第45話 ピクニックと思い出
ホテルのレストランなんか行って、わざわざ傷口に塩をなするような真似をしたのは、着いた日の晩だけだった。
そんな場所へ行く必要はない。
別のホテルだってあったし、レストランもおいしい店が街のあちこちに点在していた。
ベルビューは、町のすぐそばにそびえ立つ山々への本格的な登山で有名だったが、手ごろなトレッキングコースや、ただゆっくり湖畔や森の中を散歩するだけの小径も整備されていた。
残りの日を、私たちはランチを持って散歩に出かけ、景色を楽しんだ。天気が悪い日は、図書館で好きな本を読み合った。
町の探索へ繰り出すこともあり、しゃれたカフェや、宝石店や特産の木彫りのおもちゃや、かわいらしいフワフワのクマのぬいぐるみを見て歩いた。
ルイは私にネックレスを買いたがったけど、私は小さな腕輪を買ってもらうにとどめた。だって、そのネックレスは値段がすごかったのだもの。店員は、猛烈に残念そうで、お若いお嬢様で、このネックレスをお断りになる方には初めて会いましたとか言いだした。
「そんなものもらったら、父に叱られますわ」
「君の父上にはごまかしておくよ」
ルイは、ぜひともプレゼントしたそうだった。
「何をおっしゃるの。母は宝石には目利きですのよ?」
「でも、あのネックレスはとても似合うと思うのだが……」
彼の目は、自分の目の色に似た碧い石とダイヤを連ねたネックレスに、未練がましくさ迷っていった。店員も、もの欲しそうに彼の目線を追っていた。
「では、代わりに、昨日見かけたぬいぐるみを買ってくださいな」
「君はそんな可愛いものに興味はないと思っていたのだが」
「私もそう思っていましたの。でも、あんまり可愛いのですもの。買ってくださらない?」
つい、そう言って微笑むと、彼の顔は土砂崩れを起こして陥落した。
「何色のクマが欲しいの?」
ネックレスのことはすっかり忘れて、ルイは宝石店の扉を開けて外へ出た。
「白いのよ」
そのクマはふわっふわで、ほんとに愛らしかった。目が痛くなるような純白ではなく、やさしいアイボリーホワイトの、青い目の子だった。
宝石の一つや二つくらい買えそうなほどの値段のクマだったけれど、嬉しくて買ってもらってすぐに私は抱きしめた。
ルイも笑み崩れて、支払いをした。なんだかとても嬉しそうだ。
目利きの母も、まさかぬいぐるみの目利きはないだろう。
父には後で報告しておこう。
屋敷に帰ると、いつものようにハンナがすぐに迎えに出てきた。
三階に上がると彼女は尋ねた。
「坊っちゃまがお買い求めになったのですね? そのクマ。坊っちゃまの色ですものね」
はっ?
「ルイはプラチナブロンドじゃないわ」
「でも、黄色いクマはいませんからね。黄ばんだ白と青い目のクマは、坊っちゃまの色でしょう。気がついて、プレゼントされたのでしょう」
「いえ、私が、ねだったのだけど……」
すると、ハンナはおかしそうに笑いながら言った。
「それは。さぞ、喜ばれたことでしょう」
黄ばんだ白。アイボリーホワイトなんだけど。
明日は帰ると言う日、街を見下ろせる高台までハイキングに行って、彼と私は気持ちのいい木陰にベンチに寄り添って座っていた。
「父の子どもは僕一人だと思うんだ。家を継ぐのも僕だろう」
彼は言った。
「父にも愛人がいる。僕は毎年生誕祭に母のところに行っていたわけではない。ここ数年は行かなかった。母は父の国には決して来ない」
もうそろそろ夕方で、山に近いここらの日没は足が速かった。眼下に広がる町のあちこちで、ポツポツと黄色い明かりが点いてゆく。
「ほら」
彼は両手を皿の形にすると、ふっと息を吹きかけた。
手にはぽっと光が点った。
「え?」
彼はニヤッと笑った。
「すごいだろ?」
「すごい。手品?」
「魔法さ」
「うそ。手品でしょう?」
「魔法さ」
小さな光をもっとよく見ようと、彼の手に顔を近づけた途端、彼は私にキスした。
「ねえフロレンス。君が好きだ。僕だけのものになって欲しい」
エクスター殿下は、ちょっとかわいそうな、ただの男の子だった。
「君は、すごいずぶとい女だったよ」
帰りの馬車でルイは言った。
「リーン夫人は某公爵家の令嬢で、これまた王家みたいなすごい貴族に嫁いだが、婚家先の馬丁に夢中になって一大スキャンダルの末、離婚して、その後、その馬丁とも別れて大富豪のハワード氏と再婚した。ハワード氏は、数年後死んで、遺産は全部あの女が継いだ。今はリーン夫人と名乗っている。夫はどこかの貴族らしい。一緒だった男コルドー卿とは別の男だ」
「まあ、ほんとにすごいわ」
私は真剣に感心した。計算してみると4人の男を手玉に取っている。コルドー卿を別にして。
「それでも、誰も何も言わない。頭のよさと言ったら誰も太刀打ちできない。迫力ある女性だろう? それなのに、君はけろりとしていた」
「だって、あの方、そんな感じでしたもの」
ルイは苦笑していた。
「ねえ、もう帰りの馬車なんだけど、この間の答えを教えて欲しい」
「なんの答え?」
私はとぼけた。
「僕だけのものになってくれますか?」
ルイは、はっきり聞いてきた。これは絶対断られないとわかって聞いているな。
彼を好きにならないわけがない。
そして、ルイだって、そんなこと知っている。でも、言葉が欲しいのだ。
私は初めて食堂で彼の目を見た時から、その鋭すぎる目に惹きつけられていた。
なぜ、目だけこんな表情なのだろうと思ったのだ。
エクスター殿下は、すべてに恵まれた、穏やかで優しい貴公子だと言われているのに、激しい飢えたような目付きをしていた。
説明するより現実を見た方が早いとルイ殿下は感じたのだろうと、ハンナは推測していた。
そうかもしれない。
彼の考えなんか、わからない。
ただ、夕暮れの丘の上で言われた言葉は真実なのだろう。思い出すと真っ赤になってしまうのだけど。うっかり彼の唇に目が行ってしまったりする。ばれないといいのだけど、思い出すとすっかりドキドキしてしまって、ルイ殿下の顔を正視できない気がする。
どうも彼はお見通しらしくて、私がうろたえているのを見て取ると勝手に口元が緩んでいる。
だけど、私は怖いのだ。
エクスター殿下はいろんなものを背負っていた。
複雑な親子関係、面倒な親戚関係、莫大な富と権力。
どれをとっても、一歩間違うと修羅場になりそうだ。国を巻き添えにして。
彼は十分有能で賢かったが、危ういところがあった。
中流貴族のジルなら笑って済まされるだろう鋭すぎる頭脳と感性は、王座に近い場所に置いた時、安定をもたらすだろうか。
もっと賢くなくていいから、もっと穏やかで策を弄しない男の方が似合いなのではないだろうか。
「あなたは、王弟殿下の息子で、次期摂政でしょう」
「ねえ、僕に摂政なんて務まると思う?」
ルイは務まると思う?なんて聞いてくるが、自分でわかってるのだ。
「あなたにしか出来ないわ」
「でも、君がいなきゃダメなんだ」
ルイは言いだした。
「君を見ていると、僕は自信を取り戻すんだよ。家族ってこういうものなんだとか、僕が感じたことは正しいんだとか……それから、僕はたった一人をずっと大事にしたい。信じられるものが欲しいんだ」
私は彼の要求にこたえられるだろうか。
「私はあなたを好きよ、ルイ。でも……」
「でも? それ以外に何か必要?」
「エクスター公爵夫人は羨望の的なのよ? 贅沢三昧できて、美しい夫を手に入れられる地位だと思われているわ」
「知っているよ」
何かムカッとしたが、私は続けた。
「私一人がどうあがいても手に入らないのよ。あなたが協力してくれなきゃ」
そう。アンドレア嬢だって、マデリーン嬢だって、その他大勢だって、私なんかじゃダメだと声を大にして言い募るに決まっている。そして、彼らには親もいて、全員で反対するだろう。父を苦労させたくなかった。そして私自身もそんな苦労をしても、手が届かないかもしれない。
宮廷中の貴族に認めてもらう必要があるのだ。
ただの遊びじゃないと言うのなら。
「よし。わかった。任せろ」
ルイは目をきらっとさせて答えた。
あ、なんか不安。言い方、間違ったかもしれない。