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2-3

 ムルガ宅にて起きた異常は、その日のうちに全村民の知るところとなったが、事態を深刻に受け止めた者は、当のムルガ一家をふくめて誰もいなかった。


 ミスラ山には大小様々な獣がいたが、彼らは一様に人間を恐れるものであり、村の近くに姿を見せることがあっても、人が近づけばすぐに逃げ出した。

 村民にとって、山の獣は狩りの対象にすぎず、自分たちに危害を加えるものではなかった。

 得体の知れない獣の痕跡が残されていたからといって、それを気味悪く思うことはあっても恐怖することはなかった。


 唯一、村の新参者である姉妹が、カクリから話を聞いて不安をよぎらせたが、それもすぐに忘れられた。

 彼女たちには他に考えることがあった。


 姉妹の妹サフィは、冬が終われば結婚することになっていた。彼女たちはその準備のことで頭がいっぱいだったのである。


 婚儀で花嫁が着る衣装は、花嫁の母親が用意するのが通例である。

 母親のいない姉妹に気を使ってか、村の女たちは肩代わりを提案したが、アーシャは断った。

 気づかいはうれしかったがこの仕事は誰にも任せるつもりはなかった。


 アーシャが針仕事をするのは久しぶりだった。

 サフィがまだ小さい頃は、家族の服も下着もアーシャが作っていたものだが、その仕事はあっという間に妹に奪われた。

 彼女の妹は手先がとても器用だった。


 今も、ぎこちなく針を操る姉の隣に座って、サフィは口をうずうずさせていた。


「そこはもう少し幅を取った方がいいよ」

「ああ」

「大丈夫? どうするか分かる?」

「ああ」

「怪我しないでね」

「ああ」


 言ったそばから人差し指に針を突き刺した。

 アーシャは顔色一つ変えなかったが、代わりにサフィの方があわてふためいた。


「もう。怪我しないでって言ったのに!」


 姉の手を取り、彼女は血の垂れている指を口にふくんだ。


 アーシャはそれより、自分の血がついてしまった装飾の方を気にしている。

 婚礼衣につける装飾の一部で、綿布で花をかたどったものだ。

 彼女は今まで縫い合わせていた糸を抜き取って血の付着した布を裏返した。


「やり直しだ」

「ひょのままでいいったら」

「駄目だ。血の付いた服なんて着させられるか」

「そんなこと言っても、私、小さい頃はずっと、右の脇のところにお姉ちゃんの血がしみついた服を着てたんだから」


 痛いところを突かれて黙ってしまった姉の横顔を見つめ、サフィは笑った。


「やっぱり私も手伝った方がいいんじゃない?」

「これは私の仕事だ」

「春までに終わる?」

「しつこい」


 もうあっちに行けとばかりに、アーシャはぞんざいに手を振った。


 邪険にされてサフィはしばらくふくれ面をしていたが、やがて力を抜いて一人笑みを浮かべ、そっと姉の肩にもたれかかった。


 サフィは、こうして姉の体温を感じるのが好きだった。

 それは、昔病床の自分にずっと寄り添ってくれていた姉の優しさを今も覚えているからだった。


 だがこの冬は、こうして姉と肌を触れ合わせていても、サフィの心には安らぎよりかすかな痛みが先立ってくるのだった。


 結婚。

 彼女はもうすぐ結婚するのだ。


 カクリと一緒になることに、不満があるわけではなかった。

 愛する男と家族になり、やがて彼の子を産み育て、ともに生きてゆく。

 それを考える時、サフィはいつも胸をくすぐられるような幸福を感じた。


 しかし同時に、それとは別の切ない思いがあるのも確かだった。

 他ならぬ、姉のことだ。


 自分がいなくなれば、姉は一人になるではないか。


 サフィは、自分の全てが姉の人生の上に存在していることを、よく知っていた。姉がいなければ、自分はずっと幼い頃に命を落としていただろうし、逆に自分がいなければ、姉はもっとずっと自由に生きられただろう。


 姉は、これまでの人生のほとんど全てを、自分のために使ってくれた。

 そんな彼女に、私は何も返さないまま、ただ置き去りにしてゆくのか。

 その思いはいつも、サフィの心に、申し訳なさと後悔と、そしてもう少し姉と二人だけで暮らしていたいという甘えた気持ちを呼び起こした。


 二人きりの四年間が、サフィの胸に迫ってきていた。

 その痛みに押し出されるように彼女は言った。


「ここでの暮らし、楽しかったね」


 アーシャはいぶかしげにした。


「どうした、急に」

「うん。ちょっとね、何でもないんだけど。春になったらもうお姉ちゃんと一緒に暮らせないんだなって思って」


 泣き言は言いたくなかったが、自然とそうなってしまった。


 アーシャは針を操る手を止めた。

 かすかに眉をひそめて、肩に寄りかかる妹の頭をちらっと見た。言葉を選ぶようにして、彼女は言った。


「カクリはお前を大切にするだろう」

「……」

「あいつはいいやつだ。頭がよくて頼りになる。ナジルさんもそうだ。お前がこの先の人生をともに送るのに、あの二人ほどの者はいないと思う」


 どうやらアーシャは、結婚を間近にひかえた妹が、将来の不安で神経質になっているものと誤解したらしかった。

 彼女の言葉はぶっきら棒だったが、そこには妹の不安を何とか溶かしてやろうという慈しみがあった。

 いつもそうなのだ。

 彼女はいつも、何ということもない顔で妹に無限の愛情を注ぐ女だった。


 サフィはあえて、その誤解を解こうとしなかった。姉の硬い肩に額を押しつけた。


「お姉ちゃん。私、幸せだよ」

「そうか」


 アーシャは短く言って、再び手を動かし始めた。

 姉妹はしばらく一つに重なっていた。


 家の戸がたたかれた。

 誰か来たのだ。冬の日にめずらしい訪問者だった。

 アーシャが戸口へ向かった。

 来客はカクリだった。


「サフィ。カクリが来たぞ」


 サフィはあわてて立ち上がった。

 しかしカクリは首を振った。彼はサフィではなくアーシャに用があって来たのだった。


「五日前に話したことを覚えているか」

「ムルガさんの?」

「そうだ。今朝、また同じ跡が残っていた。跡をたどって先に何かがいるのか、確認しろって言われてさ。ついてきてくれるか」

「すぐ準備する」


 アーシャはカクリを招き入れ、自身は寝室に入った。

 剣鉈と短刀を下げる。

 弓矢を持っていくか迷ったがやめた。彼女は弓が得意ではなかった。それに冬の山を行くのに、取り回しに難のある弓は邪魔になりそうだった。


 居間に戻ると、サフィが不安げに待っていた。


「心配しなくていい。すぐ戻る」

「うん……」


 そのまま姉妹は何も言わない。互いに黙って見つめ合った。

 二人を取りなすように、カクリが言った。


「大丈夫。危ないことにはならないよ。俺が同行するからな。アーシャと違って、俺は危ないと思ったらすぐ逃げる」


 サフィはほっとしたような目をして、カクリを見た。


「気をつけてください。それからお姉ちゃんのこと、お願いします」

「どちらかと言うと、俺がよろしくお願いする立場だよ。こいつと一緒じゃなかったら、正体不明の獣の追跡とか、怖い」


 カクリは冗談めかして言って、にやっと笑った。


「特に今は嫌だ。心残りがあるから」


 カクリの言う心残りが何なのかを悟って、サフィの頬が淡く染まった。ただの軽口なのは分かっているが、それでも彼女は照れてしまうのだった。


「急ぐんじゃないのか」


 アーシャが短く言い、先に家を出た。

 カクリはサフィに肩をすくめて見せた。それから足早にアーシャを追った。


 二人並んで雪の中を歩いていく。

 晴れていた。

 雪が彼らの足にまとわりついたが、そこは慣れたもので、彼らの足取りによどみはなかった。


「ああいうことは、私のいない二人の時にやってくれ」

「うん?」

「さっきサフィに言ったようなことだ」


 カクリは、からかうような顔になって言った。


「それは難しいぜ。何しろお前のお姉ちゃんガードがきつくて、俺があいつと二人で話すことなんてほとんどないだろ」


 アーシャは不機嫌そうに黙り込んでいる。

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