石工の料理番
カレーの匂い。それはあらゆる哲学的思考を吹き飛ばす究極のシグナル。
料理を作っている時、その料理の匂いで空腹を覚えることはあまりないのだが、カレーだけは別だ。
匂いで胃がダイレクトに刺激される。ご飯にかけたカレーのひと口目を食べるところを想像して、さらに空腹感が増す。
だかその空腹感も前菜のようなものだ。オレは空腹を味わいながら具材を煮込んでる鍋にルウをよく溶かし込む。弱火でグツグツと煮込む。あとは時々かき混ぜるだけだ。
ご飯の方も良い匂いが上がり始めた。こちらはもう火を止めて余熱で蒸らす方がいいだろう。
「水をくれ」
声が聞こえて顔を上げると、ルシッドが立っていた。
「小屋の中に水瓶がある。横の台に柄杓とカップがあるから勝手に飲んでくれ。塩もいるなら同じ台の壺だ」
「嗅ぎなれない匂いだな」
ルシッドが言った。
まさか話しかけてくるとは思わなかったオレは自分の耳を疑った。
「香辛料の匂いは腹減るだろ。パンならあるが、こいつが出来るまで、もう少しだけガマンすることをオススメする」
オレがそう言うとルシッドは頷いて小屋に入っていった。
嫌なヤツだとは思う。だがギルド随一の剣の達人が、石工たちの行儀が良いとはいえない指示に文句も言わず従っている姿を見ると、憎めないような気持ちにはなっていた。
作業に戻る時、ルシッドはちらりとシルバーを見たが、けっきょく何も言わなかった。
「さあ、そろそろか」
カレーの入った大鍋を、ジャガイモを崩さないように慎重にかき混ぜる。
玉ネギはすでにその姿を消しているし、ニンジンにもよく火が通っている。
干し肉も水分を吸ってよく煮込まれた普通の肉のように柔らかさを取り戻している。
その時、また人の近付いてくる足音がした。
カレーの匂いが引き寄せるのだろうが、昼飯も目前なのだから、少しぐらいガマンすればいいのに。
「ちょっといいかい?」
そう声をかけられた。
モリの仲間たちならこんな律儀なエクスキューズはしない。
顔を上げると、案の定知ってるやつではなかった。ひょろりとした男だ。前掛けをして頭にはハンチング帽をかぶっている。
いや、面識がないだけで先ほど一度顔を合わせてはいる。
「あんた、石工さんたちの料理番だな。何か用か?」
オレはそう訊いた。
「用件なら想像できるだろ。料理人として、そちらさんが作っている料理に興味を示すなってのは無理ってもんさ。それは一体何なんだ?」
そう問う男は、貧相な風体には似合わない目の輝きをしている。
質問はもっともだ。カレーはこの世界にない料理だし、インパクトがありすぎたかもしれない。さて何と説明したものか。
「えっとこれは、香辛料を色々と混ぜて煮込むシージニア料理なんだ」
シージニアとは、ゲルニア大陸を四つに分ける州の一つだ。
大陸の南に突き出た半島状の亜大陸がほぼ全てシージニアにあたる。
ちなみに、オレが暮らすこのペンディエンテがあるフィニスという州は大陸の西側約六分の一を占めている。複雑に入り組んだ海岸線やその付近の島々を西端、南端とし、北は横たわるコレラープ山脈に阻まれるまで、東は砂海と呼ばれる広大な砂漠に突き当たるまでの地域が含まれる。
貴人が支配する土地ではあるが公、個問わず、州をまたいでの交易も普通に行われてはいる。そして遠方から買い入れる物品は希少で高価になりがちだ。香辛料に関しても、同じ重量の金と同価値などというバカげたことこそなかったが、庶民がバカスカと使うような物ではない。
「シージニアの香辛料といえば、やっぱりトメリア食品店かい?」
石工の料理番が訊く。
「ああ、そうだ」
トメリア姉妹の店は、干し肉の味の良さだけでなく、珍しかったり希少だったりする食品を取り揃えていることでも評判が高い。おそらく特別な仕入れルートを持っているのだろう。
「それにしても、これは一つ二つのスパイスの香りじゃないな。こんな使い方をするのは初めて見るよ」
「シージニアでは炒めるにしても煮るにしても、こうやって何種類かの香辛料を混ぜて使うらしい」
「なるほどな。あんた詳しそうだが、シージニアに行ったことがあるのか?」
「いや、そう聞いたことがあるだけだ」
それこそ当のトメリア姉妹から以前に聞いた話だ。
そもそもカレーに関していえば、オレが元いた世界の料理なのだから、シージニアは関係ない。
「そうか。オレは一度、シージニアには行ってみたいと思ってるんだ。いや、シージニアだけじゃない、世界中を回って色々な料理をこの舌で味わって、自分の料理に活かしたいんだ」
遠い目と熱っぽい口調。夢を語るのは素晴らしいことだとは思う。その気持ちも分かる。だがそれを初対面の人間に向けるのはいかがなものかと思う。
「ま、まあ頑張ってくれ」
「声援ありがとう」
「いや、声援まで送ってない」
「それで、その、ひとつ相談があるんだ」
「自分のペースで会話進めるとこあるよな」
「その料理……」
「ああ、カレーがどうかしたか?」
「カレーというのか。それをほんの少しでよいのだけど、研究というか分析というかテイスティングというか試食というか……」
「そういうことか、もちろんいいよ。というか、石工さんたちの分も作ってあるから」
カレーの匂いに抗える者などいるはずがない。匂いだけかがせて食べさせないなどというのは非人道的な拷問に他ならない。
そんな可哀想なことできないのでらオレは石工も合わせた全員が食べられる量を作っていたのだ。
「本当ですか、兄貴」
「距離の詰め方」
突然の敬語と兄貴呼びはまあ、それだけ喜んでくれてるということか。