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「あのハンカチ、どうしよう……」
その日2杯目の紅茶を飲みながら、アマリアはまたも深いため息をついた。手にしたティーカップの中で、ため息が小さなさざ波を作っていく。
「いい加減、返しに行かれれば良いのに。お姉さまらしくもない」
「……仕方ないでしょ。あんな無様なところを見られたんだから」
アルヴィとの遭遇から二週間、アマリアの心を大いに悩ませているのは、あの時彼が手に巻いてくれたハンカチの処遇である。洗濯もアイロンがけも終わり、あとは手渡すだけ……とはいえ、相手が相手なだけに、もう会いたくないというのが彼女の本音だった。
問題のハンカチは今、アマリアの机の上に置かれた小さな包みの中に収められている。勉強や読書をするたびに目に入り、正直目障りだった。いっそ捨てようかとも考えたが、サラに見咎められた上、不義理を怒られる始末であった。
「ヒューピア家の血筋をお姉さまが気になさるのは仕方ありませんが……一度お話ししたことがありますけれど、それほど悪い人とは思えませんでしたよ」
「サラ、あの方と話したことがあるの!?」
アマリアは血相を変えてサラに詰め寄った。サラはちょっと困ったように眉を寄せた。
「最初の頃、光のルーンを持ってる子かと話しかけられただけです。それ以上は特に……お姉さまも嫌がるかと思って」
「そう……」
アマリアはほっと一息つく。あの男がすでにサラに唾をつけていたとしたら……考えるだけでもゾッとした。
「そうだ。私がお姉さまの代わりに行ってきましょうか?」
「ダメ! それだけは絶対やめて!」
転んだところを助けられ、怪我をした手にハンカチを巻かれる——アマリアの記憶が確かならば、このシチュエーションは間違いなく、サラとアルヴィの出会いイベントだ。それがなぜ自分の身に起きたのかはわからないが、だからこそ、ハンカチをサラに託すわけにはいかない。二人を絶対に出会わせてはならない、アマリアは今ではすっかりそう心を決めていた。
というのも、アルヴィルートは駆け落ちエンドなのだ。次期皇帝の座をめぐる骨肉の争いに嫌気がさしたアルヴィは、全てを捨てて愛するサラと駆け落ちする。このルートでアマリアは、サラとアルヴァの逃避行を邪魔して斬り殺されるという最悪の役回りを演じることとなる。
「……サラがあいつと駆け落ちとか、絶対に許さない」
「何かおっしゃいましたか?」
もし今、サラがあの男と駆け落ちした場合、アマリアは間違いなく後を追ってサラを取り返そうとするだろう。魔術に加えそれなりに武芸の腕も磨いてはいるが、それでも攻略対象であるアルヴィには勝てないだろうとアマリアは思う。
「そういえば、またハンヌ先生からお誘いをいただいたのですが……」
サラの口から出た名に、アマリアはあからさまに顔をしかめた。
クラウス・ハンヌ。アカデミアの教師の一人で、またの名を攻略対象その3。光のルーンが現れてからも魔術の苦手なサラにとって、まだ30代半ばながらも優秀な弟子を多数育てたことで知られる彼は、おそらく理想の師であろう。実際、ゲームでは彼の指導のもと、「聖女の再来」と謳われるまでの成長を遂げる。それはアマリアにとっても願ってもないことなのであるが……。
「またなの?」
「ええ、よかったら研究室を見学に来ないかって。……どうしましょう」
サラにとって良い話だとは思うものの、アマリアはどうしても二人を近づけたくないという思いを捨てられずにいた。教え子と教師の禁断の恋は学園モノにありがちな展開であるが、前世の記憶ゆえなのか、アマリアはどうしてもこのルートに嫌悪感を抱いてしまう。
「前と同じく、お断りすればいいでしょう。一人では行けませんとでも言えばいいわ」
サラだってまぎれもない貴族令嬢である。確かに彼はアカデミアの教師だが、入学したばかりの二人は彼の講義に出たことがない。いくら教師とはいえ、授業でも関わりのない男性の部屋に誘われてほいほい付いていくようでは外聞が悪い。アマリアはそうサラに言い聞かせていた。
「言ったんです。でも、そうしたら、ぜひお姉さまもご一緒に、って……」
「私も?」
「ええ、成績優秀なお姉さまにもぜひ来て欲しいって」
サラは少し身を乗り出すようにして、アマリアに訴えかけた。おそらくサラはハンヌの指導を受けたいのだろう。光のルーン持ちでありながら、サラは魔術がとにかく苦手だった。そのことは、光のルーンの持ち主であるサラに過剰な期待を抱いていた教師陣や同級生達を大いに落胆させ、彼らの失望の冷たい視線はおとなしい彼女を萎縮させるのに十分なものだった。
「話を聞きに行きたいの?」
「はい。……あの先生は仰ったんです。私が魔術をうまく行使できないのは、まだルーンが宿ってから間がないから、その使い方をわかっていないだけだ、と」
「自分が指導すればできるようになると?」
「そのためなら協力は惜しまない、と」
「……ふぅん」
ゲームの展開を知っているアマリアは、彼の言葉が心からのものであることを知っている。そして、サラがその献身と期待に応えることも。だが、二人を近づけさせたくないアマリアの心境は複雑だった。
サラとこの教師の年の差は15歳程度。政略結婚も多い貴族社会では、夫婦として決して珍しくない年の差である。だが、教師が生徒に手を出すというシチュエーションと、年上の男が分別のない少女に手を出すという構図に、アマリアは不快感を抱いていた。かつて前世で大人の女だった記憶が影響しているのだろう。
「私、皆さんを失望させてばかりで……。このままではいけないと思うんです……」
「どいつもこいつも、勝手に期待して勝手に失望しているだけよ。サラが悪いわけじゃないわ」
「わかってます、お姉さま。でも、私……もっと……」
青い瞳を潤ませて俯いてしまったサラに、アマリアは強い憤りを覚えた。もちろんサラに対してではない。サラにこんな思いをさせた周囲の連中にだ。だが、一方でサラの言うことももっともで、希少な光のルーンを抱えて生きなければならない以上、彼女はもっと魔術に精通しなければならないのだ。
「……仕方ないわね。今度、一緒に行ってあげるわ」
「お姉さま!」
サラの顔がパッと明るくなって、アマリアもつられて笑みを浮かべた。
「どうせなら、私も指導をお願いしようかしら。ハンヌ先生、評判は悪くないしね」
「ええ! ぜひ、そうしましょう! それがいいわ」
攻略の記憶では、確かアマリアは彼の指導を受けようとして断られ、サラのレッスンを邪魔する……という話だったはずだ。だが、向こうから「姉も一緒に」と誘ってきた以上、アマリアをそう無下には扱わないだろう。ましてゲームのアマリアは腰掛け令嬢だが、今の彼女は今後数年、このアカデミアで魔術の修練を積む覚悟でやってきており、すでに勉学や実習でその実力を発揮している。
「……となれば、面倒なことは早く済ませないとね」
アマリア自身の嫌悪感は深いものの、サラの相手としてのハンヌはそう悪い男ではなかった。レオとの関係がこれ以上深まらないのであれば、彼は次善の相手と言えた。そのためにはもう一つの可能性を早く摘み取らなければならない。
「お姉さま、やっと行く気になったんですね」
紅茶を飲み干すと、アマリアはやおら立ち上がった。鏡の前で軽く身支度を整え、机の上に置かれた小さな包みを手にする。
「私、ちょっと行ってくるわ」
「行ってらっしゃい。夕食の時間までにはお戻りくださいね」
そう言って無邪気に手を振るサラに、アマリアは軽く肩をすくめた。幸せになれるならレオでもハンヌでもいいけれど、駆け落ちだけは絶対許さないからね。アマリアは心の中で呟くのだった。