第77話 結婚式の前に:ジルとの決別
「結婚式の手配は整いました」
エドワード・ハーヴェストはメジナ侯爵夫人ハンナに報告した。
「お城の方の準備も終わっております」
公爵家のハウスキーパーは落ち着いて答えた。
彼女は、公爵家の使用人たちにとって新参者だったが、背筋を伸ばしキリッと歩くハンナの姿には、何とも言えない威厳があった。
また、きわめて有能で、侯爵夫人と言う身分と殿下の乳母だった事実がいい方に作用して、今やあの筆頭執事さえハンナに意見をうかがい、指示に従うほどの存在になっていた。
「早いですね。メジナ夫人」
「庭の改装……坊ちゃまがアウレジアとバラを植えろとおっしゃったのと、木立の手前に小さな一休みできる建物の建設を命じられました」
エドワードは、ハンナの指した方を見た。
日当たりのいい高台に白い小さな四阿のような建物が見えた。
「城の中は、公爵夫人の居間と寝室、この客間を改装しました」
エドワードは旧弊なほかの部屋と全く異なる瀟洒な印象の客間を見回した。
そこここにバラの花が活けてあり、全体に明るく、若い公爵夫人にふさわしく家具も華奢で優美だった。
「公爵夫人の客間ですわ」
「美しい部屋ですね。あまり見かけない様式だ。殿下の発案ですか? ベルビュー式なのかな」
ハンナ夫人はため息をついた。
「殿下はベルビューをお好きではないので……ベルビューは田舎のように見えて、暇を持て余した貴族のたまり場なんです。普通の恋に飽きた、大金持ちで高貴な家柄の奥方が大勢いるのです。殿下はとても美しい少年でした。暇を持て余した好色なあくどい奥方たちが殿下を狙っていました。私はぼっちゃまに警告したのですが」
淡々と語るハンナの話に、エドワードは呆然とした。
「ぼっちゃまはあの頃、荒れていました。私の言うことなど、聞いてくださらない。お母さまはご存知なかった。坊っちゃまは、お母さまには知られたくなかったのです。坊ちゃまは狡猾でした。幾日も帰ってこないこともありました。あの美貌です。何をしていたのか知りません。私は侯爵夫人ですが、地方貴族の出身で再婚で侯爵家の後妻です。夫はとうに亡くなっていますし、私では、あの貴婦人たちは抑えられなかった」
「子どもなのに? こちらに来られる前の話ですよね?」
ハンナはその質問には答えなかった。
「坊ちゃまがベルビューをお嫌いなのは理由があります。だから媚びないフロレンス様を愛したのでしょう。手つかずの可憐な花ですもの。フロレンス様が無垢であればある程、坊ちゃまは大事にされるでしょう。たった一つの自分色の宝石ですから」
「ウッドハウスの縞瑪瑙……」
思い出してエドワードはつぶやいた。
「あまり年も変わりませんしね。フロレンス様は賢いけれども優しい方です。わがままとは無縁で欲のない方。我が身を忘れて、殿下や他の人々を大事になさる。ご自分のことを大事になさらない。それゆえに殿下は痛いほどにあの方を大切にされる。お母さまやベルビューの貴婦人たちに対する態度とは全く違う」
エドワードは自分が知らなかったルイ殿下の黒歴史に身震いした。
彼は普通の少年に見えた。多少、黒いところや、人を見くびったようなところもあったが。
「それは仕方がありません。殿下は孤独で、一人で生きて行こうとあがいていました。あなたに会えてよかったのでしょう」
「私ですか?」
エドワードはびっくりした。
「あなたは田舎の純朴な若者でした。あなたとベアトリス様は本当に愛し合っておられて、そして幸せな結婚をした。きっと、うらやましかったことでしょう。自分も欲しかったのでしょう。そんな愛情が」
客間から見渡すと、殿下が造らせたと言う例の四阿が良く見えた。
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ガゼボが完成した時、ルイは庭を案内するからと私を招いた。
「どうして先に行って待っているって言ったのかしら?」
「きっとサプライズですよ。なにかプレゼントしてくださるのでは?」
アリスが期待を込めて言った。彼女は公爵の城に来て以来、公爵家(王家だが)に伝わる様々な宝石や装飾品を見て、すっかりそのとりこになっていた。
新しいガゼボは、見たところ、ガゼボと言うより小家屋のようだった。後ろの木々は建物を取り囲むようで、前面に花々が咲き誇る庭園が見晴らせる、かわいらしい丸屋根の白亜の建物だった。
「ルイ殿下?」
中をのぞいて私はびっくりした。
中流貴族の服を着た男が立っていた。前にジルがデートで王都の街に出て行った時に着ていた服だ。
だけど、私はわずかな間に彼が変わってしまっていることに気が付いた。
いつかと同じ服を着ていたが、彼は細い容姿の若者ではなくなってきていた。
背が伸びて、それ以上に肩幅が広くなり筋肉がついたらしく胸や腕がきつそうだった。
「どうしてこんな格好?」
「ジルならいいと言ったね……好きだと」
だが、ジルは、もういなかった。
どう頑張ってもジルはもういなくて、代わりにいたのはルイだった。
好きだとか嫌いだとか言わせる間もなく、強い意志を持って心の扉をこじ開けて中に入り込んで、どかない男。
そして、ものすごく強引なくせに、どこか捨てられた子犬のような気さえする。
私は彼に向き直った。
幾筋か頬に垂れ下がっているキラキラしたきれいな直毛と、碧い目と薄い唇。
他人は彼のことを貴公子だと言った。優雅で、何一つ苦労したことのない美しい貴公子だと。
会えば会うほど、優雅な貴公子のイメージはかすんでいって、ギリギリと歯を食いしばりながら、自分の運命と戦っている男の印象が強くなった。
他人の心を見透かすような目と、何かを仕出かしそうな、素直に笑わない唇。
こんな人はいない。
「君を騙すような真似ばかりしてしまった」
碧い目が言った。
「明日が結婚式で……婚約期間も短かった。僕がチャンスだから飛びついたからだ。選択の余地とか言っていたけれど、結果的には無理矢理結婚まで持ち込んでしまった」
私はあいにくルイを知っている。
今、彼はこんなことを言っているけれど、結婚式は明日。
私の父も、ベルビューに連れていかれた時からもうあきらめていたと本音を言っていたし、母は最初から賛成だった。
もう逃しようもなくなったからこそ、こんな殊勝なことを言っているのだ。
「知れば知る程好きになった」
彼は手元に、一冊のノートを持っていた。
「ジルとの思い出の品だ」
四阿の中の椅子に腰かけて、ノートを開いてみるといつかのピンクの紙が出て来た。
『アダムス先生は最低----』
『ピンカートン教授は偽善者』
『食堂の入り口で公子様の取り巻きがたむろっているのは邪魔! 例えご身分が高くても』
全部、わずか数か月前のことだ。
「友達も増えたし」
「誰のこと?」
「ダニエル・ハーバートとサミュエル・ブライトン。ほかにもいるよ。基本、君に近づこうとした男ばかりだけど、付き合ってみたらいいやつだった。君もアンドレア嬢と親友になれたし。マデリーン嬢は無理みたいだったけど」
いや、アンドレア嬢は友達ですらないし!
「でも、仲良しだろ? 彼女は君のこと、大好きだって言ってたよ?」
む。
「悪意はないよね」
「悪意はなくても、私が失恋してぺちゃんこになっている時、追い打ちをかけるようなことばかり言うのですもの。ルイ殿下は元々私には無理だとか」
しまった。ジルの格好をしたルイ殿下がちょっと目を見張ったが、口元が笑っている。
「ほかには?」
「兄のフィリップと結婚するんだから、姉妹になるからよろしくねって」
「アンドレア嬢はいっつも勘違いばかりしているよ!」
彼はもうきつくなった、ジルの服を引っ張った。
「この服はもう入らないな。学園は良かった。結局、いろんな奴と知り合いになれた。僕はそれまで、誰も同じ年ごろの友達なんかいなかったけど、勉強になったよ」
それから彼は私を見つめた。
「でも、卒業したよ。僕は大人になろうと思うんだ」