8 心持ちは逆リバで行きましょう!
ふと気が付くと、私はまた勤め先だった、小学校の図書館にいた。
「―どうしたの?」
閲覧用のコーナーに、長い銀色の髪を持つ、少女が座っていた。
カウンターの中にいた私は、その少女の姿に気付き、カウンターの外に出て、声をかける。
「……私は、哀しいの」
少女は、とても綺麗な声をしていた。
「え? 何で?」
「あの人が、私を信じてくれないから」
「ああ、レイガ?」
その瞬間、私はその少女がアーマリアだと悟った。
「どんなに私があの人の望むようにしても、信じようとしてくれない。どうしたら、あの人は信用してくれるの⁉」
そう言って、アーマリアは両手で自分の顔を覆った。
「アーマリア……」
私としては。
彼女には、「あなたはもう十分に頑張った」と言ってあげたかった。
でも。
きっと、彼女は諦めていないのだ。
愛する夫と共に、生きて行きたいのだ。
「だったら、アーマリア。あなたは、その『健気な受けキャラ』から、逆リバしなきゃ駄目よっ!」
私は、屈みこみながら、アーマリアと視線を合わせながら言った。
「ぎゃ、ぎゃくくりば……?」
「あなたの夫の属性は、『愛に飢えた子ども』気質の『ツンデレ』なんだから! あなたが受け身だと、話にならないのよ! あなたが精神的にでも、『攻め』にならないとっ!」
「えーと、それは……」
とても可愛らしい顔を、「戸惑い一杯です」という表情にしながら、アーマリアは私をまじまじと見る。
「そう……。つまり、あなたの夫は、典型的な『俺を愛して欲しい、構って欲しい』と思っている、かわい子ちゃんなのよ。それを、愛でるのよっ。『往々、愛い奴じゃのう』と、愛でるの!」
そうして。
何時の間にか、私の隣には今日子がいて、そう力説していた。
「め、愛でる……」
十七歳の少女であるアーマリアは、アラサー女子二人に力説されて、目を白黒させている。
「そう!あふれんばかりの包容力を持って、レイガを包み込むのよっ。彼はね、雨に打たれた子猫! 雨に打たれて弱った子猫に『愛を与えて欲しい』とは思わないでしょ⁉ 暖まるように、湯たんぽ用意したり、毛布を用意したりするじゃない! そして、『お前はかわいいね』とか、『もう大丈夫だよ』とか囁くでしょ? それと同じことをするのよ!」
「そうそう、今日子の言う通りよ! 良い? 認識を改めなさい、アーマリア。あなたは、横暴な旦那に耐え、健気に支える妻ではないの。人を信じられなくて、人が怖くて、でも愛を求めている、まるで雨に打たれた子猫のような「受」を、温かく包み込むナイスガイな「攻」なのよ‼」
「そのためには「筋肉」! 筋肉を付けるのよっ。筋肉は、そして筋トレは、全てを解決するわっっっ」
……うん、まあ。後から思えば。
十代の女の子が、アラフォー女子に囲まれて、オタクまみれた会話をされたら、圧倒される……と言うか、引きますわな、普通。
ましてアーマリアは、清く正しく育った公女様である。
オタクノリノリのアラフォー女子達二人に挟まれて、さらにドン引きだったに違いない。
けれど。
これは、とても大切なことだと思った。
心は、「攻」。
愛を信じない「受」を愛でる精神で行くことは、なかなかにチャレンジャーではあるが、泣いていることしかできなかったアーマリアにとっては、斬新な視点だろう。
とにもかくにも、「人の愛を信じない受」を愛でる精神を持つためにも、まずは気力である。
気力を付けるためには、体力である。
筋肉を付けるためにも、体力!
そんなことを私は考えながら、目を覚ました。
★
でも。
目を覚ました瞬間、私は自分が今見ていた夢のことは、すっかり忘れてしまっていた。
何だか、とても賑やかだったことは、覚えているのだけど、どんな夢だったかは、思い出しそうで思い出せない。
ただ。
「筋トレをして、筋肉を付けるぞ!」という思いだけは何故かあった。
アーマリアの場合、筋トレをする前に体力を付ける必要がある、と私は判断したからスロージョギングもストレッチもやっていたわけで。
でも、何故か朝起きた時、「そろそろ筋肉を付けるために筋トレを始めても良いんじゃないか」、と思ったのだ。
枕元の小さな置時計を見ると、時刻は明け方だった。
ロゼが起こしに来るまで、まだ時間は一時間ぐらいある。
私は、最初にまず瞑想を十五分間程度行った後「ねこのび」と上半身と下半身のストレッチ、「ごろ寝で前ならえ」をやった。
そしてベッドから降りると、スロージョギングを五分程度行う。
五分ぐらいと思っていたけれど、これがなかなかの運動量になるので、終わった時にはベッドになった。
でも、私は「筋トレもするぞ!」と言う思いのもと、新しいストレッチと筋トレも今日から行うことにする。
ただ。
アーマリアのようにまだあまり筋力がない状態で過度な筋トレを行っても、体に負担がかかり、せっかく筋トレで整えた体の姿勢が崩れてしまう可能性がある。
なので私は、今まで参考にしてきた「筋トレざせつ女子が行き着いた一分やせストレッチ」に載っていたエクササイズをすることにした。
まずは、「ゆるっとバランス」をやることにする。
これはベッドの上でやると危ないので、床の上でやることにした。
① よつんばいになる。
② 両足先を上げて膝を支える。
③ 対角線の手と足を浮かせて姿勢を五秒キープ×左右六セット。
このエクササイズは、体の無駄な力を抜くことで、筋肉の使い方が変わって姿勢が良くなることを目的としている。
まずは、体の姿勢を整えて、筋肉が正しく付くようにするのだ。
そして、次に体幹を鍛える「腹筋ねじり」を行った。
体幹は、言わば体の中心部分の「土台」のようなものだ。
この土台をしっかりと鍛えることで、全身の動きが安定し、快適に日常生活を送れるようになるし、体の力を効率よく伝えるためには、体幹の安定が必要なのだ。
「腹筋ねじり」は、
① ひざを立て足の裏を床につけて座り肩の真下にひじを付く。
② 足の裏とひじを床につけたまま片方の手を前に出し反対側の脚の横へつける。
③ 五秒かけて息を吐きながら手を向こうへ伸ばす。
④ 伸ばしきったらその場で五秒かけて息を吸う。
⑤ 伸ばしきったら②へ戻り③~⑤を四回繰り返し、左右で行う。
この動作の良い所は、腕を伸ばす位置で強度調節ができるので、腰に負担をかけずに腹筋を鍛えることができるのだ。
そして最後に、上半身全体を使う、「ぐるぐるストレッチ」をすることにした。
「ぐるぐるストレッチ」は、
① ひざをついて座る。この時に、つま先は立てて座るようにする。
② 背中を丸めて、手~腕の側面を体の前でくっつける。腕はだいたい九十度ぐらいになるようにする。③ カーブを描くようにひじを体の後ろ下からもっていき、胸を開く。この時、肩甲骨を寄せるイメージでやることが大切である。
④ 腕を上げて頭の上で両手の親指と人差し指をくっつける。
⑤ ③の姿勢に戻り、②~④を計十回繰り返す。
これは、コリやすい場所の上半身全てに効くストレッチで、一つの動作に二秒かけてゆっくりやることが大切だ。
ここまですると、適度な疲労感が出て来た。
私はゆっくりと深呼吸をすると、ベッドに戻った。
置時計を見ると、後十分ぐらいでロゼが起こしに来る時刻だ。
ちなみにこの世界の「時刻」の考え方は「有希」の世界と同じで、「アルセウスの刻」と言った、時刻の読み方が違うだけだ。
ベッドに戻って、目を閉じて呼吸に集中して、瞑想状態になっていると、
「奥様、おはようございます」
コンコンと扉をノックされて、ロゼが部屋に入って来た。
「おはよう、ロゼ」
「ご気分はどうですか?」
「大丈夫、悪くはないわよ」
私は本当に爽やかな気分で、ベッドから起き上がりながら、返事をしたのだけど。
「そうですか……」
と、ロゼの方はどうもテンションが低い。
先日、私とレイガは朝食の席で周りを混沌に陥れる会話をしてしまい、そのことを報告されたアマンダに、苦言を提言されてしまった。
彼女の言っていることは至極真っ当で、私としても、反論できることは一つとしてなかった。
だから。
「ああ~~~耳が痛い~~~」と思いながら、聞いてはいたのだけれど。
『奥様のお体のことをご心配されているのであれば、私が体力作りを共に行います』
アマンダのこの言葉で。
私は、本当に心の底から「アマンダの嫁になりたい!」と思ってしまった。
そして今日が、その体力作りの一日目なのだ。
アマンダが体力作りの内容を考えてくれる、とのことなので、それも楽しみだった。
「奥様は……ご不安ではないのですか?」
ウキウキしている私を見て、ロゼはお茶を渡しながら、不安そうに話しかけて来た。
「え、何で?」
ロゼの言葉に。
私は、目をぱちくりとさせてしまった。
「アマンダ様は元兵士をされていたのですよ⁉ そんな方が考えられる体力作りの内容など、どれほどハードなのかと思うと……!」
「えっ? わくわくしない?」
私の言葉に。今度は、ロゼの方が目をぱちくりとさせた。
「お、奥様……?」
「アマンダはね、『任せてください、奥様。奥様にぴったりのメニューを考案させて頂きます』と言っていたの。私だけのっメニューなのよ⁉ これってもう、特別感ありありって感じじゃない!」
私は、テンション高めでそう叫んでしまった。
「奥様は……『楽しい』のですか?」
そんな私に、ロゼは確認するように言った。
「『楽しい』と言うより、『楽しみ』だわね。もちろん、やってみて『辛い』という気持ちも出て来るかもしれないけれど、その時はその時で考えるわ」
もちろん、アマンダが考えてくれたメニューが「ハードだな」と思ったら、私は正直に伝えるつもりでいた。
これは、無理をして、結局アマンダに迷惑をかけないためにも大切なことだと私は考えたのだ。
「そうですか……」
私の言葉に。
ロゼは、静かにそう言った。
「ロゼ?」
私はどうしたんだろう、と思ったけれど、
「長話をしてしまいました。旦那様をお待たせしないように、急いでお仕度をしましょう」
少し遅れた分は、ロゼと手伝ってくれた侍女二人が、テキパキと動いてくれたから、すぐに巻き返しができて、私は十分に朝食の席に間に合うことができた。
「旦那様、おはようございます」
食堂に着くと、私は先に座っていたレイガに、ドレスの裾を両手で持ち、頭を下げながら挨拶をした。
「ああ、おはよう」
私は顔を上げて、レイガを見た。心なしか、こちらもロゼ同様にテンションが低めだ。
考えてみれば、二人ともアマンダが苦言を提言した日から、こんな感じである。
まあ、二人とも私がーアーマリアが、「離婚する」ということを望んでいると思っているから、そんな表情になっているのかもしれなかった。
それは半分当たりで、半分は違う。
確かに、「有希」としての私は離婚が妥当だとは思っている。でもそれは、あくまでも「有希」としての、私の視点であって。
アーマリアの望みは、きっと違う。
「有希」の私にとって、「アーマリア」は「推し」だ。
「推し」が一番望んでいることを、率先して叶えるべきなのだ。
アーマリアであれば、今の状態での離婚は、きっと望まない。
そして。
『嫌われることが、怖かった』
離婚した時。
旦那が声を震わせて言った、言葉。
あの当時。
私は、必死だった。
私の離婚した旦那は、何でも受け身の人だった。
旦那と知り合ったのは、結婚相談所でのお見合いだった。
三十歳を過ぎて。
周りの友人達は次々と結婚していったので、やっぱり正直焦ってはいたのだ。
仕事は楽しかったし、一人での生活も充実していた。
でも、「ずっと一人」というのも、「寂しいな」と思ったのだ。
両親は非正規でずっと図書司書の仕事を続ける私を心配していたし、妹が甥っ子を生んでいて、その子を見て「子どもを持つのも良いな」と思えたのも、「結婚をしよう」と決めた理由の一つだった。
初めて旦那と会った時、「ああ、『受』だな」と思った。
大人の男性としては華奢の体付きで、たれ目の人好きする顔立ちをしていた。
私よりも六歳年下で、所謂「イケメン」ではなかったけれど、一生懸命私と会話する姿は初々しくて、一気に好感を持った。
それまでに出会った男性は、自分のことばかり話す人とか、自分の好きなことを押しとおして来る人とか、自分の思い通りに事が運ばないと不機嫌になる人とか……。
まあ、さもありなんって感じで。
「婚活」というものが、こんなに困難なのかと、私は焦燥すら感じてしまっていた。
私の立ち位置としては、三十代前半で、そこまで美人でもない。
自分で出しているつもりはないが、BL大好き!のオタク女である。
私としても、「選べる立場」にはいないことは、わかってはいたけれど、それでも、やっぱり一緒にいて、「幸せ」と感じる人と結婚したいな、と思っていた。
その点旦那は、話は世間並に通じるし、コミュニケーションも普通に取れていた。
だから。
問題ないだろう、と思っていたのだ。
けれど。
いざ結婚してみたら、旦那は「ただ待っているだけの人」だったのだ。
「結婚したら、自分は夫として尊重されて、妻になった人は自分の世話をしてくれて、休日は朝から一緒に家事をしたり、お出かけしたりして、楽しく過ごす」ことができる、と思い込んでいたらしい。
でもそれは、自分で作り出すんじゃなくて、「奥さん」の立場になった私が、全部作り出してくれる「もの」だった。
それに気づいた時、私は愕然とした。
私にとって「結婚」とは、「共に協力して生活を築いていくもの」だったけれど、旦那にとっては、それは考えもしなかったことなのだ。
さらに問題は、セックスのこともあった。
旦那はなんと、「セックスができない」人だったのだ。
理由はわからないけれど、セックス事態に恐怖を感じていたようなのだ。
私達は一年付き合い、その後結婚したが、セックスは一度もしなかった。
努力は、してみた。カウンセリングも受けて、試せることもやってみた。
でも。
旦那は私が言ったら動くけれど、自分からは動こうとしなかった。
旦那にしてみれば、自分が望んでいた結婚生活は与えられていないのに、「愛する奥さん」からあれこれと「責められて」いたのだ。
結局。旦那はだんだんと心を閉ざし、自分の部屋に閉じこもるようになってしまった。
「自分が望んでいる結婚生活を与えてくれるまで、ここから出ない」
とでも言うように、私が話しかけても何も言わなくなったのだ。
今日子と出会った時は、そんな状況の真っ最中で。
何度も「話し合おう」としたけれど、旦那はそれを無視し続けていた。
今日子との日々を重ねるうちに、私はだんだんと考えを変えることができて、自分から「離婚」を切り出したのだ。
「離婚」を切り出したことで、旦那が話し合いに応じてくれるのではないか、と言う考えもあった。
けれど。
旦那は結局、私と暮らしていた部屋を出て、弁護士を派遣してきた。
旦那がいなくなった部屋で、弁護士からの手紙を受け取った時、私は「もう駄目だな」と思った。
その後は私も弁護士を間に挟み、弁護士同士で話し合って、離婚を決めた。
ただ。
離婚届けを書く時は、旦那の希望で、旦那側の弁護士事務所で行った。
その時、久しぶりに会った旦那は、
「嫌われることが、怖かった」
と震える声で、話し合いに応じなかった理由を、私に告げた。
「そう……」
それに対して。
私は、そう答えることしかできなかった。
正直なところ、「今更言われても」と言うのが本音だった。
私としては、旦那とやり直すことは考えられなかった。
旦那が何故、最後に私と会うことにしたのかは、今でもわからない。
最後に、縋りつきたかったのか。
それとも、私に罪悪感を与えたかったのか。
でも、本当に「今更」だったから、私は離婚用紙に署名捺印をして、弁護士さんに預かってもらった。
『離婚届を提出しました』
と連絡が来た時も、「やっとか」と言う思いの方が強かった。
でも。
私が離婚した後に、今日子が「自殺」してしまって。
私は、彼女の背負っていた事情を、その時になって初めて知って、愕然としてしまったのだ。
今日子の旦那は、所謂「モラハラ男」だった。
今日子の死を週明けに市役所から知らされて、その時、私は信じられなかった。
だって、金曜日には私と一緒に、いつものように司書の仕事をして、好きな本について、話していた。
仕事帰りに寄ったカフェで、「ひとひらの雪」についても話し合った。
だから。
私は、週明けはいつものように、笑顔の今日子に会えると思っていた。
次の日の土曜日に、「離婚届けを出しましたよ」と言う連絡が弁護士さんから来ていて、新しい自分に生まれ変わったような気がしていたから、なおのこと、週末明けに今日子と会って、離婚したことを言おう、とわくわくしていた。―でも、金曜日に今日子と別れた後、私は永遠に今日子とは会えなくなった。
その時に。前にいた図書館で一緒に働いていた人に、今日子がどんな結婚生活をしていたのか、教えてもらったのだ。
今日子は、私と一緒に働いていた二年間、一度も家庭のことは言わなかった。
私も話さなかったけれど、それは今日子も同じだったのだ。
「何で……」
と、私が呟くと。
「楽しかったからじゃないかな」
と、その人(女性)は言った。
「今日子ちゃんね、有希ちゃんと一緒に働けて嬉しいって言っていたから。多分、有希ちゃんと一緒にいる時は、苦しいことを忘れていたかったんだよ」
私や今日子よりもかなり年上の人だったから、私達のことも娘のように気遣ってくれていた。
多分。
私の知らないところで、会って話をしていたのかもしれなかった。
「それは……私も一緒です」
私は、その人の言葉の後、泣き崩れた。
今日子のお葬式は、「家族葬で行いますので」と言われて、私は最後のお別れもできなかった。
その時の絶望感は、「アーマリア」としてこの世界にいても、消えていない。
離婚を選んだ有希と。「死」を選んだ今日子。
じゃあ、「継続」を選んだ場合は?
現実に選べるのは、一つしかない。
あの時に、旦那の言葉に耳を傾けていたら、何か違ったのだろうか?
……時々、そんなことを思っていた。
多分。
有希だった私は、あの時旦那と「継続」を選んでも、最終的には「離婚」を選んでいただろう。
それは、わかっている。
でも、それでも。
「もしかしたら」という考えが、時々横切った。
アーマリアには、できることならそんな思いはして欲しくなかった。でも、今日子のようにもなって欲しくなかった。
結局。決めるのは、アーマリアなのだ。
「今日は、アマンダと共に体力作りをやる日だな」
長々と考え事をしながら朝食を食べていたら、レイガが声をかけてきた。
「あ、はい。そうです」
レイガの言葉に、私は思考を「今」に戻した。
とにもかくにも今の私は「アーマリア」だから、アーマリアにとって、ベストな選択をするべきだし、そうするつもりだった。
「……大丈夫なのか?」
そんな私に、レイガは遠慮がちに声をかけてきた。
「はい。ご心配ありがとうございます。アマンダも私の体力を考えて、内容を決めてくれるそうです。きつくなったら、自分から言うようにしたいと思っています」
私は食事の手を止めて、レイガの問いに答えた。
「何故そんなに、『おしかつ』を進めようとする⁉」
そんな私に、レイガは声を荒げて問い詰めて来る。
アーマリアであれば、萎縮していただろう。
有希であれば、即座に自分の意見を言うかもしれない。でもヘタなことを言えば、また混沌の食卓を再現してしまう。
レイガもアマンダに言われて反省しているはずなのだが、そのことは見事に吹っ飛んでいるらしい。
つまりそれだけ、彼はアーマリアが「推し活」―つまり「筋トレ」をすることは、自分と離婚することに繋がっていると思っているのだろう。
それは、ロゼも同様だ。
確かに、それは正解だった。
私は、レイガとの「離婚」も視野に入れて、筋トレをしている。
でも、それだけじゃあないのだ。
ただそれをストレートに伝えるのは、得策じゃあないな、と思った。
さすがに、あの混沌の食卓を再現するわけにはいかない。
「先日、私は旦那様方の剣技の鍛錬を見せて頂きました。皆様は、熱心に鍛錬されていました」
「それはそうだ。我がフォレスト公爵領は他国と国境を接している。もし戦になれば、真っ先に攻められる場所だ。何時いかなる時も、戦に備えなければならない」
「ええ。そして、私はそのフォレスト領を守る、領主の妻です。妻として、私のできることは何かな、と考えたのです」
「アーマリア……」
「今の私に必要なのは、体力です。何があっても動じぬ精神力と体力を付けることが、今の私が一番やるべきことで、すぐに実行できることなのですよ」
あまり、口調を強くしない方が、レイガを刺激しないだろう、と思った。
もちろん、アーマリアが自分の「幸福」を掴むために、体力が必須だと考えてはいる。
でも、「領主の妻」としても、何かあった時に、すぐ倒れる精神力では話にならない。
「そうか……」
私の言葉に。
レイガは、それ以上は何も言えなくなったようだった。
けれど。
私をじっと伺うように、上目で見ていた。
まるでそれは、捨てられた子犬のようにも見える。
その姿が、何故か不意に、「あ、『愛が足りない受』だ」と思った。
愛が欲しいのに愛を信じれなくて、でも、攻に愛されたくて……と言う、究極の「ツンデレ」でもある。
確かに、そう考えればレイガを見る目も変わってくる。好きな人に素直になれない受。
……確かに、良い。
とても良い。
それを二次元ではなくて、リアルに三次元で見られている。
これって、すごく眼福ってヤツ⁉と、縋るような視線をレイガに向けられて、私はちょっと興奮した。
ただ、そのままそれを言葉にすると、さらに混沌とした食卓になりそうなので、余計なことは言わず、朝の食事を済ませた。
それから、私はアマンダに指定された時刻まで時間があったので、図書館に行って過ごした。
そうして。アウゼウスの刻―「有希」のいた世界では、午前十一時ぐらいに、中庭へと移動した。
「お待ちしておりました、奥様」
いつもは黒いワンピースを来ているアマンダだけど、今日は緑のチュニックのような服と白いズボンを履いていた。
一方の私も、アマンダが用意してくれた、薄い赤のチュニックに、白の長ズボンという恰好である。
「アマンダ、お休みなのに付き合ってくれてありがとう」
私はアマンダに、まずそうお礼を言った。
「いいえ。これは、私のためでもあります。一人より二人の方がやりがいはありますからね」
「じゃあロゼ、また後でね」
一緒に中庭まで来てくれたロゼに私が声をかけると、
「はい、わかりました」
ロゼは私に頭を下げた。
「ハーペの刻になったらまたここにお迎えに来てください。昼食は、本日は、奥様は私と共に頂きます。これは、厨房にも伝えてありますから大丈夫です」
ハーペの刻は、有希の世界で言うところの、午後二時だ。つまりこれから三時間、私はアマンダと共に体力作りを行うのだ。
ロゼは見送ってくれるつもりなのか、頭を上げた後も動かなかった。
「では、行きましょうか」
それに気づいたのか、アマンダは私に声をかけて来たので、私も頷き、ロゼに「行って来るわね」と声をかけて、アマンダと共に歩き出した。
そうして、しばらく歩いた後。
「奥様、これをお持ちください」
アマンダは、肩にかけていたバッグから、一回り小さめな包みを出して来た。
「これは……」
「本日の昼食になります。これを持って、目的地に向かいましょう」
「ありがとう、アマンダ」
私はそれを受け取って、アマンダの後を歩き出した。
朝の温かい風が頬に触れて行く。
そこで、私は初めて季節が初夏に向かっていることに気付く。
ずっと館の中で過ごしていたから、季節を感じる機会が少なかったし、季節を感じるどころじゃなかったのだ。
一回中庭を散歩したことはあったけれど、窮屈なドレスと高いヒールの靴を身に付けているから、歩くのに必死で、周りの様子を見る余裕なんてなかった。
今日は歩きやすい恰好で、靴もヒールが全然ない革靴である。
だから、全然動きやすさが違った。
それでも、アマンダの後に付いて行くのは思ったより大変だった。
鍛え上げられた動きは軽やかで、確かな歩幅が力強さを感じさせる。
でも、決して彼女との間が離れることはなかった。
多分、後ろにいる私の気配で、歩くスピードを調整してくれているのだろう。
「奥様。息は鼻からゆっくり吸い、お腹を膨らませるようにし、口から長く吐いてください。それから、歩く動きに合わせて、呼吸をしましょう。例えば、二歩で吸って、二歩で吐く、といった感じです」
私は教えてもらった通りに、呼吸をしながら歩いてみた。
確かに息が上がるのを減ったけれど、やはりアーマリアの体力は低かった。
「休憩しましょうか」
私の歩くスピードが落ちて来たのを気付いたアマンダが、そう言ってくれた。
私は、その言葉に頷いた。
「思ったよりも、歩けましたよ」
でも、アマンダが言ったのは、思ってもいないことだった。
「そうなんですか?」
「はい。以前中庭に出られた時はすぐ止められましたが、今は半刻近く歩かれました。なので、かなり奥の方に来ましたよ」
周りを見ると、確かに小高い山のようなものがあって、
そこはどうやら果樹園もようだった。
「フォレスト公爵の館は、戦になった時には要塞になるように作られています。領民達が避難して来た時のためにも、食料がある程度保てるように、備蓄もですがこうやって、敷地内に農地や果樹園を設けているのです」
「あ、じゃあもしかして剣技場に行くまでに、広い広場が広がっていたのは……」
館から剣技場までは、芝生が生えた広場がずっと続いていたので、私は外で剣の練習をするために広いのかな、と思っていたのだ。
「そうです。確かに、野外戦の訓練などもするので、フォレスト公爵の敷地は、庭園などはほぼなく、殺風景な景色が広がっていますが、それはこの地が戦地になった時に、領民が避難できるようにもなっているのです」
私の言葉に頷いて、アマンダはそう教えてくれた。
「ちなみに、この果樹園で採れた果物達は、出荷もしております。近くの農家の者達が、交代で手入れをしてくれていて、売り上げはその者達の給料などに使われています。もちろん、収穫した物は館の料理にも使われています」
「そうなんですね……」
遠目に、オレンジの実が実っているのが見えた。
「畑もまだ先にあるのですが、ちょうど良いタイミングです。ここでお昼にしましょう」
アマンダがそう言ってくれたので、私達はすぐ傍に広がっていた草むらの上に座って、カイルが作ってくれたお弁当を広げた。
食べやすいように気遣ってくれたようで、お弁当はサンドイッチだった。
「館の敷地は広いのに、綺麗にしているんですね」
とても美味しいサンドイッチを堪能しながら、私はアマンダに話しかけた。
実際、フォレスト公爵の館の敷地はとても広そうなのに、きちんと手入れされているのだ。
「そうですね。畑や果樹園は近郊の農家の者達が定期的に手入れに入ってくれていますし、中庭や他の敷地は、庭師が五人ほどおります」
「と言うことは、庭師の方々は手分けをして手入れをしてくださっているのですか」
「そうですね。場所ではなく、花を育てる者、草を取る者、花の手入れをする者など、それぞれに役割はありますが、皆が協力して仕事をしています」
「厨房と同じですね」
私の言葉に、アマンダは頷いた。
「そうですね。厨房もカイルが中心となって仕事を回しています。カイルが厨房の責任者ですが、副の役割の者もおり、その者とカイルが交代で休みを取れるようにしています。庭師の者達は、天候に左右されるので、天気を読みながら休みを取っています」
サンドイッチを食べながら、私とアマンダはそんな話を続けた。
「庭師の人達の名前を、教えてください」
「そう言われると思いまして、書き出しておきました」
とりあえず、その人達の名前を覚えておきたい、と私は思った。
アーマリアであれば、絶対にそうしようとしたはずだ。
だから。
アマンダがそう言って、名前が書いてある紙を差し出してくれた時は、ありがたかった。
「ありがとう、アマンダ」
私はその紙を受け取りながら、お礼を言った。
差し出された紙には、庭師の人達の名前と、果樹園や畑の手入れをしてくれる農家の人達の名前が書いてあった。
「覚えるのは大変だと思いますが、名前を覚えて貰えて、名前を呼ばれてお礼を言われたら、彼らは喜びます。やはり、自分の仕事の成果を認めて貰えるのは、どんな立場の者でも嬉しいものです」
「仕事を認める……」
「奥様は、このフォレスト公爵領の女主人です。この館に働いている者達は、奥様や旦那様のために働いています。もちろん、対価は払っておりますが、やはり自分の仕事が、主人の役に立っていることを実感したいのです」
アマンダの言葉に。
私は、目から鱗が落ちる思いだった。
でも。「有希」の私も、子ども達が「これ面白かった!」と言って笑顔で本を返してくれると嬉しかったし、地域の人達に「本が整理されて、読みやすくなったわ」と言ってくれた時は、今日子と二人でガッツポーズをした。
「皆、このフォレスト公爵の館と奥様と旦那様のために働いているのです。奥様からのお声かけがあれば、喜ぶと思います」
それは、「アーマリア」の視点からでも思いも付かないものだった。
記憶の中のアーマリアは、レイガのことばかり気にしていて、いつもびくびくしていた。
レイガを気にし過ぎて、周りの人達の気遣いも優しさも見えなくなっていたのだ。
「ありがとう、アマンダ」
私はアマンダに、もう一度お礼を言った。
「お礼は、皆にも言ってください。ただし、いい加減な仕事に対しては、お礼を言う必要はありません。お礼が言いたくなったら、言うようにしてください」
そんな私に対して、アマンダは笑顔を浮かべて頷いてくれた。
「このサンドイッチは、カイルが作ってくれました。この服を作ってくれたのは、ミモザです。二人に会ったら、お礼を言ってくださると喜びます」
「わかったわ」
アマンダの言葉に、私も頷き返した。
そうして。
私がアマンダと共に、とても気持ちの良い疲労感を抱えながら館に戻ると。
お風呂の準備がもうできていて、私は驚いてしまった。
「もうお風呂に入れるの? 準備をありがとう、ロゼ」
私がそう言うと。
ロゼは、目をばちくりとさせた。
「いえ、私だけではないですし、お風呂のお湯を運んでくれたのは、使用人の人達ですから……」
「でも、段取りをしてくれたのはロゼでしょう?」
きっと前回私がアマンダ達と昼食を届けた後、お風呂も夕食も食べずに眠ってしまったから、今回は気を回して、私が部屋に戻ったら、すぐにお風呂に入れるようにセッティングしてくれていたのだろう。
もちろん、お湯を運んでくれた使用人の人達にもお礼を言いたいのだけど、タイミング的にそれはなかなか難しい。
「お湯を運んでくれた者達にも、私からお礼を伝えておきます」
私が考えているのがわかったのか、ロゼが笑顔になりながらそう言ってくれた。
「ありがとう、ロゼ」
私はもう一度お礼を言ってから、お風呂へと入った。
丁度良いお湯加減で、私は気分よくお風呂から上がることができた。
「奥様、こちらをお飲みください」
部屋に戻ると、ロゼが冷たいアイスティーを用意してくれていた。
「ありがとう」
それに対して、私は椅子に座りながらお礼を言う。
「少し早いですが、夕食の用意をしております。本日は、お部屋でお食事をしてください」
「え、良いの?」
アーマリアの記憶の中の「常識」では、食事は―それも夕食は特に―、できるだけ食堂ですること、とされている。
以前レイガが私の言動が気に食わなくて、朝食を執務室で摂っていたけれど、あれはとても異例なことなのだ。
それだけ、「アーマリアの言動が気に食わない」と言う主張にもなったのだけど、「有希」の私は全然気にしなかったので、結局効果はなくて、彼自身はまた食堂で食事をするようになったのだけど、それぐらい、「自室での食事」は例外中の例外なのだ。
「はい。旦那様が、『本日の体力作りでアーマリアは疲れているだろうから、早めに夕食を摂らせて、ゆっくり休ませてやってくれ』とおっしゃられて、そのような段取りをするように、厨房の人達にも命じられたのです」
「そうなのね……」
「旦那様にも、是非お礼を伝えられてください」
「そうね」
ロゼの言葉に。
私は、複雑な気持ちを抱きつつも、頷いた。
実際、この後に運ばれた食事には、私は感動させられた。
「カイルさんが、疲れてあまり食欲がないかもしないから、本日の夕食は軽めのものにしたそうです」
食事を持って来てくれたエマがそう言ってテーブルに並べてくれたのは、カラフルなサンドイッチだった。
目の前のエビと緑のアボカドみたいなものが挟んであるサンドイッチに手を伸ばす。
ふんわりとしたパンの中には、プリプリのエビと滑らかなアボカド、シャキシャキのレタスがぎっしり詰まっている。
一口かじると、エビの弾力とアボカドのクリーミーさが絶妙に絡み合い、口の中で広がる旨みが疲れた身体をじんわりと癒していく。
冷えたレモンウォーターを一緒に流し込めば、生き返るような爽快感に包まれた。
「美味しい……」
私がそう言うと、「良かったです」と、エマは微笑んでくれた。
「レモンウォーターは秘蔵の氷を出して作りました。なかなかお目にかかれないんですよ」
この世界では、「冷蔵庫」と言うものがないらしい。
基本的に「温かいもの」はすぐにできるけれど、「冷たくて美味しいもの」はなかなか難しいみたいで、あまり料理としても出てこない。
けれど、ここは北の領土にあるから、冬に湖や川から切り出した氷を地下の貯蔵庫や氷室に保管し、藁やおがくずで断熱して夏まで保存しているのだ。
だから、当然料理に使う機会も限られてくる。
まだ初夏の涼しいと言える時期に氷を使うのは、破格と言っても良いだろう。
「……本当にありがたいわね」
私は、食事の後。
そう呟いた。
皆がアーマリアである私を気遣って、自分のできることをやってくれている。
それは職務からできる範囲のことだけど、その一つ一つが私を支えてくれているのだ。
確かに、レイガとの関係にも問題はあるけれど。
それ以外のものに注意して見れば、本当に皆気遣ってくれている。
だから。
私が今一番できることをやっていきながら、皆の力になれるようになっていきたと思った。
「……休まれますか?」
そんなことを考えながらお茶を飲んでいると、お茶を用意してくれたロゼが、声をかけてきた。
私は、お茶を飲みつつもふわふわとした感じがしていたので、
「そうね」
と頷いて、お茶を置いた。
もともとお風呂から上がったら、寝間着に近い服を着せてもらっていたから、そのまま寝ても問題ない。
私は、持っていたカップをソーサーの上に置くと、立ち上がった。
そうして、そのままベッドへと移動して、そのまま滑り込んだ。
「お休みなさいませ」
と言うロゼの言葉が聞こえて来て。
私の意識は、一瞬で眠りへと引き込まれてしまった。
★
「何か良い感じ?」
職場のカウンターにいた今日子は、私を見てそう声をかけてきた。
「今日子……」
相変わらず、今日子は一緒に働いていた小学校の図書館にいた。
「体力作り、進んでいるじゃない」
私が今日子の名を呼ぶと、彼女はにっこりと微笑みながら言った。
「うん。アマンダのおかげで、楽しく過ごせたよ」
「その後で疲れて眠るのは、まだまだ体力がないけれど、スロージョギングとストレッチ、それから筋トレのメニューを加えて、それを三か月ぐらい続けたら、また変わると思うよ」
「わかった、やってみる」
今日子の言葉に、私は頷いた。
「でもね、レイガのことも忘れないでよ」
けれど。今日子は、私があまり考えないようにしていたことも、念を押して来た。
「せっかく、『愛に飢えた受』って、萌えるシチュエーションに嵌めることができたんだから。喧嘩を買うばかりではなくて、こっちの行動に巻き込んじゃいなさい。夫婦が『共に同じ行動をする』ってのは、コミュニケーションの一つだよ」
「そうだね」
それは、私も実感していることだった。……別れた旦那とは、それすらもできなかった。
いや。
それをしようとしても、最後は苦行になってしまったのだ。
「レイガは、私達の旦那と違って、見どころがあると思うよ。だから、見捨てないでやって」
今日子は、笑いながら言葉を続けた。
「ねぇ……何で死ぬことを選んだの?」
そんな彼女に、私はずっと聞きたかったことを尋ねてみた。
私の問いかけに今日子は目をぱちくりとさせて。
次の瞬間、困ったように微笑んで見せた。
そこで。
夢は終わったのだった。
★
目が覚めた時、体がとても楽だった。
「すっきりした」という言葉がぴったりで、私は良い気分でベッドから起き上がった。
そこから瞑想を十五分間行い。「ねこのび」と上半身と下半身のストレッチ、「ごろ寝で前ならえ」をやり、ベッドから降りると、スロージョギングを五分程度行った。
次に、筋トレの「ゆるっとバランス」と「腹筋ねじり」と「ぐるぐるストレッチ」を行う。
そこまですると、適度な疲労感が出て来て、私はすっきりとした気分でまたベッドの中に入った。
この「二度寝」と言う瞬間が、「有希」の時にはできなかった。
何せ仕事を持つ社会人だったから、一度起きたら仕事に行く準備をしなければならなかったので、二度寝は休日の時ぐらいしかできないことだった。
まして、結婚した時は旦那の存在が気になって、休日の時も二度寝などできなかった。
離婚する前の最後の方は、旦那の方も私がまだ「寝ているな」と判断してから、朝のことをやっていたので、わざと起きて来ないようにしていた時もあった。
でも。今は、
「奥様、おはようございます」
そう言って、時間になればロゼが部屋に入って来て、私を起こしてくれる。
「おはよう、ロゼ」
私はベッドから起き上がり、そのまま床へと降りる。
そして椅子に座ると、ロゼは私の前に入れてくれたお茶を出してくれた。
葉っぱの良い匂いが、私の嗅覚を刺激してくれる。
朝から紅茶をゆっくり堪能することなんて、「有希」の頃は、考えられなかった。
とにかく朝のタスクを消化して、仕事に行くことが朝の最大ミッションだったから、ゆっくりと過ごすことはできなかったのだ。
私がお茶を堪能している間に、ロゼが手早く髪を梳いてくれて、他の侍女達がカーテンと窓を手早く開け始めてくれる。
これも、「有希」の時には、朝起きて一番にしていたことだ。
私がこうやって優雅にお茶を飲んでいるだけで良いのは、彼女達がこうやって動いてくれているからだ。
「窓を開けてくれてありがとう。今日は風が気持ち良いわね」
私は、今感じている気持ちのままに、侍女達に声をかけた。
窓を開けていた侍女達は、一瞬びっくりしたような表情になっていたけれど、私の言葉に嬉しそうに微笑んでくれた。
「本当に、良い風ですね」
侍女の一人がそう言って、他の二人も笑顔で頷いた。
可愛らしい年ごろの娘さん達の笑顔は、本当に眼福である。
私は彼女達の笑顔でご飯三杯ぐらいは行けそうだわっと思いつつも、表情にはおくびにも出さないようにして、朝の支度を侍女達に手伝ってもらいながら行った。
本日のドレスは、薄いサテンのようなピンク生地が何枚も重ねたデザインで、スカートの部分は裾まで広がっていた。
正直歩きにくいな、と思ったけれど、私を満足そうに見ている、ロゼと侍女さん達の表情を見て、「それもまた良し!」と思えてきた。
若い可愛らしい娘さんが、にっこにっこで自分を見ていて、それが四人も周りにいるのだ。
キャバクラに来るおじさんの気持ちが、この時、私は初めてわかるような気がした。
良い……本当に良い!はっきり言って眼福である。
そして、至福である。
そんな至福に包まれながら、私は食堂へと移動した。
扉の外で待っていてくれたイルンが扉を開けてくれて、
「旦那様、おはようございます」
私はまず、スカートを摘まみ、頭を下げながら挨拶をした。
「ああ、おはよう」
私が顔を上げると、レイガの表情は暗かった。
妻の私がルンルン気分でいると言うのに、何故が彼の方は死にそうな顔をしている。
「……気分はどうだ?」
どうしたんだろう、と私は思ったが、とりあえず席に座ることにした。
そうして。
料理が来る前の、トークタイムが始まった。
「とても良いです」
私は、満面の笑顔で答えた。
実際。
私の今の気分は、「絶好調!」だった。
「そうか……。しかし、昨日は早々に休んでいたそうではないか」
「あ、そうですね。夕食の用意とお風呂の準備もありがとうございます」
レイガは重々しい口調で話し出したが、私はあっさりと答えた。
「体がきついのではないのか?」
「大丈夫です、これは『適度な疲労』というものなので、逆に健康的なんですよ」
どうやらレイガは、アーマリアの「体力作り」には反対したい様子である。
「何故そんなに『おしかつ』をしたがるんだ⁉ お前は部屋にいて、静かに過ごせば良いではないか!」
「え、何をするんですか?」
レイガの言葉に、私は即日反応に質問する。
「……刺繍とかだ!」
レイガの言葉に、私はふむ、となった。
「じゃあ、旦那様。刺繍を共に学びましょう」
その瞬間。
レイガの後ろに立っていたイルンは、いつもは冷静な表情をしているのに、「は?」と言う表情になった。
私としては。レイガがそんなに不安ならば、共に何かすることをしてみようか、と思ったのだ。
共に体力作りをするには、私達には差がありすぎる。
また、領地経営とか公爵領の政治的な話になると、これまた直接的過ぎる。
そこで、ちょうど無難なものとして、「刺繍」というワードがレイガから出たので、「ちょうど良い」
と思ったのだ。
「俺は、刺繍などする必要はない!」
「ならば、裁縫を習いませんか?実用的ですし」
「裁縫と刺繍の何が違う⁉」
「全然違いますよ。戦場に行った時に、破けた所を直すぐらいはできた方が良いですし」
「それぐらい、イルンに……!」
「イルンが怪我をしていたり、傍にいなかったりした時はどうするんです? 怪我をした部下の面倒をいつ見る立場になるかわからないんですから、できた方が良いですよ。私も裁縫も刺繍もあまり得意ではないですから、共に学びましょう!」
とりあえず、私―アーマリアに対して「不安」を覚えているのであれば、それを解消するための行動は起こした方が良いだろう。
もちろん、「離婚」の可能性は残してある。それが最終的にアーマリアの幸せに繋がるならば、それは辞さない。
でも、それとは別に、レイガへの「思い」をアーマリアが引きずっているのであれば、やはり「関係改善」への努力をするべきだ。
まあ、それでレイガが何か文句を言ってくれば、バツイチアラフォーのパワーで吹き飛ばすつもりではいたのだけど。
「……わかった」
以外にも、すんなりとレイガは了承してくれた。
私としては「良し」と思った件だったけど、やっぱりロゼとかは驚愕な出来事だったらしく、
「良いんでしょうか……」
と、部屋に戻った時に心配そうに尋ねて来た。
「あら、ダメなの?」
「旦那様が言いたかったことは、刺繍や裁縫を共に上達することではないような気がするんですが……」
「部屋に閉じこもって、ずっと刺繍やら何やらする生活って、そんなに楽しそうに思える?」
私がそう言うと、ロゼは黙り込んでしまった。
レイガは、アーマリアが自分の考える以上の行動をし始めたから、不安なのである。
不安だから、部屋に閉じこもって、じっとしてもらいたいのだ。
もちろん、「有希」である私は、そんなものはごめんだ。
私の行動は、私が決める。
勿論、その場のルールや他の人達の思いは鑑みる必要はあるけれど、自分以外の誰かに決定されるものではない。
レイガには、そのことをきっちり理解してもらう必要もあった。
私は身だしなみを整えてもらうと、アマンダを部屋に呼んでもらった。
「旦那様と……裁縫ですか?」
「そう。旦那様と一緒に、裁縫をおしえてもらいたいのだけど、誰か良い人いないかしら?」
「どうしてそのような話になっているのか、教えてくださいますか?」
さすがに、私の申し出は唐突だったようで、アマンダも戸惑った表情をしていた。
私が朝食での一件を話すと、
「なるほど……」
と、深いため息を吐いた。
「やっぱり止めた方が良かったかしら?」
私は不安になって、アマンダに尋ねてみる。
「いいえ。『共に何かをした方が良い』と私も言っていたので、そのこと自体に問題はないです。ただ……どうして、『裁縫』なんですか?」
「それは、旦那様が『部屋で刺繍でもしていろ』と言われたからよ」
「旦那様が言われたのは刺繍なのに、裁縫なんですね……」
そこまで言って。アマンダは、ため息を吐いた。
「わかりました。私の方で段取りをさせていただきます」
「良いのですか? パレス様」
私の隣に控えていたロゼが、思わず言葉を出す。
本来であれば、それは控えるべきことではあるけれど、やはり衝撃が強かったのかもしれない。
「確かに奥様のおっしゃる通り、戦場では女手はありません。服の繕いものはできた方がよろしいでしょうし、奥様と旦那様が共に何かをすることで、お互いの理解が深まるならば、何をしようとも、それは問題ないと思います」
私がチョイスした「裁縫」というものは少し違和感があったけれど、共にやることには問題なしとして、早速次の日には、図書室で「縫い物教室」が開催された。
生徒は、私とレイガで、先生は何と、ミモザだった。
最初図書室に入った時、
「よろしくお願いしますね」
とミモザが立ち上がって頭を下げた時は、驚いたけれど。
考えてみれば、ミモザは私とアマンダが体力作りを行った時に着た服を、短期間で作ってくれた実績がある。
この世界の―特に女性は「裁縫」の技量は当たり前の「知識」として持っているけれど、それでも彼女の腕前は「見事」な部類には入るはずだ。
一方のレイガは、ミモザを見た瞬間、
「ミモザ……」
と、小さく呟いた。
「お久しぶりです、旦那様」
ミモザはにこっと笑って、レイガにも頭を下げた。
「体の調子はどうだ?」
レイガもミモザの妊娠のことは知っているようで、彼女の体調を気遣った。
「体調のこともあるのに、無理をさせてすまないな」
私達に付いて来てくれた、男性の使用人に椅子を引いてもらいながら、レイガは言った。
先に椅子を引いてもらって座っていた私は、ちょっと当て付けっぽいなあと思ったけれど、
「あら。大丈夫ですよ、旦那様。妊娠したと言っても、少しは動かないといけないんです。立って家事をしていることも多いのに、座って裁縫を教えることぐらい、たいしたことありませんわ」
と、ミモザは笑顔でそう言ってくれた。
そうして、私達はミモザに裁縫を習った。
習う内容は、基本中の基本である、「波縫い」だ。
ミモザの指先は迷いなく布をすくって、針が規則正しく上下するたびに、波縫いの細やかなステッチが生まれていく。
糸の張り具合を絶妙に調整しながら、布の表面に滑らかな波を描くように縫い進めるその手つきは、まるで熟練の職人が筆を走らせるかのようだった。
しかし、一見すると簡単そうに見える動きも、やってみると、やはり難しかった。
「布の裏側から針を刺して、表側に引き出しましょう。このとき、糸の端に軽く結び目を作っておくと安心です。針は前へ進めながら、等間隔で布に刺します。だいたいニ~五ヘルトくらいの間隔がきれいに見えます。縫い終わったら、糸を引いて形を整えましょう。もし縫い目が揃っていなかったら、少しずつ調整することもできます。そして最後は、布の裏側で糸を結んで固定します。この結び目がしっかりしていれば、縫い目がほどける心配はありません」
ミモザは丁寧に一通り説明してくれたから、私はやり方を理解することができた。
だけど。
やっぱり、ミモザのようにはいかなかった。
ミモザは縫い目は同じ大きさで手早く縫い上げていたのに、私の縫い目は大きさがでこぼこになっていて、真っすぐにもなかなかならない。
レイガに至っては、針に糸を通すことさえ苦戦していた。
「そういう時は、糸通しを使うと良いですよ」
と、ミモザが糸通しを差し出して来たら、
「……ありがとう」
と言ってレイガはそれを受け取り、針に糸を通した。
その姿を見て。
私は、「あれ」と思った。
何と言うのか。
ミモザは、決して「使用人」としての態度は崩していないし、レイガも「主人」としての接し方しかしていない。
けれど。
何と言うのか、二人の間には「親しさ」のようなものがあるのだ。
レイガの縫い目は、本当にガタガタではあったけれど、ミモザは笑みを浮かべたまま、どうすれば良いのか、レイガに教えていた。
次に、彼女はボタン付けのやり方も教えてくれた。
「今回は、二つ穴が開いたボタンの付け方をお教えしますね。まず、ボタンをつける位置を決め、布の表から一針すくってください。次にボタンの穴に糸を通します。その後となりの穴に針を通し、玉結びの近くに刺してください。これを、二回繰り返します。それから、ボタンの足になるように、ボタンの足になるように糸をニ・三回ほど巻き付け、針を裏に出してください。最後にもう一度表に出し、縫い目の脇で玉止めをします。余った糸は切ってくださいね」
実際に、一つ一つ作業を丁寧に見せてくれながらやってくれたので、私達は作業のやり方は本当に理解することはできた。
ただ、実際にやると。とても難しくて、こんな作業を話しながらできるミモザはすごい、と私は心の底から尊敬する思いだった。
「アーマリア……お前、また『ミモザを嫁に貰いたい!』と思っているのではないだろうな⁉」
「え、何でわかったんですか?」
その日の夜。私の私室を尋ねて来たレイガに、緊張した面持ちでそんなことを言われて。
私は、素で自分の本音全開に答えてしまった。
「……っ、お前は私の妻だぞ⁉」
それに対して、レイガが立ち上がりながら、悲鳴のように叫ぶ。
「……旦那様」
そんなレイガに、私は「しい」のポーズをして、彼の名を呼んだ。
そんな私の仕草に、レイガは我に返ったような表情になり、慌てたように椅子に座った。
人払いをして部屋に使用人はいないけれど、外には私の使用人も、レイガの使用人も控えている。
「おっしゃる通り、私は旦那様の妻です。それは、十分承知しております。ですが、空想で考えてしまうこともあるじゃないですか!」
「そうだな……お前はカイルのような体付になって、ミモザのような女性と結婚したいんだったな……」
「はい、そうです! でも、カイルのような体付きになりたいのは、空想ではないですよ」
どうやらレイガは、私が以前言ったことを覚えてくれていたらしい。私としては、私は女だしミモザも女性。
はっきり言って、楽しい妄想の範囲での話のつもりだった。
「そうか……」
私の満面の笑みを見て、レイガは本当にげっそりとした表情になった。
私としては。
本当に、レイガを裏切っているはないし、それは「楽しい空想」の範囲での話なので、さしてレイガの表情は気にしていなかった。
「気にしてください!」
そうして。
次の日、私の部屋にいつものようにワゴンを押して入って来たロゼは、椅子に座った私にお茶を出して、いきなりそう叫んできた。
「ロ、ロゼ……?」
侍女としては、有り得ない態度だった。
幸い他の侍女達はまだ外で待機しているのか、部屋にはロゼと私しかいない。
ロゼと私―アーマリアは乳姉妹でもあるので、このようなやり取りも、実は人目のない時にはよくやるのだ。
図書室でロゼが遠慮なく意見を言っていたのも、そのためである。
「ど、どうしたの……?」
それでも、あまり見ないロゼの形相に、私は恐る恐る話しかけた。
「昨日、旦那様がお部屋に訪れられたそうですね?」
「う、うん。そうだけど」
どうやら、昨日の遅番だった侍女に、レイガが私の部屋を訪れたことを聞いたらしい。
「旦那様は、ものすごく青ざめた表情で、奥様の部屋から出てこられたと聞きました」
ロゼの言葉を聞いて。私は、レイガが自分の部屋を出て行った時の様子を思い出してみたけれど、スカートを持って、頭を下げていたから、彼の顔を見ていない。
「おそらく、ミモザさんの話題が出ましたよね? そして、奥様は『ミモザを嫁にしたい!』って言ったんじゃないですか?」
「あ、それは旦那様の方から言われたわ。ドンピシャだったから、ぴっくりしたの。私が前に言った『カイルのような体付きになりたい』のことも、覚えていらっしゃったわよ」
「……そして、笑顔でそれを肯定されたんですね?」
私の言葉に、ロゼは頭を抱えながら言った。
「そうね。本当のことだから」
「私、前にも申し上げましたよね、『妻から男らしい体付きになって、可愛らしい女性を嫁にしたい』と言われたら、旦那様は衝撃を受けられます!って」
「でも、私からは言っていないわよ。旦那様が『ミモザを嫁に貰いたい!』と思っているのではないだろうな」と言われたから、正直に答えたのよ」
ロゼの言葉に、私はそう答えた。
実際、私はその件については、自分からは何も言っていないのだ。
「でも……!」
「私は、カイルのような体付きになりたいし、自分が男だったら、ミモザのような可愛らしくてパワフルな女性をお嫁さんにしたいし、アマンダのようなカッコ良い女性のお嫁さんにもなりたいって、思っているわ。それは事実であって、否定されるものでもないはずよ。もちろん、『空想』な部分が大半だから、本当にカイルのような体付きになるのは難しいし、ミモザをお嫁さんにすることも、アマンダの妻になることも有り得ないことよ。でも、想像するのは、楽しいのよ」
そこで、私は言葉を切った。
「それを『聞きたくない』と言うのならば、聞かなければ良いんじゃない? 私は、聞かれたから答えただけであって、それ以上のことをするつまりはないわ。体を鍛えることはするけどね」
「奥様……」
ロゼは、何も言えなくなったようで、両手を胸の前でぎゅっと握った。
「奥様、失礼します」
それと同時に、私の着替えを手伝うために、他の侍女達が部屋に入ってきた。
だから、一度この話を立ち消えになったはずだったけれど。
「やっぱり、華がないと思うんです!」
朝食を終えて、図書室でラベル張りを共にし始めて、急にロゼは叫んだ。
「ろ、ロゼ……?」
細いペンで糊をすくおうとしていた私は、糊を落としそうになって、あわててペンを糊の壺に戻した。
「ど、どうしたの?」
「奥様、奥様が色々と考えていらっしゃるのは、私もここしばらくの間の奥様の様子を見て、わかるようになってきました。でも、やはり、奥様が旦那様とお互い理解を深めるためには、もうちょっと華やかなイベントが必要だと思うんです!」
「は、華やか……?」
私は、呆気に取られてロゼの言った言葉をそのまま言い返してしまった。
「はい。共に裁縫を学ぶのも良いかもしれませんが、あまりにも地味です。もう少し、心がときめく物を、共にするべきだと思います!」
「私は十分、裁縫でもときめいたけれど……」
「ミモザさんの裁縫の腕にときめいて終わりでは、意味がありません!」
糊を救う用のペンをぎゅっと握りしめ、ロゼは力説する。
「つまり……どこかにお出かけする、と言うこと?」
「そうです! 二人っきりでお出かけしましょうよ」
私が戸惑いながら言うと、さらにロゼは声に力を込めて来た。
「うーん……」
私は、ロゼの言葉に、ペンで糊を救いながら考え込んだ。
これは、所謂「デート」というものだ。
確かに、「アーマリア」の記憶をさらっても、「二人で出かけた」と言う記憶はない。
アーマリアの記憶の中のレイガは、冷たい視線を向けていて、何かしら難癖つけていて、率直に言って、ロクなことしかしていない。
そして、二人で出かける誘いもかけず、アーマリアが部屋に閉じこもることを望んでいた。
まあ、レイガからしたら、アーマリアが自分から去ってしまうかもしれない、という不安が常にあるのだ。
いやそんなことを強要されたら、私だったら、とっとと離婚するわ!と思うけれど。
「心は攻!」のコンセプトで考えると。
愛を信じられず、怯えている受。攻に愛されたいけれど、攻の心が見えなくて、怯えている。
……とても良い! 萌える、いや燃える!
「奥様……?」
心の底からそう思っていると、怪訝そうな表情で、ロゼが声をかけてきた。
「良いかもしれないけれど、私はお出かけ用のドレスを着て出かけるのは、気が重いわよ」
私は、はっと我に返り、何事もなかったように言葉を続けた。
日常的に来ているドレスは、この世界では「普段着」でもあるので、ある程度動きやすいのだ。
けれど、お出かけ用のドレスは、とにかく「動きにくい」のだ。
今のアーマリアの体力では、せっかくお出かけしても、とにかく疲れそうである。
「ならば、バレス様とされたようなことをしてはどうですか?」
そのことはわかっているロゼも、そんな提案をしてくれる。
その言葉に私はふむ、となった。
その提案は、悪くはなかった。
ミモザ制作のあの「運動着」は、とても肌触りが良くて動きやすかったし、デザインもシンプルながらも洗練されていた。
同じ物を着ていたアマンダも、正直「かわいい」と思えるぐらい、似合っていたのだ。
「それは良いけれど、着ていた服が動きやすくて楽なものだったから、できたのよ。普通の服だったら、多分、疲れてしまうし、靴も歩きやすいものが良いのよね」
アマンダと体力作りをした時も、靴は履きやすくて歩きやすいものを準備してもらっていた。
今の私が着ているドレスと履いている高いヒール付きの靴では、長く歩ける自信はない。
お姫様と言うと、綺麗なドレスを着て、美味しいものを食べて、毎日パーティーをして……というイメージがあるけれど、現実は甘くない。
「それは、お任せください!」
けれど。そんな私に、ロゼはそう宣言した。
「奥様がどんな格好をされようと、奥様の美しさを失わせることはありません。それは、私達を信用してください!」
どんっと胸を叩かれ、
「あ、ありがとう……」
と、私は若干引き気味になった。
「ミモザさんに、新しく作ってもらうことを依頼しても良いんですけどね」
「あ、それはダメ。前回も作ってもらって、お礼も渡していないのよ」
ミモザには服のお礼は渡そうとしたのだけど、「それは必要ありません!」と、断固として断られてしまったのだ。
アマンダにも相談したけれど、「精神的にもう満足しているので、大丈夫ですよ」と言われてしまった。
「それに、まだ一回しか着ていないからね。新しいのは必要ないわよ」
「大丈夫です! その辺も衣類係の者達に伝えますので、ご安心ください」
本当に。
ロゼは、心の底から燃えているようだった。
当事者である私より、その熱量は遥かに熱い。
私は、その熱量に圧倒されながらも、アマンダにこのことを相談することにした。
「奥様はどうされたいのです?」
私の部屋に来てくれたアマンダは、まずそう尋ねて来た。
いつものように黒いシンプルなワンヒースを着て、白い髪を一つにまとめてアップをしている彼女は、一見すると怖そうに見える。
何も見えていなかった頃のアーマリアだったならば、きっと怖くなって何も言えなくなっていたかもしれない。
けれど、彼女はただ案じてくれているだけなのだ。
アーマリアと自分の主人のレイガが、できれば上手く行って欲しいと思っているけれど、まずは、「アーマリアがどう思うのか」を考えてくれている。
「私は、旦那様と分かり合える努力はしたいわ。せっかく嫁いで来たからには、やっばり夫婦として仲良くやっていきたいもの」
そんなアマンダの気持ちを感じながら、私は今の自分の気持ちを素直に伝えた。
「わかりました。それでしたら、共にお出かけするのは良いことだと思います」
私の言葉に、アマンダは淡々と頷く。
「ただ……ですね。旦那様とお出かけするのは構いませんが、内容は旦那様に決めていただいた方が良いと思います」
「あら、そうなの?」
「はい。奥様はかなり行動的になられましたが、何でもかんでも奥様が決めているのでは、旦那様もお辛いと思います」
その言葉には、私は目を見開いた。
「え、そうなの?」
「基本的に、男性は女性に頼られたいものなのです」
アマンダは、「これはとても大事です」と言う口調でそう言った。
「なるほどね……」
「まずは、私の方から奥様のご希望を伝えてみます。どこに行きたいかとかはありますか?」
アマンダの言葉に、私は考え込んだ。
「アマンダとやった、体力作りがとても楽しかったから、あんな感じでやりたいな。服装も、ドレスじゃなくて、体力作りで着た服が良いかな」
私は、素直に自分の気持ちを告げた。
「わかりました。では、その通りに旦那様にはお伝えします。奥様は、このままお待ちください」
そうして。私は後のことは、アマンダの言う通り、レイガに任せることにした。
「奥様は、どんな所に行きたいのですか?」
次の日の朝。
身支度の前のお茶の時間に、ロゼが早速そう尋ねて来た。
おそらく、昨日の内に、使用人の皆に話が行ったのだろう。
プライバシーも何もあったもんじゃない、とも思うけれど、これが「使用人」がいる私の今の現実だ。
「正直に言えば、どこでも良いのよ。ドレスを着て、ヒールの高い靴の恰好をしなければ」
私は、嘘を付いてもしょうがないので、素直にそう言った。
「奥様……」
途端に、ロゼのテンションが下がる。
「旦那様とのお出かけですよ⁉ もう少し盛り上がっても良いのではありませんか!」
「怒鳴られなければ、どこに行っても楽しいわよ。私は、外に行くのは久々だもの。旦那様に叱責されなければ、どこでも楽しめるわ」
それは、アーマリアの記憶の中から出てきた言葉だった。
まあ、レイガも本当に上手くやろうとして、でもできなくて、色々と迷ってはいるのだとは思うが、結局アーマリアは萎縮してしまって、心を疲れさせてしまっていた。
今でも、「レイガとお出かけ」という事実に、アーマリアの体は強張ってしまっている。
けれど、彼女の「心」が、レイガと分かり合いたい、と思っていることも、事実だった。
大丈夫よ、アーマリア。
私は、心の中でそう呟いた。
あなたは、私の推し。
その推しを、私は決して、不幸になんかさせない。
あなたの望みは、レイガとの和解。
私は、あなたを守るための離婚も辞さない考えだけど、あなたの「幸せ」を最優先で考えるから。
私は、深呼吸をしながら、心の中で、私の中にいるアーマリアに囁いた。




