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2-4

 ムルガの家には一家に加えてナジルがいた。

 アーシャとカクリは、ナジルから今回のムルガ宅の騒動についてくわしく聞いた。


 その経緯は、五日前とほとんど変わらなかったが、一つだけ相違点があった。

 五日前は薪についていた牙らしき跡が、今回は馬屋の柱に刻まれていたというのだ。地面に垂直に立つ硬い木材に、左右から挟み込む形で穴が空いている。

 穴は柱を貫通していた。そこから柱は二つに折れ、屋根が傾いていた。


「これは牙ですか。本当に」


 穴を指でなぞりながら、カクリはナジルに言った。


「おそらく」

「つまり獣は、柱に横向きにかじりついたということですか?」

「そう考えるしかない」

「わざわざ頭を真横に傾けて? そんな獣がいますか?」


 また、馬が無事だというのも妙な話だった。

 馬は昨夜も大騒ぎしたらしいが、今では何もなかったように静かに藁を食んでいる。


「肉食の獣ではない?」

「分からん。これだけでは何も。だが」


 馬の場所は移した方がいいかもしれない。と、ナジルは言った。明らかに、獣は馬を目的としていた。


 だが、それを聞いたムルガは顔色を変えた。


 村共有の馬の管理を任されるということは、その一家が村の中でそれだけの立場にあるという証でもある。

 その立場を突然取り上げられれば、村の人間はムルガ一家が何かまずいことをしでかしたのだと見るだろう。


 ナジルは、一時的な処置にすぎないからとムルガをなぐさめた。

 また、ナジルの口から村民たちに事情を説明して、ムルガ一家の過失によって馬の所在を移すわけではないと納得させることを約束した。


 ムルガは渋々承知した。


 カクリとアーシャは、雪に残った跡をたどって獣の追跡に向かい、ナジルとムルガは、馬の移送をした後、村民たちへの注意喚起に向かうことになった。


 カクリたちは山に入った。


 彼らは縦に並び、急な斜面を登っていった。

 冬の山は恐ろしく静かで、腿まで埋まる雪をかき分けながらの追跡は、さすがにはかどらなかった。


 道中、ふと、アーシャが気づいた。


「跡が浅い」


 カクリは振り返ってどういうことかと聞いた。

 アーシャは雪に残る獣の跡を指さし、続いて自分とカクリの足跡を指さした。


「深さが違う」


 二人の足跡の方が、獣の物より深く雪に跡を残していた。村内の薄い雪では気づかなかったことだった。


「体重のある獣じゃないということだろう」


 と、アーシャは結論づけた。


 カクリは首を傾げた。

 確かにアーシャの指摘は正しい。しかし体重の軽い小さな獣が、柱をかみ砕いて馬屋をくずすような一撃を残すだろうか。

 おかしい。

 まるで性質の違う二種類の獣を追っているような感じだった。


 しかしそんなことは、今立ち止まって考えても仕方ないことだった。

 カクリは何も言わずに再び歩き始めた。


 強い風が吹き始めた。

 粉雪が舞い上がり二人の顔をたたいた。


 カクリはとっさに顔を背けた。後ろを振り返る。

 木々の間、はるか下方に村の家屋がちらりとのぞいた。

 ずいぶん歩いてきていた。


 風で雪の痕跡が消されるかもしれない。二人の足は早まった。


 しかし、それからいかほども行かないうちに、彼らははたと立ち止まった。

 行く先の地面が切り取られたように消えた。

 崖だ。

『狼の爪痕オアラ・バォグゥ』と呼ばれる、ミスラ山の七合目から麓までを一気に切り落として、山をほとんど二つにしている大峡谷だ。


 獣の痕跡はその淵まで続いて、そこで忽然と消えていた。


「風にあおられて落ちたのか」


 言ってから、馬鹿げたことだとカクリは思った。

 そんな獣がいるわけない。

 だがいくら目をこらしても、獣の痕跡は崖下へと消えており、それ以外には存在しない。


 二人して崖の下をのぞき込んだ。

 白い霧が立ち込めている。底はもちろん見通せない。

 眩暈のするような断崖だ。岩壁がえぐれて反り返っている場所まである。

 吹き上がってくる強風で体が浮き上がりそうになった。下からだけではない。左右の両方から、断続的で不規則な風が吹いている。


 ここを下りるのは鹿イクサでも無理だ。

 だが二人が追う獣は下りたのだ。

 どうやって?

 想像もつかなかった。どんな獣にそんなことができるのか。


「そんな獣は、この山にはいない」


 カクリはつぶやいた。


 その時、二人の背後で音がした。

 彼らはとっさに剣鉈を手に取り、振り返った。

 何もない。

 かすかに雪煙が立っているだけだ。

 キサーウッドの枝から雪のかたまりが落ちたのだ。それだけだ。


 カクリは、剣鉈をにぎる自分の手が冷たい汗にぬれているのを感じた。自分が想像以上に緊張していることを知った。


「カクリ、どうすればいい」


 アーシャが硬い声で言った。


「分からない。だが、もう少し探した方がいいかもしれない」

「何を探せばいい」

「獣の手がかりだ。何か残っていれば」


 カクリは雪の上にはいつくばった。

 この場にただよう異様な気配が、彼にそうさせた。

 獣が崖をどうやって降りたのか、ヒントだけでも探したかった。

 アーシャも異を唱えず、カクリにならって地に伏せた。


 見つけたのはアーシャだった。


「カクリ。これを」


 それは、目をこらさないと見えないほど微細な白い糸だった。

 崖の端。一際張り出した大きな岩のてっぺんから、崖下にまっすぐ降ろされていた。


 アーシャはつまみ上げた。簡単に持ち上がった。重さを感じられないほど軽い。

 キラキラと日の光を反射している。


「何だ、蜘蛛の糸か?」

「いや、それにしては手ごたえがある」


 アーシャはつまんでいる糸を軽く引っ張った。糸はびくともしない。

 今度は強く引く。それでも糸は切れなかった。


「こんな糸を吐く蜘蛛タランテはいない」


 カクリはアーシャと顔を見合わせた。


 何か、見てはならないものを発見してしまった予感があった。

 自分たちが今まで生きてきた世界とは全く違う、得体の知れない場所に不意に足を踏み入れてしまったような、漠然と底の見えない恐怖……。


 辺りが突然暗くなったように感じて、二人ははっとなって見回した。

 いつの間にか、日が西の空深くまでかかっていた。


「戻らないと。日が落ちる前に」


 カクリはかすれた声で言った。


 アーシャが短刀を抜いて糸を切ろうとした。

 しかし簡単には切れず、刃を立ててこそぎ切るようにしてようやく切断した。


 村への道中、自然と二人の足は速くなった。

 日が落ちるまでに山を抜けなければならないという焦燥ももちろんあったが、それよりも糸を見つけた時の得体の知れない恐怖が、彼らを追い立てたのだった。


 村に戻った二人はナジルの家に向かった。


 ほとんど日は落ちて空が赤かった。

 ナジル宅の馬屋には馬が二頭いた。

 一頭はもともとナジル宅で飼っている馬、もう一頭はムルガ宅から移されたものだ。


 家には、ナジルの他にムルガもいた。


 カクリたちは全てを話し、ナジルに糸を見せた。


 ナジルは糸をつまみ上げ、引っ張り、匂いをかぎ、味を確かめ、最後に炉にくべた。糸に火が燃え移り、チリチリ音を立てて燃えてどろりと溶けた。


「蜘蛛の糸に似ている」

「はい」

「しかしそんなはずはない。こんな糸を吐く蜘蛛はいない。それに馬屋の柱につけられた牙の跡を考えろ。あれが蜘蛛の牙だとすれば、どれほど巨大な蜘蛛だと思う。そんな蜘蛛の話など聞いたこともない」


「では一体」

「分からん。しかし、今まで山にいなかった何かが、村の近くをうろついているのは、もはや間違いない」

「そしてその何かは、鹿も下りられない崖を簡単に上り下りするほど身軽で、一噛みで馬屋の柱を粉砕する力のある獣です」


 ナジルはうなずく。

 山から戻ってきた二人の緊張感は彼にも伝わっており、重苦しい予感をひしひしと感じた。

 甘く考えない方がいいと思った。

 夜が明けたらすぐに、ムルガ一家を無理にでも自分の家に移動させることを、ナジルは決めた。


 また、村民全員に改めて、警戒を呼びかけなければならないと思った。

 今日一日、ナジルはムルガと一緒に村を注意して回ったが、やはり一人として、事態を深刻に受け止めている者はいないようだった。


 ナジルは歯がゆかったが、仕方なかった。


 グランダは、特に北部に住む彼らは、古代からほとんど純血を保っており、グランダ本来の気質をそのまま受け継いでいる。

 リブルム神が恵みをもたらす以前より、グランダは極寒のこの地を拓いて、凍死しながら平気で暮らしてきたのだ。


 彼らは生来の楽天家である。

 また、仲間意識が強く、傲慢で、それゆえ排他的で、慣習を尊び変化を嫌う。そして自らのそうした性質を強く誇っている。

 それがグランダだ。


 実際ムルガなどは、今やすっかりくつろいでいる。獣の対処については完全にナジルに放り投げて、酒など飲み始めていた。

 カクリに一緒に飲むぞと言った。


 さすがにカクリは迷惑そうに眉をひそめた。


「ムルガさん、なんでいるんですか」

「いちゃ悪いのかよ」

「そうじゃなくて。家に帰らないんですか」

「今から帰るなんて面倒くさい。今日は働いたし、泊りだ、泊り」

「はあ。悩みがなくていいですね」


 嫌味を言いつつ、カクリは素直に杯を受けた。

 ムルガとカクリは、実は仲がいい。

 年の差はあるが、互いに村では一番気の合う相手だった。


「俺にだって、悩みはあるぞ」

「どうせ奥さんが太ってきたとか、そういう頭の幸せな悩みでしょう」

「何なの。お前、俺のこと嫌いなの?」

「いえ、大好きですよ」


 注がれた酒を、カクリは一息に飲み干した。すかさずムルガは次を注いだ。


「少なくとも尊敬はしてないだろ」

「いえ、世界で一番尊敬していますよ」

「嘘つけ。だったら、それなりの態度ってもんがあるだろうが」

「はあ」

「その気の抜けた返事をやめろ」

「はあ」

「なめとんのか」

「そんなことはありません。世界で一番尊敬しています」

「なら、俺のどこを尊敬してるのか言ってみろ」

「まあ、年長者であるところですかね」

「他には」

「いえ、そこだけ」


 不毛なやり取りを交わすうちに、カクリの気分もほぐれていった。

 空いたムルガの杯に注ぎ返して飲み合う。

 やがて明るい酒の席になった。


「ところであいつ、そんなに太った?」

「まあ、そうですね。この前久しぶりに会ってびっくりしましたよ。一瞬、二人目ができたんじゃないかと思いました」

「二人目か。それが本当だったらな。次は娘がいいな。いや、息子二人もいいな。どっちでもいい。な、子供はいいぞ。お前も早く作れよ」

「気の早い。結婚もまだですよ」

「もうすぐじゃないか。それに実際どうだったんだ」

「何がですか」

「祭の間に一度くらいは、サフィとやったんじゃないのか」

「何言ってんですか、あんた」

「うひひ。ばーかばーか。恥ずかしがりやがって。おいアーシャ、お前から見てどうだ。二人はもうやったと思うか」


 アーシャは酔っ払いには取り合わず、立ち上がった。


 遅いから泊って行けと勧めるナジルに断りを入れ、彼女は帰宅した。

 昨夜に引き続き、雪も風もない夜で、帰り道には苦労しなかった。

 サフィは起きて、姉を待っていた。

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