VSイカ(2)
水だ。
膝立ちになったヤムトの周りが水で濡れていた。
どうやらボスイカは水を噴き出し、ヤムトを撃ったのだ。
一般的なイカは、漏斗と呼ばれる管から海水を噴き出して泳ぎ、その速度は時速40キロにもなると、転生前に動画投稿サイトの動物系解説チャンネルで見たことがある。水面から飛び出して宙を飛ぶことすらあるそうだ。
それほどの力で水を噴出できるのならば、敵に向ければ恐ろしい攻撃力の飛び道具になるだろう。あの邪神サイズならなおさらだ。
ボスイカはふたたび翼を開くように殻を広げていた。
触手の下から触手よりもひときわ太い砲口のような器官が伸び出ていた。口のようにも見えるが、口は触手の中心部にある。これがこのボスイカの漏斗なのだ。
ゴテゴテとした物を嫌うのか、ヤムトはオレよりもさらに軽装で、防具は胸当てと籠手ぐらいしか着けていない。獣人ならではの体毛が多少の防護にはなっているのかもしれないが、水弾の直撃はおそらく致命傷になっただろう。
二本の触腕が迫った。ヤムトは気絶しているらしく動かない。易々と両腕が拘束される。
触腕は捕えた獲物を持ち上げた。
無数の触手が待ち構えるようにわらわらと動いている。このままではヤムトが食われてしまう。
オレのこめかみからとめどなく汗が流れ落ちる。まるで汗腺が開きっぱなしにでもなったかのようだ。
ヤムトよ起きてくれと祈るが、目覚める気配はない。
漏斗からふたたび水が発射された。
水弾は今度もまたヤムトの胸の真ん中に命中した。
拘束されていて衝撃が逃げないらしく、ヤムトの全身がガクガクと激しく震えた。
次いでもう一発。さらに一発。一発。一発。
容赦のない連射。すべて正確にヤムトの胴を直撃する。
やはりただデカいだけのイカではない。知性がある。獲物にとどめを刺すためなのか、いたぶるためなのかは分からないが、考えて攻撃を行なっている。
もう絶命してるんじゃないか──そんな考えが浮かんでくる。震える奥歯を噛み締めてそれを抑えこむ。
まだ大丈夫だ。まだ生きている。そう自分に言い聞かせる。
オレは携行していないが、ヤムトならば回復薬ぐらいは持っているはずだ。それを飲ませられたら、まだ助かるはずだ。
震える膝を拳で叩く。姿勢を低くして歩きだす。
ヤムトをいたぶることに夢中になっているイカには気付かれないはず、と自分に言い聞かせる。
普通のイカならばしないであろう、獲物の拘束。その長い触腕がイカの視野に死角を作っているはず、と自分に言い聞かせる。
いっそ走りたいが、正確な位置を行くほうか大事だ、と自分に言い聞かせる。
たぶん。きっと。
以前、動画を見ながら姿そのままで買ってきた一杯のイカを捌いたことがある。
捌き方は思いの外簡単で、冷凍のイカリングやゲソを使うより美味いし刺し身にもできる。
それ以降はたまにイカを捌いて調理するようになった。
それはともかく、イカの捌き方を解説している動画で、イカの眼についても解説していた。
いわく、イカの眼は無脊椎動物にしては珍しく脊椎動物と同じレンズ目、カメラ目と呼ばれる構造をしているそうだ。
つまり対象を見ることに関しては高性能であるかわり、昆虫の複眼のように広い範囲が見えるわけではないのだ。
さらにいえば水中の屈折率に慣れた目は大気の屈折率の中ではその視力も著しく低下する。
水中ならば水に含まれる臭いも感知するだろうが、これまた大気中の臭いの感受性は低いはず。
じっくりとヤムトを調理している今この瞬間はヤムトしか見えていないはず。
息を殺しつつ足早に、でも音を立てないように。
隠れられるギリギリまで慎重に近付き、あと約三メートルの位置で、触腕の影から飛び出した。
狙うは目だ。
ヤムトも狙った箇所だが、やはり視力を潰してしまえば、あとはなんとかなりそうな気がする。
ダイブするように、あるいはすがりつくように、目に剣を突き立てた。