第44話 ベルビューの夜
「ホールで音楽をやっている。見に行くかい?」
食事が終わるとルイ殿下が言った。
「行くわ」
今晩の彼はとてもかっこいい。
彼はいつだって、美しい貴公子だったけれど、今晩の彼は物憂げで大人で、なんだかよく分からないけど魅惑的だ。
ホテルのレストランの隣にはホールがあって楽団が曲を流していた。
円柱がホールの周りを取り囲み、床材は色大理石で模様が組み込まれている。その上で数組が踊っていた。
踊らずに、グラスを片手に話をしている人たちも大勢いた。
どう見ても上流社会、男性はルイと同じく略式の服を着て、女性は肩を出し、生地が柔らかいので腰とお尻の線が出る流行のドレスを着こなしていた。
ハンナがなぜ私にこのドレスを選んだのかわかった。エクスター公爵夫人がなぜあのドレスだったのかも。
今の流行りは、露出気味のドレスなのだ。私のドレスなど慎ましいものだ。
「僕らも踊ろうよ。誰も知った者なんかいやしない」
ルイはむぞうさに私の手を取った。
それが当たり前、といったように。
そのホールは恐ろしく自由で、退廃的で、一歩間違うとそのまま流れて行ってしまうような雰囲気をはらんだ場所だった。
彼は、ほかの踊っているカップルたちと同じようにグッと体を抱き寄せてきた。
「君がそんなドレスを選ぶだなんて珍しいね。とてもいい」
なんて返事したらいいかわからない。
学園も家族もいない、このホテルのホールは危険だ。
学園内にいると、エクスター殿下は遠く離れた存在だった。
学業優秀で見目麗しく、そつがない。模範生だ。
だが、ここでは何をし出すかわからない、とても若い、美しい何かだった。
彼のまっすぐできれいな髪、整った鼻と顎の線、それに何よりその食いつくような目にビクリとさせられた。そんな目つきをしないように、彼は気を付けているらしかったけれど、捕食動物のような目だと思った。
捕らえられて、どうなってもいいとうっかり思ってしまいそう。いろんなことを忘れて。
魔法がかけられたような空間だった。
この人とずっと一緒にいたい……。
「エクスター殿下! 珍しい」
声がかかった。ロマン語だった。
ちょうど、曲が途切れたところだった。ルイに気が付いて、ダンスの切れ目を待っていたのだろう。
壮年の紳士で、連れの女性も目つきは鋭くて擦れた感じの中年の女性だった。だが、生まれが良いか、または貴族社会で長らく生きてきた人らしい感じがあった。
「お久しぶりです、コルドー卿」
たちまち魔法は溶けて、現実が戻ってきた。ルイは気取ったような微笑みを口元に浮かべた。
「そちらは?」
コルドー卿と呼ばれた男が私を見て尋ねた。とても気になるらしい。
「婚約者です」
ルイは笑って、いけしゃあしゃあと答えた。
「どちらのご令嬢ですの?」
好奇心を起こしたと言った様子で隣の夫人が聞いてきた。
「まだ、秘密ですよ、リーン夫人」
コルドー夫人じゃないのか。
二人は私の顔を見つめてきた。私は彼らを見返して、微笑んで、会釈した。
「公爵家ともなると違うのねえ」
何がどう違うのか。感心したようにリーン夫人と言う中年の女性が、私たちに向かって言った。
ルイと彼らは、知り合いの誰それの話などを交わして別れた。私は知らんぷりをしていた。ルイは子どもの頃から彼らを知っているらしい。
「なぜ、ここへ来たの?」
ダンス会場のホールの隅のソファーに腰かけて、私はルイに聞いた。
彼は、給仕に声をかけてグラスを二つ持ってこさせていた。
ルイはようやく私を見た。それまでちょっとぼんやりして別なことを考えていたらしい。
「楽しいでしょ。毎晩、ここに来たくなるくらい」
そう言う彼の目線の先には彼の母エクスター公爵夫人が二人の男と親しげに話していた。エクスター公爵夫人は私に気が付いた。でも、彼女はくるりと背中を向けて、息子と息子の恋人を無視した。
私たちが帰って来ると、ハンナが待っていた。そして、坊ちゃまが遅いので心配していましたと言った。
「大丈夫だよ」
ルイはちょっと無愛想に答えた。彼が二階の自分の部屋に行ってしまうと、ハンナはお着替えを手伝いますと言って、私の三階の部屋まで付いてきた。
部屋のドアを閉めると、彼女は私の身の回りの世話をしてくれた。
「公爵夫人をご覧になりましたか?」
「ええ」
「坊ちゃまはご自分では説明できないので、あなたをここへ連れて来られたのだと思います」
どう言う意味なのかしら。私には、さっぱりわからなかった。
ルイ殿下と出歩くのは楽しかった。
ホテルでは、あの話しかけてきた二人の恋人?連れ以外、私たちに注目している者は誰もいないようだった。
とても大勢人がいるのに、まるで人の森の中で、たった二人きりで時間を過ごしているみたいだった。
「ルイ殿下は、この街の育ちです。ここの空気で育ったのです。この……」
ハンナは少し言い淀んだ。
「この、退廃的な街の中で。イビスやあなたの国のような家があって両親がいてと言う環境ではなくて……」
ハンナはうまく伝えられないらしかった。
「公爵夫人には愛人がいるってことを伝えたかったの?」
思い切って私は尋ねた。
「愛人と言うより、夫人は誰か恋人がいないと生きていけない方なのですよ。夫の公爵様のおうちにはいろいろとしきたりや義務が多いうえ、公爵と奥様とはそりが合いませんでした」
「なぜ、私に見せたかったのかしら?」
私はハンナに聞いた。彼は自分の母親がいるホテルを知っていたに違いない。そして、そのホテルへ出かけたのだ。
「多分、婚約者のあなたに理解して欲しかったのだと思います」
婚約者……ではない。
「まだ正式には……」
と言ってから、私は口をつぐんだ。
正式どころか、まだ何も決まっていない。
「坊っちゃまが、大事な人ができたけれど、まだ許しを得ていないと手紙に書いてこられました」
ルイはそんなことをハンナに書いてきたのか。
「そして、ここへお連れすると」
「公爵夫人が、私を見定めたいので呼ばれたのだとばかり思っていました」
「公爵夫人にルイ坊っちゃまの婚約者の決定権などございません。公爵家を出ているのですから。ご自分でも理解されています。あなたの顔を見られれば、それで十分でしょう」
事実上離婚しているので、公爵家の嗣子の問題など口出しできないと言う意味だろうか。
「それより、あなたに自分を知って欲しかったのでしょう。坊っちゃまは、ずっとお一人でした。もっと、お小さかった頃は、奥様に恋人ができると、とても嫌がられて、お母さまに甘えに行かれました。でも奥様は……」
ルイの母を見るまなざしは今はもう静かだったが、母の一番が自分ではないと知った時、子どもの彼はきっと傷ついたのだろう。
「奥様はぼっちゃまに許されたいのです。誰か女性を愛するようになったら、奥様のお気持ちもわかってくれるとお考えなのです」
「私を見てよかったと言っていたのは、そう言う意味なのね……」
「嬉しかったのでしょう。息子に拒否されたままなのはつらいでしょうから。でも、坊ちゃまが奥様を許すかどうかはわかりません。坊ちゃまが一生一人だけを大事にするなら、いつまでたってもお母様と同じ場所には立てませんし」
「その時、公爵夫人は傷つかないかしら?」
「どうでしょう。愛する人を得て幸せになれば、坊ちゃまはお母さまに寛容になるかもしれません」
違う家に育った私には想像しかできなかった。私の両親は愛し合い、子どもをかわいがっていた。
「やさしいお母さまだったのですよ。だからこそなんです」
理解を求められても、本当に理解出来るようなことなのか。私は難しい顔をした。
今まで私はルイ殿下のことを、最高のご身分の裕福な家で、何不自由なく大事にされて育った御曹司だと思っていた。
ハンナは私の難しい顔をどう解釈したのか、言葉を続けた。
「お嬢様もこの家にいる限り、心配はございません。私がおりますから。おぼっちゃまからも守りますので」
「え……」
一瞬、意味が分からなかった。
「おぼっちゃまから、バカをしそうだったら止めてくれと言いつかっております」
ハッと意味を悟った。
なんだと……。自分も信用できないのか。ルイのやつ。だが、私は無理矢理微笑んで答えた。
「ありがとう。ハンナ。よろしくお願いしますね」