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5-10

 アーシャ家跡の広まった場所に、いくつも火が焚かれた。

 皆、集まってきた。動けない老人も家人に担がれて集まった。タララ村の生き残りは二十六人。半分になっていた。


 皆、涙を浮かべてカクリとアーシャの手をにぎった。

 言葉はなかった。必要なかった。


 カクリ、アーシャ、紅令師、三人で山に入った。


 夜の山である。しかも火のない行軍だった。

 月が出ているとはいっても、山中は前を歩く者の姿もはっきりしない闇だった。

 しかしカクリもアーシャも、どこに何があるのかは知りつくしている。足取りはよどみなかった。


 紅令師は、初めから自分で歩くのを放棄し、宙に浮いてカクリに手を引かれている。

 ずっと浮き上がっていて体力は問題ないのかとカクリは聞いたが、俺にとっては浮き上がっている方が自然体なのだと紅令師は答えた。


「ちょっとでも気を抜くと浮いてしまう」

「そうですか」

「確かに俺は、学園でも周囲から浮いた人間だったけど、まさか物理的に浮くことになるとは思わなかったよ。ライナス神の嫌がらせかな?」


 紅令師の冗談を、カクリは無視した。

 浮き上がるのに体力を使うなら、後のことを考えて自分が背負おうと思っただけで、問題ないのならそれでいい。

 つまらない話に付き合うつもりはなかった。


 軽口をあっさり流された紅令師は、ほんの少し悲しそうな顔をしたが、それは闇にまぎれて誰にも伝わらなかった。



 さらに斜面を登った。


 この辺りで待とう。と、紅令師が言った。

 一行は足を止めた。


 目が慣れ、いくらか視界が利くようになっていた。

 そこは、周囲から一段低くなったくぼ地のような場所だった。倒木が折り重なっている。

 乱立しているキサーウッドが、そこだけ遠慮したように空間を空けていた。

 月光が木々の隙間から届いて、雪を仄青くわき上がっている。

 目を奪われる美しさだった。


 もうあと数時間もすれば、ここは戦場になる。

 しかし今ここは、世界で最も静謐な場所だった。静かすぎた。


 カクリは振り返った。黒々した森にさえぎられて村の炎は見えなかった。

 世界に三人だけで取り残されたようだ。


「蜘蛛はここを?」

「まず通る」

「まず、とは?」

「絶対なんて、この世にないよ」


 かえってその答えで、紅令師の言葉を信じられた。

 蜘蛛は必ずここを通るのだ。


 紅令師の態度は、これまでと全く変わらない不遜なもので、そのためにカクリもアーシャも緊張を忘れられた。


 月はだいぶ高くなっていたが、まだ南天には遠かった。


「剣を抜いてみろ」


 紅令師がアーシャに言った。

 言葉の通り、アーシャは剣を抜いた。紅令師が持っていた剣である。

 それは、グランダにはなじみのない曲剣だったが、エドラルとの打ち合いを経てアーシャの手にしっかりとなじんでいた。


 剣は月光を吸って青白い輝きをまとった。軽く振るとその軌跡を燐光が追った。

 美しく、幻想的な光景だった。


 しかし紅令師は、不満げに首をひねった。


「ちょっと貸せ」

「なぜ」

「そのままでは蜘蛛を殺せないかもしれん」

「どういうことですか」


 カクリが口をはさんだ。

 この剣で蜘蛛を殺せないということは、全ての作戦が空論に帰すということである。


 紅令師はカクリの問いかけを無視して、アーシャにもう一度剣を貸せと言った。

 アーシャは剣を渡した。


 紅令師は、剣身を指ではじいた。

 こそこそと、人の耳には聞き取れない意味不明な何かを言った。言葉は赤い靄となって剣身にまとわりついた。


 剣がぶるりとふるえた。

 少なくともカクリの目には、そのように映った。


 変化は唐突だった。剣が光を放ち始めた。月光の反射ではない。自ら光を放っていた。

 断続的な白い光。剣身の中に、何か光るものがふくまれていた。

 それは、まるで鼓動のようだった。


 紅令師は剣をアーシャに渡した。

 剣はまたぶるりと大きく一度ふるえたが、それだけで大人しくなった。

 アーシャは、手に持つ剣をまじまじと見つめた。


「これは何だ?」

「まあ、そういう物だよ。変な剣なんだ」

「この光は、蜘蛛が腹の中に呑んでいる物と同じではないのか?」


 紅令師は一瞬、不思議そうにアーシャを見た。


「ああ、そうか。お前はあの場にいなかったのか」

「あの場とは?」


 彼は眉を寄せて少し考えた後、言った。


「まあ、いいか。お前たちだけだったら、どうせあまり興味も持たないだろうし、教えておいてやろう。その剣は、大蜘蛛と同じものを取り込んでいるのさ。ただの蜘蛛を、人食いの化け物に変貌させたものを」


 カクリとアーシャはぎょっとして、脈を打つ剣を見やった。


「それは、一体?」

「『悪神の心臓』と呼ばれる宝玉。その破片だ」


 紅令師はあらましを話した。

 悪神。それは古代に六柱神と争い封じられた、敗れた神だ。

 それくらいのことは、さすがにカクリも知っていた。

『悪神の心臓』とは、手にしたものに万の力を与えて悪神へと変貌させたという、古代神話の代物だった。


 そんなものが、人知れず現代によみがえって、しかも粉々に砕かれて世界に飛び散っているのだと、紅令師は語った。


「つまり、あの蜘蛛は」

「びびるなよ。蜘蛛が取り込んでいるのは、心臓のほんの欠片だ。神話に語られるような力は持っちゃいない。山を裂くことも大地をめくり上げることも都市を浮かべることも、蜘蛛にはできない。それはこの剣も同じだ」


 べつに、カクリもアーシャもおびえたわけではなかった。

 確かに驚きはしたが、どちらかというと突拍子もない話という感じが大きく、たかが辺境の村民にすぎない彼らにはピンとくるものではなかった。

 それよりも、カクリには重要な問題があった。


「この剣で、蜘蛛を殺せるんですね」


 紅令師の言う通り、神話など興味はなかった。

 己の大切な全てを破壊してくれた敵を、本当に自分たちの手で討てるのかどうか。

 問題はそれだけだった。


 果たして紅令師はあっさりとうなずいた。


「殺せるよ」

「害はないんですか。アーシャに」

「ないよ。生意気にも持ち主を選びたがるが、しょせんは剣だ。そんな我がままは聞いてやらなくていい。今強く言ってやったし、問題ないよ」


 それだけ聞ければ、何の問題もなかった。


「今の話は、聞く者が聞けば大騒ぎになるぜ。誰にも話すなよ。これ以上の騒動は、お前たちだってごめんだろう」


 という紅令師の言葉にも、カクリは無造作にうなずいた。


 それから紅令師は、破片の探索者としてのこれまでの苦労などを話し始めたが、やはりカクリにはどうでもいいことだった。

 じきに始まる戦いのことだけを考えて一切を聞き流した。

 紅令師もやがて、つまらなそうに口を閉じた。



 静寂が場を満たした。

 カクリとアーシャは身動きもしなかった。

 足からぞくぞくした寒さが、はい上がってきた。さすがのグランダも骨身にしみる冷たさだった。

 彼らは歯を食いしばって、体のふるえをおさえた。


 紅令師は空中にいて、存分にふるえ、全身をなでさすっていたが、もともと寒さに弱い彼は二人よりも早く限界を迎えそうだった。



 不意に明るくなった。月が雲間から顔をのぞかせたのだ。

 三人は動かない。

 彼らの影が、雪の上にくっきりと形になっている。


 ――蜘蛛が動いた。


 カクリとアーシャの頭の中に、紅令師の声が響いた。

 彼らは息を止めた。

 紅令師は無言で、一方向を指さした。


 ――こちらから来るだろう。


 二人はそちらを見た。

 くぼ地から上がり、さらにゆるやかな斜面が上方に続いている。斜面にはキサーウッドがまばらに立っていた。

 二人の目には何も見えない。ただ、雪の白さと底のない空間の広がりが続くだけだ。


 カクリは動悸が高まるのを意識した。鼓動が頭に響く。

 蜘蛛にも聞こえるだろう。しずめなければならない。しかし、あせるほどに心臓は暴れた。


 アーシャは動かない。

 目を閉じて心身を高めているようだった。


 彼女の肩に、紅令師が手を置いた。そしてその場に留まった。



 時間が過ぎた。

 カクリは槍を痛いほどにぎりしめた。それだけの動きにも、かなりの決意が必要だった。


 紅令師がアーシャの両脇に手を差し入れた。密着した。

 無音で上空に舞い上がる。赤い靄が空を走り、消えた。

 ものすごいスピードだった。カクリの目には何も映らなかった。しかしそれに気を取られている余裕はなかった。


 カクリは何か音を聞いた。

 木をかき分ける音ではない。辺りに生えているのは葉を落としたキサーウッドだけだ。

 雪を踏む音でもない。

 子連れの赤熊が敵を威嚇する時の低いうなり声に似ていた。


 何の音なのかと思った。

 いや、音ではないのかもしれなかった。近づいてくる蜘蛛の圧力を音と認識したのか。


 視線の先には、今も闇と雪だけがあった。

 その闇が、形を変えた。蜘蛛だ。現れた。


 蜘蛛はくぼ地の淵まで進み、動きを止めた。底にいるカクリを見た。

 蜘蛛とカクリの視線がぶつかった。


 凍り付いていたカクリの肉体に、不意に熱がともった。

 怒り。そして憎しみだった。恐怖も緊張も跡形もなく消えていた。


 蜘蛛め。何をしに、どこに行く。

 俺たちを殺すつもりでいるのか。サフィを食い、己の血肉とするつもりでいるか。

 怒りで体がふるえた。許さない、そんなことは。


 カクリは槍を構えた。

 作戦の全てを忘れた。自分が蜘蛛を殺すつもりになった。

 そうしようと、初めから決めていた。殺意のない人間に囮役など務まるはずもない。


「来いよ」


 カクリは言った。


「来いよ、蜘蛛め。おびえているのか」


 蜘蛛が動き始めた。

 じりじり進んだ。倒木をまたいだ。

 加速した。跳んだ。

 あとはもう一気呵成だった。


 気がついた時には、そこに両の肢を大きく広げた蜘蛛がいた。

 カクリは腹の底から大きく叫んだ。槍を突き込んだ。

 はじかれた。


 巨大な質量がのしかかってきた。押し倒された。

 目の前に蜘蛛の顎があった。その奥に黒々とした闇があった。

 それは死だった。


 この闇に皆を取り込んできたのか。何人の人間を殺してお前は生きている。


 ゆっくりと牙が近づいてきた。

 恐怖はなかった。闇の中に死んだ者たちの姿を見た。

 ナジルがいた。サフィがいた。

 彼らは笑っていた。


「アーシャ!」


 上空から、彼女が降ってきた。

 剣を下向きに構え、流星のように一直線に蜘蛛の腹に突き刺さった。

 剣は蜘蛛の中に深々と埋まった。新雪に突き立てたような柔い手ごたえだった。


 黒い死が急激に遠ざかるのを、カクリは見た。

 蜘蛛がのけ反ったのだ。


 蜘蛛は暴れに暴れた。背中に取りついたアーシャを引きはがそうと必死になった。

 アーシャは決して剣を離さなかった。

 くぼ地の中が雪煙で白く満たされた。


「アーシャ!」


 カクリの叫び。

 アーシャは手首を返した。剣をさらに奥までねじ込んだ。


 届いた。

 蜘蛛が大きく体をふるわせた。天を仰いで無言の断末魔を上げた。

 その全身から光があふれた。

 光は物理的な衝撃となって、雪煙を吹き飛ばした。


 くぼ地の真ん中に、白光を放つ蜘蛛の姿があらわになった。

 光は蜘蛛の全身から腹部に収束していく。そして突き刺さる剣に吸い込まれていった。


 人の耳にとらえられない、恐ろしく高い音が空間をゆらす。

 雪が崩壊して湯気となり、さらに細かくなって空中に混ざって溶けていった。


 地に伏せたカクリの体が大きく波打っている。激しい衝撃が、彼の全身を打ちつける。

 歯を食いしばって耐えた。


 閃光と振動は二度大きく広がり、収束した。

 余韻が残り、やがてそれも消えた。


 あとには静寂だけが残った。


 カクリは顔を上げた。

 蜘蛛。倒れ伏していた。小さい。八肢が縮こまっていた。

 それだけで、あれほど巨大だった化け物が、驚くほどのみすぼらしさだった。


 死んだのか?

 ゆっくりと近づいて行った。蜘蛛は動かない。不気味なほど静かだった。


 カクリは蜘蛛を蹴った。

 動かない。蹴った。やはり動かない。


 死んでいた。


 やったのか。と、思った。本当に、やったのか。

 どくどくと頭の中を血が巡っている。

 いや、やった。やったのだ。


 脱力して尻がストンと下に落ちた。

 眩暈がした。今になって自分の鼓動を思い出した。息が荒かった。

 俺は生きているのだ。


 カクリは雪をつかんで口にほおばった。冷たかった。意味のない行動だった。

 全身にまるで力が入らなかった。彼はしばらく呆然としていた。


 背後から声がした。ような気がした。

 カクリは虚脱したまま振り返った。


 剣にすがりつくように、アーシャが立っていた。

 彼女は、死人のような土気色の顔をしていた。

 全身に深い傷を負っていた。肩が外れているのか、右腕がだらりと異様な長さにまで垂れ下がっていた。


 アーシャの虚ろな視線は、カクリを通り越して、蜘蛛の体に注がれている。


「カクリ。蜘蛛は」

「ああ」

「カクリ」

「ああ。死んだ」

「死んだ」

「やったんだ。俺たちは、蜘蛛を。俺たちは」

「本当に」

「本当だ」

「本当に。本当に……」


 アーシャは膝をついた。大きな息を吐いた。熱い吐息だった。

 本当に。本当に。と、何度も彼女は繰り返した。


 本当に、やったのか。

 いや、やったのだ。本当に、やったのだ。


 彼女は肩をふるわせ、嗚咽し始めた。


「サフィ、やったよ、サフィ……」


 うずくまる彼女から視線をそらし、カクリは向き直った。

 蜘蛛の死骸があった。動かない。

 死んでいる。確かに死んでいる。殺したのだ。この化け物を俺たちの手で。

 人の手で。皆の死を。無念を。


 心がようやく追いついてきた。

 うめき声が出た。熱いものが喉をふるわせた。

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