ヒスイ
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瑪瑙は後ろに続くリュウガメ車へ顔を向けた。
キャビンの後部から外を見ているため、幌にさえぎられた視界は狭く、周囲の様子がよく分からない。
「敵襲」の声が上がったのは最後尾のリュウガメ車からだった。
交易路の道幅自体は狭くないが、反対方向から来る商隊との行き違いを考えれば縦一列にならざるを得ない。
商隊の編成は先頭から、リュウガメ車、モア鳥が牽く鳥車、リュウガメ車、リュウガメ車、リュウガメ車、リュウガメ車、という順になっている。
一番速度が出る鳥車に乗っているのは商人ギルド長のサラクだ。彼は鳥車の他にもリュウガメ車を二台所有しており、積荷のほとんどはそちらに載せている。その他の行商人たちもそれぞれ自分のリュウガメ車に荷物と一緒に乗り込んでいる。
瑪瑙が乗っているリュウガメ車は最後尾から三番目だ。「敵襲」の声を上げたのは一番後ろのリュウガメ車だった。
「敵、見える?」
傍らに座っていた翡翠が訊いた。あどけない少女だがエルフなので実際の年齢は分からない。左右でそれぞれ三つ編みに纏めたほとんど銀に近いプラチナブロンドの髪を後ろにまわして一つに束ねている。服装は放射状に伸びる葉を模した植物文様の刺繍が大きく入った白い麻の長袖シャツと、一見するとスカートのように見える大きな襞を取ったゆったりとしたベージュのズボンといういで立ちだ。フィニス北東部あたりで信仰される精霊信仰の神職の服装だ。
彼女は精霊魔法を使う魔術師だ。
今回の隊商行には、瑪瑙の雇った冒険者という形で同行していた。
樫の木の杖に手を伸ばしてさえおらず、その顔には不安どころかどんな感情も浮かんでいない。
護衛ならばすぐにでも外へ出て警戒するべき状況であるのだが、少女にまったくそのつもりはなさそうだ。
「ここからだと見えないな。声をあげたのは一番後ろの車だから、おそらく後方から敵が追いすがってきてるんだろうけど」
毛ほども護衛の役を演じようとしない少女の態度に瑪瑙は苦笑しながら答えた。
もちろん今は仮面など付けていない。商人アガトとしてこの隊商に参加をしているのだ。服装も一般的な商人のそれだった。
アガトの表情を見て少女は口を開く。
「私も行った方がいい?」
「いや、別にいいかな。もしもの場合も瑠璃と琥珀が対応してくれるだろう」
「ラーズ、アンバーって呼べって言ったのはあなただよ」
「そうだったな、すまない」
苦笑を深くしながら、瑪瑙は素直に謝る。
ラーズこと瑠璃とアンバーこと琥珀の二人も護衛としてアガトの商隊に同行していた。今はそれぞれラクダに乗ってこの車の左右に付いている。
「もしもじゃない場合は?」
翡翠――ジャドが訊く。
「樹海の魔獣に、弓のハンガク、さらには竜戦士までいるんだ。もしもの場合になることはないだろうさ」
「竜戦士というのは、あなたが会った、あの?」
「ああ、リッチを倒した彼さ」
「来てるんだ」
「うん。それ何度も言ったよ」
さすがに苦笑ではなくため息が出た。
アガトのその様子を見てもジャドは少し不思議そうな顔をしただけだった。
「その人は強いの?」
あの一見するとひ弱そうな冒険者がリッチを倒した事はジャドにも伝えてある。
だがリッチと対峙したことがないジャドには、そのことは強さの物差しにはならないようだ。
「リッチがやられた時、私が疾風の剣の面々を躱して脱出した話はしたよね」
「聞いた、と思う」
ジャドは曖昧に頷く。
アガトは構わずに話しを続けた。
「その時に竜戦士の彼だけは始末をしておくつもりだった。これまで気にも止めてなかった下級の冒険者がリッチを倒したんだ。予測のつかないことには早めに手を打っておくべきだと判断してね」
「それで?」
「失敗したよ。すれ違い様に頸動脈を斬るつもりだったんだけど、タイミングを外されたんだ」
アガトは少しだけ右の手首を持ち上げて見せた。
外から見えないが、チュニックの袖の中には刃が仕込まれており、アガトの操作によって出し入れが出来るようになっている。手首だけでなく、アガトの全身には常にいくつもの隠し武器が仕込まれている。
「反応できなかっただけじゃない?」
ジャドの言葉にアガトは首を振る。
「他の二人の殺気は本物だった。なのに彼だけは剣も抜かなかったよ。こちらの意図を読んでたのだと思う」
「読んでたんなら剣を抜くよね」
「私が丸腰だったから、どんな手段がきても対応できるよう集中したのだと思う。もしも剣を抜いて踏み込んできていたら彼の命はなくなっていた。だけど彼は挙動を抑え、私の攻撃は空振りしたよ」
アガトは空を斬った感触を思い出すかのように自分の腕に目を向けた。
「そんな強そうな人は見た覚えがないけど」
ジャドがそのエメラルドグリーンの瞳をキャビンの後方へ向けた。
外が騒がしくなってきていた。いよいよ敵が迫ってきているのかもしれない。
だがそれには頓着せずアガトは話を続ける。
「冒険者ギルドで、巨星のビディーゴを子ども扱いしたらしい」
「巨星って……あのやたら大きなフレイルモーニングスターを使う人かな?」
ジャドとラーズ、アンバーはペンディエンテの冒険者ギルドに所属している。ギルド館にも出入りしているため、冒険者たちについてもある程度のことは知っていた。物事に頓着しないジャドでも流石に名の売れている冒険者のことは認識していたようだ。
ちなみに彼ら自身もかなりの手練れである。目立たないようにしているため三人ともが位階は五位に落ち着いているが、能力でいえば一位にいるルシッドと比べてもまったく遜色がない。
「ああ、その人だ。二位の冒険者だと聞いたな」
冒険者ギルドに行くことがないアガトの情報源はラーズだ。そのラーズからジャドが話を聞いていないのが不思議だが、おそらくは聞いたが忘れたのだろう。
「それならちょっと楽しめるかもね」
ジャドの切れ長の目が三日月のように細められた。
「念のため言っておくが、彼はまだ消去対象ではないからね」
慌ててそう言ったアガトの耳に、幌の外から戦闘の喧騒が聞こえてきた。