第71話 溺愛
私は公爵家の城でハンナとずっと暮らしていたが、殿下は忙しそうで、城に帰って来ることはまれだった。王宮で寝泊まりしていたらしい。2週間ほど過ぎたある晩、ようやく彼は帰って来た。
殿下は公爵家の城に着くと、結婚の日取りを告げた。約一月後の日付だった。
「そんなに急に?」
「すまない。法的にも神の前でも正式に結婚する必要がある」
彼は私を抱きしめた。
「学園にもう行かせてあげられない。まだ、十六歳なのに人妻にしてしまう」
彼は申し訳なさそうにそう言ったが、口元が歪んでいた。笑っているのではないかと私は怪しんだ。
「陛下の容態は、一進一退だ。僕は君と急いで結婚して、王妃を納得させる。新婚旅行はベルビューだ。一日で帰れるからね。母の館には行かない。ホテルに泊まる」
「あの、私にはよくわからないのですが、今、この国を離れても大丈夫なのですか?」
「僕になんの関係がある? 暫定の王位継承も、摂政の地位も断って、女に入れ上げるバカ殿下だ。国の一大事の時期に新婚旅行に出かける。それでいいんじゃないか?」
私は思わず殿下の顔を見た。
そんな人じゃない。
「あなたは、そんな人じゃない」
私は口に出した。
だって、私はよく知っていた。あなたはそんな人じゃないってことを。色ボケのバカ殿下なんかじゃない。国を潰したり、多くの人が混乱に陥れたりするような事態を見過ごすような人ではない。だから、私との結婚もなくなったのだ、と。
そして、質問するために彼の顔を見つめた私は、一瞬、答えなんかどうでもよくなって、彼の顔に見惚れた。
愛しい人のなつかしい顔。
会いたかった。
会えない間、ずっとあなたのことを考えていた。
本当に私のものになるの?
信じられない。
「仕方ないな」
ルイ殿下は笑いながら私の手を取って言った。
「それじゃ、落ち着かない?」
私はうなずいた。訳がわからない。殿下はそんな人じゃない。そんなあやふやな状態で、新婚旅行なんかにうつつを抜かす人じゃない。
「僕は王にならないと約束した。その誓約の証拠が君との結婚だ」
ああ、それで。僕の命を守る妻だと言ったのか。
「だけど、なんで、王になるために妻の出自が問題になるんだ? それで王にふさわしいかどうかが決まるとでも?」
ハッとした。
それはそうだ。
本人の出自は問題になるだろう。だけど、王の実子がいるのに、王の従兄弟だとか、王の娘婿なんかが平気で王座を乗っ取ったことは、歴史上、しょっちゅうある。
「約束なんか、破るためにあるんだよ」
ルイ殿下は耳元で囁いた。
「まさか殿下……」
彼は本気で狙いにいってるのか? 王位を?
狙ってもおかしくない。それどころか、彼を担ぎ上げたい貴族たちは多いだろう。
「何言ってるの、フロレンス」
呆れたように、ルイ殿下は言った。
「王位なんか最初から欲しくないよ。言ったでしょう。僕は好きな生活がしたいって」
焦った私はコクコクとうなずいた。
「そのためには必要なんだよ。王妃を騙すことがね」
………殿下、一体どっちなんですか? 狙っているのかいないのか、いったいこの結婚の真意はどこにあるの?
*********
忙しそうなエドワードが公爵の城に来たとき、私は彼をつかまえた。
「王妃様に配偶者の身分が重要だなどと吹き込んだのは、まあ、殿下です」
やっぱりそうなのか。
「とはいえ、もちろん、当たり前のことです。別に新しい考え方と言うほどのことでもありません」
私はエドワードに、サンドイッチとお茶を出すから休憩して行ってくださいと言った。エドワードは痩せて、疲れているように見えた。
「ここのコックは一流ですね。それに公爵邸か、フィッツジェラルド家なら、安心して食べられますが、なかなか最近はむずかしくて」
よほどむずかしい局面なのか。殿下は毒殺とか物騒なことを言っていたな。
私はあわてて食事の量を増やすように頼んだ。
「王妃様のお子様はまだ一歳。治世能力なんかありません。ついでに言うなら王妃様だってゼロです。マイナスかな?あの方は。先週、ようやく王太子殿下とサヴィーヤ国の王女様との婚約が決まりました。もし、これで殿下の結婚相手も同じサヴィーヤ国の王女なら、殿下の王位継承の優先順位が上がる。王妃は不安になります」
「立太子式が済んでいるのに?」
「ええ。でも、殿下は優秀で見栄えもよく、その上年齢的にもうってつけですからね。殿下とあなたの結婚が決まるまでは、いつ、ひっくり返ってもおかしくなかったです。とりあえず、殿下を王にしとけって、声が多くて」
エドワードは暗い目をして空をにらんだが、牛スネ肉のシチュー料理が出されたことに気が付くとすぐにそれを食べ始めた。
「私の結婚は王妃様の疑惑を逸らすための偽装結婚なの?」
エドワードはパッと目をあげると、口いっぱいにシチューを頬張りながら、吠えた。
「何言ってるんですか! 私は未だに殿下の結婚は、偽装工作の皮を被った単なる殿下のワガママじゃないかって、疑ってるんですからね?」




