2-6
ミスラの冬は日が短い。
ナジル宅に到着する頃には、空はかなり暗くなっていた。三人は汗まみれだった。
ナジル家には、村の男たちのほとんどが集まっていた。
ナジルの号令により、今後の方針が村民たちで共有されたところだった。
カクリとアーシャは、ナジルによって書斎に呼ばれた。
ナジルは初めに、村の若者二人を、地方都市ローディに使いに出したと語った。
死人が出た以上、衛兵に知らせる必要があった。
その二人は、昼過ぎに出発していた。
ローディ市は、ミスラ山脈の少し南に位置する小規模の地方都市である。タララ村からだと何事もなければ往復七、八日の道程だが、それは冬でなければの話だ。
天候にもよるが、衛兵が応援にやって来るまでおそらく二十日前後だろうとナジルは言った。
「そんなに迅速に来てくれますか?」
と、カクリは言った。
「来る。そうなるようにしかるべき男に書を送った」
「それなら、応援が来るまでは守りに徹するということですね?」
「いや」
「違うんですか?」
「今、我々にとってどうなることが最悪か、分かるか」
カクリは少し考え、分からないと言った。
思いつくことはいくつもあったが、一つにしぼることができなかった。
ナジルは続けてアーシャを見た。
彼女は、ちらりとカクリの横顔に目をやった後、「分かりません」と答えた。
ナジルは言った。
「それは不意に襲われることだ。予期しない襲撃は、戦いの心得を持たない私たちをたやすく烏合の衆にするだろう。相手は家の壁を破壊して、闇の中不意に現れる獣だ。何の方策もなくただ家にこもって時を過ごすのは悪手だ」
「でも、他にどうするんです?」
ナジルの答えは、カクリが思いもかけないことだった。
「我々の手で獣を殺すのだ」
「それは」
「獣はずっと馬をねらっていた」
「……」
「獣は自分の獲物が隠されたことに怒ったのだ。だから、獲物の匂いをしみつかせたムルガの家族を殺した」
父が何を言いたいのか、カクリは察した。
「囮にするんですか。馬を」
「そうだ。我々の有利な場に獣を誘い出して、戦いを挑む」
「しかし、わざわざ獣をおびき寄せた挙句、敗れて誰かが殺される可能性もあります。そんな危険なことを、本当に?」
「そうならないための手を、これから打つんだ」
「それは一体どんな?」
それにはナジルは答えなかった。
「決行は今夜ですか」
と、アーシャが聞いた。ナジルは首を振った。
「天気がくずれてきている。今夜は雪だろう。今まで獣が村に現れたのは、いずれも星の見える夜だった。今夜、雪の降る夜には獣は現れない。決行は次に晴れた夜だ。それまで体を休めておきなさい」
「しかしそう思い切るのは危険では。今までの襲撃が偶然晴れの日だっただけだという可能性もあります」
「偶然ではない。獣の習性とはそういうものだ」
ナジルは断言した。彼がこういう言い方をした時、それが間違っていたことは今まで一度もなかった。
それでアーシャは納得したようだが、カクリはまだ迷っていた。
父の言うように村民だけで獣と戦うのが最良だとは、彼にはどうしても思えなかった。それでも黙って父に従うべきか、それとも論争を重ねるべきか。
「本当に、我々で獣に立ち向かうんですか」
「恐ろしいか」
「当り前です」
カクリの脳裏に、無残なムルガの両親と妻の姿がちらついた。それから家族を失って悲嘆にくれるムルガの姿も。
自分が無残に死を迎えることは恐ろしかった。
だがそれ以上に、親しい人たちが死に、その悲しみに触れることが恐ろしいのだった。
「俺たちは戦いの心得を持っていないって、父さんも言ったじゃないですか。衛兵が来るまで守りに徹するのは本当に駄目なんですか。交代で夜通しの見張りを立てれば、不意打ちはある程度防げます。ねらわれていた馬を獣に与えてやれば、人が襲われる可能性も減ります。時間は十分稼げます」
「かもしれん」
「なら、そうすべきです」
「そして我々は、逃げ隠れて時を過ごすのか」
「悔しいですが、死人を増やす危険よりはましだと思います」
カクリが、ここまで父親に食い下がることはめずらしかった。簡単に譲るわけにはいかないと思っていた。こればかりは自分が正しいはずだ。
だが、ナジルも譲らない。
カクリをにらんだ。いつも険しい顔をしている彼だが、この時は刃物で切りつけるようなするどさだった。
「村の他の者も、大体がお前と同意見だった。今は」
「それなら」
「だがそれでムルガは納得するか?」
カクリは絶句した。
そうだ。なぜ思い当らなかった。
ムルガが納得するわけがない。両親と妻をもろとも無残に殺されて、仇も討たず逃げ回れる者がいるとすれば、それはグランダではない。
ムルガは、必ず復讐しようとするだろう。
「そしてムルガが動けば、村の多くはそれを放っておけない。必ず同調する者が現れる。お前はどうだ。ムルガがのたうち回って、家族の無念を晴らしたいのだと懇願しても、お前はあいつを留め置くことができるか?」
できない。
それどころか、自分は必ずムルガ(大切な友)に協力するだろう。そうせざるを得ない。たとえそれがどれだけ危険で無謀だったとしても。
グランダとはそういうものだ。それが彼らの強さであり、同時に限界でもある。
「今、村を二つに割るわけにはいかない。ムルガを留め置くのが難しい以上、村全体であいつに同調するしかないんだ。分かるな」
カクリはうつむいた。
父の言う通りだった。考えが浅かった。恐怖ばかり先に立って、人の心というものを全く考えられていなかった。
「ムルガさんは、今は」
「オハラの家にいる。錯乱して暴れたので、数人で無理やり寝かしつけた」
「大丈夫でしょうか」
「あいつには、まだ守るべきものが残っている。ミランが生きている以上、折れて立ち上がれない男ではないはずだ」
それでカクリはもう何も言えなくなった。
ムルガのことをカクリは好きだった。そんな男の心すら、自分は慮れない人間なのだと思った。悔しく、情けなかった。
「俺は馬鹿だ」
「お前は恐れて視野が狭まっていただけのことだ」
「……」
「それは必要なことだ。私も同じだ」
「何を、そんな」
「私も、これほど無残な人の死に触れたのはこれが初めてだ」
「それは」
「恐れがない人間は狂人だ。狂人に人は導けない」
ナジルは硬い無表情だった。
いつも通りの父のいかめしい表情。だがその中で、かすかにふるえる口もとに気づいて、カクリははっとした。
父は、おびえているのだ。
それは思いがけない衝撃だった。
カクリはどこかで、父のことを自分とは違う完璧な存在だと思っていた。何かを恐れる父など、想像もできなかった。
しかしそれは違うのだ。
はるか遠くにいたはずの父が、急に近くにやってきた気がした。
これは、父がおびえをひた隠しにしながら、考え抜いて決めたことなのだと思った。ならば俺が今するべきことは父との論争ではない。
「分かりました。あなたはいつも正しかった。それはきっと今回も同じだ。俺たちの手で、これ以上誰も死なせることなく、獣を殺してやりましょう。あらゆる手を使ってでも。どんな手を使ってでも」
勢い込んで一気に言って、返事も聞かずにカクリは立ち上がった。
熱を持ったような思考が四方八方で回転しているのを感じていた。
いつになく胸が熱くなり、体に力がわいていた。
やらねばならない。
カクリは足音を立てて部屋を出て行った。
ナジルが一人残された。
彼は深いため息をついた。暗い部屋の中、炉の炎が彼の顔に陰影を描いた。一人になった彼の顔は、昨日より十年も二十年も老けたようだった。