5-8
「サフィのアリムを作る。それはきっと、私の仕事だから」
アーシャは、矢に魂が移るまでの一日を、姉妹だけで過ごしたいと願った。
カクリたちに断る理由はなかった。
蜘蛛を打倒する方策を話すために、彼らは男たちと再び一つ家に集まった。
皆で炉を囲んだ。
初めに紅令師が、蜘蛛は山の麓にいると言った。麓というよりは、地中といった方がいいかもしれないと続けて言った。
男たちは困惑したが、カクリには分かった。
『狼の爪痕』だ。あの峡谷の底に、蜘蛛のねぐらがあるのだ。
それを皆に伝えた。
「蜘蛛は本当にまた来るのか?」
と、男の一人が言った。
前回、仮にも痛い目に合わせて追い払ったのだ。懲りてもう来ないかもしれない。
だが、紅令師がそれを否定した。
「必ず来る。こいつは痛い目を見て逃げたんじゃない。驚いただけだ。何の力もないと考えていた獲物が、思いがけず反撃してきたことに。人間がダールシュールをつまんでいたら、不意にかみつかれて驚くのと同じことだ。血も出ないし皮もめくれない。それで、もう食べるのをやめようと思うか」
「ダーリッショァ……何?」
紅令師は苦笑して、
「ああ、翻訳ミス。この辺りに足のない虫はいないのか。無足虫だ。二チェインくらいの。南方に住むドゥランは、こいつを生きたまま食う」
グランダたちは顔をしかめた。彼らには虫食の習慣がない。
「無足虫にかじられたことのないドゥランはいない。だけど、それで食べるのをやめるやつもいない。それと同じだ。蜘蛛も同じ考えでいるぞ」
エドラルが小さく眉をひそめて、
「ずいぶんはっきりと見通しておられるようですが、あなたはどこまであの蜘蛛のことを把握しているのですか」
「どこまでも。全てさ。現在位置、肉体的な能力、言語化できない思考内容、全てを見通している。この蜘蛛のことで、俺に分からないことはもはや何一つない」
「そんなことが……」
「できるからこその、俺なのさ」
紅令師の言葉は、出どころ不明の自信に満ちあふれている。
男たちは黙り込み、不安げに顔を見合わせた。
遠く離れた場所にいる蜘蛛のことを全て見通すなど、彼らにとっては、あまりに非現実的な話だった。
しかし紅令師の言うことだ。
紅令師というものが、常識で測れない存在だということは分かっていた。
信じていいのか?
「あの蜘蛛には、鋼も炎も通用しませんでした。しかしあなたは先ほど、蜘蛛を倒す方法を見つけたと言った。それは一体?」
聞いたのはカクリだ。彼だけは、紅令師の言葉をまるっきり信じ込んでいた。先ほど体験させられたことには、それだけのインパクトがあった。
目の前の小男を、人としては好きになれそうもなかったが、その力だけはもはや疑いなかった。
紅令師は腰の剣を差し出して、カクリの問いに答えた。
「この剣だ。鋼も炎も、人が作り出した物では蜘蛛には傷一つつけられない。だがこの剣なら、蜘蛛の腹腔を貫き、心臓をえぐることができる」
すらっと抜いた。
皆、一瞬それに目を奪われた。
美しい剣身だった。鋼ではない。骨を磨きあげて作られたような、光沢のない白い剣身。
「その剣は、どういう?」
「まあ、特別な剣だよ。蜘蛛を十分に殺せる。だが、しょせんは剣だ。使うのは人。どれほどするどく強靭な剣も、当てられなければ意味がない」
「それは問題ないでしょう。あの蜘蛛は、俺たちの攻撃に対して驚くほどに無防備だ。通用しないと嘲っているんだ」
しかし、紅令師はそれを否定した。
「蜘蛛は知ってるんだよ。自分に通じる攻撃、通じない攻撃。自分を脅かす攻撃が来ると見たら、すぐさま本気で攻撃してくるぜ」
「本気で?」
「俺は直接見てないが、お前らは見たんじゃないか? いや、見えなかったか? この蜘蛛が本気で動く瞬間を。人の目には、とらえられなかっただろう」
男たちは、蜘蛛が逃げた瞬間を思い出した。
何も見えなかった。急に姿が消えたので、いつ襲いかかってくるのかと警戒したほどだった。
「あの速さに、剣を合わせられるか?」
彼らは顔を見合わせた。どう考えても不可能だった。
「言っておくが、俺にだって無理だぞ。剣なんて振ったこともない。こうして片手で持っているだけで、実は結構しんどい」
「先ほどアーシャにかけた拘束術を、蜘蛛にかけて動きをしばることは?」
エドラルの問いに、紅令師は顔をしかめた。
「無茶言うな。あんなの、ただの小細工だ。あれが効いたのは、あの女が心身ともに疲れ切っていて、しかもあの一瞬、怒りで我を失ったからだ。それに、あいつは心では自分は間違っていると思っていた。だからうまくいった。普通はあんなふうに人をしばるなんてできない。まして心を持たない蜘蛛なんて」
「それでは、やはり奇襲しかないでしょう。蜘蛛に気づかれる前に殺す」
「でも、それも難しいぞ」
紅令師は淡々と告げた。
「この蜘蛛の恐ろしさは、身体能力や頑強さよりも知覚能力にある。こいつは、肢に生えている繊毛で地面から伝わる振動を感じて、どこに何があるのか逐一感知している。人の足音くらいなら、この山のどこにいても感知してくるぞ」
動揺が、男たちの呼吸を止めた。
「それはつまり、あの蜘蛛は今も我々を認識しているということですか?」
「その通り。しっかり見られているぞ」
場が一気に静まった。
男たちは耳をすませ、周囲をうかがった。
強い風の音がしている。家のきしみ。無数の雪のつぶが屋根にぶつかっている。炎。
人間の耳に捕らえられる気配はそれだけだ。
しかし蜘蛛は違うのだ。今も見られている。
異様な緊張が部屋に満ちた。
紅令師が笑った。
「おいおい、黙っても意味はないぞ。音は拾っても蜘蛛に人の話を解する頭はない。気にせず作戦会議を続けようぜ」
それに答えたのは、カクリだった。
「蜘蛛が動く夜、その通り道をあらかじめ予測しておくことは可能ですか? そこで身動きせずに、待ち伏せする。そして一撃で仕留める」
「いい考えだ。だが、無意味だな。通り道を予測して待ち伏せることは可能だが、ある程度まで近づかれると、俺たちの鼓動が振動となって、地面を伝わって気づかれるだろう」
「鼓動。そんな振動で?」
「三十フィールほどまで近づかれたら、十分感知されるよ。あとは一気に飛びかかられて、終わりだ」
三十フィール。
カクリはうめいた。絶望的な距離だった。
人間が三十フィール以上向こうの敵に攻撃する手段は、弓しかない。そして弓では、蜘蛛に傷一つつけられない。
気づかれずに先制攻撃で、剣をたたき込むのは無理なのか。
しかし、まともに戦うのはもっと無理だ。あの速さで襲いかかってくる蜘蛛を、正面からとらえられる人間などいない。
気づかれない間に殺す。やはりそれしかない。
だがどうやって?
考えた。なかった。
無理なのか。やはり人にはどうしようもないものなのか。
悔しさがふくれ上がった。それを突き破るように、浮かんできたものがあった。
「宙に浮く力」
カクリは身を乗り出し、問うた。
「一つ、聞きたい。あなたは、人を抱えて地面を離れることはできますか? 地面から離れて、蜘蛛を待ち構えることは」
紅令師は破顔した。やっとそれに思い至ったかという笑みだった。
「できるよ。だが、人を抱えるのはあくまで俺の筋力。一人が限界だ。それも重いやつは厳しい。お前らはただでさえ体がでかい。できるだけ軽いやつを短時間。それなら大丈夫」
「短時間とは、どの程度?」
「蜘蛛に存在を感知される前に浮かび上がって、切りかかれる距離に近づいて来るまで空中にいる。そのくらいの時間さ」
「つまり、つまり、奇襲は」
「可能だろう」
「殺せるんですね? あの蜘蛛を」
「奇襲に成功して、この剣で蜘蛛の心臓をえぐり抜けばな」
「本当に」
「殺せるさ。正しい手順さえふめば、この世に殺せないものなど存在しない」
「本当に。あの蜘蛛を」
「とはいえ、単独での奇襲だ。危険な賭けには違いない」
それでもやるか? 紅令師は聞いた。
答えるまでもなかった。
ぞくりと快感に似たしびれが、カクリの背筋を走った。
彼は、いつの間にか息を切らせている自分に気がついた。必死にそれを整えた。
繋がったのだ。
あの化け物に届く道が一筋。今、ようやく通ったのだ。
これまでに二度、蜘蛛と戦った。
勝ち筋が全くない戦いだった。それでも皆戦った。
そして、何十人と無為に死んだ。
ナジル。ムルガ。ミラン。シーラ。……。
死んでいった者たちのことを、一人ずつ思い浮かべていった。
最後に、サフィの美しい横顔を思った。
拳をにぎりしめた。
殺さなければならない。
どれほどわずかな可能性だろうと、今度こそ道は通ったのだ。
必ずこじ開けて、あの蜘蛛を殺してやる。




