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旅を終えたイブラヒム、一九四四年八月三十一日の東京にて

作者: 多歩間 結

筆者はムスリム(イスラム教徒)ではありません。

しかしながら中東にも関心がある歴史好きとして日本のイスラームに対する偏見には常に思うところがあります。そんな想いも少し込めました。


私、アブデュルレシト・イブラヒムは今、(アッラー)の元へ召されようとしている。


一八五七年に西シベリアはタラの町にブハラ人の家系に連なるシベリア・タタール人として生まれた私が、異国日本で人生を終えるなどロシアにいた頃は夢にも思わなかった。


 ロシアでの暮らしは貧しかったが、今思えば教育の機会には恵まれていたような気がする。

 学校(マドラサ)で教育を受けることが出来たし、折悪く露土戦争でムスリムの取り締まりが厳しくなった時勢に身分証明書の期限が切れて獄中に入ったこともあったが、監獄は悪人ばかりではなく不当に逮捕されたムスリムも多く五日間で五年分の勉強が出来る程、師に恵まれた。

 それらのお陰で導師(イマーム)や教師職で何度も糊口をしのぐことが出来たものだ。


 また、聖地(メッカ)巡礼とメディナ留学、一度の帰郷と二度目の巡礼の中でも途中経由したイスタンブルではムスリム知識人らなどとの良き出会いが多かった。

 やがてそれらの出会いやロシア・ムスリムの改革を主張するガスプリンスキー氏の新方式に影響を受けて、私は終生教育改革への情熱を持つこととなる。


 しかし、ロシアにおけるムスリムの現状は酷いもので、元はエカチェリーナ女帝がイスラームを公認しロシア・ムスリムを統括する為に創設したムスリム宗務協議会は、最早ただのロシア政府御用機関と化し腐敗がはこびっていた。

 だが、私がそれを批判或いはムスリムの改革を呼び掛ける著作活動を行なっている頃に、衝撃的な出来事が発生する。


 一九〇五年に起きた日露戦争である。


 私やロシア・ムスリムに限らず日本軍連戦連勝の報は全イスラームを歓喜させたという。

 余談だが私は対露工作で名高い明石元二郎中佐と会ったこともある。


 日露戦争の最中に起きた「血の日曜日事件」の結果、ロシアは「十月詔書」で国内の自由主義者と労働者の運動に妥協したが、これはムスリムの政治、社会運動も活発化させた。

 故に私は教育改革の他にムスリムの自治構想を抱き、果ては「イスラームの統一」を夢見る事も憚らないようになったのである。


 そして政治活動をしながら中央アジアを周る旅行を終えると、次に行ったのはユーラシア周遊の旅であった。

 その旅で初めて日本を訪れたのは一九〇九年二月二日のことである。


 敦賀港に降り立った私は日本をよく観察したが、やがて横浜に居を構え度々東京へ徒歩で通うようになった。

 当初はもちろん日本語は全く知らなかったが、ロシア語が堪能な中山逸三氏との知己を切っ掛けに多くの日本人と交流する中で、日本語の言葉の組み立て方がトルコ語に似ている事に気付いてからは大いに学習意欲が湧き、十日程で日常会話に支障が無い程度には日本語を身に付ける。

 そして六月までの四カ月間で様々な場所を訪れムスリムの改革に必要な情報を収集したが、多くの場所で講演を行うこともあった。


 私が何故日本を学ぶのかも日本人に説いた事がある。

 その時は預言者ムハンマドの言行録(ハディース)にある「学問は(遥かに遠国の)中国にあろうとも、これを求めよ」という言葉を引用して説明したものだ。


 大隈重信氏の紹介で伊藤博文閣下と面会した事も忘れられない。伊藤閣下が私の旅の目的を聞かれた際、私は心胆を明かした。


 「病人が探し求めるものは薬です。病を隠すことは死を選ぶことです。私がこれほど長く辛い旅を選んだ理由もここにあります」


 すると伊藤閣下は


 「そうではないかと思っておりました。詳しく説明して頂きたい、最終的に私たちの病気は一致し、有効な治療法を見つけることもできましょう」


 という言葉に続けてこう仰られた。


 「あなた方が患う病気の一部は、私たちも患う可能性があります。東洋民族の病は人種的な影響からいつでも関連性があるのです」


 その後、私と伊藤閣下はユーラシアから地中海に広がるムスリム地域が如何に地政学的に重要か、またそれらが列強に対抗する為に連帯する可能性を議論したが、最後に伊藤閣下はイスラームについてへと話を向けた。


 「私たち日本人のイスラームに対する知識は、残念ながら実に乏しいものです」


 という言葉に続いて、イスラームは東洋の民族の間で広がっているので日本人にも容易に受けられるのではと思うが、よく知らないもののイスラームが一夫多妻と誤解され、それが障害となるやもしれないと懸念を漏らされた。


 だが私はきっぱりと言った。


 「イスラームは一夫多妻ではありません。関係すらございません。なぜならイスラームの信仰に必要ではないからです。イスラームはたいそう簡潔な宗教です。端的に申せば、イスラームとは一神教と慈悲の徳からなるものです」



 この会談から然程経たない十月二十六日に伊藤閣下はハルビンにて命を落とされた。

 せめてもの救いは一月後にロシア・ムスリムに向けた雑誌「協議(シューラー)」が、伊藤博文閣下の功績と生涯を紹介した事であろう。


 また、日露戦争において日本陸軍を指揮した大山巌閣下との会話も鮮明に覚えている。

 この方は陸軍元帥を歴任しつつ寄宿学校の校長を兼任しておられたが、何故帝政ロシアを破った英雄が校長職も務めているのか訳を尋ねた事があった。

 すると元帥はしばらくの沈黙の後、笑いを交えてこう答えたのである。


 「欲が深いんですな。しかし、数年のうち千八百人の大山を育ててみたいものです」


 この偉人の仕事をご照覧あれ! 元帥の志には驚嘆する他ない。

 確かにこれは欲張りな試みかもしれぬが、このような貪欲さを発揮する者が我らの国にもいればどれほど有益であったろうか。


 日本人の美徳についても大きな希望を見出したものだ。

 日本人は勤勉、誠実、質素、寛大、慈悲、清潔感、責任感と公徳心の強さ、平等の観念、長幼の序列などの美徳を備えている。

 が、本来これらはイスラームが人々に教えるものであった。

 日本にイスラームが広まっていないにも関わらず、天性として持つ美徳とイスラームの教えが完全に一致している以上、日本がイスラームに改宗すれば、瞬く間に日本を中心にイスラームは結合し、アジア統一も可能であるはずだ。

 しかし、一方で私は政治的、経済的利益なくして日本人がイスラームへ改宗することは有り得ない事も理解していた。


 五月には親交を深めていた内田良平氏の繋がりで親しくなった中野常太郎氏と、彼に並ぶ友人にして私が初めて改宗させた日本人、大原武慶氏の招きで、国家主義団体黒龍会の頭山満氏、元衆議院議長河野広中氏、そして犬養毅氏との会見を行った。

 その結果、彼らの大アジア主義と私のイスラーム統一の夢は概ね一致する事を確認し、日本にイスラームを広げる結社「亜細亜義会」を設立することとなる。


 亜細亜義会は程なくしてイスラーム世界から注目を受け、機関紙「大東」の内容がイスタンブルのイスラーム主義雑誌に掲載されたり、大東に私の長男を始めとするムスリムの寄稿もされるようになった。

 ……残念ながら一九一一年の中国で起きた辛亥革命後に、亜細亜義会は「大亜義会」と名を変えてイスラーム世界より東アジアに集中するようになってしまうが。


 話を一九〇九年六月半ば、私が日本を発って朝鮮に渡ったところに戻す。

 私は親友内田良平氏の努力大である朝鮮合邦は、正当なるものと思っていた。

 しかし、この目で見た事実と旅の車中で同席したロシア語が堪能な朝鮮人の男との会話では、日本の朝鮮統治を手放しに是認するのは難しいと思わざるを得ない。

 七月には中国北東部に入ったが、中国人を見下す日本人官吏と腹の中に叛意を溜める中国人の姿を見ないことはなかった。

 また同じムスリムでありながら、ロシアやオスマン帝国のムスリムが、中国イスラームに全くの無知であることも痛感する。


 それでも私は亜細亜義会が掲げる東洋の統一と解放を呼び掛けた。

 西洋列強のアジア侵食に対抗できるのは東洋が連合を組むことだけと信じていたからだ。


 上海、香港、シンガポールを周り数々のムスリムと議論を交わしたが、宗派や分派の枠を超えて思想の統一を目指す私の考えは困難を極めることを突き付けられる。

 統一の保護者たるべきオスマン帝国は弱り切っており、外交的失態も数え切れないではないか、という意見をぶつけられ、イスラーム統一を目指していた筈のオスマン帝国の失策を認める他なかったこともあった。

 欧州人らの悪意ある作為によって同胞主義、相互支援の原理たる「イスラーム統一」の理念が、キリスト教を攻撃する狂信的イデオロギーとされる「汎イスラーム主義」などというものにすり替えられていることも問題だった。

 クルアーンの章句、『汝ら、みんな一緒にアッラーの結びの綱にしっかりと縋りつき、ちりぢりになるでないぞ』こそ哲理なのだというのに。


 次に訪れた貧困と抑圧に喘ぐインドにて、私は思い掛けない訪問を受けた。

 山岡光太郎氏である。

 亜細亜義会を通じて私を訪ねたという彼に、私はイスラームへの改宗を勧めた。彼はこれに熱心に応え、メッカに入る前に完全なるムスリムとなる。

 ある日、真剣な顔で彼が、今まで自分は割礼を知らなかったが、ムスリムなのに割礼をしなくてよいのかと私に問うて来た時は、大切なのは信心であって急ぐ必要はないと思わずなだめすかしたが。


 一九〇九年末にメッカ入りしたが、私はここで愕然とすることになる。メッカの行政は不全に陥り、汚職が蔓延していたのだ。

 しかし、希望もあった。

 後に「アラビアのロレンス」と共にアラブの反乱を起こすアミール・フサインその人と出会ったのだ。私はその時、彼に日本でとある武人に渡された名刀とヒジャーズ地方の希望を託したのである。


 光太郎氏と私がイスタンブルに着いたのは一九一〇年三月のことだ。

 以降、講演会に招かれる日々を過ごすのだが、オスマン帝国の老政治家キャーミル・パシャに私の旅やイスタンブル到着はいささか遅かったと言われてしまった。


 アブデュルアジズ帝の御代であれば、あの頃の我が海軍もまだ威力があり、特別な装備とともにあなたのような人を派遣したでしょう、と。

 また、アブデュルハミト帝も日本へ使節団を送るはずでしたが、エルトゥールルは不幸な結果に終わりました、とも溢した。


 既に青年トルコ革命によって帝国は一変しており、衰弱したオスマン帝国は自らの国を保つことで精一杯だったのだ。


 だが、これしきの事でイスラーム統一を諦める私ではない。


 一方でその後の日本の外交姿勢には失望せざるを得なかった。

 一九一一年九月二十九日に伊土戦争が勃発したが、事もあろうに日本はすぐさま局外中立を宣言したのだ。

 私はオスマン軍を鼓舞するべく現地へ向かう前に、「大東」にて日本語で日本への批判と助言を行った。


 日本はイタリアへ何故世界の平和を無意味に攪乱する行動を取るかその理由を問いただすか、米国に倣って沈黙を保ち機会を窺うべきであったのだ。

 しかし、浅慮な中立宣言によって日本は国際社会に存在感を示す千載一遇の好機を逸してしまった。

 また狡猾な欧州諸国の権謀術数によってトルコが倒れるようなことになれば次に中国や日本が標的となるは火を見るよりも明らかであり、日本の守勢的外交は日本に取ってもアジアに取っても百害あって一利なしである。

 故に日本が取るべきは欧州に対しての外交的攻勢であった筈だ、と。


 一九一四年に起こった欧州大戦において、私は自らの意志とオスマン帝国陸軍大臣エンヴェル・パシャの要請により、カフカス戦線のオスマン軍の戦意高揚やベルリンでロシア軍捕虜からタタール人ムスリムを集めた「アジア大隊」を編成するなど精力的に活動した。

 それらの活動が実を結ぶことはなかったが、それでも私の熱意が冷めることはない。


 ロシア革命も過ぎた一九一八年、私はイスタンブルを発ちベルリンにいた家族を連れて故郷へと帰国することにした。

 が、途上のウクライナでは白軍と赤軍の戦いは収まっておらず、その混乱に巻き込まれた。何とかたどり着いたベルリンでも今度はドイツ革命の真っ最中であったが、無事家族とともにリトアニア・タタール人達を頼ってロシアへと入った。

 十年ぶりの祖国は荒廃しつくしており、帰郷の途中で見た飢餓の惨状は敬虔なムスリムもあらゆる禁忌を犯さざるを得なかったほどである。

 故郷タラに戻った私は男女別の学校を創り、二年間教育に従事した。


 だが私はソビエト・ロシアを注視し続けることも忘れてはいない。

 当初、ソビエトはムスリムの支持を取り付けるのは帝政以来の「東方問題」で対決する英国に対抗するうえで極めて重要と理解していたのだ。

 私もレーニンに度々トルコやイラン、アフガニスタンなどから訪れた「東方の解放」に関わる重要人物相手の通訳を頼まれたことがある。

 しかし、一九二三年以降はスターリンによってムスリムは帝政時代を上回る抑圧を受けることになった。


 私はその前年に新疆(しんきょう)、北京、ハルビン、ウラジオストクを巡ってからモスクワに向かったのを最後に、翌年家族を連れてロシアを去る。

 レーニン死去を知ったのはトルコに着いてからであった。


 イスタンブルへ移ったものの、新生トルコ共和国での私の立場は微妙なものだった。一九二五年以降はコンヤ村で事実上の隠居を余儀なくされ、余生をここで過ごすことになると思われた。


 だが、私はまだ求められていたのだ。


 一九二九年、突然私は在トルコの日本大使館から来日の勧誘を受けるようになる。

 そして、私は一九三三年十月十二日に再び日本の地を踏んだ。

 ロシア革命後に日本へ亡命したタタール人を中心に結成された東京回教団と日本のアジア主義者らから熱烈な歓迎を受けた後、五・一五事件で亡くなられた犬養毅氏の墓前に参った。


 以後、私は東京回教団が発行し、イスラーム世界に日本についての紹介やムスリムの論説を載せるムスリム雑誌「新日本通報」に寄稿する執筆者として活動する。

 だが、一九三〇年代は意見の違うムスリム知識人との対立や中傷への戦いが続いた。今振り返ると随分醜態を晒してしまったように思える。

 だが悪い事ばかりではなく、三八年五月十二日には念願の東京モスクが開堂。翌日には世界回教徒懇談会が開かれた。

 亜細亜義会の変容で中断した日本を中心としたイスラーム統一の夢が再始動したのだと、その時は疑っていなかった。それからも私は執筆を続け、日本政府のイスラーム政策に協力していった。




 一九四四年八月三十一日、私の人生はこの日終わる。分かるのだ。もう私の夢がとっくに時流に取り残されていた事も、日本の指導部に都合よく利用されていたことも、日本の破局も、何もかも。

 だが、それでも私は――


「私はムスリムだ、私はムスリムだ、私はムスリムだ」




 アブデュルレシト・イブラヒム 享年八七。


 遺体は多摩墓地内のムスリム墓地に葬られた。彼の四十日祭と追悼会は十一月十日から翌日の両日行われ、東京回教団本部へイブラヒム翁葬儀写真帳が参謀本部から送られたという。


 イスラーム諸国は第一次世界大戦以降、既にナショナリズムに基づく国家を形成しておりイスラーム統一の芽は僅かに残るのみであった。イスラーム統一はナショナリズムの観点からすれば時代遅れの理想とされたのである。

 また日本とイスラームの関係も二度目のイブラヒム来日以前に冷え込みつつあった。ムスリム知識人の間では、欧米列強と同じく日本は暴力による勢力拡大を目論んでいると看做され、当時の日本の考えにイスラームが同調することは不可能であるとまで言われている。


 (前略)力と暴力による調停はイスラームの取るべき方法ではない。倫理を冒した国は広く非難を浴びることを知るべきである。暴力は、平和を意味するイスラームの否定にほかならない。――ミヤーン・アブドュル・アズィーズ(全インド・ムスリム連盟会長として日本初のモスク、神戸モスク落成を祝すため来日した経験がある人物)


 日本に対するムスリムからの失望は大きかった。

 「新日本通報」も日本の宣伝活動の一環でしかなく、イスラームになんら歩み寄りがないものという当時のムスリム知識人からの批判も存在する。


 開国以前から日本のイスラーム情報は偏見や誤解が多かったが、戦後の日本とイスラームの繋がりはより薄まり、イスラームに関する情報は主に欧米から流入するようになった。その結果日本におけるイスラーム知識は欧米と同様大変偏ったものとなっている。

 日本にて没した老ムスリムはどのような想いで天から世界を見下ろしているのだろうか。


 最後にイブラヒムがレーニン死去に触れた際、イスタンブルのセビリュルレシャド誌に寄稿した文の最後に、ロシア・ムスリムに自ら無知から脱し自力をつけることを呼び掛ける意味で引用したクルアーンの内容を現代日本に呼び掛けるつもりで付け加えさせて頂く。


 アッラーは、人間の方で自分の状態を変えないかぎり、決してある民族の状態を変えたりなさらない――クルアーン第十三章十一節



参考文献 「イブラヒム、日本への旅―ロシア・オスマン帝国・日本―」小松久男(著)



イブラヒム氏が夢見たイスラーム統一は、残念ながらナショナリズムありきの近代、現代ではとても実現するとは思えないものだと筆者も思います。が、人種や民族という括りではなくイスラームによる共同体(ウンマ)の中で仲良く暮らそう!という思想をきっぱり否定するのも間違っているようにも思えます。少なくとも人種差別を否定する思想ではあるし、非イスラム教徒との共存も認めているのですから。(そもそもイスラーム自体が古くから不平等ながらも共存を図っていて、現在でもイランでは国内のアルメニア人正教徒のためにクリスマスを公認していたり、他の中東諸国でもクリスマスを元からある新年を祝う祭りの一部としてある程度受け入れていたりする)


そして最後にどうしても言いたい事があります。イスラム過激派はクルアーンの中身を碌に理解していない連中なのでイスラム教徒として見ないで下さい。イスラームにはイスラム教を悪用する人が落ちる地獄(ハーウィヤ。七階層ある地獄の最下層)が用意されている通り、イスラームはテロ行為を認めていません。

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