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「いよいよ明日ですね……」
「そうね、清々するわ」
荷造りをする手を止め、ため息をつきうつむくサラに、アマリアはいつものように冷たく言葉を投げかける。その手には、名門貴族の令嬢が身につけるにはあまりにもくたびれた下着が握られていた。
「アカデミアでは下着も支給されるっていうし、これも全部捨てちゃっていいかな」
「一応、何枚かは持って行った方がいいのでは? 足りなかったら困りますし」
「まあ、そうね」
アマリアは比較的新しい下着を数枚選んで、ベッドの上に広げたトランクの中に放り込んだ。トランク中身は下着以外も質素なシャツとスカート、櫛などの日用品ばかりで、一目で高価とわかるようなものは何もない。
「こんなものかしら」
アマリアはトランクの蓋を閉めてベッドから降ろし、今度はその場所に自分が寝転んだ。
姉妹は明朝、生まれ育ったこの屋敷を出て、オーランド帝国の首都アイロラへと向かう。向かう先はアカデミアと呼ばれる魔術学校。二人は強い魔力を持つ証・ルーンを宿しているからだ。
そして、アカデミアにはもっと重要な意味がある。何しろ、そこでサラは運命の相手と出会い、国を揺るがすほどの恋をするのだ。つまるところ、ゲーム本編の舞台である。
「荷物、少ないですね……」
「わざわざ持っていくほどのものなんてここにあるの?」
二人に与えられた部屋は広さこそあるものの、名家の令嬢らしい装飾品や華やかさとは無縁である。少し前、アマリアの母レイラが屋敷を出ていくまではもっと“貴族らしい”部屋に暮らしていたが、父の愛人テアがアレクセイを出産、女主人として実質的に君臨し始めて以来、二人は「どうせもうすぐいなくなるのだから」と本邸を追い出されて別邸に追いやられていた。レイラやアマリア、そしてサラの高価な装飾品やドレスの類は、いまや全てがテアのものだ。
「ようやくこの家を出られるのよ。良かったじゃない」
「良くないです。私だけならともかく、お姉さままでこんなことに……。あんな……さらし者みたいに」
ひと月前の屈辱の時間を思い出したのか、サラの顔がみるみる曇っていく。アマリアは軽く口角を上げ、できるだけ軽薄に聞こえるよう言い放った。
「いいんじゃないの? 今じゃなくても、どうせ数年後にはアレクセイが嫡子になるのは分かり切ってたことだし」
「でも! アレクセイはまだ1歳ですよ? わざわざ私たちがアカデミアに行く前にあんな発表をするなんて、お父さまもどうかしています」
「自由にしてやるから頑張れ、ってことよ。きっとね」
「絶対違います!」
アマリアの軽口に、サラは顔をしかめた。アマリアがちらり目を向けると、サラの深い水底のように青い瞳に本気の怒りが渦巻いているのがわかった。アマリアにとって、一緒に怒ってくれる誰かがいるのは幸せなことだった。アマリアの内なる炎はいつだって、隙あらば竜巻のように渦を巻き、周囲の全てを燃やし尽くそうとする。憤怒の性を持つアマリアにとって、サラの存在はすでにかけがえのないものになっていた。
その時、ドアをノックする音が響いた。執事が恭しく運んできたのはアマリア宛の一通の手紙で、差出人は父ヴィルヘルムだった。
どこか暗い表情を浮かべた執事は、アマリアにすぐ手紙を読むようにうながす。読まなくてもその内容に心当たりはあった。こういう時の悪い予感は当たるもので、案の定、それはアマリアの婚約が正式に破談になったことを告げるものだった。
「旦那様には、お嬢様に直接お伝えするべきだと申し上げたのですが」
申し訳なさそうに話す執事に、アマリアは普段通りの笑みをうかべる。
「いいのよ、わかっていたことだから。承知したと父に伝えて」
「お嬢様……」
父の先代から屋敷に勤める古株の執事の目には、明らかな同情の光が浮かんでいた。屋敷にほとんど戻ってこない主人の代わりに、何かと姉妹に気を配ってくれていた人だった。
来客が去っても、アマリアはしばし手紙を握ったまま動けないでいた。廃嫡に婚約破棄とくれば、次は死罪だろうか。早すぎる没落の訪れに、アマリアの口の端が歪む。この10年間、破滅を回避するためにできるだけのことはしてきたのに、どうしてこうなったのか。
「お姉さま」
背後から遠慮がちにかけられた声に、アマリアは気を取り直して振り返る。その顔には元どおりの笑顔が浮かんでいる。
「レオ様との婚約破棄が決まったわ。思ったより早かったわね」
「そんな! どうしてそんなことに! ひどすぎる……!」
サラの怒りはアマリアの予想を超えていた。父に抗議すると部屋を出て行こうとするサラを、アマリアが慌てて止めなければならないほどだった。
「どうしてお姉さまは怒らないの? 廃嫡に続いて婚約破棄なんて! いくらお父さまだって許せないわ」
「いいのよ、これで。昔から言ってるでしょ? 私は魔術師として身を立てて、絶対にサラとお母様を幸せにしてあげるって」
「でも、お姉さまはもう次期当主ではなくなって、その上ご婚約まで……」
サラは力なくソファに座り込んだ。アマリアはその隣に腰掛けると、うつむく妹の肩を抱いた。
アマリアにしてみれば、サラがここまで婚約破棄に怒るのは予想外だった。何しろ彼女の「元」婚約者レオは、ゲームにおけるヒロイン・サラの攻略対象なのだ。アマリアが知る“設定”によれば、サラとレオはこの時点ですでにお互いに淡い恋心を抱いているはずだ。悪役令嬢とは時に当て馬の役も果たすものである。アマリアはこの設定を生かすため、何かと二人きりにするなどずっと気を使い続けてきたのだ。
「だいたい、レオ様もひどすぎます。こんなにあっさりお姉さまを見捨てるなんて!」
「お互い、家の事情で婚約したんだもの。それが変われば破談になるのは当然よ。お父さまがこの縁談を破棄したがってたのはサラだって知ってたでしょ?」
「それにしたって……」
「大丈夫。私が魔術師として大成すれば何の問題もないわ。知ってるでしょ? この国では上級魔術師の資格を取れれば、身分や出自に関係なく生活は保障される。家のことから解放された分、問題がシンプルになって良かったじゃない」
「でも……」
ゲーム本編ほどではないが、サラには卑屈で後ろ向きなところがある。前世でゲームをプレイしたアマリアには、サラの魅力も、その“真の力”も十分なほどわかっていた。それなのに、何かにつけて自信のない態度を取りがちなサラの姿は何とも歯がゆかった。最初に手を差し伸べた時は打算だったかもしれないが、今では大切な妹である彼女に、もっと自信を持って欲しいのに……。暗い表情でうつむき目を伏せるサラに、アマリアは語気を強めた。
「だいたい、あなたこそどうなの? ……光のルーンが発現した以上、もう“トゥーリの愛人の娘”ではいられないのよ? アカデミアでは間違いなく注目の的になるでしょう」
「そんな……!!」
「お父さまも言っていたでしょう。今、光のルーンを持ち、治癒の上級魔術を行使できるのは帝都にも5人しかいないって。あなたの力に、国中が期待しているわ」
「そんなの無理です。私は、私はそんなこと望んでいないのに」
サラの顔は真っ青で、その青い瞳には涙さえ滲んでいた。長い年月を共に過ごしたアマリアには、サラが己に与えられた運命を心から嫌がっていることがわかってしまった。運命から逃げたい——その気持ちは痛いほどわかったが、アマリアは心を非情にして、できるだけ冷酷に言い放った。まるで悪役令嬢のように。
「一度現れたルーンは消えることはない。サラはその光のルーンにふさわしい人間にならなければならないの。しっかりしなさい。いい加減覚悟を決めることね」
「だけど、わたし……」
「いい機会だから言っておくわ。アカデミアではサラも私のライバルの一人よ。アカデミアで上級魔術師の資格を取れるのは成績優秀者だけ。たとえ妹だろうと容赦はしません」
「そんな、ライバルだなんて……だいたい私がお姉さまに勝てるわけ……」
「光のルーンは神に選ばれた証。たかだかアカデミアで、上位に立てなくてどうするの」
「そんなの無理です。それにこんなもの、欲しかったわけじゃない! 私はただ……」
「黙りなさい。力を与えられた以上、強くなるしかないのよ。でなければ、ただ都合よく利用されて、使い潰されるだけ。わかるでしょ? それともあなた、あの騎士様と結婚でもしたかったの? そうね、素敵なお方でしたもの」
光のルーンを発現するまで、父ヴィルヘルムはサラを政略結婚の駒としか考えていなかった。サラには何とかという名家出身の帝国軍騎士との縁談が進められていたが、光のルーン発現でアカデミアへの入学が急遽決まり、それ以来この縁談はなかったことにされている。
「結婚なんてどうでもいいです! 私はただ、これからもずっと、お姉さまと一緒に……」
「なら、覚悟を決めなさい。わがままを通したいなら、強くなるしかないの」
「お姉さまと一緒にいたいと願うのは、わがままなことなの……?」
「そうよ。私たちは名門トゥーリ家の“ただの”姉妹。アレクセイが生まれた以上、お父さまからしたら、せいぜい政略結婚の手駒でしかない。それは光のルーンを持ったあなたも同じ」
「だけど……」
「残念だけど、私たちは何かの力を得なければ、自分で自分の身の振り方を決めることもできないの。このままじゃ、二人で一緒に居られるのはアカデミアが最後になるわ」
「そんな……」
愛する姉から次々と放たれる厳しい言葉に、今度こそサラの瞳から涙がこぼれた。アマリアはそれを指先でそっと拭うと、その手のひらで今度は妹の頰をなでた。
実際のところ、サラの立場はアマリアよりも危うい。アカデミア在籍中に魔術を行使できるようにならなければ、サラはこの実家に送り返され、今よりひどい立場に置かれるのは間違いない。テアの差し金で、ろくでもない男と結婚を迫られるかもしれない。
「私はもう、トゥーリ家の後継者としてはあなたを守れない。でも、幸いなことに私たちには切り札がある。私には火のルーンが、あなたには光のルーンが。だからね、いい? 私たち二人とも、上級魔術師の資格を取るの」
「私には無理です。ルーンは出たけれど、私は初級魔術すらろくに扱えません。あの時以来、癒しの魔術だって一回も使えていないのに……」
「無理でもやるの。やらなければならないの。大丈夫、まだ慣れていないだけ。私を助けてくれたあの時みたいに、いつかは自由に使える日が来るわ」
アマリアはサラの右手をそっと取った。その甲にはうっすらと白く、光のルーンが浮かんでいる。もう片方の手をその上に重ね、アマリアはそっと微笑んだ。
「ねえ、私はあなたにとても感謝してるのよ。この奇跡がなければ、私はあの時死んでいたんだから。それにあなたがいてくれるから、私も頑張れるの」
「そんな、お姉さま。私の方こそ……」
サラは顔を赤らめてうつむいた。絹糸のような金色の髪がひとふさ落ちて、その整った横顔に影を作る。
「頑張るしかないのよ。上級魔術師になれれば、その他のことなんてどうにでもなるわ。家のことも、将来のことも」
「そうですね……そうですよね」
アマリアがサラの肩を抱くと、サラも身を寄せてきた。その横顔には明らかな不安の色が見えた。
「大丈夫よ、大丈夫」
アマリアは囁く。それはサラに語りかけたものでもあり、内心不安に満ちた自分に言い聞かせるものでもあった。
何しろ、物語の幕はまだ上がってすらいないのだから。