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サラ・トゥーリは、乙女ゲーム『テイク・マイ・ハンド〜差し出された運命』ヒロインである。かつては母ニーナと共に王都の一角でひっそり暮らしていたが、彼女が4歳になった時、母は流行病で亡くなってしまった。ひとりぼっちになったサラは、父を名乗る男ヴィルヘルムに連れられ、トゥーリ家の屋敷に住むこととなった。ゲーム本編が始まるおよそ10年前のことである。
屋敷を牛耳るヴィルヘルムの正妻レイラは、夫の愛人の娘であるサラを当初から疎んでいた。その上、当時5歳のアマリアがサラと一緒に階段から転げ落ちるという事件が起こり、アマリアは一時昏睡するほどの大怪我を負ってしまう。それ以降、アマリアはサラを憎み、実母レイラと共に彼女をいじめ続ける——はずだった。
この一件で、アマリアが前世と自身の運命を思い出すことがなければ。
アマリアに大怪我を負わせた罰として地下室に幽閉されたサラを助けたのは、回復したばかりのアマリアだった。アマリアは事件の真相——カーペットに足をつっかえて階段から落ちそうになった自分をサラが助けようとして、その結果、二人とも転げ落ちてしまったこと——を怒り心頭の母に説明し、サラを地下室から出すように懇願したのである。
「私を助けてくれてありがとう。それなのにこんなところに閉じ込めて、ごめんなさい。……次は階段から落ちないよう、お庭で遊びましょう!」
頭に包帯を巻きながらもニコニコと笑うアマリアは、床に座り込むサラに手を差し出した。暗闇の中に浮かんだ白く小さな手は、サラの目にひときわ眩しく感じられた。サラは戸惑いつつも、差し伸べられたその手を取ることを選んだ。
*
アマリアが目を開けると、すぐそこにサラの顔があった。その愛らしい顔は灰や血で汚れ、大きな目から涙をボロボロとこぼしている。
「サラ……」
強烈な疲労感に襲われていたが、アマリアはなんとか掠れた声を絞り出す。
「お姉さま」
サラは大きな目をさらに大きく見開いて、その暖かな両手でアマリアの顔をそっと包んだ。
「お姉さま……お姉さま……」
サラの涙がポタポタと落ち、生暖かな雫がアマリアの頬を流れ落ちていく。
「どうして泣いているの……?」
アマリアは鉛のように重い右手をなんとか持ち上げ、サラの頬を流れる涙を指先でそっとぬぐった。
「良かった……生きててくれて……」
「っ……ごめんなさい、ごめんなさい」
サラは子供のように謝罪の言葉を繰り返す。アマリアは意味がわからず、涙をぬぐっていた右手でサラの頬をなでた。
「謝ることなんて……」
「いいえ、いいえ! 私がしっかりしていれば、お姉さまがこんな大怪我をすることはなかったのに」
ようやくアマリアは自分の身に起きたことを思い出した。血まみれのサラを見て怒り狂い、その炎で教会と地下室を思うまま焼き尽くしたこと、そしてリクハルドに剣で刺し貫かれたこと……。
「……あなたの怪我は? 血まみれだったのに、大丈夫なの?」
「はい。私は薬を飲まされて、仮死状態になっていたみたいです。この血も私のものじゃありません」
「そうだったのね……」
アマリアは心からほっと息をついた。そして一つ、重大なやらかしに思い至る。
「ああ、サラ……ごめんなさい……」
「何がですか?」
「サラを燃やしかけてしまったわ……レオ様や、ハンヌ先生のことも……」
レオを焼き殺していたらまずいなあと、ぼんやりした頭でアマリアは思う。未必の故意とはいえ、皇子を殺したとなれば死罪は免れない。やっぱり悪役令嬢には破滅と断罪エンドがお似合いということか。
「それなら大丈夫です。レオ様は護符を用意されていましたから、ハンヌ先生も、私もたいした怪我はしていません。大怪我を負ったのはお姉さまだけです」
「そう……なら良かった……」
アマリアはホッとする。だがここで疑問が一つ。なぜサラが泣きじゃくるほどの大怪我を負ったというのに、自分は痛みを感じていないのか?
その答えは考えるまでもなくわかった。
——癒しの魔術による奇跡。
「……使えるようになったのね」
アマリアのつぶやきにサラが不思議そうな顔をした。アマリアは微笑んだ。
「サラが私を助けてくれたんでしょ? 森で獣に襲われた、あの時みたいに……癒しの魔術で。ありがとう……ほら、やっぱりできたじゃない。さすがサラ、私の自慢の妹ね」
その言葉を聞くや否や、サラは子供のように顔を真っ赤にし、まだ倒れたままのアマリアの胸元に顔を沈めて泣きじゃくり始めた。アマリアは目を閉じて、すがりついてくる妹の頭を撫で続けた。




