11
「サラ、あなた大丈夫?」
部屋に入ってきたサラの顔を見るなり、アマリアの顔はみるみる心配の色に染まった。
「ひどい顔色……昨夜はちゃんと寝られたの?」
「いえ……最近ちょっと、あまり眠れなくて」
幼さの残る愛らしい顔は青白く翳り、目の下にはうっすらとクマができている。艶やかだった肌も心なしか荒れているように見えた。
「ハンヌ先生の訓練が辛いのではなくて? 夕方、講義が終わった後もずっと魔術の訓練をし通しじゃない」
「これくらい平気です」
「焦る気持ちはわかるけれど、やり過ぎは体に良くないわ。……私から先生に言ってあげましょうか?」
「大丈夫です。お姉さま」
サラは無理やり笑って見せたが、それはかえってアマリアの顔を曇らせただけだった。
「せめて、私が一緒に訓練に参加できればいいのだけれど」
「先生がおっしゃる通り、お姉さまと私ではレベルが違いすぎます。お姉さまが参加する意味はありません」
「だけど……」
心配そうな姉の顔を見て、サラの心は次第に重みを増していく。
「それより、お姉さまはお姉さまの課題に取り組んでください。あの魔道書はもう読み終わりましたか? 先生からレポートの提出を待っていると言付けを預かりました」
「まだ課題が出てから一週間よ!? 無理に決まってるじゃない」
「お姉さまならできますよ」
「やめて、サラにそんなこと言われたらやらざるを得なくなるわ」
ふざけた口調で嘆いてみせるアマリアだったが、その態度はむしろサラの心を苛立たせた。アマリアは本当にやれるのだ。成績優秀で、すでに同級生の中でも頭角を現し始めている姉。どこの馬の骨ともしれぬ愛人の娘である自分を、実の妹として可愛がってくれる優しい姉。不甲斐ない自分へのやるせなさとやり場のない憤りがサラの心に渦巻いていく。
「このジャム、夏の定番だそうよ。美味しいって評判だったけど、確かになかなかね」
「そうですね」
「スコーンよりパウンドケーキに塗りたい感じがするわ」
「紅茶に入れても合いそうですね」
いつものように、どうでもいい会話が続く。アマリアが用意したのはサラの好きな銘柄の紅茶と、これまたサラ好みの甘いジャムとスコーン。いつもと同じ、穏やかな午後のひと時。
だが、サラはどこか居心地が悪く、一刻も早くこの部屋を出たくてたまらなかった。だから、姉との会話もそこそこに、手早く菓子と紅茶を片付けると、サラは静かに席を立った。
「ごちそうさまでした、お姉さま」
「あら、どこか行くの?」
「ええ、ちょっと教会に。お祈りに行こうかと」
教会には、アマリアが最も警戒する攻略対象その4が隠れている可能性がある。アマリア自身も何度か足を運んだが、今のところ教会にその男の姿はなく、こっそり確認した修道士名簿の中にもその名は載っていなかった。
元々レオ、アルヴィ、ハンヌを攻略した後に選択肢に追加される隠しキャラなので、その存在が見当たらなくても不思議ではない。それでもアマリアは、あまりサラに教会へは行って欲しくなかった。
だからつい、うっかり、アマリアは言ってはいけないことを口にしてしまった。
「また教会へ行くの? いくら祈ったって魔術は上達しないわよ」
「……!」
サラの顔が一気に赤く染まった。アマリアは失言を悟ったが、時すでに遅かった。
「お姉さまに、私の気持ちなんてわかりません!」
サラもまた、しまったというようにアマリアから目を逸らした。だが、一度決壊した堰を元に戻すことはできないように、サラもまた、言葉を止めることができなかった。
「私のような弱い者は、何かにすがらなければ生きられないんです。皆の期待を裏切って、がっかりさせて、失望させて……」
「みんな、勝手な期待をあなたに寄せているだけよ。気にすることなんてないわ」
「お姉さまは……お姉さまだからそんなことが言えるんです。毎日あんな目で見られてもまっすぐ前を見ていられるほど、私は強くないんです! 廃嫡されても婚約破棄されても、私の前では嘆くことすらしないお姉さまのように、私は強く生きられません」
「そんな、私だって……」
「祈ったって魔術はうまくならない。そんなことはわかってるんです。でも、やってもやってもできないんです! だから私には、祈ることぐらいしかできないんです!」
溜まりに溜まった鬱憤を晴らすように、サラは半分泣きながら叫んだ。
「私みたいなダメな弱虫の気持ちなんて、強くて立派なお姉さまにはきっと、絶対にわからないわ!」
サラはそのまま部屋を飛び出した。すぐ背後から姉が追いかけてくるのがわかったが、振り向くことなく一目散に走った。サラは足が速い。足の速さだけは幼い頃から姉に負けたことがなかった。しばらく走り続けると姉の気配はあっという間に消えてしまい、校舎を囲む森の中で、サラは一人きりになった。
弾んだ息を整え、サラはしばらくの間、鬱蒼とした森の中をぼんやりと彷徨った。夕暮れ時の森の中は徐々に暗さを増し、時折聞こえる獣や鳥たちの鳴き声や羽音が不気味に響き渡る。
気がつけば、サラは教会の前に立っていた。もしかしたら姉が待っているかもしれないと、そっと中を覗いてみた。しかし、そこには姉どころか、人がいる気配もなかった。
静かに中に滑り込み、ドアを閉める。ろうそくの明かりに照らされた祭壇の前にひざまずき、目を閉じ、両手を組んで祈りの文句を唱え始める。
どれくらい経ってからだろうか。コツン、と音がしてサラは我に返り、慌てて背後を振り返った。薄闇の中に背の高い人影が見えた。修道服を着た黒髪の若い男がサラの方へと歩み寄ってくる。
「もう今日は閉める時間なんだけど……」
そう言いかけた男は、サラの顔を見て驚いたようなそぶりをみせた。立ち上がったサラと男の目があった。男の瞳は夕暮れの太陽のような赤色で、サラはどこか親しみを覚えた。
「そんなに泣いて、どうしたの?」
「いえ、なんでもありません。戻りますので失礼します」
立ち去ろうとしたサラの前に白いものが差し出された。真っ白なハンカチだった。
「よかったら使って。そのままじゃ目が腫れてしまうよ」
「……ありがとうございます」
サラは遠慮がちにそれを受け取ると、そっと目に押し当てた。だが涙は次から次へと溢れ出て、乾いたハンカチはたちまち涙で濡れていった。
その様子があまりに不憫だったのか、男はややためらいがちに声をかけた。
「聖堂はもう閉めないといけないけど、懺悔室ならまだいられるよ」
サラはためらいがちに顔を上げた。修道士は慌てたように首を振る。
「ああ、別に、無理に話すことはないんだ。ここは大神の家。懺悔室でどんな会話が行われても、それを聞いた聖職者はその秘密を絶対に守らなきゃならない。もちろん、何もしゃべらなくてもね」
見上げた修道士は人の良さそうな笑みを浮かべた。よく見ればまだ年若く、サラともそれほど年は離れていないように見えた。
「余計なお世話かもしれないけど、落ち着くまで少し休んだ方がいい。そんな顔で戻ったら、きっとご友人たちが大騒ぎだ。そうだ、最近街で流行っているというお茶があるんだ。ご馳走するから、ぜひ飲んでいってくれないか」
サラの脳裏にアマリアの顔がよぎった。確かにこんな顔で戻ったならば、あの優しい姉をますます心配させるだけだろう。サラは鼻をすすりながら、目の前の修道士を見上げた。
「僕はリクハルド。アカデミアの卒業生で、今は修道士の身だ。つい最近、ここに配属になったんだ。お嬢さんは?」
「……サラと申します」
「よろしくね、サラ。さあ、こっちだ」
「……ありがとうございます」
サラを懺悔室へと案内しながら、修道士は密かにうす笑みを浮かべた。彼の名はリクハルド・タハティ、またの名を攻略対象その4。アマリアが最も警戒し、最もサラに会わせたくなかった男、その人である。