第37話 夢と現実
最初の一歩を踏み出した途端、驚きのささやきが会場の空気を満たした。
「まあ! あれはウッドハウス嬢よ」
でも、そんな言葉は耳に入らない。
私はジルを見つめた。ジルだけを。
鏡の中の私は美人だった。
でも、一番美人かどうかはわからない。だって、みんなとてもきれいに着飾っているのだもの。
そして、キラキラした笑顔のエクスター殿下は、バクルー子爵令嬢やマコーリー男爵令嬢が言っていた通り、一番かっこよくて端正で、そして誰もが一番注目している人物なのだ。
会場の全員が私を見つめていた。足が震えた。
でも、背筋を伸ばして、顔を上げて、視線の圧なんか気にせず前に進む。
大好きなジルが待っている。私はジルと踊るために来たのだ。
エクスター殿下とは関係ない。
ジルと私が並ぶと、まわりはざわついた。
「ジル……」
「フロウ」
ジルが答えてくれた。ああ、ジルだ。やっぱり私が好きな、あのジルだ。私は嬉しくなって微笑んだ。
ジルが顔を染めて、くちゅっと顔を歪めた。
「どうしたの、ジル?」
「いや…あの、ドレス似合うなって。あと、髪型も大人っぽいし、えーと……」
おかしくなって私は笑った。
「ジルらしくないわ。そんなこと気にするだなんて思わなかった」
「それに……笑うとかわいいなって」
え? こんな威厳たっぷりそうな顔がですか? 私は思わず目を見張った。
でも、ジルはすごくステキ。髪といい目といい、正装が決まってる。カッコいい。
「私にとってジルは紙の上の想像の男の子だった。こんなにステキな男の子だなんて思ってなかったわ」
ジルはふいに黙った。それから言った。
「僕は最初から君が誰か知ってたからね。君がどんなに……」
不意に言葉を切って、それから彼は言った。
「ウッドハウス伯爵令嬢。本当にお美しい。この会場の誰よりも」
ジルがエクスター公子みたいなこと、言いだした。
ジルのダンスは上手で、なめらかで場慣れたエスコートだった。私は逆に戸惑った。
こんな社交の場で非の打ちどころのない貴公子なんて、私の計算上のジルの素質に入っていなかった。
「ジルはダンスも上手なのね」
戸惑いながら私は褒めた。ジルは黙って私を見つめている。私は緊張してしまって、何か話しかけずにはいられなかったのだ。
ジルは返事をしなかった。
黙って、距離を詰めてきた。
「ジル、近づきすぎ!」
私は言った。ジルは結構力が強いことに初めて気が付いた。ジルは紙の中に住んでる友達じゃなかった。
「ダメよ、ジル。そんなに近付くと、はしたないって怒られるわよ! みんなが見てるわ」
困惑して私は言った。とても恥ずかしい。
「エクスターの公子の意図を知らしめるよい機会だ」
少し冷たい調子の声がした。驚いて顔を上げると、ジルと目があった。
「意図?」
どんな意図? だが、その意味より、私は殿下が使い慣れているらしい声の調子に驚いた。命令を下し続ける人らしい、軽く威圧的な響きを含んだ調子だった。
「そう。これが最初の一歩になる。僕の意志だ。欲しいものがある」
何を言っているのだかわからなかった。
「今、ここに僕より序列が上の人間なんか誰もいない。だから、僕が何をしようと叱る者などいない。僕は義務でがんじがらめだ。その代わりに得たいものがある」
違う。今、踊っているのはジルだ。エクスター殿下なんかじゃない。
父のいずれ摂政にという言葉や、バクルー子爵令嬢やマコーリー男爵令嬢が興奮しながら噂していた、あのエクスター殿下ではない。
でも、ジルなら……それは、私が本の中で見つけた私の親友だ。
闊達で面白く、遠慮のない、学園で出会えた心許せる友人だった。好きだった。
彼となら踊りたい。そう思わなかったら、このホールに出てくることすら、私にはできなかった。
エクスター殿下の行き過ぎたダンスは、人々の注目を集めていた。私は恥ずかしくてたまらず、それから本当に怖くなった。
「止めてよ、ジル。くっつきすぎ! いやよ」
軽く乗せていたジルの手が強く私の手を握った。彼の唇がつぶやいた。
「…いや?」
驚いて戸惑って私はジルの顔を見たが、その表情はそれまでジルの顔に見たことのない、感情を押し殺した顔だった。困っているような、怒っているような冷たい顔。
ジルはただの一度だって、こんな顔を私に見せたことがなかった。
エクスター殿下が怒っている?
殿下が……私の失礼な言動のせいで。
エクスター殿下を拒絶する人はいない。
そう。彼は公子だったから。王侯の一員だった。友達扱いしてはいけない人。私はたかが伯爵家の娘だ。
私が甘えて、友人のようにしゃべってはいけない人だった。
お腹の中がひやりとした。失敗したのだ。踏み込み過ぎたのだ。
エクスター殿下がジルだと身分を偽ったために、エクスター殿下が本当は王室の人間である以前にジルだと、彼の言うことを鵜呑みにしてしまったんだ。
王家の人間を信じてはいけない。彼らの逆鱗に触れてはならない。
なんということを。十分教育を受けているくせに、なんという失点を犯してしまったのだろう。
この言動を知ったら、父も母もさぞ困ることだろう。それこそ、不敬罪だ。
「……失礼しました……」
私はうなだれた。
「う、浮かれて……身分をわきまえず、馴れ馴れしいふるまいをしてしまいました。大変申し訳ないことを……エクスター殿下」
ジルがムッとしたのがわかった。本気で怒っている。
「そんなこと、言ってるんじゃない!」
怒られて、私は踊りも何もわからなくなった。王家の一員をバカな勘違いによる失礼な言動で怒らせてしまった。エクスター殿下は完ぺきな貴公子と常日頃から言われているのに、その人に向かって馴れ馴れしい口を利くだなんて……。
何と愚かなことを。
ジルはジルじゃない。ジルなんて人は最初からいなかった。存在していたのはエクスター殿下だけだ。わかっていたのに。
エクスター殿下は言葉を続けた。
「違うよ、フロウ。そんなことを怒ってるんじゃない。僕はジルだけど、エクスター公子として生きなきゃいけないんだ。だから……」
私は聞いていなかった。この一時さえ過ごせば、私の役割は終わる。失礼がないように踊り切る。それが私にできる最後のこと。
もう、殿下の顔を見られなかった。
「不快にさせましたこと、本当に申し訳ございません……」
涙をこらえるのに必死だった。こんな大失敗、どんな貧乏貴族の教育のない小娘でもやらないだろう。思いあがって対等な口を利くだなんて。
私には現実がわかっていないのだ。
やっと長い長いダンスが終わり、私は、礼儀正しく非の打ちどころのない礼をして、エクスター殿下の前を下がった。
殿下がどんな表情だったのか、知らない。怖くて見れなかった。
私は出来るだけ表情を消して、女生徒たちが出て来た部屋へ戻った。
ダンスは続いていて、次の組が踊っていることだろう。そして、終わった組は好きなようにしゃべったり食べたりしているはずだった。
本当なら、ジルと食べたり飲んだり話したりするのを楽しみにしていた。
だが、今は怖い。いや、怖い以上のものがあった。権力者はどこかで豹変することがある。宮廷で礼儀作法がやかましいのはそのためだ。礼儀を守ることは自分を守ることにつながるのだ。
私は人のいない部屋を通り過ぎ、寮に向かった。
自分のバカ。
何を夢を見ていたのだろう。
ジルがいるだなんて。肩ひじ張らない、気楽で、陽気で、自由なジル。
海に行きたいと言っていた。
知らない国に行ってみたいと言っていたジル。
ジルなんかいなかった。
わかっていたけど、信じたかった。ジルはいるんだって。
でも、現実にいたのは、エクスター殿下だけだった。
私は寮へ帰る間中泣いていた。涙は後から後から出て来た。
フロレンス、毎度勘違い