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苦手な方はご注意ください。

ブラック企業勤めに疲れたアラサーおっさん、自分を「ご主人様」と呼ぶ小学生美少女に慕われ奉仕される

作者: 佐藤山猫

相変わらずよく分からない話になりました。


オチが分かっていても楽しめる小説になっていたら、作者としては本望です。

長い作品ですが、どうぞよろしくお願いいたします。

 悪い夢を見ていた。

 熱があったり、体調が悪いと──つまりここ数年毎日のように──見る夢だ。

 ほんのワンシーン。

 大勢の人間に囲まれて、何か強い力と強い光に呑まれ、自分の背中が叩きつけられる、そんな夢だった。


 通勤電車の席で思わず眠ってしまい、そんな夢を見て跳ね起きた。冷房の効いた車内なのに、とても嫌な汗をかいていた。




 就業時間は9時から6時。うち一時間の休みあり。

 それが分からなくなるくらいに残業が多いのはどうしてだろうか。

 それが分からなくなるくらいに始業が早いのはどうしてだろうか。


 世間的にはそこそこ名の知れた企業勤め。

 知り合い以上友人未満の社外の人間は「いいところに勤めているじゃん」と笑って肩を叩いてくれる。多少の尊敬、羨望、嫉妬も織り交ぜて。

 いまはもう、友人はおろか知り合いすら疎遠で、一年に一度、生声を聞ければ良い方だ。


 就職活動からやり直すべきか。セカンドキャリアを模索すべきか。

 そんなことを考えていた時期もあったと思う。しかし、だ。日記代わりに更新していたSNSは更新頻度がどんどんと落ち込んでいき、比例するように前向きな気持ちもまた、半年、一年、二年……と過ごしていくうちに減衰していき、とうとう万事どうでも良くなっていった。

 

 洒落た言い回しをするなら、心が摩耗してきた。あるいは、情熱の灯がいまにも消えそうに揺れている──って、これはクサすぎるか。そろそろ体臭に気を遣わねばいけない年齢だ。

 さすがに人もまばらな電車に揺られながら、俺は寝ているように俯いてそんな自嘲──それとも回想──に耽った。

 今日も仕事だ。

 最後の休日はいつだったか。毎夜帰宅できているだけ救いがあるのかもしれない。晩飯やシャワーもそこそこに万年床に倒れこむような日々でも。


「おい戸塚(とつか)! ちょっとこっち来い!」

「はい」


 小さなビルのワンフロアを占める事業所に、俺を呼ぶ支社長の怒鳴り声が響く。昔格闘技か何かをしていたらしく体格の良い支社長の怒声は胴に入っている。

 同僚は何も反応しない。彼らも俺と同じく心が死に態なのだ。俺だってその立場なら無反応でいるだろう。


「……数字が……気合を……成績が……」

「はい……はい……」


 支社長の脂ぎった顔を死んだような目で見下ろして、俺はありがたいお説教の断片だけを拾っていく。

 この事業所は近隣の事業所と成績争いをしていて、その成績如何によって本社からの評価も変わっていくらしい。

 そして本事業所はここ数年──俺が新卒で配属されてからだから四捨五入して切り上げて十年になるか──近隣の事業所に負け続きで、良くて真ん中くらいの順位。支社長は本社からその能力を疑われているらしい。

 昔は敏腕営業として鳴らした人らしい。上昇志向が強く、金銭欲も強く、数字を取ることに熱心になれる。そんな人だったと小耳にはさんだ時は信じられないという思いで一杯だったが、まあ、管理職に求められる能力と一兵卒に求められる能力は違うということなのだろう。

 或いは、それが関係しているのだろうか、と目をやった先、支社長のデスクの上の写真の中では恐らく娘と思われる少女が満面の笑みを(たた)えていた。支社長は結婚指輪をしていないが、まあ娘がいてもおかしくない年齢だ。


香坂(こうさか)! てめえ数字が出てないぞ!? どういうことだ!!」


 バンッ、とデスクを叩く音がして、弾かれたように同僚が支社長の元に馳せ参じる。どうやら、俺の話は終わったようだ。


「くっそクズの戸塚でも今月こんだけは出してんだよッ!! まだ俺の全盛期の2……いや1割も無いけどなッ!! それがなんだお前は!? 舐めてんのか!? あぁ!? なんとか返事しろよこのヒョロガリがよぉッ!!!」

「……す、すいません」

「すいませんで済むと思ってんのか!? あぁ!? 目標は必達! どうすりゃいいんだ言ってみろ!」

「……が、頑張ります……」

「聞こえねーなぁ」

「……頑張ります!」

「あぁ? 頑張る? 何をどう頑張るっていうんだおい! 支社の仲間に申し訳ないとか思わねぇのかおいッ」


 支社長が胸ぐらを掴んだ。

 若い女性事務──美人では無いが、愛嬌と色気がある──が慣れた様子で止めに入る。

 支社長は目尻を下げて猿のような表情に変わって、そして香坂を離した。

 ゲホゲホ咽せながら席に戻る香坂。少し涙目だ。先輩として少しフォローしてやるべきだろう。俺が標的とされなければ。或いは俺に業務量の余裕が生まれたら。


「──酷すぎないか?」


 何故か、珍しく定時で帰らされた日の帰り道、学生時代の友人とばったり再会してそのまま向かった小料理屋という名の居酒屋で、俺は酔っぱらってジョッキをガンッと机に叩きつけた。


「相変わらず理屈っぽい奴だ。見た目は痩せたが、中身は変わんねえな。いい大人なんだから、整髪料(ワックス)とか……無精ひげくらい整えろよ」


 ベルトの上に乗った腹回りの肉が注ぎすぎたビールの泡のようにも見える友人はそう言って笑った。顔が赤い。随分と酔っているようだった。

 相変わらず楽天的な奴だ。学生時代と変わらぬ気楽な会話に、疲労が浅ければ心も多少軽くなったろうし、疲労の度が濃ければ激しい怒りを覚えていただろうし、そして現在の俺にとっては全く心に響かなかった。


「しっかし典型的なパワハラだな。お前のとこの製品買いたく無くなるわ」

「いや、それは買ってガンガン使ってくれ。そして壊して修理やクレーム以外で時間とお金を使ってくれ」

「……賞与に反映されるからな」


 苦笑する友人に俺は同じく苦笑いを返した。


「……! おいまさか、賞与に反映されないのか?」

「……ははは」

「…………まっ、そっ、そうは言っても残業代は出るんだろ?」

「ザンギョウダイ」


 焼き魚の切り身を啄ばんで俺は首を捻った。

 少なくとも基本給を下回るような、不当で法に触れそうな仕打ちはされていない。

 逆に言えば基本給におまけがついたほどしか毎月頂いていない。


「ま、まじかよ……」


 友人は顔を引き攣らせた。

 そこからの会話は全く弾まなかった。

 心なしか友人が多めに会計をして、まだ中学生でも補導はされないような、そんな早い時間に俺たちは別れた。


 遅れて惨めな思いが湧きあがってきた。

 同級生だった、対等な立場の友人に憐れまれて会計を持たれるとは……。


 久々の酒のせいか、興奮が醒めない。

 いつもより顎を上げて帰路についていると、賃貸の古いマンションのエントランスの、リサイクルショップで叩き売りされていたのであろう年季の入ったソファに、ちょこんと小学生くらいの女の子が座っていた。


 ちらりと見て、頭のよさそうな子だな、と思った。

 雰囲気がそう思わせる。

 ショートに切り揃えられた黒髪は傷んでおらず、良いシャンプーを使っているのか、指通りの良さそうな素直そうな髪がとても綺麗だった。鼻筋がシュッとしていて、少し垂れた目をしていた。

 服装は見覚えのない真っ白なワイシャツに膝上までの濃紺のパンツで、皺ひとつ寄っていない。アイロンがきれいにかけられている。


 どこの子だろう。


 そう思いながら俺は、美容室やらデリバリーやらの広告で一杯になった郵便受けを開けて、ゴミを無造作に鞄に放り込んだ。


「あの、すいません」


 話しかけられたことに最初は気付かなかった。


「……何か?」


 ゆっくりと振り返った俺の目を、()の少女が真っ直ぐに見つめていた。

 全体的に見ると童顔なのに、どこか聡明さや切れ味の良さが感じられた。

 柔和で抱擁感のある大人びた印象を与える顔立ちで、真っ赤なランドセルを背負っている──小学生なのかなと思ったが、実際にそうなのだろう──のがアンバランスだった。

 最近の子どもは成長が早いな、と素直に感心した。


「…………やっぱりそうです……」


 形の良い薄い唇から、落ち着いたソプラノボイスで呟きが零れた。


「……ずっとお探ししておりました……。ご主人様……!」


 え?


 目を見張る。凝視。

 沈黙は五秒。踵を返すのに一秒。歩き出すのにもう二秒。


「……待ってください!! ご主人様!」


 さすがにスルーするのは無理だったようだ。

 大股で立ち去る俺。後ろからパタパタと足音がする。

 俺のヨレヨレのジャケットの裾が引かれかけた。指が引っ掛かったのだろう。


「ヒッ」


 情けない悲鳴が漏れ出た。

 振り払い、全力で階段を駆け上がる。絶対にまともな相手じゃない。

 というか相手が正気であれば却ってなお怖い。傍から見ればアラサーの男性が美少女にご主人様と呼ばせている構図。俺がさながらイカレた変態に見えて、俺の社会生活も詰むじゃないか。

 久しぶりに息が切れるほど走った。

 一足跳びに三階廊下突き当りの自室に飛び込み後ろ手に扉の鍵を閉める。


 普段なら事務所でパソコンと向き合っている時間だ。

 何故か今日は追い出されたが。

 折角早く帰ることができたのに、散々だ。


 俺は真っ暗な自室の天井を仰いだ。



 あの頭のおかしな小学生は、追ってくる素振りを見せなかった。

 扉を閉めて、体重で開かないように塞いでいたが、ドアノブが回ることも扉がノックされることもなく、何なら廊下を叩く足音もしなかった。


 そうして、ひとつ安心した俺は、また普段通り、機械のように決まり切った動作でシャワーと食事をこなして、そして電池切れのように万年床に身を横たえた。

 折角早く帰ることができたのに、とそう思っていたが、早く帰ったところで何かしたいことも無かった。


 目覚めは、鳥の鳴き声が聞こえるのと同じか、それよりも少し早い時間だった。


 朝、習慣的に早く起きて、習慣的にスーツに袖を通した。

 朝食を食べなくなって久しい。

 粉を洗っていないマグカップに目分量で突っ込み、電気ケトルに水道水を入れる。そういえば、と沸騰を待つ間に脳裏をよぎるのは、電気料金と水道代を確認しなければいけない、ということだった。雑に冷蔵庫に貼られた明細を見る。適当に貼られた明細を見ていくうちに再認識する。殆ど部屋にいないのに、ここ半年、支払う額が多くなった気がする。気がするが、気にはしなかった。

 お湯が沸いた。カップに注ぐ。こうして作ったコーヒーを流し込んで、その喉元に来る熱と臓腑に浸みるカフェインで身体を覚醒させたところで、携帯電話のバイブが鳴った。メールだ。そこで携帯を点けて初めて、今日が土曜日であることに気付いた。


「今日は来なくていい」


 支社長からの端的なメッセージに、俺は思わず首を捻った。

 休日なんて概念も無くなるほど、毎日出社していたからだ。

 槍でも降るのかと思った。


 久しぶりに家にいることになる。文字通りの休日だ。休日という二文字が名ばかりではない。

 そうは言っても、だ。


「やることがない」


 呟きが散らかった部屋に響いた。

 モノは少ないはずだが、とにかくゴミや衣服や万年床のせいで雑然とした印象を受ける。


「……片づけるか」


 そう思っていたが、気付くと部屋の真ん中に座って、ぼんやりとテレビを眺めていた。

 朝日が差していたはずの窓から、夕日が差してきている。電気を煌々とつけているのにカーテンも引いていないから、きっと外から丸見えだったことだろう。だから何だ、という話ではあるが。


「……もう夕方か」


 本当に朝から何をしていたのだろう。

 目の前にデリバリーのピザの残骸。少し食べかけで、四割くらい残っていて、油が容器に浸みこみ見た目は明らかに冷めきって、食指を全くそそられない。

 こんなものを頼んだ記憶もない。 

 上はスーツを着かけたワイシャツのまま、下は寝間着のジャージのままというチグハグな格好で、一日中何をしていたのだろうか。

 長いまどろみの中にいるようだった。


 コンコン。


 不意に部屋の扉がノックされる。俺はまた意識を覚醒させ、ノロノロと立ち上がって扉を開けた。


「ご主人様」


 昨日の少女だった。

 今日もまた、ランドセルを背負っている。

 格好は昨日と同じだ。白のワイシャツに濃紺のハーフパンツ。糊が効いていて、そして帽子は被っていない。

 察するに制服なのだろう。


 最近の子どもは休みの日も制服を着て、ランドセルまで背負っているのか。


「いえ、今日は土曜授業でしたので」

「え?」


 心が読めるのか?


「いえ、呟きが口から洩れておりました」


 本当に?

 無言を意識して、ついでに表情もなるべく一定に保つ。


「本当でございます、ご主人様」


 この度は確実に黙っていた。

 やっぱり読心されているに違いない。

 俺は訝しんだ。


「……ああ、やはりご主人様はわたくしをお忘れになってしまったのですね」


 お忘れも何も、こんな少女は知らない。

 姪も甥もいない。親戚縁者とはすっかり疎遠だ。実の両親とすら、年単位で顔を合わせていない。


「……ご主人様は、それでもご主人様でございます」

「……」


 俺は黙って扉を閉めようとした。


「お待ちください」

「……は?」


 自分の目が信じられなかった。

 俺は確かに扉を閉めようと、ノブを掴んで引っ張った。

 そのはずが、扉は途中で何かに引っかかったように止まり、いくら力を込めて引いてももう反応もしなくなっていた。


「話を聴いてくださいまし」


 少女は平然としている。

 その大きな目に見つめられ、俺はたじろいだ。


「……話を」

「…………」

「ご主人様」


 小学生くらいの少女の言葉なのに、ひとつひとつがとてつもなく重たい。

 その圧力に逆らえず、俺は心の中で「もうどうとでもなれ」と思ってしまった。


「……ご主人様、よろしいでしょうか」

「……ああ」


 不承不承の頷きに、少女の顔は華やいだ。

 あまりの明るさに、眩しくて目を潰しそうになった。


「失礼いたします」


 部屋に滑るように入ってくる。

 その動きに合わせて、びくともしなかった扉がなめらかに動く。まるで扉が、少女の背中に介添えして玄関に誘導したようだった。


 超能力だ、そう思った。


「造作もないことでございます」


 三和土に散らばった靴が手で触れられることもなく揃えて並べられていく。

 そうして現れた小スペースで少女が靴を脱げば、それもまた整えられる。その間、少女は中空に浮いていた。

 失礼します、と脚を動かすこともなく浮遊して部屋に上がり込んでくる少女に、俺は自分が警察やそれに準ずる機関に検挙されないかと不安に駆られずにはいられなかった。


「ご心配には及びません」


 すっかり心が読まれるのにも慣れてしまった。

 まともに会話をしてから五分と経っていないのに、だ。或いは普段の社畜生活のせいで、理不尽な事象に対する感受性が下がっているのかもしれない。


「いえ、呟きが漏れておりますので」

「嘘を吐くな」


 クスクスと笑って言われたら誰だって嘘だと分かる。

 品のある、嫌みの無い無邪気な笑い方だったが、ただ煙に巻かれているようで気に食わなかった。


「ラウティンゾッラ」

「は?」

「ラウティンゾッラ、或いはアモニラントセ。この名前に聞き覚えございませんか」

「無い」


 即答する。

 ヨーロッパ系か? 名前だというが、全く聞き覚えが無い。そもそも外国人の知り合いは居ない。


「そうですか」


 それだけ呟いて、少女は口を噤んで目線を自分の正座して揃えられた膝頭の方にぼんやり向けた。

 何か悪いことをしているような気分になって、俺は柄にもなく台所でお湯を沸かし、インスタントコーヒーを準備し始めた。台所と居住スペースはひとつになっており、コーヒーを入れている間にも、少女がちょこんと居住まい正しく座っているのが観察できた。例えば金品を


「……ご主人様はやはりわたくしを覚えておられないご様子。ご主人様は世界の半分を統べる魔王であらせられるのに……」

「…………は?」


 コーヒーを恭しく受け取った少女は、一口マグカップに口をつけてそう言った。

 頭がおかしいのか? 俺の耳がおかしいのか? コーヒーに変なものが入っていたのか?

 俺はコーヒーを少し飲んで、その熱さを喉に感じて落ち着きを取り戻し、変な薬も入っていないことを舌で確かめた。そうして精神を整えてから、俺はまじまじと少女を見た。


「……何だって?」

「わたくしめがご主人様を見間違えようもございません。あなた様は世界の半分を治めたフレモリヤード三世その人でございます」

「いや、俺日本人なんだけど。頭がおかしいのか」

「わたくしは真剣でございます」

「なら尚更良くない。行くべきは俺みたいな独身リーマンの部屋じゃなくて、総合病院だ。親にでも付き添ってもらえ」


 窓をピッと指差す。


「本当に覚えておられないのですか?」

「ああ、知らないね」


 嘘でないことが分かったのだろう。

 少女の目から一筋の涙が零れた。

 俺はとても慌てて、その辺に転がっていたポケットティッシュを差し出した。

 差し出してから、袋とティッシュの隙間に小虫が死んでいるのを見つけた。


「……記憶がまだ戻っておられないのですね。お労しいことで──」


 アイロンが利いたハンカチを取り出し、少女は涙を拭った。慌てて損した、素直にそう思った。


「ええとね、俺はフレモなんたらなんかじゃ無いし、頭のおかしい奴に構っている暇は無いの!」


 さすがに看過できなくなって、つい大声を出した。

 久々に感情的になった。声を張り上げたのはいつ以来だろう。


 激しく息をする。

 少女は大の男の怒声に怯えたり慄いたりする様子もなく、ただ仄暗く悲しそうな瞳を俺に向けていた。


 それを見て、俺の心は言い様も無く掻き乱された。

 こいつは、この少女は──。


 刹那、甲高い音が部屋に響いた。

 一瞬、身構えたが何のことは無い、電話の音だ。俺のではない。


「……ご主人様、失礼して宜しいでしょうか」


 上目遣いに問うてくる小学生エスパー少女に、俺は追い払うようにヒラヒラ手を振った。


「……はい。……はい。……アモニラントセ、あなたも…………え? ……ええ、はい……そうですね……それでは」


 漏れ聞こえる声から察するに、どうやら電話の相手は、少女を諭しているようだった。

 少女の顔が少し苦々しく、聴きたくない言葉を聴いたような表情に変わっていった。


「……信じることができないのは無理もありません」


 突然の譲歩。

 現状の肯定は、少女にとっては不本意のものなのか、まるで言わされているかのような声色で、ようやく目の前の少女が得体の知れない化け物ではなく年相応の小学生に思えた。


 だがしかし、信じるも何も、世界を統べたことも無ければ魔王であったこともない。小さい頃──それこそ目の前の少女と同じくらいの頃──から、俺の将来の夢はサラリーマンだった。


「ですが信じていただきたいのです。理解していただきたいのです。あなた様はわたくしたちのご主人様であり、あなた様は魔王フレモリヤード三世であったと!」


 いや、知らんがな。

 多少語気を強めて、身を乗り出し顔を近付け主張されても、俺には面食らうことと否定語を繰り返す以外に出来ることすべきことが無いように思われた。


 また携帯電話の着信音がした。

 少女が画面をちらりと見て、スクっと立ち上がる。


「……本日はこれで失礼いたします」

「……ああ、帰ってくれ」


 とても気疲れした。

 げんなりとした俺を、さらにげんなりとさせる台詞が続く。


「また明日、お伺いいたします」

「……え゛っ?」

「失礼いたします」

「……あ、明日も仕事なんだけど」

「明日は日曜日ですよ?」


 靴を履いた少女は不思議そうに微笑んで、それからふと思い出したように言った。


「ああ。でも明日も本日と同じように、出社しなくて良いと言われると思います」

「え? なんで?」


 少女の背中に、俺の声は届かなかったようだ。

 幻覚であったかのようにスッと視界から消える少女。

 少女の身幅分ピッタリに開けられたドアの隙間から、爛れそうな夕日が差し込んでいた。



  果たして、少女の言ったとおりに、日曜日なのに休日出勤が無かった。

 昨日と同じように、「来なくていい」とメールが入ったのだ。


 昨日の少女は何を知っていたのか。

 少しだけ気になる。


 俺はまた、いつものようにインスタントコーヒーを用意する。カフェインを入れなければ、体力が保ちそうにない。朝は必ず。後は一日に何杯飲むだろう。生活は半分以上無意識で行われているようで、記憶に残る出来事は何もない。まるで自分の言動が誰かに操られているかのように自分のものでないようにも思われることすらある。


 見たくもないのにテレビをつける。

 特撮やアニメが放映されていて、きっと子どもがいれば一緒に見たりもするのだろう。

 そう言えば、一昨日居酒屋で飲んだ友人は何年か前に既に結婚していて、子どもがひとりいたはずだ。会話の一節が思い出される。「子どものお陰で、アニメのキャラクターの名前も覚えちまったよ」。


 散らかった部屋だ。目の前の床をゴキブリらしき虫が素早く横切っていく。

 いつ食べたのかも知れないカップ麺の容器が転がっていて、油のような何かがこびりついている。


 流石に、ゴキブリを見て穏やかでいられるほど俺の心は死んでいなかったようだ。

 不快感と煩わしさがないまぜになった俺は、ローテーブルの上に雑に放り出してあった財布を掴むと、その辺りに散らかっているスーツ以外の私服の中から適当なものを手に取って着替えると、近所の、食品以外にも色々揃ったスーパーマーケットへと足を向けた。

 丁度開店したばかりのようだった。いつ通りかかっても開店前か閉店後で、営業時間を知らなかった。

 殺虫剤と毒餌を買って釣銭とレシートを雑にポケットに仕舞いこむ。


 往復で約10分。買い物は売り場が分からず少々手間取ったが、合わせても30分もかかっていなかっただろう。


 鍵を回す。

 違和感があってガチャガチャと鍵を左右にやる。音がして、施錠される。


 行きがけに閉めなかったのか。

 自分の不用心さに苛立ちながら、改めてドアを押し開けて、俺は固まった。


 廊下の奥。開け放たれた部屋の中に、俺ではない誰かがいたからだ。


「……誰だ?」


 咄嗟に、昨日の頭のおかしい小学生が不法侵入したのかと考えたが、明らかに体格が違う。

 一回りは目の前の人物の方が大きいし、身体の感じを捉えるに相手は男性だ。

 部屋によく合う小汚い格好をしていて、服の上からでも明らかなほど痩せていた。一見して浮浪者のようだった。どことなく鼻を刺すような臭いがして、思わず顔を顰めた。


「ぅぉぉぉ!」


 言葉にならない声が発せられ、男が突進してくる。

 しゃがれた、決して大きな声では無かったが、それが却ってリアルな恐怖を感じさせた。


「ちょっ! おいっ!」


 ぶつかってきた男はやはり痩せており、ぶつかってきた衝撃はあまり無かったが、それでも日頃の運動不足と不摂生が祟ったのか、よろけてしまい壁に叩きつけられた。

 男と俺はもつれ合った。

 不運なことに、ドアは何かの拍子でか閉まっており、近所の人間に気付いてもらえない可能性が生まれていた。


「ああもうっ」


 俺は相手の男の汚らしい服を掴んで一瞬引き寄せ、そして瞬時に弾き飛ばした。

 廊下の奥、部屋の入り口付近までズザザザ…と投げ出される男。


 結構なダメージが入っただろう。

 ここで、ようやぅ俺はポケットをまさぐった。携帯電話で警察を呼ぶためだ。


 だが、ズボンの前後左右四つのポケットのどこにも携帯電話が無い。

 もみあいになった時に落としたのかと床に視線を走らせるが、そこにも無い。

 恐らくだが、部屋に置きっぱなしなのだろう。


「……ぅう。…………あ゛ぁぁ……くそぅタレ……」


 呻くような、恫喝のような声に視線をあげれば、部屋のキッチンに置きっぱなしで片づけておいた包丁を手に、刃先をこちらに向けて男が震えていた。

 暴力にこそ慣れていなさそうな動きだったが、その分、目や発せられる雰囲気が必死そのものだ。窮鼠猫を噛む、というフレーズが頭に浮かんだ。


「ちょっ、ちょっと待てよ! おっ、おっ、落ち着けって!」

「う゛ぅあ゛ぁ!」


 突進。

 身を捻って避けるので精一杯だ。

 目を離さないようにして、何とか部屋の中に戻り携帯電話を取って助けを呼ばなければ。

 そう思うのに、男はどうやら部屋に俺を入れる気は無いのか、狭い廊下の真ん中に立ち位置を固定して、確実に俺を玄関に追い詰めようとしてくる。


 一般に、日本という国は治安が良く、犯罪や厄介ごとに巻き込まれる事例は少ないのだという。ご多分に漏れず、現代日本に生きる俺も平和ボケしているということなのだろう。

 その目から、その鬼気迫った表情からは、感じたことの無い必死さを受信できる。殺意とは、殺気とは、斯くなるものを言うのか、と俺は他人事のように思った。


 どん。


 玄関のドアに背中が当たる。

 内側に引いて開けるタイプの扉なのが今は恨めしい。

 

「ぅ……うわ゛ぁぁぁ!!!」


 悲鳴と共に突き出された右手。その手の先の、包丁の刃先を避けるようにして、俺は男から視線を離さないまま、両手で自分の身体ごと男の手首を抱え込むようにして、思い切り後方に引っ張った。同時に突き出された右足を蹴って薙ぎ払う。

 男の身体が左側の壁に叩きつけられた。


「あたたっ!」


 男の顔が苦痛に歪む。しかし、包丁は離さないままだ。

 必死にふりほどこうとして腕を揺すられる。男が頭を振り上げた。犬歯がちらりと光る。俺の細腕に向かって噛みつこうとしているのか。体勢的に苦しくて、俺は自分の額に脂汗を浮かべているのが分かった。背中もまた、嫌な感じに服を吸着させている。


「ご主人様っ!」


 扉が開くのと、男の身体が不自然に硬直するのが同時に起こった。

 自由に動けた俺は、開いた扉に押し出され、うつぶせに倒れそうになりながらも、なんとかバランスを取って体勢を戻した。


「昨日の!」

「ご主人様! ご無事ですか!?」


 俺をご主人様だとかフ……なんたらと呼ぶ、頭のおかしい小学生っぽい少女。

 もう金輪際、絶対に関わりたくないと思っていたが、いまこの瞬間だけはありがたかった。











「…………ご主人様が平日も休日も出かけているのをいいことに、部屋の鍵を盗んで日中忍び込んで食料や金品を漁り、あまつさえこの部屋を自宅のように扱っていた、と」


 口にガムテープを貼られ、ロープで全身をぐるぐる巻きにされた浮浪者の男は、少女の剣幕に圧され、ガクガクと震えながら頷いた。全部少女の仕業だった。何なら男を拘束したのも、念力的な何からしい。怖さを通り越して、もう何とでもなれ、とも思ってしまう。

 ワナワナと震え、フーフーと威嚇する獣のように唸る少女の激怒に、俺は却って冷静さを取り戻していた。そう言えば入居時余分に部屋の鍵を貰っていたな、とか、そっかー、電気代と水道代がやけに嵩んでいる気がしたのは、こいつのせいだったのか、とか。


「…………ご主人様のものに手を出すだけでも万死に値するというのに、危害まで加えようとしただなんて……っ!」

「……あのさ、取り敢えず警察呼ばね?」

「ご主人様っ!」


 凄まじい勢いと形相で睨め上げられて、俺は怯んだ。なるほど、子どもであっても、美人は怒ると怖い。


「ご主人様はお優しゅうございますね。警察などで済ませばよいと、本気でそうお思いのようで……」

「いや、だってここ日本だし……」


 私刑はダメだろう。何があっても。

 今日日、たまにSNSで炎上したり、悪事が判明した人間のプライバシーを晒す私刑が横行しているというが、もってのほかだ。まして、直接的な暴力に訴えるのは、やる気も無いし、率直に言って、かなり怖い。


「……ていうか、気付かなかったな」


 一応、月の三分の二は部屋に帰っていたのだが。


「……痕跡を残さないように注意はしていた? 盗人猛々しいとはこのことです! 小癪なっっっ……」

「……なあ、あんた小学生なんだよな? 一体、何歳?」


 あまりにも小学生らしくない言葉遣いと剣幕に、ふと口を挟んでしまう。


「この身体では、12歳です。小学六年生です」

「名前は?」

「ラウティ……」

「いや、日本人としての」


 もうこの際、魔王がどうのと言った与太話の設定を前提としてやろうと、俺は一種の諦めの下に質問を発した。


逆井(さかさい)紗希(さき)と申します」

「あ、どうも。戸塚です」


 名前がようやく分かった。

 鮮烈な印象ばかりが先行していて、名前のひとつも知らなかったのだ。


「で、逆井さん」

「……はい」


 エスパーではない俺でも分かる、「そう呼ばれるのは不本意です」とでも言いたげな表情で、逆井紗希は俺の方を振り向いた。

 それは無視する。


「俺は、あんたの主人だと?」

「はい!」


 食い気味な返事。

 俺は引いていたが。


「じゃあ、命令は絶対?」

「……はい!」

「なら、ふたつ命令がある」

「何なりとお申し付けください!」


 命令は絶対、と訊いた時の微妙な間からして、何が何でも絶対というのではないのだろう。

 だが俺は、俺自身の安寧のため、厳にして言い含めなければならなかった。


「ひとつ。この侵入者を警察に突き出す。ちゃんと日本の法律で裁いてもらうんだ。邪魔をするな」

「……かしこまりました」


 不満の色が隠しきれていない。

 抵抗されるかもな、と思いながら俺は祈るような気分でもうひとつの命令を口にする。

 

「ふたつ。もう金輪際俺に関わるな」

「…………ご主人様?」

「もう一度言う。もう金輪際俺に関わるな。……復唱!」

「……もう金輪際、ご主人様に、関わらない…………」

「いいな。命令だ」


 思い返すと、少し調子に乗っていた気がする。

 紗希の目を一筋の涙が伝った。随分と涙もろい子だ。見た目相応に子どもらしく思える。

 だがしかし、だ。泣いてもらうと困る。どんな変人であれ、見た目美少女で小学生もある子を泣かせるのは決まりが悪いだろう。


「出ていってくれ。俺は警察に電話する」

「……ご主人様」


 紗希に背を向けて、俺は携帯を手に取る。


 警察は110だったっけか、と不安になりながら俺は呼び出し音を聞いていた。













 残念ながら、三連休とはいかなかった。


 月曜日なので、いつも通り朝早く起きて、身支度もそこそこに部屋を出る。


 まだ朝早い通勤電車で、人の座る余裕もある。

 横に伸びた席のひとつに腰を下ろし、何をするでもなくぼんやりと車窓を眺めていた。

 通り過ぎていくビル。住宅街の色とりどりにアースカラーの屋根。朝からけばけばしいラブホテルの電飾。


 最寄り駅について、支社までの、アップダウンのある道を歩いていく。

 支社の目の前のファストフード店から、ほんのりと油の香ばしい香りが漂ってきて、それだけで胃もたれしそうになる。


「……おはようございます」


 輪郭も朧な挨拶もそこそこに、自分の席に座る。今日は一番乗りでは無かった。同僚は一瞬顔を上げて、また視線を目の前の古いパソコンに落とした。

 支社長が来る前に、今日の営業計画をまとめて報告をしなければいけない。

 どうせ重箱の隅をつつかれるようになっている茶番劇と、支社長より遅く出社すると大層機嫌を損ねるという事情のためにこんなに早くから会社にいるとは、と自嘲したくなる。

 休みが二日もあったせいで、頭が普段より回ってしまっていて、余計なことに思考のリソースを割いてしまっている。


「……っす」

「……ちわっ」


 三々五々、同僚たちも出社してくる。

 一様に、皆、陸に打ち上げられた魚のような虚ろな目をしている。


「……遅いな」


 ちらりと時計を見る。

 朝7時45分。いつもなら支社長が俺たちひとりひとりの人格や営業成績やありとあらゆる要素をあげつらって報告或いは指導という名のパワハラを、ここにいる全員の前で行っているところだ。

 そう言えば、と唐突に思い出した。

 支社長はおよそ10年前、不倫が原因で離婚しているらしい。俺が配属される前のことだ。パワハラじみた言動が急増したのもその頃からだという。


「みなさん、おはようございます」


 聞き覚えの無い、そしてこの支社にはそぐわない明るくはきはきとした模範的な挨拶に、俺たちは皆、のそりと首や身体を回した。

 高そうなパンツスーツに身を包んだ、俺より数歳ほど若そうな女性が立っていた。派手ではないが少し茶色がかった髪は短いが、ウェーブがかっていて量が多いので、少し長く見える。目鼻立ちは整っていて、可愛いというかは美人という方が適切に思えた。化粧も派手ではなく顔立ちに自然に馴染むよう誂えられている。どこかで見たことがあるような顔だ。

 その後ろには支社長が立っていた。塩をかけた青菜のように、どことなく生気がない。


「本社管理部監査室の弓削(ゆげ)です。こちらの支社の監査に参りました。後ほど、支社長を含め、みなさんにお話を伺いたいと思います。よろしいですね?」


 まだ若いのに、おそらくここにいる中で最も若いのに、有無を言わせない迫力があった。流石は本社勤めだと思った。出世ルートに乗っている。さぞかし有能なのだろう。


「それでは……まだ就業時間ではありませんが、宜しいですか? 牧村(まきむら)支社長?」

「……はい」


 支社長の顔は明らかに強張っていた。普段の虚勢のようでもあった元気も全く無かった。


「後ほどもう一名来ますので、皆様からはその後、お話を伺えればと思います」


 弓削は見渡し、柔らかく微笑んだ。

 俺はそれを、何の感情も無く見ていた。


 およそ一時間後に、壮年の男性が支社の扉を開いた。

 たまたま応じた俺に、男性は監査室の東川(ひがしかわ)だと名乗った。

 

 まだ支社長と弓削は応接室で面談を行っていた。

 それを伝えると、東川は一瞬だけ困ったように眉を寄せた。


 俺がそれに気付いたことに、東川は気付いたようで、弁解するように笑った。非の打ち所の無い、歳相応に朗らかで嫌味の無い微笑だった。


「いやぁ、弓削くんは元々優秀で仕事熱心なんだけれど、今回は初めてメインでやる大仕事だからか、普段より一段とやる気になっていてね。今日も朝の六時くらいからここに居たってね」

「へえ」


 朝の六時と言えば、俺はまだ通勤電車の中だった。


「君にも後で話を聞くからね。ええと……」

「営業部の戸塚です」

「あ、そうそう戸塚くんだ。よろしくね」


 そう言って東川は応接室に入っていった。

 牧村支社長、お久しぶりです、と言った和やかな挨拶が漏れ聞こえる。


 やあやって、応接室から出てきた支社長の顔は、生気がないと一言で片づけるにはかわいそうなくらい蒼白な顔をしていた。同じ「せいきがない」でも、これでは「生気」ではなく「精気」の方だ。活力云々というより、もはや生きる希望を失ってしまった廃人のようにも思える。

 昨日のことを思い出す。

 警察を呼び、被害届やら聴取やらで一日潰れてしまった昨日のことだ。

 あの時の侵入者も、こんな絶望は今目の前に! と言いたげな顔をしていた気がする。


「次、お願いします」


 支社長の後は、また別の社員に話を聞くらしい。

 そうやら年功序列で呼ばれているようで、俺はざっと自分の番を計算した。


「あの、すいません」


 応接室に戻る弓削に声をかけたのは、まだ今年二年目の香坂だ。

 よく支社長に怒鳴られている。支社では最も若く、まだ若さゆえのバイタリティが残っている人材だった。邪険にはしていないはずだ。

 

「お、俺っ。今日、お客様とのお約束があって……。10時に……」

「分かりました。帰社は何時頃を予定されていますか?」

「え?」


 面食らう香坂。

 目標を売り切るまで支社に帰って来るな、が方針だったから、取り敢えず予定が消化出来たら一旦帰ってくる、という発想が無かったのだろう。


「えっと……11時半で……」

「分かりました。それでは13時から香坂さんの面談と致しましょう。それで大丈夫そうですか?」

「えっ、あっ、はい」


 香坂は頭を下げつつ、自分のカバンを持って支社を出ていった。


「皆さんも」


 弓削は俺たちを見回す。


「何か予定がありましたらそちらに行っていただいて構いません」

「あの、新規開拓は……?」

「構いませんが、無理をなさらず。帰社時間をお伝えしていただければそれで大丈夫です」

「分かりました」


 今の支社長は、機嫌が良いとか悪いとかではなく、完全に非人間的で、居心地が悪すぎる。

 出来ることならとっとと出ていきたかった。

 皆も同じ思いだったのだろう。

 ホワイトボードのそれぞれの名前の横に、適当な用事と帰社予定時間を書いて外出していく。


「でも俺は……」


 多分すぐに順番が来てしまう。

 もの凄く居心地が悪いが、諦めて書類仕事を行おう。



「戸塚さん」


 呼ばれたのは一時間ほど後だった。


「失礼します」


 応接室には、既に東川が着席していた。

 弓削に促されるままに席に座る。彼女の首に掛かっていた社員証が揺れた。弓削朋美、という名らしい。


「あの……今日はいったい?」

「この様子では、どうやら皆さん聞いていなかったようですね」


 弓削は大ぶりの手帳を開いた。


「先週の金曜日から、この支社が不正を行っていないか、監査を行っているのですよ」

「監査」


 鸚鵡返しに呟く。


「金曜日は午後からですね。残業の数字が誤魔化されていないか、業務量は適切か、半ば抜き打ちで監査に訪れたのです。金曜日は皆様定時に帰っておられましたね」


 そうか、それで金曜日は定時で帰らされたのか。

 俺は納得した。


「休日出勤も無かったようですし」

「調べたんですか」

「ええ」


 当然のことだ、とでも言うように弓削は表情や声色を変えない。クールな人なのかな、と呑気な感想を抱いた。


「他の支社では、月に一度程度ですが休日出勤もあるようなのに、この支社では全くそれが無いですね。素晴らしいことです」

「えっ?」

「どうかしましたか」

「いえ、何も……」


 つい言い淀んでしまう。

 休日なんて概念も無いほど、休日出勤していたこと。俺は何となく、隠さなければいけないような気になっていた。


「……では、いくつか質問を……」






 長かった。


 監査もそうだが、今日一日が長かったのだ。

 定時で帰ったはずだが、「業務規定時間より明らかに早い時間から仕事を行っていましたね。残業の対象です。記録してください」と言って残業が付いたのだ。

 香坂など、「どうやって申請すればいいんですか?」などと言って東川に教わっていた。


 支社長のトボトボした背中が目に焼き付いている。支社長は午後半休を取ったらしく、早退していった。大きな体格なのに、やけに小さく見えた。

 あの様子では、もう直に支社長の椅子を下ろされるだろう。

 残業未取得や休日出勤、パワハラも含め全て詳らかになったようだ。

 帰り際、香坂がそう言っていた。

 香坂は、トイレで東川にこっそり聞いたらしい。


「セクハラもあって、それで辞めた女性社員もいたそうじゃないですか」

「へえ?」

「支社長が離婚した原因だそうですよ。元々DV気質だった上に不倫していて、更に三人目を作ろうとしてちょっかいを出していたとかで」

「ええ……」


 俺が入社するほんの少し前のことだ。

 どうやら、かつてそれを黙認していた、俺より上の世代は譴責を食らったらしい。


「結局、親権も無くなって元妻と娘には接近禁止。なんでこれで大事になっていないんでしょうね?」


 さあね、と俺が起伏の乏しい反応をしたからか、香坂は「気にならないんですか?」と目を丸くして俺の顔を覗き込んだ。

 何か言いたそうにしている。


「理由、知っているのか?」


 促せば、香坂は声を潜めて、しかし待ってましたと言わんばかりの勢いで話し始めた。


「実はですね、支社長のお父様が結構な株主なんですよ」

「へぇ」

「それでそれで、実のお祖母(ばあ)さんが創業者の一族の出らしくてですね。現会長とは姉弟のように育ってきたとか」

「なるほどねぇ」


 いまの時代も、意外とそういった前時代的にも思えるしがらみが残っているということなのだろう。


「『牧村も、昔は優秀で、まあ多少厳しいところもあったけど、いい人だったのにねぇ』って東川さんが」

「へえー」

「正式に内示が出るのは少し先のことになるけれど、地方の窓際への異動はほとんど決まりだって話です」

「そうなのか」


 それは良かった、のか。


 実感はないし、善悪の判断も遅れるほどこの生活で心身が衰弱していたが、とにかく早朝出社、長期残業や休日出勤とはおさらばできそうだった。


「成績的にも年次的にも、戸塚さんが次の支社長では?」

「いやそれは無いだろう」


 無役職者が何足も飛び越えることなど殆ど不可能だし、そういった特例人事は軋轢を生んでしまう。


「僕は推したんですよ? 東川さんと弓削さんに。『成績トップの戸塚さんが支社長でいいじゃないですか』って」

「やけに俺に好意的だな。それで?」

「東川さんはニコニコ笑って『それも一考だねぇ』って」

「おいおい……」

「でも弓削さんは『もし仮に支社長が変わる場合には、別の支社からの異動となるでしょう』って」

「まあ、支社長が交代するのは決まりじゃ無いからな」


 俺は、本心とは真逆の台詞を吐いた。

 案の定、香坂は柔らかに噛み付いてきた。


「いや、それは決まりでしょう。今日の話は全部弓削さんがまとめて、本社に持って帰るそうです。そのデータがもっと上に渡れば、もう言い逃れは不可能ですからね」

「聴取だけでも何とかなるんじゃ?」

「いやいや、客観的なデータが無いなら、何とでも言えますからね。『データさえなければ、まあ厳重注意くらいで穏便に済ませることもやぶさかではないのにね』って」

「東川さんが?」

「東川さんが」


 正直、やけに支社長の肩を持つなと思った。

 元部下とかだろうか。年齢的には同じくらいだと思うので、同期で、昔世話になったとかだろうか。或いはコネを恐れているのか。


 慣れない時間に帰路に就く。

 まだ日が沈み切っていない。

 アスファルトが明るく、塀の上を野良猫が駆けていく。


 マンションのロビーには、また少女──逆井紗希が俺を待っていた。


「お帰りなさいませ、ご主人様」

 
















「良いことがあったご様子でございますね」

「ん。ああ」


 生返事を返して、俺は逆井紗希に向き直った。


「で、なんでお前は当たり前のようにここに居るんだ?」


 部屋の中に当たり前のように入ってきている。


「命令、したよな? もう金輪際俺に近付くな、と」

「承服しかねる命令もございます」


 表情だけは一丁前に真剣に、紗希は嘯いた。


「全ての命令に承服してはいけないと、わたくしは学びました」

「……あっ、そう」


 ジャマだ。

 居なくなってほしい。


 思考が読めるなら、俺がどう思っているかくらいすぐ分かるだろうに。


「わたくしも、ただここに居るだけでは邪魔者でございます」

「そうなんだよ」


 ついでに、俺の社会生命を終わらせる可能性のある危険因子でもある。


「ですので、わたくしはご主人様のお役に立ってみせます」

「は?」


 刹那、部屋にかかる重力が増した気がした。正確には、何か超自然的な力が働き始めたようだった。

 紗希の例の超能力なのだろう。

 散らかっていた万年床の布団やカップ麺その他のゴミが一斉に中空に浮かび上がり、そこいらを目まぐるしく飛び回り始めた。ファンタジック整理整頓だ。同時並行でパタパタと仕分けられていく。


「ちょっと待って」


 俺は待ったをかけた。


「なんでしょう?」


 どこに転がっていたのか、自治体指定のゴミ袋が数枚俺の目線の高さほどに浮かんでおり、目につくゴミが分別されて収められていく。

 作業が一時中断され、膨れたゴミ袋とゴミたちが部屋の中を浮遊しているのがなんともシュールだ。


「何をしている?」

「掃除です」


 唖然とする俺に、紗希は言い難いことを指摘するような感じで遠慮がちに言った。


「ご主人様、定期的に侵入者がいてもお気付きにならないなんて、あまりにも……防犯意識が低すぎます」

「すいません」


 咄嗟に謝罪が口を突いて出た。


「いえ、わたくしは理解しております。あまりの激務に、生活に気を払う余裕がなかったのでしょう。それゆえに散らかったこの部屋ではより気付きにくい──ですから、まずは部屋を整頓し、今後同じような事例があってもすぐに違和感を覚えることができるように、そう致しましょう。宜しいですね?」

「あ、ハイ。オネガイシマス」


 抵抗し難い雰囲気を感じたし、抵抗する理由も無かった。

 むしろ、こんな見た目幼い少女に三十路男の汚部屋を綺麗に直してもらっているという事実が、中々心にくるものがあった。


「な、なんか手伝おうか……?」

「いえ、お手を煩わせるわけには……」

「そうは言うけど、申し訳ないし……」

「本当にご主人様はお優しい方ですね……。……では、ゴミ袋を指定の集積場まで運んでいただけますか?」

「分かった」


 ゴミ出しをして戻ると、紗希が部屋の真ん中で儀式的な煙を焚いているところだった。


「ご主人様! 外へ!」


 慌てた様子の紗希に連れられて、俺は共用部の廊下に逃げた。

 

「な、なにがあったんだ!? あの煙はっ!?」

「ご安心ください。ただの燻煙式殺虫剤(バ○サン)でございます」


 俺は脱力した。

 てっきり超能力的な関連の何かだと早とちりしたからだ。


「しばらくここでお待ちくださいませ」

「あー、いや。コンビニでも行ってくる」

「かしこまりました」


 三つ指をつかんばかりの丁寧な送り出しを受けて、俺はコンビニに向かった。

 夜風が心地良い。


 まだ真夜中という時間帯でもないのだが、街灯の無い細い道が多くてどことなく暗い。

 大回りして車のライトや信号機のある道経由で向かった方が良かったかもしれない。


 一か所だけ不自然に明るいコンビニを見ると、改めてそれを感じる。

 自分用にコーヒーと、紗希にも何か買っていこう。少し高いアイスクリーム辺りで手を打ってもらうか。


 そう思ってアイスクリームのコーナーに向かうと、そこには意外な先客がいた。


「あっ。戸塚さん、こんばんは」

「弓削さん」


 朝会ったままの格好の弓削が、アイスクリームを買い物かごに入れていた。


「近くにお住まいなんですか?」

「ええ」

「そうなんですか」


 会話はそれだけだった。


「……では、また」


 会釈して、弓削はレジに進んだ。


「……どれにするか」


 アイスクリームなど、ここ数年食べてこなかった。

 種類が思っていたよりも多くて少し悩んでしまう。

 こんなことなら、女性である弓削に尋ねればよかった、そう思った。

 そして、今朝弓削に感じた既視感の正体に思い至る。支社長の机の上の少女──恐らくは支社長の娘──に似ているのだ。


 もしかして血縁者なのか? それとも娘なのか?

 実娘だとしたら、それに不正を暴かれ立場を追われるというのは、支社長の傲慢な性格から考えると耐え難い屈辱だろう。


 そんなことを考えながらアイスクリームを適当にカゴに放り込む。

 会計を終え、また暗い裏道の方へ足を向けた。


 コンビニの窓ガラスに、照明に釣られたのか大きめの蛾が張り付いているのを横目に進み、裏通りの細い道を縫っていく。

 アイスが溶けてはいけないからと、自然に早足になった。靴の先を見るように俯いてスタスタ歩く。


 少し行ったところで、俺は女性の「キャア!」という悲鳴を聞いた。

 目線をあげる。ほんの目の前にその現場はあった。


「……弓削さん! と、支社長!?」


 右側の壁を背に弓削が、左側、路地の入口を背に牧村支社長が対峙している。

 支社長の手にはナイフのようなものが握られていて、夜闇の中で鈍く怪しく光っていた。


「お前のせいだ……お前のせいで俺は……!」

「支社長……」


 目がイッている。

 何がそこまでさせるのか。やはり実娘に似ているからか。それとも単純に、降格、異動、パワハラやセクハラや各種不正の判明……それらが筆舌に尽くせないほど嫌だったのか。しかしそれで……それで暴力に訴えるのか。


 敵意を一身に受け、弓削はひどく怯えているように見えた。

 その割に俺の姿が目に入った瞬間に彼女は大きく目を見開いて叫んだ。


「逃げて!!!」


 俺に促す割に、自分の足は竦んでいるのか、座り込んでしまう勢いだ。

 頭の中で、冷静な俺が「逃げるんだ」「逃げて警察を呼べ」と諭している。

 それなのに俺は、俺の身体は自然にコンビニのビニール袋を手放し、前方に踏み切っていた。


「支社長!」


 俺は支社長に向かってタックルを試みた。

 確かに不意を突いたはずなのに、ガタイの良い支社長の身体は少しよろけた程度で、逆に俺を突き飛ばしてくる。


「痛っ!」


 背中を壁に打ち付けられてしまう。

 鈍痛に目がチカチカする。頭も打っているのだろう。

 昨日の浮浪者とは全く違う。


「こいつさえ……こいつさえいなければ……」

「支社長! やめてください!」


 ナイフを振り回す支社長。

 目が血走っている。聞く耳も持っていない。俺を認識しているかすら疑わしい。

 説得は不可能そうだった。


「支社長!」


 肩に向かって振り下ろされるナイフ。


 なんとか見切って、その右腕を掴んだ。

 関節を意識して手首を握り込み、強く捻る。


 ドンッ!


「ガハッ!」


 ガラ空きの左手で腹を強く殴られた。

 酸っぱいものが込み上げてくる。思わず手を離し、尻餅をつく。


「邪魔を……するなァァァ!!!」


 支社長は頭を左右に振って弓削を探し目を向けた。


「ええっ……早くっ……!」


 と小さく会話をしているような声が聞こえた。

 ちゃんと助けを呼べているらしい。


「あの女っ!」


 支社長は腰だめにナイフを構えた。

 俺の方などもう一切見ていない。なんとか視線を動かすと、その射線上には座り込む弓削がいた。


「危ないっ!」


 そう思った。


 身体の節々が痛い。

 それは無理やり立ち上がったせいかも知れない。

 力を振り絞って、這うように走って支社長と弓削の間に割って入ったからかも知れない。


 ドスッ。

 

 頭の中の俺が「あ、刺さった」と間抜けな声を漏らした。

 注射器の針のような冷たいものが刺さっている。

 痛みよりも、熱さを感じた。


 刺されるとはこんな感じなのか。

 自分の身体から血が抜けていくのが分かる。噴き出すというよりは溢れ出すような感覚。目の前が霞む。ぼやけて、真っ白になる。痛い。怖い。痛い。ふらふらと、身体を真っ直ぐに保つことができない。


 以前にもこんなことがあった気がする。


 背中に体温を感じる。弓削だ。彼女を庇ったのだから真後ろに居て当然だ。

「戸塚さんっ!」と涙声の弓削の柔らかさがそこにあった。

 弓削の無事な声を聴いて判断するに、恐らくナイフは貫通して弓削を刺していない。


 遠のく意識の中で、それが分かって安心して力が抜けて、だからこそかもしれないが、そして俺は崩れ落ちた。




 

 
















 悪い夢を見ていました。


「ラウティンゾッラ! アモニラントセ! お前たちだけでも逃げよっ!!!」


 ご主人様がわたくしたちを庇うように正面にお立ちになります。

 既に城内には火の手が上がっており、使用人も半数は城から離脱してしまっておりました。

 我が身可愛さ、ご主人様の命令……。理由は各々で違いました。残った者も、それぞれの想いを持って、ご主人様と最後を共にしようとした者たちばかりでした。


「奴らの勢いは止まらないだろう……」


 絶望的な状況にあって、ご主人様はなお冷静さを失っておられないようでした。


「吾輩の首だけでこの戦いが終わるのならばそれが最善であった……」

「ご主人様!?」

「……交渉は決裂した。我らを皆殺しにする、それだけの力が奴らには備わっておる……吾等の取れる選択肢はもはやこれしかない……」


 ご主人様は玉座の間の更に奥の、使用人の間にも殆ど知られていなかった秘密の間にわたくしたちを招き入れられました。見慣れない魔法陣がご主人様と同じ紫色に光っておりました。


「これは……? この術式は即死魔法……そして……? 見たことの無い複雑な術式……」

「この先は、異世界へと通じている」


 異世界、という言葉にわたくしたちは騒めきました。


「お前たちも気付いているのだろう? 奴らは異形を嫌い、徹底的に排除する、そんな生き物だ。吾等とは異なる習性……。そんな中で吾等の逃げおおせる場所は存在するのか? 吾等は生き抜くことができるのか……? 吾輩は、否と考えた。そこで、手段として選んだのがこれ──転生だ」


 ご主人様は苦悶の表情を浮かべておりました。

 言いたいことが察せられたのでしょう。普段は能天気なアモニラントセが深刻な面持ちで生唾を飲み込む音が聞こえました。


「……皆には、一度死んでもらう」


 どよめきが起こるのは必然でした。色めき立つ使用人たち。予測していたわたくしたちでさえ、心中穏やかでないものがありました。

 ご主人様は、何よりも命を大切になさるお方です。どんな状況でも、どんなに戦況が苦しくとも、どんなにわたくしたちが志願しようとも、決して死を前提とした行動を許諾なさいませんでした。どれほど風紀を乱そうとも、どれほど罪深いものであろうとも、命を奪う処刑だけは許されない、そんなお優しい──優しいというだけでは表せないほどの人格者であったからです。


「そして異世界に魂のみ転送し、そこで新たな生を歩んでもらう。運が良ければ、再び巡り合うこともあろう。……吾輩は魔王としての責任がある。ここで奴らを食い止める。ここでお別れだ」

「……そんなっ」

「あんまりですっ」

「異世界に行けるなんて保証はないじゃないですか!」

「もし行けるんだとしても、死にたくないっ! 分からないことが多すぎる!」


 皆の懸念はもっともでした。

 ご主人様は、そんな皆の声に、黙して、沈痛な面持ちで受けとめられることでお応えになりました。


「……ついていけない」


 誰かが吐き捨てるように呟き背を向けたのが分かりました。一人、また一人。連鎖的に、ポツポツと部屋を後にしていきます。

 ご主人様は引き留めになられません。


 わたくしは知っておりました。この決断をするにあたって、ご主人様がどれほど煩悶なさったのかを。一体どこでどの選択を誤ったのか、どうしてこの状況に陥ったのかとずっと後悔しておられたことを。


「……どうなさるのですか?」


 心を読むことはできましたが、それでも敢えて声に出して、わたくしはアモニラントセに質問しました。


「そりゃまあ、ご主人様に従うしかないでしょ」


 それが、遊びのような感覚で他人の脳に命令を書き込み、時にはご主人様の命令にも背くこともあったアモニラントセの意思かと、そう思いました。


「…………」

「何? 意外? こう見えてもご主人のことは結構信じちゃってるからね~、ボク」

「……そうですか」

「訊くまでもなさそうだけど、まあお義理で質問しとこっか。ラウティンゾッラはどうすんの?」

「わたくしは……」


 アモニラントセの想定に反して、わたくしはご主人様の命に従い、魔法陣を使って異世界に転生するかを決めあぐねておりました。


「意外だね。どうして?」

「……ご主人様を、死なせたくありません。……ご主人様には、生きていてほしいのです」

「それはみんな同じだよ」


 言い聞かせるようでもあり、斬り捨てるようでもありました。


「心が読めるキミが、それに気付いていないはずがない──そう思っていたんだけどな」

「……………………」

「今まさに、魔法陣に飛び込んでいった彼──彼だって魔王様を大切に思っている。だからこそ、魔王様の想いを無碍には出来ない。その意思に応えるんだ。応えたいんだ。……ここに残らなかった皆もそうだ。それぞれに譲れないところや大切なところがあった。だからそれぞれの選択をした。だけど誰一人、魔王様を見限った者はいなかった……そうだろう?」

「……………………」


 わたくしは、何も言えませんでした。


 とうとうわたくしとアモニラントセの二人だけになりました。

 ご主人様がわたしたちを振り返って一瞬、困ったような顔を浮かべます。とても愛おしいその表情は、しかしあまりに場違いでした。


 ドンッ、と鈍い音が城を揺らしました。


 わたくしたち三人は玉座の間に戻ります。

 魔王を倒す──そう大言壮語を吐いた連中が、わたくしたちのご主人様を見据え、各々の剣や杖の切っ先を向けていました。


 ご主人様は問答無用で、即死呪文をはじめとする、ご主人様が咄嗟に放つことのできるありったけの魔力をぶつけられました。

 土煙。瓦礫が飛び散る中で、わたくしもアモニラントセにも、そして何よりご主人様が一番分かっておられました。無駄だと。この度の討伐者は、全くわたくしたちなど足元にも及ばない強さであると。


「まずは後ろの女どもからだ」


 平坦な声と共に、青白い、熱とも電撃ともつかぬ閃光が飛んできました。よく見ると、閃光は剣の形を模しておりました。

 わたくしとアモニラントセに向かって真っ直ぐ貫かれたその光の射線上に、ご主人様が飛び込みます。


「ラウティンゾッラ! アモニラントセ! お前たちだけでも逃げよっ!!!」


 ご主人様の声は、明らかに振り絞られたものでした。

 肉の焦げる臭いを感じました。


「行くよっ!」


 突っ立ったままのわたくしの手を、アモニラントセが引っ張ります。

 非力な細腕のどこにそんな力が残っていたのでしょう。


「早くっ!」


 わたくしはアモニラントセに連れられて魔法陣の部屋に戻り、魔法陣に乗って起動を掛けました。一見して魔法陣はもう限界を迎えていました。

 

「ラストワン状態だ……魔力の暴走……これは保たない……くそっ」


 アモニラントセの呟きが遠く聞こえました。

 

 わたくしは走馬灯を見た気がしました。


 スラムに捨てられていたわたくしに「一緒に来ないか」と手を伸べてくれたこと。

 理屈屋で感情を露わにしないようしていること。意外とだらしないこと。底抜けに優しいこと。時々困った顔をしていること。どうしようもなく愛おしく大切であること……。


 玉座の間の厚い壁を吹き飛ばして、もはや瀕死のご主人様が起動中の魔法陣に飛び入ったのを走馬灯の最後に見て、わたくしの、ラウティンゾッラとしての意識は途絶えました。


 それからずっと、長い悪夢を見ているようでした。























 目を覚ました時、そこは病院のベッドだった。

 見舞い品の花が枕元に活けられていて、芳香を漂わせていた。


「ご主人様っ!」


 逆井紗希が俺のブランケットに顔を埋めて泣きじゃくっていた。

 泣き腫らした目。白磁の肌が涙と鼻水とでぐちゃぐちゃだ。


「ご主人様っ! ご主人様っ!」

「……うるっさいなぁ」


 思わず笑ってしまうほどの慌てぶりだ。

 というかこいつ本当に小学生なんだろうか、学校に行っているのか、という疑問が浮かんでしまう。


「そんなことどうでもいいじゃないですか!! 自分のご心配をなさってくださいよ!!」


 怒髪天を衝く、という慣用句の通りに髪を逆立てて怒りを露にする紗希に、俺はなんだか申し訳なさとむず痒さを覚えた。

 誤魔化すように笑って、強く鈍い痛みに顔を顰める。


 そういえば、脇腹を刺されていた。腹筋を動かしたら、そりゃあ痛い訳だ。


「絶対安静、だそうです」


 迫力ある表情で告げる紗希の後ろに東川が立っていた。

 無言で、こちらを眺めている。


「東川さん?」

「……この度は、牧村がとんだことを……」


 その一言で思い出した。


「そうだ。支社長は?」

「ご安心を。法に則った手続きの最中です。今頃は牢屋の中でしょう」


 紗希が憎悪に満ちた目を明後日の方向に向けたのを捉えて、俺は戦慄した。

 この間の浮浪者の例から考えても、まず間違いなく何かしたに違いなかった。


「いえ、残念ながら何も。止められましたので」

「止められた……? そうだ、弓削さんは? 弓削さんは無事なのか?」

「ええ。全くの無傷です」


 紗希の表情はいつしか、何とも言えない複雑なものに変わっていた。


(じき)に来るでしょう。先ほどは、香坂さんという方もお見えになっていましたね」

「そうか……」


 よく見ると花以外にも、果物の籠やら何やらが部屋を飾っていて、結構な数の人間がお見舞いに訪れてくれていたことが見て取れた。

 何気なく、手元にあったリモコンを掴んでスイッチを押す。夕方のニュースが始まるところだった。日付を確認するに、どうやら刺されてから三日経っているようだった。


「意外と重傷だったんだな」


 どうにも実感が伴わない。


「ええ。ご主人様に何かあったらと思うと……もうっ……」


 紗希は言葉を詰まらせている。

 目覚めてからずっと、涙声だ。よほど心配をかけたらしい。


「助かってよかった」


 小さく呟いて視線を落とした。

 病人用の浴衣のような薄緑の服が、不健康に痩せた俺の身体をくるんでいた。


 その時、遠くからパンプスがリノリウムの床を叩く足音がして、病室の引き戸が開かれた。


「起きて、る……!?」


 ガラガラ、と音を立てて入室してきたのは弓削だった。駆けて来たのか、少し息が上がっていて、スーツも皺が寄っている。

 そして、見る見るうちにその目に涙が溜まっていくのが分かった。


 入れ違いのように東川が病室から出ていく。

 すれ違ったとき、弓削の唇が素早く動き、そして東川が一瞬動きを止めた気がした。


「ああ。弓削さん……あなたにケガが無くて……本当に良かった……」

「そんなこと……。ボ、ボクのことなんかより、ご自分の心配をなさってください!」


 紗希と同じようなことを言われる。こちらも大した剣幕だ。

 逆井紗希と弓削朋美は同時に、顔を見なくても泣いていると分かる震えた声で言った。


「「ご無事で何よりでした……ご主人様」」





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