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2-2

 翌朝、ムルガが目を覚ました時には、すでに他の家族は起き出しており、昨夜の食べ残しの凍った芋粥を火にかけているところだった。


「寒いな」

「日が照ってるからな」


 ムルガのぼやきに父が答えた。


 父の言葉通り、壁のあちこちに空いた隙間から、キラキラした日の光が室内にこぼれ込んできていた。

 こんな朝は余計に冷える。

 だが家にこもってはいられない。

 晴れた冬の日には、家の周りの雪を踏んで整えるのが彼らの習慣だ。少なくとも、戸口の周囲だけは踏み固めなければならない。

 そしてそれをやるのはムルガの他にいない。


「おい。外の様子を見てきてくれ」


 ムルガは妻に言った。結局は一人で雪踏みをすることになるのだが、それが当り前のように思われるのは癪だった。

 妻は素直に立ち上がった。何やら上機嫌なようだった。

 戸を開け外に出た。そしてすぐに悲鳴を上げた。

 瞬間的な悲鳴だった。


 ムルガはとっさに食器を放り出して、外に飛んで出た。

 強い白光が目を焼いた。

 手をかざして周囲を確かめる。

 きれいに積んであったはずの薪の山が散乱していた。薪に埋もれるように妻が尻もちをついていた。怪我はない。


「何だよ、転んだだけかよ。大げさにわめくな、馬鹿」


 無駄にあわてた自分の無様をごまかすため、ムルガはわざと毒づいた。


「知らないよ。それよりこれ」


 妻が散乱している薪を指さした。その一本が半ば辺りでへし折れていた。何かにえぐられて粉砕されたような折れ方だった。


「何だこりゃ」

「ねえ。これ、もしかして昨日の」

「馬鹿やろう。何もなかったって言っただろうが」


 ムルガは強い口調で言ったが、昨夜外をのぞいた時に薪の束がどうなっていたかは覚えていなかった。


「だけどほら。あれを見てよ」


 妻の指さす方をムルガは見た。

 雪に妙な跡があった。

 それが何なのか、ムルガには分からなかった。刃物を突き刺したような小さく深い穴。それが無数。真新しい雪の上におびただしい数の穴が空いていた。

 穴の列は、馬屋と家の周りを何重にも取り囲んだ後、山の木立へと続いていた。


「獣か? いや、だが……」


 山には、こんな足跡の生き物は存在しないはずだ。


「お前、こんなもん見たことあるか」


 妻は首を振った。

 ムルガは続けて両親にも雪の跡と折れた薪を見せたが、いずれも眉をひそめるだけだった。


「ナジルなら、何か分かるかもしれんぞ」


 父がタララ村の長の名を挙げた。


 ナジルは村長だが、村では変わり者で通っていた。

 前村長の次男として生まれたが、村の適当な女と婚姻して家を持つのをよしとせず、若くして村を離れ、地方都市ローディに住んだ。

 生まれた土地から居を移すグランダというのは、ほとんど例外と言っていい。


 結局、兄が早逝してナジルは村に戻って来たのだが、彼が、村の誰も持たない知恵や学問を修めていることは、村の誰もが知っていた。

 変わり者だが人格者でもあり、村民からは尊敬され、頼られていた。


 戸の周囲の雪を手早く整えた後、ムルガはさっそく上流のナジル宅に向かった。

 雪のせいで時間がかかったが、じきに着いた。

 門前ではカクリが雪を踏み固めていた。カクリは歩いてきたムルガを見て、意外そうな顔をした。


「どうしたんです? 何か急用でも?」

「いや、急ってほどじゃないが、ナジルさんにちょっとな」


 ナジルは書斎にいた。

 書斎といっても数十冊の本が棚に並べられているだけだが、それでも村の他の家にはない光景だ。村には字を読める人間がほとんどいない。


 ここにある本は全て、ナジルが若い頃書き写したものだった。

 ほとんどが、調合師の仕事に関する本だ。それは、ナジルが都市で暮らしていた時に志していた職だった。

 山村で生活するには不要な知識ばかりだが、そういうものを多く持っているからこそ、ナジルは村民たちから一目置かれているのだった。


 ムルガは、昨夜から今朝の騒動について詳細を語った。

 ナジルは途中で口をはさまず、最後まで黙って聞いてから言った。


「つまり、昨日の夜中に馬が騒いだこと。積んであった薪がへし折れていたこと。雪に見たこともない跡が残っていたこと。要点はこの三つだな」

「まあそうです」


 ナジルは少し考えた後、


「実際にその跡を見ておきたいな」


 と、言った。その時には立ち上がり、毛皮を羽織っている。


「カクリ、お前は村の家を回って、昨晩何か異変がなかったかを確認してこい」

「はあ」


 カクリはちょっと面倒くさそうな顔をした。雪まみれになった毛皮を払って、ようやく人心地ついたところだったのである。

 しかし文句は言わなかった。

 カクリが父親の言葉に逆らったことは一度もない。その必要がなかった。


 カクリの知る限り、彼の父が間違えたことは一度もなかった。

 だからこの時も実際に言ったのは別のことだった。


「出るなら気をつけて。天気がくずれそうな気配があるので」

「なら急ごう。跡が消えないうちに」


 ナジルはムルガと外に出た。下流に向かった。


 幸い道中で雪が降ることもなく、またこの日は風もなかったため、雪に空いた無数の穴は全て残っていた。


 穴を見てナジルはうなった。

 彼にも見たことのないものだった。


 生き物の残したものだと、ナジルもまた思った。


 ごくまれに、天から氷のつぶや、石や、その他にも色々な固形物が降ってきて、地面に穴を開けることがあるのは知っていたが、それならこんな限られた場所に穴が集中することはないはずだ。これは生き物の痕跡である。


 しかし、どんな獣が何をして残った跡なのか。分からなかった。


 へし折られた薪についても同様だった。

 何か巨大なものにかじられたような跡だとムルガは言ったが、それは正しいとナジルも思った。

 しかしどんなものにかじられたものかは、見当もつかなかった。


 ナジルは獣の後が続く木立をにらみつけた。山の奥に、何かいる。


「確かめておくべきだろうな」


 ナジルはムルガに、アーシャを呼んでくるように言いつけた。

 アーシャは村では新参者で、しかも女だったが、武器を持ってみたら村のどの男よりも巧みにそれを使ううえ、どんな時にも冷静さを失わない女だった。


 しかし悪いことに、それからすぐに雪が降り始めた。

 雪は瞬く間に獣の痕跡を隠し、木立の先に何があるのか確認する術はなくなった。

 何の手がかりもなく雪の冬山に入るのは、山に慣れたグランダといえども、ただの徒労だった。


 ナジルは、ムルガ一家に十分用心するよう言いふくめた。

 しばらくの間だけでも自分の家に住まうように勧めたが、年老いたムルガの父母は雪の中の移動を億劫がり、それは受け入れられなかった。


 後ろ髪を引かれながら、ナジルは我が家へと戻った。


 しばらくして帰宅したカクリが、昨晩ムルガ宅の他には、何の異常も起きていなかったことを伝えた。

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