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2-5

 一夜明けた。

 日の出とともに、ナジルはムルガとカクリと三人で、馬を一頭連れてムルガ宅に向かった。


 ムルガの年老いた両親と妻子を、移動させなければならない。


 本当は二頭の馬を連れていくはずが、ムルガ宅から連れてきた一頭がどうしてか動こうとしなかったため、一頭のみとなった。


 前日に続いて空には雲一つなく、風もない日で、底冷えはひどかったが外を歩き回るのにはありがたい日だった。


 ムルガ宅は静かだった。

 カクリは馬をくずれかけた馬屋の柱につないだ。


 ムルガが無造作に戸を開いて中に入り、ナジルが後に続いた。

 暗かった。

 外を歩いてきた二人の目に、わずかにくすぶる炉の炎の赤だけが映った。


 初め、ムルガは誰もいないのだと思った。

 いつもなら、赤々と燃える炉を囲んで家族で飯を食べている時間だった。

 しかし炉の火は消えかけており、部屋の中はなぜか外より寒かった。


 家族はまだ寝ているのか。

 しかし日はすでに東の空に浮かんでいる。

 こんな時間まで誰も起きてこないはずがない。


「おい。帰ったぞ!」


 不安に駆られ、ムルガは大きな声を上げた。

 返事はない。

 ナジルがムルガの肩越しに部屋の様子をうかがった。


「すいません。皆まだ寝てるみたいで。こんな時間に何やってるんだか」

「妙な匂いがしないか」


 ナジルは闇を透かし見ながら言った。

 かすかな悪臭が奥から流れてきていた。

 何か、嫌悪感をかき立てる匂いだった。


 二人の心臓が早鐘を打った。

 ナジルは足早に部屋に上がり、寝室を隔てる布をめくった。


 むわっと、匂いが押し寄せた。


 居間とは打って変わって寝室は明るかった。

 正面の壁に大きな穴が開いて、そこから日光が差し込んできている。

 部屋はめちゃくちゃに荒れていた。

 粉砕された木片とベッドの藁が散乱している。

 それら全てが、赤黒い血にまみれていた。


 三つの遺体があった。

 一つは首がなかった。

 もう一つは胴が半ばまでちぎれて、中身が飛び散っていた。

 最後の一つはうつ伏せの状態で膝を抱え込んでいた。その背中は大きく切り裂かれている。


 ナジルは何か空気のもれる断続的な音を聞いた。

 それは彼自身の荒い呼気だった。次の瞬間彼は大声を上げていた。


 ムルガとカクリが寝室に飛び込んできた。

 二人ともその光景を前にして絶句し、立ちすくんだ。


 凍り付いたように誰も動けなかった。

 時間が止まったようだった。


 一番早く動いたのはムルガだった。

 彼は妻の名を叫びながら、うずくまっている遺体に駆け寄って抱き起そうとした。


 だが遺体はカチカチに冷たく固まっており、膝を抱えた姿勢のままごろりとその場を転がって仰向けになった。


 意味不明なわめき声を、ムルガは上げた。


 それは確かに彼の妻だったが、そこに生前の彼女の素朴な美しさはなかった。

 顔面の半分がずたずたに裂かれて、白っぽいものがはみ出していた。

 何かが床を動いたと思ったら、眼球が転がり落ちたのだった。


 ナジルとカクリは、しばらくその場に立ちつくしていたが、やがてナジルがのろのろと動き始めた。


 彼は壁に開いた巨大な穴に向かった。

 穴はナジルが腰をかがめなくても十分くぐれるほどの大きさがあった。


 獣は壁を粉砕して、たやすく侵入したのだ。

 ムルガ一家は就寝中だったに違いない。

 その驚愕と恐怖は、どれほどのものだっただろう。

 彼らは抵抗したのだろうか。それとも暗闇の中で何も分からないまま、ただ殺されてしまったのだろうか。


 ナジルは無言のまま、穴から外に出た。


 一方、残されたカクリは、ムルガの両親と思われる二つの遺体に目を向けた。

 首がない方は乱れた服から母親だと分かった。

 首は寝室の隅に転がっていた。

 カクリは無意識に、首を拾いに向かっていた。

 ずしりと重いそれを遺体の切断面に繋ごうとした。そうしてから、自分の行動の無意味さを自覚した。

 彼は錯乱していた。


「生きている」


 ナジルの声が外から部屋に届いた。


 カクリははっとして、穴から外に飛び出した。

 ナジルが立っていた。その視線の先、雪上にムルガの息子が倒れていた。

 その周りには、刃物を突き刺したような跡がおびただしく残っていたが、カクリは見ないふりをした。


 三歳の彼は寒さでふるえて気を失っていたが、確かに息をしていた。


 ナジルが、彼をそっと抱きかかえた。


 高熱があった。しかし冷たいよりはよほどいい。

 ナジルは上着を脱ぎ子供を包んだ。そして急いで部屋に戻り、ムルガに差し出した。


「ムルガ。しっかりしろ。お前の息子は生きているぞ」


 ムルガは虚脱していた。ナジルの呼びかけに何の反応も返さなかった。

 が、肩をゆすられるとようやく我が子に焦点を合わせた。

 息を飲んだ。ふるえる手で受け取り、抱きしめた。そのまま動かなくなった。


 厳しいようだが、ただ悲しんでいる時間はなかった。


 ナジルとカクリは、子供を抱えたままのムルガを無理やり引きずって、馬に乗せた。

 ムルガは抵抗しなかったが、子供だけは決して放そうとせず、また、ナジルたちに触らせようともしなかった。


 ナジルはそのまま二人を馬に乗せて、自分の家に向かった。

 カクリは取り残された死者三人の弔いについて、村民たちと協議する役目となった。


「誰も食われていなかった」


 ムルガ宅を発つ時、ナジルが言い残していった。

 それは独り言だったが、やけにカクリの耳に残った。


 カクリはとりあえず村の家を回り、それぞれから一人か二人ずつの人間をムルガ宅まで連れてくることにした。


 昼前には十三人の男女がそこに集まった。

 騒然となった。まさか、という感じだった。

 彼らの誰も夢にも考えなかった事態が、あまりにも突然起きたのだった。


「落ち着いて。落ち着いてください。とにかく今は、やるべきことを一つずつこなしていかなければ。まずは彼らを弔うことです」


 カクリは声を張り上げた。

 村民はささやき合っていたが、やがて静まった。

 一人の男が言った。


「誰が三人のアリムを作るんだ。ムルガには厳しいだろう」


 当然出てくる問題だった。


 アリムとは矢である。オグドル神の持つ矢だ。

 グランダの魂を乗せて放たれ、彼の神の座所まで死者を運ぶ聖具である。


 オグドル神は六柱神の盟主であり、サグドラ王国の祖である。

 多貌の神であり、サグドラ王国のオーガーたちからは戦いの神として崇められているが、他にも雷や楽舞など様々なものを司る。

 その根本は生と死を司る生命の神である。


 グランダは死者を弔うのに、まず遺体から肋を取り、それを矢じりにアリムを作る。(正確にはアリムを模した矢である)

 それから丸一日、遺体はアリムと一緒に置かれる。

 肉体に残留した魂をアリムに移らせるためだ。


 それが終わって、ようやく葬儀である。


 死者に最も近い親族が、アリムを天に放つ。

 死者の魂はアリムに運ばれて、オグドル神のもとに到達し、次の生までの時間をそこで過ごすのである。


 残った肉体は燃やされ、聖樹を通して大地に還される。


 それがグランダの弔いである。


 もちろん、弔われずとも死者の魂は、自力でオグドル神のもとへたどり着く力を持っているものだが、中には未練を残して地上を離れられないものもいる。

 そういう魂は、怨念を好む悪神たちに捕らわれるか、あるいは神々ですら手の届かない深い場所に消えてしまうか、いずれにしても二度と大地に生まれることはない。


 だからグランダにとって(もちろんその他の種族にとってもそうだが)死者の弔いはとても大切な儀式である。


 アリムは、死者の肋を材料にするという性質上、遺体を損壊させず作るのにかなりの技量が必要で、大きな都市にはそれ専用の職人などもいるが、当然タララ村のような山村に、そんなものはいない。

 タララ村では、アリムは遺族が作るものだった。

 だが、今ムルガにそれを要求するのは難しそうだった。


 男が言ったのはそういうことだった。


 幸い、ムルガの妻にはシーラという兄がいた。彼の家族の手で、三名のアリムは作られることに決まった。


 さっそくムルガ宅の壁をはがして、簡単なソリが作られた。

 死者はそれに乗せられ、シーラとカクリの手でシーラ宅まで運ばれることになった。


 他の村民たちは一度家に戻り、日が落ちる前に家族を連れて村の上流にある三つの家、ナジル家、オハラ家、ネロス家にそれぞれ集まることになった。

 危険が去るまで、なるべく多くで集まっておいた方がよいかと思われた。


 それぞれの家族がどの家に集まるのかを決め、村民たちは足早に帰っていった。一刻も早く家で待つ家族に会いたかったのである。


 しかしその中で一人だけ、その場に残った者がいた。

 アーシャである。


「手を貸そう」


 彼女は短く言った。

 何と答えたものか、カクリは一瞬迷った。


「だが、家はいいのか。サフィは」


 アーシャは答えず、するどい目でカクリを見た。


 カクリは心の中で舌打ちした。馬鹿なことを言ってしまった。

 いいわけがない。彼女だって本当はすぐにでも帰りたいに違いなかった。それでも残ってくれると言っているのだ。

 無口な親友にカクリは頭を下げた。


 実際、アーシャの申し出はありがたかった。

 ナジルの代理として、村民たちの前では毅然と指示を飛ばしたものの、カクリはもう限界だった。胸にうず巻いている焦燥を、誰かに吐き出したくて仕方なかった。


 浮足立つ村の人間の中、たった一人全く動揺していないように見えるアーシャは、いかにも頼もしかった。


「大変なことになったな」


 ソリを引きつつ、カクリはアーシャにのみ聞こえる小声で言った。

 彼女は答えない。じっと遺体を見ていった。


 シーラ家まで遺体を運び終え、カクリとアーシャは下流へ引き返した。ナジル宅に避難する前にサフィを連れてこなければならない。


 道中、アーシャが言った。


「どの遺体も荒らされてなかった」


 カクリはドキッとした。それは、ナジルが言ったことと同じだった。


「どういうことか分かるか?」


 アーシャに聞かれ、カクリは一瞬言い迷った。

 答えは一つしかなかったが、山に住む者として、それはあまりに常識外れな話だった。


「獣は食うために三人を殺したんじゃない。そう考えるしかない」

「だが、カクリ。そんな獣がいるのか」

「分からん」


 自分で言ってもまだ信じられなかった。

 食う以外の目的で危険を冒して人を襲いに来るなどそんなものは獣ではない。

 化け物だ。


 アーシャはミスラ山に厳しい視線を送った。小さくつぶやく。


「いるのか、今、この山には」


 カクリは彼女の視線を追った。

 身ぶるいした。

 慣れ親しんでいる白いミスラ山が、全く別のもののように覆いかぶさってきていた。


 アーシャ家ではサフィが荷物をまとめて待っていた。

 体に血と排泄物の匂いをしみ込ませて帰ってきた二人に、彼女は顔をこわばらせたが、何も聞かなかった。黙って硬くしぼった布を持ってきた。


 アーシャはそれを持って寝室に向かった。


 居間で手持ち無沙汰にしているカクリに、サフィが言った。


「カクリさんも、後で」

「いや。俺は帰ってからでいいよ。匂うか?」

「そ、そうじゃなくて」

「匂うだろうな。自分じゃ分からないが」


 匂いのもとを思い返して、カクリは暗澹となった。自分は今、彼らと同じ匂いを振りまいているのだ。

 体の表面にたまらない不快感があった。

 隣でサフィが何か言いたそうにしているのを感じたが、今のカクリに彼女を気づかう余裕はなかった。


 アーシャが寝室から出てきた。

 死臭が薄くなっている。何より表情が和らいでいた。

 短刀と剣鉈を腰に下げ、槍も持っていた。


 彼女は、居間の壁にかけられている作りかけの花嫁衣裳に目をやった。


「春までに間に合えばいいが」

「間に合うよ」


 サフィが答えた。


「それに、いざとなったら私も手伝うから。大丈夫」

「私の仕事だ。何度も言わせるな」

「だけど、作り終わらなかったら大変だよ」

「終わる」

「本当に?」

「しつこい」

「ムキになっちゃって。駄目だよ、ほら。怖い顔になってる」


 サフィは、姉の眉間に寄ったしわを指でなぞった。明るい声ではしゃいだ。

 アーシャは鬱陶しそうにそれを振り払った。


「もともとこんな顔だ」

「またそうやって、すぐ乱暴しちゃうんだから」

「離せ」

「なら、ここにしわを寄せないで」


 じゃれつこうとする妹と、それを防ぐ姉の攻防がしばらく続いた。


 カクリは何となくほっとした気持ちになった。

 三人の死に様を見てからずっとのしかかっていた重りを、一瞬だけ忘れられたようだった。


 サフィが横目でそれを見て、口もとをゆるませた。


 それでカクリは気づいた。

 サフィはわざとふざけて見せたのだ。

 自分はよっぽどひどい顔をしていたのに違いないと思った。

 脱力と一緒に昨夜のムルガを思い出した。胸が痛んだが、それを振り切った。

 笑顔を作ってサフィに言った。


「悪い。気を使わせたみたいだな」


 サフィは弱々しく微笑み、首を振った。

 見つめ合う彼らの間に、何となく甘酸っぱいような空気が流れた。


「急ぐんじゃないのか」


 アーシャが短く言って、外に出た。

 二人は顔を見合わせ、笑い、アーシャを追った。


 三人で持てるだけの薪を持った。

 獣の危険を避けるには必ず火が必要になる。

 かなりの重量を持っての移動となった。

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