癖
「ダメですよ、ハンガクさん」
声がした。心臓が跳ね上がった。
唇を離してのろのろと振り返ったハンガクの肩越しに月を背にしたツルの姿が見えた。
「邪魔すんなよ」
「いいえ邪魔します。野営の時はダメです。そういうのは町に着いてからにしてください」
ツルの声は淡々としている。
オレは何も言えないでいたが、心臓だけはバクバクと激しく動いていた。
「あー、そうだったな。悪かった」
ハンガクはあっさりと離れた。
無様に寝転がっている事に恥ずかしさを覚えて、オレもそそくさと起き上がる。
「カズさんすみません、ハンガクさんの悪い癖なんです。パーティに参加してくださった方とは誰でも男女も問わず仲良くなりすぎてしまうんです」
声は耳に届くが意味が入ってこない。それでもただコクコクと頷いた。
傍らに置かれた水筒に目を落とすとツルはため息を吐いた。
「いつもは依頼を終えるまではガマンしてるみたいなんですけど、今回は長期ですし、その上ちょっと強いお酒を飲んじゃってたみたいですね」
旅において、三日も経てば腐ってしまう水は貴重だ。
そのため水分補給はアルコール飲料に頼ることになる。
下戸ではないもののそれほど酒に強くないオレは貴重な水を飲ませてもらっていたが、酒に強いハンガクは先ほどからワインを飲んでいたはずだ。
「デーツ酒は強い酒じゃないぞ」
ハンガクはそう言うがデーツ酒はナツメヤシの実から造られる蒸留酒、つまりアルコール度数の高い酒だ。
アルコール度数が高いほど保存性は良いので、雇い主のサラクによって水とワインの他にデーツ酒も用意されていたのだが、それは水もワインも尽きた時のための非常時だった。ハンガクはそれを飲んでいたらしい。それこそ水のように。
見た目でこそ分からなかったが酔っていたのか。いや、それにしてもツルが言ったハンガクの癖は何なんだ。妖精を目指して日々修行に励むオレにとってはカルチャーショックが過ぎる。
「メンバー交代です。ハンガクさんはトヨケさんのトコに行って解毒魔法をかけてもらってください」
ツルが手を引っ張って立たせると、ハンガクは素直に従った。
弓や荷物を纏めるのを黙々と手伝いながら、ツルに何と言うべきか悩んでいた。謝るのも違う気がする。言い訳できる部分も全くないし、そもそも謝罪や言い訳をする必要があるわけでもない。
リュウガメの向こうへと姿を消すハンガクに手を振った後で先に口を開いたのはツルだった。
「戦闘があった日はあんな感じになるみたいですよねハンガクさん。来てみて正解でした」
悪事が見つかった時のようなバツの悪さだ。というか今だに心臓は完全に落ち着いていない。
「カズさんも気を付けてくださいね。女性にモテる事もあまりなさそうですし、ハンガクさんのような美しい人に迫られたら、藁くずのような理性なんて簡単に吹き飛んで劣情に振り回されるのも仕方ないですけど、野営地で見張りもしないでやらかしちゃってたらサラクさんに依頼を解消されてしまうかもしれませんので」
「はい、すみません」
ここは謝るべきところだった。
口調は変わらずおっとりしてるが、どうやらツルは怒ってるようだ。いや怒ってるにしても失礼だと思うんだけど。
「まあトヨケさんは行かなくていいって言ったんですけど、ハンガクさんが飲み過ぎてたら解毒する必要もありましたし」
「あ、解毒、なるほど」
行かなくて良いってのはどういう意味なんだろうか。もちろんオレに興味がないということなんだろうけど、ハンガクとツルからこの事を聞いてどう思うんだろう。
「カズさんも残念だったかも知れませんけど、明日には町に着くのでそれまではガマンしてくださいね」
「いや、オレは」
町なら良いという理屈なら明日もハンガクは来るんだろうか。でも戦闘の後という条件付きならそうはならないのかもしれない。
いずれにしてももう期待する気持ちは消えていた。
唇の感触だけはリアルに残っていたが、それは何だか悪い事をした印のように思えた。
「さあ交代で眠りましょうか。どちらからにします?」
もう少しトヨケの事を聞きたかったが、ツルはいつの間にか荷物を枕のように整えていた。
夜空には月と無数の星の明かりが煌々としている。これは中々寝つけなさそうだ。
「先に寝てくれ。四時間で起こしたらいいか?」
「それでお願いしますね。寝ている私にキスなんてしないでくださいね」
「しねえよ」と答えかけたが、オレにはその資格はないよなあと思い直して頷いた。