食への感謝
食への感謝
文・長根兆半
「板前・料理人」
序・本地
人間には、人権と同時に、生存の権利がある。不可分であるがゆえに、これを合わせ、人生権ということにする。
人間生活権ということも出来るかもしれない。
誕生
まず新生児から看てみたい。
生まれてすぐ、親が子を保護している。
これは親の権利であり、義務ではない。
権利は放棄できるが、義務は放棄できないが故である。
半年・一年未満の新生児に、義務も権利もない。ただ本能だけである。
親にとって、子捨て、子殺しが出来る事で証明できる。この良し悪しはさておく。
人権とは、自己主張である。
生存の権利とは、食を確保する権利であり、自他共に殺害しないと言うことである。
他人が保持している食料を、理不尽に搾取、強奪することは、他者の生存を脅かす事になる。つまり生存権の破壊である。
宗教・道徳律という教育制度とともに、
これは人間の掟として、政策、憲法として制定する事が、国家はその国民の生存権を守る事になる。
もし、国が、国民個々の食糧確保に対し、破壊行動を起こした時、国は憲法違反となる。
ともに権利であるがゆえに、個人はこれを放棄する事が出来る。
生きとして生きる者の、本能的関心事は、まず食料の確保にある。
食料のない人間に、何が出来る、何もない、有るのは即、死である。
まだ、死にたくないと言うのが個々における人権の基礎である。
一、素人と玄人との定義。
誰もが面倒と思い、誰もが嫌な事を引き受け、率先して行動を取りるのが玄人への入り口である。
日常生活の基本は、消費という破壊と、生産という建設から成り立っている。
破壊は建設を目的とし、消費は生産を目的にする。目的達成の結果から、具体的に、金額としての利益を生み出すのが玄人である。
地球上に数ある玄人の世界の中で、料理の分野で、これを実行する人を板前と云い料理人という。
人類の健康を健全に保持すると言う義務と責任がある。
消費は仕入れ、破壊は包丁。生産は調理、建設は盛り付け。利益は繁栄、健康は幸福。義務は工夫、責任は愛情である。
玄人の玄人たる所以の最大の基盤は、責任感であり、責任を持つことである。
二、 「食する事」
「食事をする」とは何か、名曲を聴き逃しても、現代では、次を待てる。
だが、食はどうか、次の名曲を待つほどに、悠長に待てるか。待てない。
名曲どころではなくなる。
空腹には勝てない。空腹を満たすものは、食料である。
百万言の美辞麗句も、空腹には勝てない、叶わない。いかなる日常の行動もそして芸術も、その身があってこそのものである。
さらに、その体には、常に心が共存し、その心と体は常に離れることは無い。
心ここにあらず、というが、そのように言う心は、ここにある。
俗に、食い物の恨みは大きい。と云われるのは、生きるものにとって、いかに食料が重要かを裏付けている。
心が先か体が先か、誕生前と死後を思えれば、心が先だと推測が出来る。
だが、誕生から現在までの事に限定した現実を思えば、体が先になっていることも認めざるを得ない。
物心ついた時から、という言葉がそれを証明している。
母の胎内にあっては、母から養分を受ける。
この時から食事は始まっている。
そして十六・七歳で、個人の味覚は安定する。
その味覚を満たせる環境から離れると、時として人は、その味覚を尋ね、さ迷う事すらある。
なぜ生きとして生きている動植物は、食を執るか、それは死にたくないから。
老いたくないからであり、病にかかりたくないからである。
しかし、食によってこれら生・老・病・死を解決できるわけではない。
ただひたすら現在の健康を維持したいという願いを込めているのである。
三、「毒と薬」
危険物は、薬と違い、普段身の回りには置かない。
危険から身を守るという意識があるからである。その好例が、茸の場合に、顕著に見ることが出来る。
野山を歩けば、いくつかの茸を目撃する、明らかに、食えると思っても、手を出さないのが普通である。
ところが、店で販売している茸には、解らなくとも買う事がある。これもひとえに、健康保持、まだ死にたくない、という本能が明確にあるからである。
四、「餌と食事」
餌となれば、只食えばよしとする空腹を満たすという欲求だけである。
その満足の為に、食料を探す。
これは人間を含め、他の動植物にも共通している。
食事となれば、健康維持への配慮から、食材を選び、加工調理し、摂取する。
これは人間だからこそ出来る大きな特徴である。
食文化の発達とは、食事に対し
A,食材選択、B,調理加工、C,味付け、D,盛り付け、E,場所、F,安全、G,信頼、H,健康、I,満足、J,希望。
という過程の一つ一つに於いて、歓喜の共有という一貫性を持ち、大歓喜へと、追求していく事である。
この追求に終わりは無い。
これで「良し」とした時、その食文化は停滞から下降へと向かう。
食文化の向上とは、自然に帰るという理想に向かう事である。
人間が食事を摂る、ということは、明日への希望を持っているからである。
希望の無い食事は、餌へとなり下げてしまう。
五、「食事の提供」
ここでは、食事を作る側を板前・料理人とし、食する側を客と言い分けておく。
そして客に饗する料理を作品と呼ぶことにする。
客は命懸けである。
それに応えるのが、板前・料理人である。
客は希望を持っている。
その希望を増幅するのが、板前・料理人である。
客は敏感である。
板前・料理人は、作品の中に、作者の見えない心が宿っている事を、自覚認識するべきである。
作品に対する客の評価が総てであり、作品への是非の結論となる。
板前・料理人の目的は、創る事にあるのではなく、客の希望を叶える事にある。
六、「営利と料理」
ここで言う営利とは、食堂経営の事である。料理とは板前・料理人の作品である。
経営とは利益の追求である。
作品は営業方針の領域を、逸脱・無視してはならない。
その中で、板前・料理人は
前述のA,食材選択、B,調理加工、C,味付け、D,盛り付け、E,場所、F,安全、G,信頼、H,健康、I,満足、J,希望、への追求に執念を持ち、持続発展を心がけるのである。
客は明日への希望を持って、命を賭けて食事をするからである。
客の持つ、見えざる希望を叶えるために、食堂はある。
食とは、存命の糧であり、堂とは安全である。
食堂とは、安全に食事できる、と言う事の別名である。
人間は誰でも、「マダ、死にたくない」という執念にも似た希望を持っている。
そのために人間は、肉体の存命を願い、食事を摂り、心の豊かさを願うがために、音楽を始め、芸術作品を求める。
ここにおいて、食による肉体と芸術に感動する心は不可分である。
七、 「食事と音楽」
料理と音楽、 この二つの分野は、共通点が多い。
楽譜と献立は同位置にあり、それだけでは、何の意味も成さない。
際立っている事は、作品としての料理も、楽譜の演奏も、ともに次の瞬間には無くなる、消えるという事である。
一瞬の芸術にその全てを賭けるのが、板前・料理人と演奏家である。
あらゆる芸術には、楽譜や献立と同じ意味の位置にある図面がある。
八、作品寿命
永久保存さえ可能な絵画、彫刻、建築物などがそれである。
音楽演奏の作品は、板前・料理人のそれより、さらに作品生命が短い。
料理人の作品は、眼で楽しんでから食しても遅くないが、音楽演奏の作品は、一瞬に出す音のつながりであり、変化の連続である。
終わった途端に、静寂となり、聴衆の心に、その印象だけが残る。
板前・料理人の作品は、眼と口(舌)、時として耳に、さらには鼻にすら訴える。
音楽演奏の作品は、耳という聴覚を通してのみ、心に訴えるのが基本である。
食によって培われた肉体を、音楽演奏はリードしている。
演奏家が、楽譜の心を熟知して演奏した時、聴衆は演奏された音楽によって、演奏家と喜怒哀楽を共有できる。
冠婚葬祭、果ては戦争にまで音楽演奏は欠かせない事で証明され、現実である。
九、聴覚と触覚
耳と皮膚感触は、常に環境を捕らえ、自ら閉じる事は出来ない。
幸福の音も、不幸の音も耳は捕え、肌は気候の変化を捕えている。
言い換えれば、自分の感情のままに発した音声をも、自らの耳から入って、自らの心に宿る。
つまり、舌は災いの根、耳は幸いの門と言われる所以である。
これを心得た時から人は、耳から入った不幸の音を、心で幸福の音に変えることに、努力できる。
努力とは繰り返しである。
十、「藝」という文字
「藝」という字を見ると、草冠の下に執念の「執」があり、さらに「伝」えるがある。
「草」と「執」と「伝」からなっている。
「草」は表現を表し、「執」は哲学を現す。それを「伝」い得るとなって始めて「藝」という文字は成立している。
表現を伝えるだけの事を趣味といい、そこに哲学が確立する事で、見る者、聞く者に感動を与え、人から芸術家と呼ばれるようになる。
「執」のない「芸」は、ドライバーのいない高級車である。
表現としての「草」がない「伝」は、車を運転することが出来るというだけのドライバーで、ペーパードライバーと同じである。
「伝」のない「草」と「執」だけでは、一人よがりの自己満足である。
自己表現が他人には「伝」わらない。
架かる理由から、「藝」という道に踏み出す者は、「草」と「執」と「伝」を熟知し、日々怠り無く自らの心技体を修練し、磨く事が肝要である。
修練といい、磨くというのも、これは、一重に同じ事の繰り返しである。
十一、表現
1、「草」は表現
原始の昔、草の結び方で、自分の意思を伝えた。
表現手段は、個人の好みによって決まるが、肉体の何処に訴えるかによって、表現方法を選択できる。
六感といわれる感覚には耳、眼、鼻、舌、皮膚の五感があり、それは全て、第六の心に向かっている。
例え五感の総てに対し、同時に訴えたとしても、最後は心に行き着く。
耳は聴覚、空気中で、秒速三百三十一メートル、水中で秒速千五百メートル(マッハ)という速度で会話、音楽を受け入れる。
眼は視覚、絵画彫刻、文、そして視野の総てを、秒速三十万キロという絶対速度の速さで、受け入れる。
鼻は臭覚、汚臭、香臭を受け入れ、嗅ぎ分け、感情の起伏に最っとも大きな影響を与える。
舌は味覚、健康に貢献する。
また、心に従って心を表現する事の出来る唯一の肉体である。
皮膚は触覚、肌は接触によって外界を受け入れ、心に伝える。
心は五感からの影響で、千変万化する。だが心の基本思考を決定する生命を感知することによって、心の方向性を決める事が出来る。
人には見えない心だが、他人に見える行動として表現される。
2、「執」は哲学
哲学とは、手の届かない事や、難しいことを言うのではない。
哲学とは、自らの日常生活を、理論的に整理することである。
例えまとまりのない思考過程にあっても、この行動は、必然的に「伝」への欲望となる。
内面の「執」から利他の行動「伝」へと移行する事で歓喜の共有が成立する。
3、「伝」は方法と道具
第一に口を使った言葉、音声がある。
第二に口がなければ手話という肉体の表現がある。
第三は、道具を使っての表現で、無限にある。
道具とは、道に備えると読む。
道とは、個人の好みである。
好んだ道に備える器具を道具という。眼に訴える絵を好めば画材であり、耳に訴える音を好めば楽器である。
舌に訴える料理を好めば調理器具となり、鼻に訴える香りを好めば香木である。
皮膚に訴える感触を好めば、人間の手に勝るものは無い。
十二、塩と砂糖
人間は、砂糖が無くとも、生きていけるが、塩がなければ生きてはいけない。
砂糖を活かすのは塩である。
目に見えない心の中での塩とは何か。
健在を願う食欲への刺激である。
人生における最大の刺激は、あらゆる芸術作品である。
ある作者による作品を鑑賞したい時、直接では、何の意味もなさないが、間接的な形によって理解が出来る作品がある。
つまり、原作品と鑑賞者の間にいる人間の表現について語ってみたい。
中間に立つその人間を、創造芸術家と呼ぶことにする。
翻訳家と呼ぶにもふさわしい。
映画制作の場合の脚本家、そして演出家。食材を食事に変える料理人。
言語を母国語に訳す翻訳家。
楽譜を音楽に換える演奏家。
こうした創造芸術家は、道具を使う。
善悪両面を備え持つその道具を、どのように使うか、使う人間によって決定する。
十三、「執」の哲学について
共通する「執」の哲学に関して、執とは執念である。
執念とは、念ずるが故に、諦めないと読める。
原作者の作品に感動した自分を、他にも伝えたいという執念である。
この執念を表現するための道具であり、それ以外の目的で必要とされた道具は、装飾品であり、単に自己満足である。
十四、「伝」の方法について
「伝」とは伝達の事である。
道具を使わない口や動作に続き、道具を使って、利他の行為をする人には、天才的に知識や理論を持った演奏家が、あまた多いが、演奏芸術家と呼ばれる天才は、稀である。
天才的演奏には、映像がある。
奏者がまず、楽譜から映像を結び、楽譜を、演奏へと翻訳しているが故である。
聴衆の感性によるとはいえ、聴衆は容易に映像を結べる演奏を好むものである。
演奏から結ばれた心の映像と、目前の料理に表現された美の感覚に、共通性が大きいほど、そこに存在している人間の歓喜は倍増する。
だから人は、味覚を求め、場を選ぶ。
「死にたくない」を筆頭に、共存への希望を共有しようとする本能がある。
「死にたくない」ということは生きている方がいいからである。
無意識だが生への感謝がある。
他の動物には、感謝があるだろうか。
何頭かいる牛や馬の中で、一頭がライオンに殺された。
この時、他の牛馬は、ライオンから逃げる事はあっても、救助も涙もない。
人間はどうか、交通事故などの悲惨な死を知ると、例え他人でも同情が出る。
其れが親子、親戚、知人友人となれば、なおさら悲しみの度が強い。
これは、他の動物には、生きている喜びがないから、喜びを失った悲しみもない。
人間は他人の死に涙する。
其れは喜びを失った人への悲しみであり、生きている自分への感謝である。
この本能の一つを担うのが板前・料理人である。
思うに、誰もが面倒と思い、誰もが嫌な事を引き受け、率先して行動を取りるのが玄人への入り口となるが、人間の生存を考える事の出来る者のみが、立ち入る事が許される。
いかなる職業であっても、その職業に対し、人間の生存を意識して行動する事自体、玄人である。
生活へのプロフィショナルである。
プロの言を用いれば、自殺は自己否定以外、何の意味もない。
十五、「余談」
何で、あんた、一生懸命なんだい?
お袋のためさ。
なんだいそりゃ?
俺さ、親兄弟の縁が薄い、デモよ、一度だけだったが、お袋にすき焼き作ったことがあった。
そん時、お袋がえらく美味いと言ってくれて、十年に一度会うか会わぬかなのに、遭えばこの話をしてくれる。
すき焼きだけじゃなく、もっとお袋に、何か作ってやりたいと、いつも思ってだけいた。
俺が思ってるうちに、お袋は死んじゃった。
だからさ、俺はいつも、これをお袋に食ってもらうんだって気で、仕事やってるのさ。答えになってるかな、もう食って貰えないけどさ。
---------おわり-------------