナさんにすると、

「旦那様、行きましょう」

 と言って、レイガの手を取った。

 完全に思考停止しているレイガは、「ああ……」と私の言葉に頷き、されるがままになっている。


「奥様? どうされました?」

 私達より少し離れた場所で、馬達を木に繋いで、その下で座っていたコーランドが、驚いたように立ち上がった。

「コーランド、申し訳ないのですが、一度戻ります。旦那様は私が連れて行くので、馬を頼めますか?」

「それは大丈夫ですが……何かあったのですか?」

 ちらっと私の隣にいるレイガを横目で見ながら、コーランドは私に尋ねて来た。


「後で話します。宿泊場所は決まっているのですよね?」

「はい。姉から聞いております」

「なら、麓に付いたら教えてください」

「わかりました。私は馬を連れているので前に行けませんが、奥様は大丈夫ですか?」

「麓までの道は一本道なので、大丈夫です。麓に降りたら、また考えましょう」


 この時の私は、「そんなのは後後後!」と考えていた。

 とにもかくにも、今この瞬間。

 レイガをこの場所から離して、気持ちを切り替えてもらうことが先だと思っていた。


「旦那様、山を下りますので、足元をお気をつけください」

 私はレイガにそう声をかけ、手を繋いだまま山を下りた。

 アーマリアの体力を考えたらギリギリだったはずなのに、不思議と疲れは感じなかった。

 それは、きっと緊張していたせいもあったけれど、レイガの心の内を思うと、何も考えない内にこの山を降りないと、と思っていたせいでもあった。


「まあ、奥様!」

 気が付くと、私達は麓まで降りてきていて、タイミング良く、アマンダ達がそこにいた。

「先に行かれたと聞いたのですが、もう下りて来られたのですか?」

 アマンダは私達の様子を見て、驚いた表情をしていた。

 

 実はエーデルワイスを見た後は、その近くでお昼ご飯を食べる予定だったのだ。

 私達が先に出発はしたけれど、予定変更は聞いていなかったから、レイガもアマンダ達が来るまで、ゆっくりと過ごすつもりでいたのかもしれない。


「アマンダ……」

 私は息を弾ませながら、アマンダの名前を呼んだ。

 彼女の後ろには、馬車から心配そうに除いているロゼと、御者席からは見下ろしているカイルの姿があった。


 私は、手を繋いだままのレイガを振り返った。

 レイガも息を弾ませているが、どこか表情は虚ろだった。

「コーランド、この辺で剣技場はありますか?」

 私は、さらにその後ろで馬の手綱を両手に持っていたコーランドに、そう声をかけた。

 

「小さいですけど、ありますよ」

「ならそこで、旦那様と共に剣の訓練をお願いします」

「え?」

 私の言葉に。

 コーランドより先に、レイガが怪訝そうな声を上げた。


「とにかく旦那様、今はコーランドと一緒に体を動かしてきてください。それから、アマンダは、私と一緒に来てください。カイルとロゼは、宿泊場所でお昼ご飯を作って待機をお願いします! コーランドは、その頃に旦那様を連れて戻って来てください」

「わかりました」

 ロゼとカイルは戸惑ったような表情をしていたが、レイガの様子とコーランドを見て、アマンダは何かを察したようだった。


「皆、奥様の言うとおりに。奥様、用意するものがありますので、少しお待ちください」

 アマンダはそう言うと、私に声をかけて、カイルからバッグを受け取った。

「では、行きましょう」

 私はそれを見て、アマンダに声をかけて歩き出した。


「……それで、何があったのですか?」

 しばらく歩いた後、アマンダの方から尋ねてくる。

「実は、エーデルワイスが咲いている場所で、旦那様の実のお母様と、育てのお母様にお会いしました」

 私は、前を見て歩きながらそう答えた。


「えっ⁉」

 私の言葉に、流石に思ってもいない内容だったようで、アマンダは驚いたような声を上げた。

「お二人は、どうやら共にお暮らしのようでした」

「……どういうことですか?」

「ご夫婦になられた、とのことでした」

「婦婦⁉」


 さらにこの事実は、アマンダですら思ってもいないことだったのだろう。

「アマンダも、知らなかったのですね」

「大奥様は、五年前、旦那様が成人された折に、所領を大旦那様から頂いて、その場所に引っ越されました。私も直々にお見送りをさせていただいたので、間違いないです」

「その時にもしかして……」

「奥様の言われることが間違いないのであれば、大旦那様とは離縁されていたのかもしれません」

 私の言葉を受けて、アマンダは頷いた。


「でもそのことは、旦那様は知らなかったのですね」

「……そうですね。そもそも、私達にも知らされていなかったのですから」

「何故でしょう?」

「わからないです……これは、ソーマ殿を締め上げねばなりませんね」

 ソーマとは、イルンの父親の名前だ。

 確かに、側近中の側近だったソーマであれば、このことは知っていた可能性が高い。


「ソーマ殿も、大旦那様に『言うな』と言われたら、言うこともできなくなるでしょうけれど……」

 そう言いながら、アマンダはため息を吐いた。

「大旦那様は、今は都の方にいらっしゃるんですよね?」

 一応、「ひとひらの雪」の小説を読んでいた時は、そういう設定になっていた。と言うか、愛人さんと一緒に住んでいて、現役の時も、フォレスト領には時々しか帰ってきていなかった。


「ええ。まあ、今は公爵の座を旦那様に譲られたから、そもそも言う必要がない、と判断されたのかもしれませんけどね」

「そうですね……」

 レイガの「両親」と言われる人達にも、それぞれに抱えている事情はあるのだろう。

 そして、それぞれに思いもあるに違いない。

 ただ、そこに。

 レイガの気持ちは、ない。


「……難しいですね」

 私は、ため息を吐きながら言った。

「奥様……話の途中で何なのですが。奥様は、エーデルワイスが咲く場所にお戻りになっているのですか?」

「そうです」

「何故ですか?」

「旦那様のお母様方に、ご挨拶をするためです」

 問いかけてくるアマンダに答えながら、私は歩いた。

 私の答えに、アマンダはそれ以上何も言わなかった。


 そしてテンション高く歩いたせいか、私達は、確実に最初に歩いた時間よりも早く、エーブルワイスが群生している場所に戻ることができた。

 エーデルワイスの群生地に近づくと、女性が二人、花の手入れをしているのが見えた。

「奥様……」

 その女性の一人であるエリザさんの姿を見て、アマンダが驚いたように呟いた。

 アマンダにとっては、彼女の方が「奥様」と呼べうる存在なのだろう。


「アマンダ……」

 エリザさんもアマンダの姿に気が付いて、目を丸くする。

 私達の姿を、ファナさんも気づいたらしい。

 二人とも、群生地の外にいる私達の方に来てくれた。


「お久しぶりです、大奥様、ファナ様」

 そう言って、アマンダは頭を下げた。

「本当に久しぶりね、アマンダ。レイガ殿が来るとは聞いていたけれど、あなたまで来ていたのね」


 どうやら、事前に村の方には知らせは行っていたらしい。

 アマンダと話していたエリザさんの視線が、私の方に向いたので、

「お初にお目にかかります。レイガ・フォレスト公爵の妻・アーマリア・フォレスト・エーベルトでございます」

 私は、礼儀を守るため、正式な挨拶をした。

 今はドレスを着ていないので、チュニックの裾を持って、頭を下げる。


「あなたが……」

 そんな私を、エルザさんの隣に立ったファナさんが、まじまじと見つめていた。

「ファナ」

 そんなファナさんを、注意するように、エルザさんが呼ぶ。

 そして、

「失礼しました。先のフォレスト公爵夫人・エルザ・ジルドです。こちらは、連れ合いのファナ・ブールストです」

「初めまして」

 エルザさんの紹介を受けて、ファナさんはエルザさんと一緒に、私と同じように挨拶をしてくれた。


「立ち話も何ですから、お茶を入れます」

 そんな私達を見て、アマンダがお茶の準備を始めた。

 どうやら、麓から持ってきた荷物は、そのためのものだったらしい。

 テキパキと群生地から少し離れた場所に手近な石を汲み、容器に入れた水を細長いヤカンのような物に入れ、火を入れて湯を沸かし始めた。そ

 れから、どうやら携帯用らしいティーカップを出して、最後にティーポットを出した。


「アマンダ、それ持って来たの?」

「お会いした時の奥様のご様子から、『もしかして』と思いましたので。本来は、本日の昼食時に使う予定でおりました」

 私の問いかけに、アマンダはお茶の準備を進めながら言った。

「相変わらずなのね」

 そう言って、エルザさんは微笑む。


「お二人がここにいらっしゃることは、奥様からお聞きしました。もしかしたら、ご様子を見に来られるかもとは思っておりましたが、大奥様までがいらっしゃるとは思わず……」

「まあ、タイガとソーマ以外、私がここにいるとは伝えていなかったから、知らないのは、当たりまえよ」

「領地の方には、行かれなかったのですか?」

「それは、私が頼んだのです」

 さらなるアマンダの問いかけに、今度はエルザさんの隣に座ったファナさんが答えた。


「ファナ殿?」

「私は、エルザが己の責務を果たした後は、共に在りたいとずっと願っておりました。それで、私が暮らすこの村に来てくれたのです」

「私の領地には、ソーマが夫婦で移り住んでくれて、私の代理を務めてくれている。これは、タイガも了承済みです」

 私が聞きたかったことは、エルザさんがファナさんの後に追加して説明してくれた。


「では……まこと『婦婦』に……」

「はい、私達は正式に『婦婦』として、この村で暮らしています」

 アマンダが、茫然と確認するように呟くのを、ファナさんがきっぱりと肯定した。


 私は、小説を読んだ時のイメージから、アーマリアと同じ、儚くてか弱い人だと思っていた。

 実際、ミモザとよく似た顔立ちは、幼さを宿す愛らしさがある。

 でも、ミモザも可愛らしい容姿はしていたけれど、中身はなかなかのタフな性格をしている。

 ファナさんも、儚い外見からは伺い知れない、底が座った強さがあるように思った。


「すいません、大変不躾な問いかけをしますが、お二人は何時ごろからーー」

 そんな関係になっていたのか。

 私は、そんな意味を込めて問いかけた。

 聞くのは失礼なことかもしれない、とは思った。


 けれど。レイガのために、知っておきたいと思った。

 きちんと知っていないと、レイガがこの「事実」をどう受け止めたら良いのか、一緒に考えることが難しくなる。

「知ってどうなさるんです?」

 案の定、ファナさんは鋭い視線を私に向けて来た。


「旦那様がこの『事実』を受け止めるために、どうやれば良いのか、共に考えるために知りたいのです」

 私がこう答えると。ファナさんとエルザさんは、お互いの顔を見合わせた。

「……私からもお願いします。お二人の生活をお邪魔する気は、私達には毛頭ありません。ただ、旦那様のために何ができるのか、私達も考えなければなりません」

「……わかりました」

 そうして。深いため息を吐きながら、エルザさんがそう答えてくれたのだ。

         ★

「母上!」

 私達が麓に降りると、すぐ近くの道に、カイルが馬車に乗って待っていてくれた。

「カイル、お迎えご苦労様です」

 アマンダは御者席に座るカイルに向かって、そう声をかけている。

 一方私は、さっき聞いたエルザさんとファナさんの話が、頭の中でぐるぐるしていた。


 結論から言えば。ファナさんがレイガを生んだのは、エルザさんのためだった。

 もともと、エルザさんは男性より女性が好きだったらしい。だけど貴族という立場上それは許されず、その頃から「男の愛人」がいたレイガの父親とは、お互いの利害関係が一致して、結婚に至ったらしい。


 どうも私は小説の状況から、エルザさんを「理不尽な結婚状況に耐えた女性(ひと)」と思っていたけれど、そうではなかった。

 でも、やっぱり貴族であればーそれも、国の重要貴族であれば、跡継ぎは大きな問題で。

 ただ、「愛しているから子どもはいらない」ってわけにはいかない。

 それは、レイガの父親の愛人さんも気にしていたようだ。


 ……それに関しては、私も同じ立場だったら、絶対に気にするだろう。

 自分のせいで、国の重要貴族の血筋が途絶えようとしているのだ。

 そんな重荷は、正直背負いたくはない。

 BL好きの腐女子としては、そこは覚悟を決めて、真っすぐな愛を貫き通して欲しいが、現実はそんな単純なものじゃあない。


  だから。レイガの父親は、「子どもを産んでくれる女性」を探して。

 そして、ファナさんは、それに志願した。

 自分が仕えている、そして自分が心の底から敬愛している、女主人(エルザさん)のために。


 ファナさんは、もともとエルザさんに仕えている侍女だったのだ。

 おそらく、その時ファナさんは、まだ二十代前半ぐらいだったはずだ。

 そんな年頃の女の子が、どんな思いで、その役目を引き受けたのか。

 何を求めて。何が欲しくて。


「奥様、大丈夫ですか?」

 ぐるぐると頭の中でそんなことを考えていると、アマンダが声をかけてきた。

 その声に、私はハッと我に返った。


「大丈夫よ、アマンダ」

「何があったのですか? 先ほど叔父上と旦那様もお戻りになられたのですが、とてもお疲れになられておりました」

「それは、後で話します。今はとにかく、宿に戻りましょう」

「わかりました。旦那様と叔父上は、先に湯殿に入ってもらっております」

「的確な判断です。では奥様、私達も戻りましょう」

 アマンダはロイドの言葉に頷くと、

「奥様、私達も戻りましょう」

 そう、私に声をかけてきた。


「わかりました」

 的確な判断でテキパキと指示をしてくれるアマンダのおかげで、私も茫然としながらも、彼女と共に馬車に乗り込むことができました。

 馬車の席に座ると、ふうっとため息が出た。

「お疲れになられましたか?」

 そんな私に、アマンダは声をかけてきた。


「それもあるけれど……。やっばりお二人に聞いたお話が、衝撃が大きすぎて」

「そうですね……私も、驚きました」

「アマンダも、気づかなかったのですか?」

 私の問いかけに。

 アマンダは、首を振った。


「大奥様に対しては、今のミモザのような反応はしていましたが、婦婦になるような感情を抱いていたとは、思ってもいませんでした」

 言っている内容は重大なんだけど、私は前半の「今のミモザのような」という言葉に、「え⁉」となってしまった。

「ファナさんも……そうだったんですか⁉」

「はい。私にはしませんでしたが、当時の侍女仲間には、さんざん『今日の奥様が如何に素晴らしかったか』の報告を、毎日していたようです……」

 当時を思い出したのか、アマンダは遠い目になった。

「それが、いつ頃からあのような思いを抱くなるようになったのか……」


 アマンダの言葉に、私は話している時のファナさんの顔を思い出した。

 迷いのない、瞳をしていた。真っすぐに話している私達を見て、「何を言われても、この人と離れるつもりはない」と決めているみたいだった。

 否。

 きっと、「決めている」のだ。

 どんなにレイガや他の人に批判されようが、エルザさんから―心の底から愛した人と、離れることはしない、と。


 それは、エルザさんも同じだった。

「……お二人のことについては、もう考えるのは止めましょう」

 私は、ため息を吐きながら言った。

「奥様」

「お二人は、もうご自分の生き方を決めていらっしゃいます。誰に何を言われようとも、お二人で生きることを選ばれているのです。おそらく、私達がどのように関与しても、何も変わりません」

「そうですね……。では、旦那様にはどのようにお伝えにしましょうか」


 私の言葉に、今度はアマンダがそう問いかけて来た。

「アマンダは……どう思いますか?」

「私は、お話する必要はないと思います。奥様は、どうお考えですか?」

「ええ。旦那様がお聞きにならなければ、それで良いと思います。でも……お尋ねになられた時は、事実のみをお話しようと考えています」

「事実……だけですか」

「ファナ様は、お義母様を助けるために、旦那様を身ごもられた。……これは、歴史を振り返って見ても、よくあることです」


 実際、日本の歴史を振り返って見ても、正妻に仕える侍女が、子どもを産めない主人に代わって、子どもを産む、ということはよくあっていた。

 有希のいた現代日本ではとんでもない感覚だけど、この世界では有り得ない話ではないだろう。


 「私達がわかるのは、事実だけです。そこにある感情は……当事者の方々にしか、わからないです」

 そして。

 ファナさんやエルザさんの気持ちは、当事者にしかわからない。

 どんなことがあって。

 どんな思いで、「婦婦」としての関係を成立させたのか。

 たとえ話してもらえたとしても、完全には理解できないだろう。


「それを予想で語るのは、お義母様方にも失礼です」

 ただ、わかることは。

 「ファナさんとエルザさんは、婦婦になって、これからも生きていくつもりでいる」ってことだけだ。


「……聡明な奥方様がいるってことは、楽ですね」

 私の言葉に。

 アマンダは、小さく微笑んだ。

「多分、奥様の言う通りです。そのやり方が、一番的確だと思います」


 ただ、と。

 そう付け加えて、アマンダは言葉をこうも続けた。

「ただ、そうは言っても。旦那様も理性はわかっていても、感情が納得されないことがあるかもしれません。できれば、そのことも配慮してくださると、私としては助かります」

「……わかりました」

 アマンダの言葉に。

 私は、思うことはあったけれど、馬車の揺れを感じながらも、頷いた。

        ★

 で、次の日。

「すまないな、朝早く」

「旦那様……」

 泊まった宿の私の部屋に、朝早くにレイガが訪ねて来た。

 今の時刻は、イシアの刻で、有希の世界では、だいたい朝の六時頃だ。

 私がいつも起きている時間ではあるが、周りはまだ眠っている。


 一般的には女性のーーまして、貴族の女性の部屋を訪れる時刻ではないけれど、レイガは夫なので、その辺はまあ問題ない。

 周りはーー少なくとも、宿泊客達はまだ寝静まっている時間帯だから、私はレイガを部屋に入れた。

「何もおかまいできませんが……」

 一応、椅子に座る前のレイガにそう声をかけておく。

 ロゼやアマンダが起き出す時刻には、まだ早い。

 お茶なんかも彼女達が持って来なければ、この部屋には存在すらしないのだ。

 だからと言って、勤務時間外に彼女達に仕事を頼むのは、マナー違反だ。


「構わない」

 さすがにそれは承知しているようで、レイガは首を振った。

「ゆっくり休まれましたか?」

 レイガが席を座るのを確認して、私はそう声をかけた。

「ああ……」


 あの後。

 昼頃になって、レイガはコンラート共に泊まる宿屋にやって来た。

 二人共、かなりハードに鍛錬をやったらしく、ボロボロに疲れていた。

 『大丈夫ですか……?』思わず、私はそう声をかけてしまったが、さすがと言うのか、『大丈夫です』『大丈夫だ』という返事の後に、彼らはきっちりと御飯を食べたのだ。


 カイルも考えてくれたらしく、何と、バーベキューだったのだ。

 この世界に「バーベキュー」という言葉があるのかはわからなかったけれど、炭火を起こして、網を載せて、その上で肉や野菜を焼いて、たれを付けて食べるというのは、まさしくそれだった。

『肉は、焼き立てが美味しいですからね』

 と、カイルは笑いながら言っていた。

 まあ、それは肉だけじゃなくて、野菜もそうだった。


 カイルが焼いてくれた野菜や肉を、レイガは何も言わずに、食べ続けていた。

 そうして。食べた後は、

『疲れたから、もう休む』

 と言って、部屋に戻って行ってしまった。

『お前達も、しっかり食べてから片付けてくれ』

 そう、カイル達にも声をかけていた。


 使用人達は、主人が食事をした後にしか、食事を取れないのだ。

 基本、同席は許されない。これもまた、マナー違反になる。

 私としても、本当はアマンダ達と食事をしたら楽しいだろうな、とは思うのだけど。

 それは、「「有希」の感覚だということは、わかっていた。


 だから、アマンダやロゼが食事をできるようにと、レイガに続いて部屋に戻った。

 そして、これまた私も休むことになったのだ。

 昼食の前に、私達はお風呂にも入らせてもらっていた。


 これは、ロゼが判断して、宿屋の人に湯船の用意をしてもらっていたのだ。

 宿屋の人達には、ぜひお礼を言いたい、と思ってしまった。

 早い時間のお湯の準備のために、きっと手間を取らせてしまったに違いないのだ。


 私は柔らかなお湯に体を清められて、さっぱりした気持ちで、清潔なお布団で眠ることができた。

 昼過ぎに眠っていたおかげで、体の疲れはすっかりなくなっていた。

 小さな山とは言え、二往復もしたのだ。

 通常のアーマリアの体力だったならば、寝込んでもおかしくない。

 でも、筋肉痛はあるものの、疲労感は全然残っていなかった。


 これは、ストレッチを地味に続けて来た効果だろう。

 だから。

「お前は、どうなんだ?」

 とレイガに問われても、

「十分休ませていただきました」

 と、答えることができた。


「そうか……」

 私の返事に、レイガはため息を吐きながら頷いた。

 どうやら、どう言葉を言おうかと迷っているようだった。

「義母上達と……会って来たのか?」

 だが、彼はそうやって話を切り出した。


「はい、そうです」

「何故だ⁉」

 私が頷くと、強い口調で、問い詰めるように言ってくる。

「礼儀だからです」

 でも。私は、あっさりとそう言い返した。


「礼……儀?」

「はい。まず常識として、私達は挨拶もそこそこに、お義母様達の前を辞しています。これは、人としての礼儀に反しています。あのままであれば、私達はお義母様達に失礼な態度をしたまま、辞することになりました」

 実際、あれは本当に失礼な態度ではあったのだ。


 もちろん、誰も見ていないし、エルザさんもファナさんも、他人に余計なことを話すような人ではないだろう。

 でも、きっとアーマリアであれば、戻る。

 戻って、挨拶をしたいと思うだろう。

 彼女達は、レイガを産んで育んだ人達だ。


「お二人とも、お健やかにお過ごしされている、とのことです」

 私は、淡々とした口調で、事実だけを伝えた。

 実際、エルザさんもファナさんも、幸せそうだった。

 レイガ、という犠牲を出した末に掴んだ幸せかもしれないけれど、彼女達はそれを手に入れるまでに、言葉にはならない苦難を超えて来ている。


 そのことを……私が、「有希」である私自身が批難することはできない。

 彼女達と「有希」は、生きてきた「社会」が違い過ぎる。

「それだけか⁉」

 そんな私に対して、レイガは声を荒げてくる。


「ええ、それだけです。旦那様は、そんな声を荒げて、私にどんな言葉を言って欲しいのですか?」

「アーマリア……?」

 私は、今回の出発前見に行く前に、アマンダに言われた言葉を思い出した。

「問い詰めるような口調で話されるのは、嫌です」

 きっぱりとした口調で言い切った私を、レイガは驚いたように見つめた。


「俺は……お前がいつも俺の隣にいて、笑っていてくれたら……」

「今のような生活を強要されるなら、無理です」

 さらにすがるように言われる言葉も、真っ二つに叩き切った。

 もちろん、離婚をすぐには望まないけれど、まずは現状を伝えて、改善を求める。

 アマンダに言われた通り、まずは自分の気持ちを伝えことで、状況を変えていく。


 それは、きっとアーマリアにとって大きな一歩に違いない。

 それに、とても勇気もいることだった。

 体が緊張して、固くなっているのがわかった。


「私は、人形ではありません。アーマリア・フォレスト・エーベルトです」

 でもね、アーマリア。

 忘れちゃいけない。

 あなたは、意思を持った人間なんだ。

 レイガや周りの人間の思う通りに、動く必要なんてない。


「何も感じず、何も言わないことがお望みであれば、ダッチワイフでも使ってください」

「だっち…わいふ…?」

「等身大の、人形のことです」

 ついでに言えば、エッチもできる。

「だが、お前は言うのだろう!『お義母様の嫁になりたい!』と」


 しかし、私のコメントに衝撃を受けたのか、レイガは突拍子なことを言い出した。

「はい? 何言っているんですが。エルザ様もファナ様も、軽い気持ちでそんな言葉が口にできる方ではありませんよ!」

 その突拍子さに、私は素でそう返してしまったけれど。


 実際問題として。

 あの二人は、半端な覚悟で、共にいるのではない。

 例え何があろうとーレイガに反対されようとも、どんな妨害に合おうとも、離れない覚悟を抱いている。

 そんな心境に至るまで、どんなことがあったのか。それを、私は伺い知ることはできない。


「では、お前は軽い気持ちで、カイルのような体付きになって、ミモザを嫁にしたいのか⁉」

「何言っているんですか! 私は本気でカイルのような体付きになりたいですし、ミモザのような可愛らしい女性を、嫁に迎えたいですよ‼」

 何故かそこに話が繋がって来たので、私は慌てて否定した。


 現実にはあり得ないとはわかっているけれど、私は男だったら、カイルのような体付きになりたいし、ミモザのような可愛らしい女性と結婚したい。

 でも、それは有り得ないことだとは、わかっている。

 そんな私の「有り得ない夢」を、カイルもミモザも「有り得ないこと」だとして、わかっていて、きっと、私が口にするの聞いても、気にしないだろう。


 だけど、エルザさんとファナさんは、私が「エルザさんの嫁になりたい」と言った瞬間、ファナさんが呪って来そうな気がするのだ。

「お前は私の妻だぞ⁉」

 そんな私に、レイガはさらにヒートアップするが。

「その前に、私はアーマリア・フォレスト・エーベルトです」

 私がそう言うと、とたんに何故か、ハッとした表情で私を見た。


「私はあなたの妻ではありますが、あなたの妻という人形ではないのです。だから、そのように詰問調で話されると、不快に感じるし、部屋にずっと閉じ込められるのも、嫌なのです」

 さっき言ったことを、私はもう一度レイガに伝えた。 


「……お前は、私にどうして欲しいんだ……?」

 けれど。

 イマイチ、まだ伝わっていないようだった。

 私の話が衝撃過ぎて、頭が付いていかないのかもしれなかった。


 まあ、レイガにしてみれば。実の母親と育ての母親が夫婦になっているわ、その後はコーランドと一緒に倒れるまで剣の鍛錬をするわ。

 目覚めた後の妻は「そういうことは嫌だ」と言うわ……。

 気持ちの上でも現実的な上でも、正直キャパオーバーなのだろう。

 現在三十五歳、バツイチの有希ですら、若干パニック状態だったのだ。

 まだまだ若いレイガには、一度に受け取れる状態ではないのかもしれない。


 「とりあえず、朝食の後に皆でエーデルワイスを見に行きませんか?」

 だから。

 一番、アーマリアが望んでいることを言った。

 きっと、アーマリアだったら、皆と一緒にエーデルワイスを見に行きたい、と思うだろう。


「え……?」

 茫然とした表情で、レイガは私を見た。

「せっかく、お義母様達が手入れをしてくださったのです。アマンダ達と一緒に、エーデルワイスを堪能したいのです」

 エルザさんとファナさんが朝早くにエーデルワイスを手入れしようとしていたのは、きっとレイガが来た時に、綺麗なエーデルワイスが咲いているようにしたかったからなのだ。

 彼女達は、レイガが「昼頃に来る」ということを、知っていた。


「だから、時間まではゆっくり休まれてください」

 私がそう言うと、

「わかった……」

 とレイガは頷き、椅子から立ち上がった。

 どうやら、ここが引き際時だと察した様子だった。


 それは、私としてもありがたかった。

 レイガが部屋から出て行った後、私はそのままベッドに座り、瞑想を始めた。

 そして十五分ほど経ってから、ねこのび」と上半身と下半身のストレッチ、「ごろ寝で前ならえ」をやった。それからベッドから降りると、スロージョギングを五分程度行う。


 そこから、筋トレの「ゆるっとバランス」と「腹筋ねじり」と「ぐるぐるストレッチ」を行って、私は深いため息を吐いた。

 とりあえず昨日の疲れは、早く休んだおかげで残っていないようだ。

 これからまたあのエーデルワイスの群生地に行くのであれば、体力は必須だ。

 気持ちがテンションMAXだったおかげで、昨日は奇跡の二往復ができたけれど、アーマリアの体力を考えれば、あれは本当に火事場のクソ力と言って良いだろう。

 

 それなのに、私はまた、エーデルワイスを見にあの山を登ろうとしているのだ。

 まして本来ならば、今日は帰るだけの日程だったのに、午前中にエーデルワイスを見ることが入ったから、かなりの強行軍にもなるだろう。

 少しでも体力を温存するために、私はアマンダが起こしに来るまで少し眠ることにした。


「奥様、おはようございます」

 そうして。

 半刻ぐらい経ってから、アマンダがそう声をかけて部屋に入って来た。

「おはよう、アマンダ」

 私は起き上がりながら、アマンダに挨拶をした。


「ゆっくり休めましたか?」

 お茶のセットと朝の支度の道具を置いたワゴンを押しながら、アマンダは私に近づいて来た。

「ええ。夕方には休ませて貰ったから、ぐっすりだったわ」

 そもそもそんなに早く眠ったら、絶対夜中には目が覚めるはずなのに、私は一度も起きなかった。


「今日は、旦那様がエーデルワイスを見に行ってから、館の方に戻るとのことでした」

「あ、そうなのね」

 ベッドから降りて椅子に座った私に、紅茶を出してくれながら、アマンダが言った。

「ありがとう」

 私はそれを受け取り、お礼を言った。


「でも、奥様。お体は大丈夫ですか?」

「私が旦那様に頼んだのです。一緒にエーデルワイスが見たい、と」

 体の調子は悪くないし、疲れも溜まっていない。

 それに、アーマリアが疲れやすいのは、やはりあまり動かないせいもあると思う。

 多少無理をしても、この機会に徹底して、「体を動かす」ことにも、挑んでみたかった。


「わかりました。でも、あまりご無理はしないようにしてください」

 アマンダは、念を押すように、私に声をかけた。

「わかったわ」

 アマンダの言葉に頷きつつも、私は心の中では、「しますね、無理」と心の中で呟いた。


 とりあえず、アーマリアだったら、無理をしても、レイガと共にエーデルワイスを見に行くはずだ。

 アマンダに支度を整えて貰っていると、ロゼが朝食を置いたワゴンを引いて入って来た。

「ありがとう、ロゼ。後は頼みます」

 そう言うと、アマンダはワゴンを引いて部屋を出て行った。


「旦那様達の所に行くのかしら?」

 朝食をテーブルに並べているロゼに、そう尋ねると、

「旦那様達の方は、もう出してきました。準備に戻られるのだと思います」

 ロゼは、そう教えてくれた。


 テーブルのお皿には、ベーコン、ソーセージ、卵、焼きトマト、マッシュルーム、トーストが美味しそうに盛り付けられている。

 それを、目を見張って、私は見つめた。

 所謂、ブレックファースト式の朝食だ。

 いつものような食事も良いけれど、こんな感じの朝食も、また趣があって良い。


「これは、カイルが作ってくれたの?」

「いえ。これは、宿の方が作ってくれたものだそうです」

「そうなのね」

 私は嬉しくなって、「いたたぎます!」と両手を合わせてそう言うと、フォークを手に持った。


 ベーコンを口に運ぶと、カリカリに焼いてあって、とても美味しかった。

 ソーセージもプリプリだったし、焼きトマトとマッシュルームの塩加減は、絶妙だった。

 そして、卵はフォークとナイフで割ると、半熟の黄身がとろりと流れ、香ばしいトーストがそれを優しく受け止めてくれる。

 それをそのまま口に運べば、塩気と旨味が舌に広がって、紅茶の柔らかな渋みが余韻を整えてくれる。


 うん。最高!である。

 いつもまでもこの満足感の中に浸っていたいが、さっさとしないと、この後のロゼ達の準備が手間取ってしまう。

 私が自分で準備をしているわけではないので、手早く、しかし礼儀良く。

 これが、基本的な貴族の食事方法だ。少なくとも、アーマリアは父親にはそう教えられていた。


 こうやってみると、アーマリアの父親は、本当に真っ当な人であるな、と思う。

 政治的な手腕とかは詳しくはわからないけれど、「やってもらう以上、こちらも配慮しろ」という考えが、徹底している。

 アーマリアが自然に周りに配慮しながら動けるのも、幼い頃からこの考えのもと、躾けられているせいだ。


 「ひとひらの雪」のアーマリアが死んだのは、それが遠因かもしれないけれど、ワガママが過ぎて、周りの使用人とか家臣とかに嫌われて、殺された歴史上人物もいるから、何事も塩梅が必要ってことだろう。


 そんなこんなで、私は朝食を終えて、身支度を整えた。

 実はミモザは私のために、新しい運動着なるものを作ってくれて、それは青のチュニックと白のズボンだった。

 アマンダはお揃いで、黄色のチュニックに白いズボンである。


 これには、「お礼を……」と私もアマンダに言いかけたのだけど、「大丈夫です」と、きっばりと言い切られてしまった。

 その時隣にいたカイルにも、「十分に堪能していたので、遠慮なさらないでください」と言い切られて、出産祝いは弾もう!と私は密かに決めていた。


 そうしているうちに、出発準備は整ったようで、

「奥様、参りましょう」

 と、私と同じ格好をしたアマンダが部屋まで呼びに来てくれた。


 ちなみに、アマンダはパステルカラーの水色のチュニックと黒のズボンだ。

 これも、どうやらミモザ作らしい。

「ありがとう。アマンダも準備が大変だったんじゃない? 食事もとれた?」

 私がそう聞くと、

「大丈夫です。お心遣いありがとうございます」

 アマンダは頭を下げて、そう言った。


「アマンダ、もし出立の時に宿の人と会うことがあるなら、お礼を伝えてくれる? とても快適に過ごせて、食事も美味しかったです。ありがとうございましたって」

 そして、私がそう言葉を続けると、アマンダは驚いた表情になった。

 「有希」の私としては、素敵なおもてなしを受けたのだから、お礼を言うのは当然だと思っていた。

 

 でも。

 私のやったこの行動は、意外なことのようだった。

 一瞬。

 アマンダは目をぱちくりとさせて、でもすぐに、

「わかりました。お伝えしておきます」

 と、返事をくれた。

 どうやら、アーマリアの身分の者が、宿の人にお礼を言うことは、珍しいことらしい。


 そう言えば、前に泊まった所も今回泊まった所も、宿の人達と会うことはなかった。

 本来ならば、宿の人達が給仕やその他諸々をしてくれるはずだけど、アーマリアやレイガの立場上、それは難しいのだろう。


「そうです。今回宿の者達には、奥様達のお立場を伝えておりますが、不慣れな者が対応すると、何かしらの揉め事が起きるかもしれませんし、不審な者が紛れ込む可能性もあります」

「宿の人達の負担にならないようにしていたのね」

 出発した馬車の中で、疑問に思ったことをアマンダに聞いたところ、そうアマンダは頷いて教えてくれた。


 「そうなんだ……色々気遣ってくれて、ありがとうね、アマンダ」

 私は、ため息を吐きながらそう言った。

「いえ……」

 アマンダは少し戸惑ったようだったけれど、私は言葉を続けた。

「ロゼも慣れないのに、いろいろお世話をしてくれて、ありがとう。朝食はゆっくり食べれた?」

 アマンダの隣に座るロゼにもお礼を言うと、

「大丈夫です。カイルさんが、色々と味見をさせてくれました」

 笑いながらロゼも返事をしてくれた。



 本当に色んな人達が気遣ってくれて、この旅は成立しているのだ。

 それを、私は忘れちゃいけない、と思った。

 馬車の外を窓から見ると、馬車を守るように馬を歩かせている。

 馬車は馬に引かせているから、走らせる必要もないし、馬が疲れるから、よほどのことがない限り、走らせることはしない。

 半刻もしないうちに、エーデルワイスが群生する山の麓に、私達は付いた。


 馬車と馬は山に行けないので、すぐ近くにある馬車と馬を預ける場所に置いて行くことになっていた。

 所謂、駐車場である。

 コーランドが管理人をしているような人にお金を払っているのが見えて、なるほどな、と思った。

 こういうところでも、レイガが育った村の人達に、お金が入るようになっているのだ。


「行きましょうか、奥様」

 そうアマンダに声をかけられて、私は馬車を降りた。

 もちろん、右手をアマンダに持ってもらいながらの降り方だ。

 私の後に続くロゼは、自分で降りている。


 有希としての私であれば、自分一人で大丈夫たど言いたいけれど、これはこれで、「様式美」と言うものなのだな、と私は思うようにした。

 そうして。

 小高い山に皆で登ることになったのだが。


 日頃から鍛錬しているレイガやコーランドには余裕のコースだったらしく、到着した時も息一つ乱していなかった。

 それはアマンダとカイルも同様で、エーデルワイスの群生地に付いたとたん、彼女達は男性陣が運んでくれた荷物を開いて、お茶とお菓子の用意をし始めた。


 私とロゼは、やはり体力がなさ過ぎて、その傍で息も絶え絶えになりながら、座り込んでいた。

「すいません、バレス様……」

 本来ならば一緒に準備をする役目のロゼは、まだ呼吸が整わなくて、息切れしながらアマンダに謝った。


「あまり山登りをしたことがないのでしたら、仕方ありません。気にしないでしっかり休んで、帰りまでには体力を回復してください」

 そんなロゼに、アマンダはすごく適格な言葉を返す。


 ロゼは宮都で生まれて、育ったのは宮殿だ。

 アーマリア達と宮殿の庭で遊ぶこともあったけれど、山登りをする機会はなかった。

 アーマリア自身も乗馬なんかで体を動かす機会はあったけれど、基本は宮殿の中で過ごしていたから、こんなふうに外に出ることは、あまりなかった。


 こうして考えてみると、アーマリアのような立場では、なかなか外に出かける機会はなかったのだろう。

 そんなことを考えながらエーデルワイスに視線を向けると、朝日に照らされて、白く輝いている姿が見えた。

「綺麗ですね」

 私は、アマンダとカイルがお茶の用意をしている間、邪魔にならないようにするためか、すぐ傍に来たレイガに、そう話しかけた。


「……そうだな」

 私の言葉に。

 レイガは、小さく頷いた。

「だが、朝焼けに照らされたエーデルワイスは、格別なんだ」

 私の隣に座りながら、レイガはそう言った。

「お前にそれを、見せたかった」

 その言葉に、私は目を見張った。

 昨日、レイガが朝早く私をここに連れて来たのは、そんな思いがあったからなのだ。


「ならば、また連れて来てください」

 私は、エーデルワイスの群生地を見ながら、そう言った。

 もう一泊泊まれば良いかもしれないが、それはできない。

 レイガはこの旅行のために自分のスケジュールを組み替えているらしいし、アマンダ達にも同じように仕事がある。

 「有希」の時のような気楽さは、ここでは許されない。

 でもそれは、隣にいるレイガも同じだった。


 「仕えられる者」として、彼はきちんと自分の責任を果たそうとしている。

 それは、エルザさんがレイガにきちんとそのことを伝えていたからなのだ。

「来年になるかもしれないぞ」

「楽しみにしていますね」

 レイガの返事に。

 私は、笑いながら頷いた。

 レイガは、一瞬驚いたような表情をしたけれど。

「そうか……」

 と頷いて、エーデルワイスの群生に視線を向けた。

                   ★

 その後。

 私達は、カイルが用意してくれたサンドイッチと、アマンダが入れてくれたお茶を味わいながら、エーデルワイスの群生の風景を堪能した。

 まあ所謂、有希の世界的に言えば、「お花見」である。


 レイガが、

「お前達も一緒に食べよう」

 と声をかけたので、アマンダやカイル達も、一緒にサンドイッチを食べることができた。

 ロゼは、その思ってもいない事態に衝撃を受けて、ぎこちなくサンドイッチを食べていたけれど、コーランドは、

「こんな風に落ち着いた場所で、旦那様と食事を共にするとは思いもしませんでいた」

 と言っていたから、非常事態では、また別の対応をしているのだろう。


 とにもかくにも。

 そうこうしているうちに、日も高くなってきたので、私達はフォレストの館に戻ることになった。

「帰りは、このままフォレストの館に戻ることになっていますが、奥様は大丈夫ですか?」

「それは大丈夫です。昨日十分過ぎるほど休みましたから」

 馬車に乗り込んだ後、アマンダは私にそう聞いて来たけれど。

 十分すぎるほどに睡眠を取れた私の体は、まだまだフルパワー全開だった。


 むしろ、アマンダの隣に座るロゼがバテバテだ。

「ロゼ、大丈夫?」

「奥様、私にも奥様がやっていらっしゃる『すとれっち』をお教えください……」

 半分アマンダに寄りかかりながら、ロゼはそう私に言った。


「アマンダ、私の方に来ますか? ロゼは馬車の席で横になって貰いましょうか?」

「これは構いません。それに、馬車で横になっても、揺れを全身で感じてしまって、結局意味がありません。こうやってくれた方が、回復も早いし、私も助かります」

「バレス様、申し訳ありません……」

 ぐったりとしながらも、ロゼはお礼を言った。

「かまいませんよ。こういう時は、お互い様です」


 アマンダはそう言って、「もうしゃべらなくて良いから」と言い添えていた。

 そうしてすぐに、ロゼからは軽やかな寝息が聞こえてくる。

「疲れているのね」

「ロゼは公宮育ちです。日帰りの旅に共することはあっても、このように何泊もする旅は、初めてだと申しておりました」

 アマンダはロゼを起こさないようにするためか、小さな声でそう言った。


「しかし、フォレスト侯爵家の夫人になる方は、領地への視察の旅することもあります。公都への旅も同様です。彼女は、あなた様の第一侍女。常に傍に控えている存在ですから、何れは皆を采配する立場となります」

 アマンダがこの旅にロゼを連れて来たのは、将来のことを考えてのことだったのだ。

「何事も場数です。経験を積むことで、慣れて行くのです。私がいる間は、どれだけ失敗しても手助けができます。それは奥方様、あなた様も同じことです」

 そうして。

 話の流れが私に来て、私はロゼから視線をアマンダに向けた。


「旦那様への遠慮から、あなた様からは自分から言い出されませんでしたが、あなた様はフォレスト侯爵夫人です。その役目は、果たさなければなりません」

「それは……社交界に出なければならないってことですか?」

 私としては、それは、果たさなければならないことの一つではあったけれど。

 ひとまず、横に置いていたことだった。


「……すぐにとは、申しません。ですが、奥様もずいぶんと元気になられて来ました。体力を付けられることと並行して、できることからやっていただけたら、とは思います」

「そうですね……」

 とりあえず、この世界の「アーマリア」だから、今の私にもマナーのことや、社交界のことは、知識や経験として「わかっている」


 でも。

 今の私の意識は、「有希」だ。

 図書室で本を読んでいるおかげで、この世界の社会システムや、フォレスト領のこと、エーベルト公国のことはわかってきたけれど。

 それでも、それは「実践」を伴っていない。

 色々と、考えることがある。


 とりあえず。

 私は眠っているロゼを起こさないためにも、それ以上は何も言わなかった。

 アマンダも、やはり疲れがあるのか、眠ってはいないけれど、目を閉じている。

 私は、それを見つめながら、どうしたら良いのかなと、ずっと考えていたけれど。


 今すぐにできることは、「筋肉を付けること」しかないかな、と思った。

 とにかく、アーマリアの心と体を回復することが、最優先なのだ。

 体を鍛えれば、心も回復する。

 何せ「筋肉は全ての悩みを解決する」のだ。


「よし……!」

 私は、小さくそう呟いた。フォレストの館に戻ったら、早速カイルに頼んで、筋肉を付けるメニューを考えて貰おう。

 そこから、「フォレスト侯爵夫人」としてやっていくことを考えていこう、と結論付けた時。

 ガタン!と、大きく馬車が揺れた。

 思わず、馬車の座席から落ちそうになるぐらいだった。


「カイル⁉」

 衝撃で目が覚めたロゼを支えながら、アマンダは、カイルの名を大声で呼んだ。

「母上、襲撃です!」

 即座にそう答える、カイルの声。

 外の窓からは、馬車の周りを囲んで走る数人の人影が見えた。


「賊⁉」

 恐怖の声を、ロゼが上げる。

 私は、胸が締めつけられるのを感じた。

 車輪の軋む音に混じって、鋭い叫びと剣のぶつかる音が空気を裂いた。


「守れ!」

 レイガの声が響き、すぐさま剣を抜いて応戦するのが、馬車の窓から見えた。

 私は、それをどうすることもできないまま、見ている。


 けれど、一人の賊が馬車へと迫ってくるのが見えた。

「賊が来ますっ!」

 私がそう声をかけた、その瞬間——


バンッ!

 アマンダが、扉を足蹴りにした。

「カイル、このまま走りなさい!」

そしてカイルにそう声をかけて、馬車から飛び降りる。


「姉上、これを!」

 その瞬間、馬から降りて戦っていたコーランドが、倒れた賊の剣を投げた。

 アマンダは、空中で剣を受け止める。

 その動きは、まるで若き剣士のように滑らかだった。

「年寄だ、臆することない!」

 賊の誰かが叫んでいたが、アマンダは剣を構え、賊へと駆ける。


 刃が閃き、風が唸る。一太刀、二太刀——賊が動きを止め、彼女の足元に倒れ伏した。

「誰が年寄りだと?」とでも言うように、アマンダは次々と賊を倒していった。

 このまま、賊は倒さていくかと思った、その時。


「ご無事ですか!」

「ロア⁉」

 馬車の窓からそう声をかけられ、頭を抱えて丸くなっていたロゼが、顔を上げた。

「ロゼ、姫様は無事か!」

 馬車は何時の間にか止まっていて、馬車のドアから、ロゼの双子の兄である、ロアがのぞき込んでいた。


「私は大丈夫です」

 私は頷きながら、馬車の座席に座り直した。

「カイルは無事ですか⁉」

 けれど、すぐに御者をしてくれていたカイルのことを思い出し、私はロアに声をかけた。

「無事です!」

 それに対しては、御者席の方からカイルが返事をしてくれた。

「怪我とかはないですか!」

 私が大きな声でそう問いかけると、「大丈夫です!」と、これまたカイルが返事をくれる。

 声の調子からも、怪我はないようだった。


「ロア、どうしてここに……」

 一方ロゼは、まだ事態をよく掴んでいないようだった。

「フォース領主が、姫様を狙っている動きがあったんだ」

 そんなロゼに、ロアはそう告げた。


「えっ⁉」

 その言葉に。

 私は、声を上げてしまった。

 フォース領主は、以前図書室にいた私に怒鳴り込んできた、キャロラインの父親なのだ。


「どういうことですか⁉」

 キャラロインには思うことがあるが、そもそも彼女の父親は、レイガに仕える家臣の一人だ。

 その人物が何故、私を狙うのか。

「詳しいことは、公女殿下がお伝えするそうです。後のことは私達がやりますので、姫様は、このまま館にお戻りください」

 けれど、ロアはそう説明しただけで、他の兵士がいる方へと戻って行ってしまった。


「大丈夫か⁉ アーマリア!」

 ロアと入れ替わるように、レイガが走って来るのが見えた。

 「はい、私とロゼは大丈夫です。旦那様達の方こそ、お怪我はありませんか?」

 アマンダの圧倒的な戦いは見ていたけれど、それに気をとられて、レイガやコーランドの方に意識が行っていなかった。


「俺もコーランドも大事ない」

 レイガの返事に、私は、ほっと溜息を吐いた。

「それよりも、先ほど話していたのは……」

「ロアは姉上様付きの護衛官の一人で、ロゼの双子の兄です」

 私はそう言われて、さっきロアに言われた言葉を思い出した。

 取り合えず、まずロアの身分を説明して。

「姉上様が、フォレストの館に来られているようです。急いで戻りましょう!」

 と、言った。


「何だと⁉」

「どうも、フォース家のご当主が、私達を襲わせたようでして……」

「どういうことだ⁉」

「私にも、わからないです」

 レイガは思わずそう怒鳴り返して来たが、私は冷静に言葉を返した。


「とにかく、館に戻りましょう。話は、それからです」

「……すまない」

 私のそんな態度に、今朝の私の言葉を思い出したらしいレイガが、そう謝って来た。

「いいえ。とにかく、皆無事で、何よりでした」

 私がそう言うと、「そうだな」とレイガが頷き、一回逃げたらしいが戻って来た馬の方に走って行った。


「ご無事ですか?」

 それとは入れ違うように、いつもはきっちりとまとめている白髪が乱れた、でも落ち着いた様子のアマンダが馬車に戻って来る。

「ありがとう。アマンダのおかげで、私達は大丈夫です」

 私が頷くと、アマンダは安心したように微笑んだ。


「アマンダも休んでください。疲れたのではないですか?」

「情けない話ですが、やはりかつてのようには動けませんね」

 私の言葉に、アマンダは苦笑いをしながら馬車の席に座った。

「そうなのですか?」

 その発言に、私は目を見張った。

 アマンダは、十分に襲ってきた賊を倒していた。


「はい。訓練を再開していますが、まだまだです」

 ふうっとため息を吐いて、アマンダは馬車の壁に背を預けた。

「あれでですか……?」

 アマンダの言葉に、茫然とした表情で、ロゼが呟く。


「ええ。今の私では賊を退けるぐらいしかできないですね」

「それだけで、十分です」

 私がそう言うと。

 アマンダは、少し切なそうな表情をして、頷いた。

「母上、出発しますよ!」

 そうして。御者台の方から、カイルの声が聞こえた。


「わかりました」

 アマンダが返事をすると、馬車は動き出した。

「どうやら、フォース家の当主の仕業のようですね」

「私は、そう聞いています」

「そうですか……」

 私の言葉に。

 アマンダは、深いため息を吐いた。


 私は「キャロラインの父親」という、言葉でしか知らない人物だけど、アマンダは侍女頭として接していたこともあっただろうから、複雑な表情だった。

「とにかく、館へ急ぎましょう」

 でも、それも一瞬のことで。

 アマンダの切り替えたような一言に、馬車の速度も増したような気がした。






 


















 






 














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