病人は夢を吐く
部屋いっぱいの電子音、それからカーテンの隙間から差し込む太陽光が瞼をこじ開ける。僕は芋虫のような仕草でのそのそとベッドから這い出た。数週間前に学んだばかりの哲学がふ、と頭を過ぎり、あぁ、脳に電流が流れたのを目が覚めたと勘違いしているのかも、なんて、そんなことを思った。ベッドメイクなんてのは他所に行かない限りやらない。いつも起きたらそのままだ。これは単に僕が面倒くさがりというだけではなかった。自分の身体にそった形のままの、抜け殻みたいな掛け布団が好きだから。もしかしたら昨日の僕はもうちょっとだけいい人間で、こんな駄目になったのは今朝の脱皮の痛みからかもしれないとか、考えたりできるから。
パジャマを脱いで普段着に着替える。お前の服、いつも似たような風だな、ってたまに言われるけれど、気にしない。変な目で見られないようにというだけで選んだ服に好きも嫌いもない。白いシャツと紺のカーディガン、黒っぽいジーンズ。これさえあればなんとなくやっていける。心の中で、今日も一日、うまく生きようと呟き、子どもの僕の残骸を洗濯機に放り込んだ。
それからキッチンに行って、母が用意していったサンドイッチを口に詰め込む。寝ぼけた舌にハムとチーズは少々きつい。咀嚼しなぎらコップにアイスコーヒーを注いだ。足元を飼い猫の柚子がうろうろして鬱陶しいので爪先で軽く蹴って追っ払う。やっているのは全部他ならぬ自分なのに、お前って本当にどうしようもないな、と笑う自分がどこかにいるように感じ、思わず舌打ちした。
イヤホンをつけて家を出る。細長いコードを点滴の管みたいに揺らし、派手な曲調の歌を摂取しながら歩く。歌詞はかなり暴言的、あるいは皮肉っぽいけれど、その擦れた世界観みたいなのが心地よいと僕はそれをひどく気に入っていた。以前、こういう歌をよく聴くと言って友人に驚かれたが、僕からすればガムシロップみたいな安っぽい愛の歌を聞くよりも、こういうロックのほうがずっと性に合っている。
駅について電車を待つ間、他人の中の僕はどんな人間なんだろうと考え、音量を一つ上げた。中毒になっているかもしれない。初めて聞いた時の多幸感はもはや消えているのに、ずっと求めてしまっている。脱法ロック、なんて誰かが茶化して言ってるのを聞いたことがあるが、その実、この歌のほうが脱法ハーブなんかよりも中毒性があるんじゃなかろうか。音楽は麻薬的だ。
ブレーキが死に際の鳥のような声を上げる。今日もひどく混んでいる。電車通学なんかしたくなかった。それでも田舎暮らしの僕が実家から大学に行くにはそれぐらいしか方法がない。それで仕方なしに、今日も渋々煙草臭い男と香水臭い女だらけの異臭がする箱の中に入っていく。
扉が音をたてて閉まる。プシュー、という音に、炭酸水の中に落ちる夢想をした。肺がちくり傷んだ気がしたが、気分は幾分か晴れたように思われた。
壁にもたれかかって数十分。僕は大学の前の駅についた。
よれたカーディガンの裾を引っ張ってただしながら、もう少し薄着にするべきだっただろうかと僕は考えた。今年はやけに暖かくなるのが早いな、とも。
初夏は嫌いだ。この季節から秋にかけてツツジが満開を迎え、あちこちで咲くようになるから。蛍光塗料に浸したような派手な色彩も、が脱ぎ捨てられたスカートのように見える地に落ちた姿も、かつての恋人とその蜜を吸った遠い過去の記憶を蘇らせる匂いも、全部、全部、嫌で仕方ない。
僕の通う大学の敷地内にもツツジの花が咲く。僕は教室に向かう途中、落ちた花をうっかり踏んづけた。それは僕の靴の裏にべっとりと未練がましくへばりついた。それで、なんだか泣きたくなった。しばらく僕は何をするでもなくその場にじっと立ち尽くしていたが、周りから冷たい視線を向けられたので咳払いして教室に向かった。
一限が始まった。哲学の授業だ。この時間をとりもっている教授は僕より半世紀以上前の生まれで、もう既に白髪まみれの老人である。だが、僕は彼を子どものようだと思っていた。悪い意味ではない。他の大人よりもずっと、尊敬できると思っているということだ。僕はこの教授が好きだった。当たり前に慣れて、疑うことをすっかり忘れている大人よりもずっと、話していてためになると考えていたからだ。
まぁ、過去形なんだけど。何回か前の授業で、話が終わった後、終了時刻まで時間が少し余ったので教授は自分にとって哲学がどういうものであるかを語り始めた。
「哲学者というのは、大抵、少数派なんですよ。百人か千人かに、一人いるかいないかっていう、他の人からすれば頭のおかしなことを主張するものなんです」
立ち続けで疲れたのか、椅子に座りながら彼は続けた。自慢げににこりと笑っていた。
「それでね、私は哲学という学問はそういう少数派になる勇気を与えてくれる学問だと思っているんですよ……」
これは僕を酷く失望させた。僕は哲学を凡人が勇者になるためにある学問だとは考えていなかった。病人の理性を保つ、最後の頼みの綱のように考えていた。
本当に裏切られた気になった。かといって、絶望もしきれなかった。そんなことで完璧に絶望できるほど豊かな感受性を持っていたならこの年になるまでに死んでいた。良くも悪くも中途半端な僕は、あぁ、憂鬱だ、最悪な気分だ、なんて呟いて机の上に伸びることしかできることがなかった。
今日もなんとなく聞く耳を持てない。僕はもうすっかり、なんのために大学に来たのかわからなくなってしまった。大人も学問も僕の命綱にならないなら、一体何を頼りに生きればいいんだろう。
昼休みになった。僕は友人と学食で待ち合わせた。友人はハンバーグランチを、僕は持参した弁当をとる。
「いただきまーす」
「いただきます」
生姜焼きを口に入れたはいいが、なかなか呑み込めなくて口の中でずっと転がした。元々、肉の脂が舌に絡まって気持ち悪い。
友人は僕の顔を見ながら言った。
「生姜焼き、嫌いなのか？」
なんとか口に入っていたものを呑み込んで僕は応えた。
「いや、別に」
「じゃあ風邪か？」
「……自分に嫌気がさしただけ」
「おいおい。お前なぁ。今からそんなんでどうすんだよ。俺たちまだ若いんだぜ？」
箸でハンバーグを割りながら友人は諭すように言った。肉汁が涙のように溢れる。
「ただの葦にはなりたくないんだ」
「はぁ？」
なんだそれ、と友人が笑うので、僕はため息をついた。友人も僕の仲間ではなかった。僕はなんとなく彼のトレーの上にあるお椀を横から、つっ、とつついた。中身は普通の味噌汁だったが、分離が始まっていて、味噌と具が沈殿していた。
「そういやお前、文芸部に入ったんだって？」
「まぁ、楽そうだから」
「楽そうだって言えちゃうのか。すごいな。小説を書くなんてなかなかできないだろ」
また出た、と僕は思った。小説を書いているなどというと、たまにこうして、やたら尊敬してくる人がいる。僕には小説を書く事の何が素晴らしいのかわからない。いっそ笑われたほうが納得できるのだ。僕にとって創作活動は病人が痰を吐くようなもので、褒められるべきものではない。
数年前、僕の祖父は僕が小説を書いていると知った時、あいつは家の恥だ、などと僕を卑下することをたくさん言った。それで僕の祖母達と大喧嘩したのだが、僕はその時も祖父の反応のほうが真っ当で、祖母や他の人のほうがおかしいと思っていた。
とはいえ、良かれと思って褒めている相手に「頭おかしいんじゃないか」なんて言えるわけもないので、僕は「大したことじゃないよ」なんて無難に笑って返事をした。僕がインクの入った壺をひっくり返されたような思いをしているとは知らず、友人はもう一度僕を褒めた。僕は少し顔を顰めた。こいつとは友なんかではなく、ただの知人だったか、なんて思った。それから数分、雑談をしてから僕らはまたそれぞれの授業に向かった。
それから数時間。全ての授業を終え、僕は帰路についた。家に帰ると僕は晩御飯をとる。家族と一緒にとるが、そんなには話さない。それぞれ静かに自分の分を食べる。僕はこの時間が好きだった。あっという間に過ぎてしまう一日の中で、夕食の時間は僕にとって未来を考えられる絶好の時間だった。でも今日は少し沈黙が重い。
食事を終えたら、風呂に入る。あがった後は、パジャマに着替える。僕は綿素材の服じゃないと眠れない。大人用のパジャマはだいたい無地かチェックなので、つまらないな、と僕は思った。子ども向けのものみたいに、蓄光プリントの星柄とかあったらいいのに、と。僕は夢を見るのではなく、纏いたかった。
眠りにつく前、僕はいつも決まって机の上でノートのまだ白いページを開く。そうして、万年筆を握りしめ、思うまま掻き出す。書き出すのではない、掻き出すのだ。いや、「吐き出す」のほうがふさわしい。僕はその作業の中で自分の中に溜まった不純物を、全てそのまま紙の上に引き摺り出してしまう。椅子に座りもせず、背を丸め机に向かい、ただ単語や記号を紙の上に散らし続ける姿はきっと病人が嘔吐する姿に似ている。書きながら、この万年筆に詰まっているのは、涙を煮詰めたものなのかもしれない、なんて考えたりもするから、ますます病人くさかった。
ノートは埋まる日と埋まらない日がある。今日はやけに埋まる日だった。そろそろ溜めたものを整理してもいいかもしれない。でも、疲れていたので今日はやめておこう。
僕はベッドに倒れ込んだ。開放感と倦怠感が眠気を誘った。寝落ちの一歩手前、僕はＣＤプレーヤーの電源を入れる。よく知らない吹奏楽団の演奏を聴きながら、僕は眠りに落ちていく。優しい音に包まれて、ゆっくり、ゆっくり、現実と意識が乖離していく。今日、友人が飲んでいた味噌汁のように、というとなんだか滑稽な響きだけど、そんな風に。
掛け布団を足で手繰り寄せ、僕は目を閉じた。いつも蛹にこもるように全身頭まですっぽり掛け布団を被る僕だが、よほど寒い日でもない限り、手は布団の外に出す。体温は人より低いほうなのだが、手だけは何故か熱いのだ。休み時間には汚してもいない手を冷やすためだけに洗いに行くこともある。
……かつての僕が受けていた愛が体温としてここに残ってる、とか、さ。
いや、ありえないってわかってる。今夜は少し冷えるから、なんだかセンチメンタルな気分になった。それだけ、それだけだよ。
なんて、誰かに言い訳するように呟いて、僕は夢の中へと背中からぐらり飛び降りた。
大学の部誌に載せた話です。
リテイク済。
そのうち挿絵を入れる予定です。
