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この世界の魔術は主に火・水・風・土の四属性で、その難易度によってさらに初級・中級・上級の三種類に便宜上分類されている。魔術を使えるのはルーンを持つ者だけで、初級魔術ならどの属性も行使できるが、中級・上級魔術となると、己の持つルーンに対応した属性のものしか行使できないのが一般的だ。
だが何事にも例外がある。それが光のルーンである。
「はっ!」
掛け声とともに指先から小さな炎が飛び出る。だがその炎はたちまち勢いを失い、5メートル先の的どころか、指先から数十センチ程度の場所で儚く消えた。
サラはがっくりと肩を落とす。額から汗が流れ落ちる。その後ろに立った男はふむ、と独り言のようにつぶやいて、それからサラに声をかけた。
「火の魔術はだいぶ上達しましたね」
「……無理に褒めていただかなくても結構です……」
「最初に比べれば大した進歩です。少し休憩したら、次は水です」
「……はい」
サラはタオルで汗をぬぐい、水筒から水を勢いよく飲み込んだ。生ぬるい水が乾いた喉を滑り落ちる感覚が気持ちよかった。
「ハンヌ先生」
「なんでしょうか」
サラの魔術練習を見ているのはアカデミアの教師、クラウス・ハンヌである。常に丁寧な言葉遣いのすらりとした長身の紳士で、髪を後ろでくくった長い茶色の髪は清潔感を、丸い眼鏡の奥にのぞく黒い瞳が知的な印象を与える人物だ。険しい表情の割に褒めて育てるタイプだが、その指導はかなりスパルタで厳しい。彼の元で修行を始めてまだ日は浅いが、サラはそのことを身にしみて感じていた。なお、当然サラは知らないが、ゲームの攻略対象その3である。
「……本当に私、魔術を使いこなせるようになるんでしょうか」
「はい、そのはずです。まずは自信を持ちましょう」
光のルーン所持者は例外的に、全ての属性の上級魔術を扱うことも可能だという。だが、今のところサラはそのような優れた能力を持ち合わせてはいない。ハンヌの指導を一緒に受け始めた姉が火の中級魔術をたちまち成功させたのに対し、サラ自身は相変わらず小さな火の玉すら満足に飛ばせない。
「光のルーン所持者のみが行使できる癒しの魔術とは、複数の属性の魔術を掛け合わせたものと考えられています。例えば火なら止血、水なら解毒など、それぞれの属性にはいくつか治癒に関わる上級魔術が存在します。光のルーン所持者はそれらすべての属性の魔術を治癒という一点に編み上げ、さらに高度な治癒魔術として成立させるのです」
「はい。ですが……」
「何か質問でも?」
サラは視線を落とし、逡巡する。数日前に聞かされた話が、ずっとサラの頭を悩ませていた。
「何を学ぶにしても、質問をすることはとても大切なことですよ?」
ハンヌは優しく語りかける。訓練場は静かで、他に人もいなかった。サラは思い切って口を開いた。
「……3年前、光のルーンを持った生徒がアカデミアを放逐されたという話は本当ですか」
「事実です」
「その生徒は……今の私と同じく初歩の魔術すらまとも使うことができず、最後にはルーンを封印されたというのお話も?」
「ええ。その通りです」
「それから故郷に帰って……その、死んだというのも……」
「はい」
ハンヌはあっさりと認めた。噂話は真実だった。サラの顔から一気に血の気が引き、握りしめた手が震えた。それでもまだ、聞かねばならぬことがある。サラは覚悟を決め、重い口を開いた。
「……どうしてですか? 光のルーンを持っていれば、癒しの魔術の使い手になれるのではないのですか」
「逆です。光のルーンを持っていなければ高度な治癒魔術を扱うことはできません。光とはすなわち、あまねく命を司るものなのですから」
「つまり、光のルーンを持っていたとしても、癒しの魔術どころか、初歩の魔術も使えないことがあり得るのですね。私のように」
「……その通りです」
ハンヌが言葉を詰まらせたことで、サラの胸のうちに、岩のように重い何かがのしかかってきた。
現在の癒しの魔術師たちも様々な傷や火傷、骨折といった怪我、あるいは病による痛みを癒すことはできるが、死に瀕した人をたちまち復活させるような奇跡は起こせないとされる。「奇跡」の域に達した癒しの魔術師は、大神の寵愛を受けたとされる古の聖女ヒルダ以外には存在しない。
だからこそ、瀕死の重傷を負ったアマリアをその力で救ったサラは、余計に注目を集めることとなったのである。本人の存在がほとんど表に出ていなかったこともあり、名門トゥーリ家に現れた光のルーン所持者・サラの噂は大きな尾ひれをつけて広まり、中には「聖女ヒルダの再来」と期待する者までもいた。
その期待と重圧、そして強い失望感に、サラは苦しんでいた。
「なぜ、先生は私に『できる』と仰ったのですか」
「それが、私の仕事だからです」
「……もしも私がこのまま魔術を使いこなせず……アカデミアを放校になってしまったら、先生の評価も一気に下がってしまうのでは……」
「そうかもしれませんが、それは今考えることではありませんし、あなたが気に病むことでもありません」
ハンヌは努めて優しい声でそう語りかけたが、サラにはそれがむしろ逆効果で、その顔はさらに陰りを増した。
ああ、私はきっと、この人をも失望させてしまう。
「そろそろ再開しましょう。次は水の魔術です」
「……はい」
訓練が始まると、サラはいつものように愚直かつ真面目に取り組んだが、その顔はどこか暗いままで、結局その日、水の魔術が成功することは一度もなかった。