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ティシリア王国は大陸五王国の最北に位置し、住人はそのほとんどがグランダである。
酷寒な気候が他種族の居住を許さないためだ。
特にミスラ山脈以北で、グランダ以外の人種を見ることはほとんどない。
タララ村は、ミスラ山の中腹に存在している。
王国でも僻地のこの村には他種族どころか、そもそも村外から人が訪れることすらまれで、村民が外部の人間と交わるのは、一年に数度、日用品の購入に最寄りの都市へ行くくらいのものだ。
村民たちには、それで何の不自由もないのだった。
彼らのほとんどは山の外の事象には何の関心も持たず、ただ毎日土地を耕し、山の実りを得るだけだった。
ミスラ山頂から南へ曲がりくねって流れるクド清流の東側に、川の流れに沿うように十二戸ばかりの木造の住居が点在している。
それがタララ村だ。
清流の西側には、山の斜面に従って段になった畑が広がっている。
村民は全て純粋なグランダだ。
ごく一般的な、ティシリア北部の山村である。
村の一番下流に、姉妹が二人で暮らしている。
姉をアーシャ、妹はサフィという。二十一歳と十六歳。若い姉妹だった。
彼女たちは土着のグランダではない。
五年前に村に移住してきたのだ。
以前は、ティシリア南部の都市フォードで、衛兵をしている父と三人で暮らしていた。
母はいなかった。サフィを生んですぐ死んだのだった。
体の弱い母だった。
だからサフィは母を知らない。姉を母として妹は育った。
二人は全く似ない姉妹だった。
アーシャは強面の父に似て、サフィは美しく華奢な母に似たためだ。
ただ、雪のように白い肌のみをアーシャは母から受け継いでいて、それだけが姉妹の共通点だった。
アーシャは趣味嗜好、持って生まれた才まで父に似た。父に剣を習い、十三歳になる頃には十分に大人を打ち倒せる腕になった。
「お前たちを、足して割ることができればな」
父は時々そう言った。寡黙な父なりの、それは冗談だった。
サフィのことだ。
彼女は母の美しさと同時に、体の弱さも継いだ。年に二度は高熱を出し、そのたび十日は寝込んだ。死の淵をさまよったことも一度や二度ではない。
アーシャ自身、有り余る自分の体力を妹に分けてやりたいといつも思っていた。だから趣味の悪い父の冗談も不快ではなかった。
幸い、物心つく頃にはサフィもそう病に伏せることはなくなり、家族は父と姉と妹の三人で穏やかに暮らすようになった。
しかし五年前、父が突然死んだ。
職務中の事故死だと娘二人には伝えられたが、それだけで詳細は分からなかった。
葬儀に現れた父の友人が辺りをはばかる小声で、父は何か陰謀に巻き込まれて死んだのだとアーシャに言った。続けて、残された家族も危ないかもしれないからすぐにでもフォード市を去るように、と。
アーシャは、本当はフォード市に残りたかった。事件の真相を明らかにし、父の名誉を取り戻したかった。
しかし彼女には妹がいた。
十六歳のアーシャは、それまでの生活も、父の死に対する疑念も、全てを忘れて、ただ妹の手を引いて、故郷を捨てた。
あてはなかったが、北へ向かえば新しい生活ができるはずだった。
そうして姉妹は、タララ村に流れ着いたのだった。
初め、村民の大半は、いかにも訳ありな余所者の姉妹を歓迎しなかったが、村長のナジルは彼女らを家にかくまった。
この時、ミスラ山には猛烈な勢いで冬が迫っており、見捨てられた姉妹が命を落とすのは確実だったのだ。
ナジルは早くに妻を亡くしており、息子のカクリと二人で暮らしていた。
姉妹はそこに転がり込んだのである。
四人で暮らすうち、ナジルは若い姉妹を、存外気に入ったようだった。
彼女たちは働き者であり、生活の役に立った。
都市で暮らしていただけあって教養もあり、村民の知らない知識を豊富に持っていた。
特に妹の方は、一介の山村ではめったに見られない美しさであり、ナジルは彼女を、正式に家に迎え入れたいと思うようになった。
そのためには息子とかけ合わせることだ。
ナジルの目から、若い二人は似合いであるように思えた。
ナジルは自分の考えを、アーシャに打ち明けた。
アーシャは返答に窮した。
すぐに答えを出すには彼女はまだ若かった。
何よりも大切な妹である。手放すには、非常な抵抗があった。
しかしナジル一家は、姉妹にとって正しく命の恩人だった。
ナジルもカクリも悪い人間ではなかった。
サフィも、彼ら二人に好意を持っているようだった。
もちろんアーシャも彼らに感謝していた。
それに、姉妹はこの先の生活のことも考えなくてはならなかった。いつまでも、ナジルの家に居候でいられるわけではない。本来彼らは他人にすぎない。
そう考えると、ナジル一家と縁を結べるこの提案は、姉妹にとって渡りに船というべきものなのだった。
時間をかけて熟考した後、アーシャはサフィの婚姻を承知することに決めた。
しかしせめて、妹が成熟するまでは待ってほしいと願った。
ナジルは了承した。
のみならず翌年には姉妹のために家を建て、畑を拓いてやった。
ほとんど破格の扱いだった。
それだけ姉妹を見込んでいたのである。
姉妹はナジルの建てた家に移り住み、暮らし始めた。
流れ者の姉妹の一方が、村長の息子と婚約したことは、すぐに村民の知るところとなり、やがて彼女らは、村の一部として受け入れられた。
そうして月日が過ぎた。
暦は3117年。
この年も、ミスラ山頂からすべり落ちるように冬がやってきた。
秋の収穫を終えた村民たちは、山に入って木の枝を払い、獣を狩った。長い冬に耐えられるだけの薪と食料を確保するのに、いそがしく働いた。
短い秋の終わりに酬恩祭が行われた。
それからしばらくして初雪が降った。雪はすぐ粉雪に変わった。山村の何もかもが白く沈んだ。
村民たちは山に入ることもなくなり、ただ家に閉じこもって日をすごした。
そんなある夜更け、村の中腹の家で馬が騒いだ。
それが、この冬タララ村を襲うおぞましい事件の始まりだった。
家の主人ムルガは、寒さと馬の鳴き声でたまらず目を覚まして、舌打ちした。ベッドの中で藁をかき分けて、隣で寝る妻の胸をまさぐった。
妻はすでに目を覚ましていたらしく、ムルガの手をはたいた。
「外で何かあったんじゃないの?」
暗に確かめてこいと言っているのだった。
「何でもないよ」
「ちょっと。馬に何かあったらどうするの」
妻は声をとがらせた。
馬一頭は安いものではない。しかも外で騒ぐ馬は、ムルガ一家の所有物ではなくタララ村の共有物だった。
一家は馬の管理を請け負う代わりに、その優先使用を認められているのだ。
それを山の獣にむざむざ殺させたとあったら、責任を問われるのは間違いなかった。
ムルガはもう一度舌打ちし、起き上がった。
刺すような冷気が彼の全身をふるわせた。
彼は身を縮こめながら、寝室を出て戸口に向かった。立てかけてある剣鉈を手に、細く戸を開けて首だけ出した。
目がくらんだ。
積もった雪が、青白く月明りを反射していた。恐ろしい寒さだ。
雪は降りやんでいた。
晴れている。雲一つない。月が中天にあった。
静かだ。
馬屋にいる黒い長毛馬が頭を振って足踏みしていた。
馬の他、動くものは何もなかった。川の流れの音だけが聞こえている。暗い雪景色。おかしなことは何もない。
ムルガは、いまだに落ち着かず鼻息を荒くしている馬に「落ち着けよ」と一声かけて戸を閉めた。
速足で寝室に戻る。体は冷え切っていた。
「何だったの」
「何も。灰狐でも通りがかったんだろうさ。おお、寒かった」
ムルガはかじかんだ手を、再び妻の胸に潜り込ませた。
「ちょっと。冷たいよ」
妻はほっとしたらしく、今度は甘えたささやき声で文句を言った。
「だったらお前が温めてくれよ」
妻の息がはずんだ。久しぶりだった。
彼女は、隣で寝息を立てる義父母と三歳の息子を気にしながら、胸もとをゆるめた。白い胸があらわになった。
「ちょっと大きくなったか?」
「もう。ばか」
彼女は夫の冷たい手を優しくなでた。
馬の鳴き声はいつの間にか聞こえなくなっていた。