死んだらどうなるのか
初投稿
凡そ私の人生は恵まれたものでした。自殺を考えたことなど一度もないほどに幸福な人生だったのです。学歴でもルックスでも、運動に関してさえも大して困ることはなかったし、遺伝子に文句があるとするならば、それは恋愛運ぐらいでした。しかし最近になって、私は自身がこれほどまでに幸福であるが為に、むしろ幸福から遠のいていることに気がついたのです。
死ねばこの満ち足りた人生が失われてしまう。私にとっていちばんの恐怖は死ぬことに他なりませんでした。皆さんもこの感情は十分に理解されると思います。そしてその恐怖は私がこの世界で幸福であったが為により巨大なものになっていったのです。私は自分でも理解しがたい頻度で死について考えるようになりました。そしてその度に全身毛が逆立つほど怯え、悶え、苦しむのです。死の何より恐ろしい点は逃れられないことにありました。それは確実にやってくるのです。私が子供の頃は自分が就職して働いている姿など想像できませんでしたが、私はこうして会社で働いています。きっと死もこれと同じなのだと理解した時、よりそれが鮮明なものに思えました。
私が死の恐怖を回避できなかった理由の一つに無宗教だったということが挙げられます。幼少の頃から科学に没頭した私は天国だとか地獄といった死後の世界を信じて来ませんでした。素粒子でできた物質的な世界を具体的にイメージするようになってしまったのですから死の後に訪れるのは当然、「無」でした。それが何よりおそろしかった。私の幸福な人生を喪失してしまうこと、そして私の思考、存在がなくなってしまうことが耐え難く辛かった。
ところがある日、私は生物の死が其の個体が活動を停止した時に存在するわけでないことに気がつきました。私は常に死んでいたのです。何をいっているんだと思われるかもしれませんが少しだけお付き合いください。当たり前ですが、私たちはものを食べます。そしてそれを体内に取り込み代謝を行います。そうすると元々私たちの体を構成していた物質は体外へ、そして取り込んだ食べ物が新たに我々の体を構成するようになるのです。つまり、私たちの体は徐々に入れ替わっている。昨日の私は今日の私と少し異なり、1年後には全くの別人になっているということです。恐ろしい事実に気がついてしまいました。この論理で行くと私は気がつかぬ間に死んでしまうのですから大問題です。しかしそれと同時に死というものが非常に身近ですでに経験しているものだと考えると少し心が楽に、また虚無感にも襲われるようにもなりました。それからというもの私は保険に入るのをやめました。会社も、英語の勉強もやめました。刹那的に生きることに決めたのです。その時を楽しまなければ私は死んでしまうのですから。
そして私にも生物的に死ぬ時が訪れました。会社を辞めてすぐの春の話です。私は買ったばかりのバイクで転んで、死んだ。あまりにも残念で単純な話です。ただ、興味深いのはここからでした。
痛い痛い痛い痛いと意識が朦朧としていると唐突に何も感じなくなったのです。と同時に私の意識は急にはっきりとしました。
私は、何もないところにいました。そうです、私は死んだのです。そして、死んだ後の世界には意識というものが存在したのです。私の存在は失われなかった!これほど嬉しいことはこれまでの人生(死後のことですから人生と呼んでいいかもわかりませんが)でありませんでした。なんて事だ!刹那的な生き方はほとんど意味をなしませんでしたがそんなことはもはや関係ない。私は意識が存在していることの喜びでいっぱいでした。死後は無じゃなった!
ところが、1分も経たないうちに私は恐ろしい違和感、いや、ひどい恐怖に襲われました。なぜかというと、この世界には私以外何もなかったからです。まず色がありませんでした。黒すらなかったのです。当然私は困惑しました。酷く困惑したのです。こんな不気味なことがあるでしょうか。ふと気がつくとこの世界には音もありませんでした。そして肉体もない。目や耳、手足や胴体さえもどこにあるのかわからない上も下も右も左もない。温度も触感も何もかもがない。私の意識はただ、存在していただけだったのです。
私は酷くおびえる、予定だったのですが、どうもその実感すらわきませんでした。もはやわけがわからない。とにかく肉体が欲しい。肉体が欲しい!わけがわからなくても願いました。願う事しかできなかったのです。肉体が欲しい。神様、どうか私に、肉体をください!!!
『認証しました。 世界変更を実施します。』
次回、異世界の特性