5-7
朝からずっとすんだ青い空が広がっていたが、日が南天を越えた頃、山頂から雲がすべり落ちてきて、やがて雪が降り始めた。
アーシャは一人だった。
去っていくカクリの足音を聞いたのは記憶していたが、周囲にいた男たちが去ったのは、分からなかった。気がついた時には、誰もいなかった。
一人になるのも当然だった。そこに感慨はなかった。
カクリが去った時、自分に残っていた最後の絆は失われたのだと思った。
自らの手でそうしたことだった。
痛みは感じたが、それは後悔ではなかった。
あの夜。
サフィの死の重みに耐えきれず、逃げ出してしまったあの時から、私にこういう結末が訪れるのは決まっていたのだ。
カクリは前に進み、自分は止まっている。
自分が他の誰かと交わることは、もうないのだ。
それでもべつに構わなかった。一番大切だったはずのものを切り捨てた私が、これからどうやって生きられるのか。
だから、カクリが再び目の前に現れた時は少し意外だった。
「紅令師が、サフィの体を検分しに来る」
「検分? 紅令師?」
この時アーシャは、紅令師が村にやって来たことを把握していなかった。
カクリから説明されてようやく理解したが、今さらだった。
喜びも何もわかなかった。
「検分とは何だ」
「分からないが、昨日死んだ男たちの遺体を、ごそごそ調べていたけど、何も分からないようだった。今はムルガさんの馬を調べに向かっている。その次はここに来るぞ」
「……」
「アーシャ、エドラルさんもついている。今度こそ殺される」
「お前は何をしに来た」
「お前と話すために決まっているだろう」
「私はお前を殺そうとした」
「そんなこと」
カクリは一度言葉を切って、うつむいた。しかしすぐに顔を上げて言った。
「お前を死なせたくないんだ」
「……」
「大勢、死んだ。大切な人たちが。俺は。このうえ、お前にまで死なれたら、俺は……」
今度はアーシャがうつむいた。
胸の内に何かを感じた。だがそれは喜びというより、わずらわしさという方が近かった。
「カクリ、お前はいいやつだ。頭がよくて頼りになる」
心に浮かんだ言葉をそのまま口に出した。
同じことをつい最近言った気がした。すぐに思い出した。
サフィに言ったのだ。
あの時、私は世界で一番幸福な女だった。
胸がふさがって何も言えなくなった。息をついて、ようやく短く言った。
「もう、放っておいてくれ」
それきり、彼女は黙り込んだ。
雪が強くなった。
風のせいで真横から吹き付ける氷のような雪だった。
雪で全身を真っ白にさせて、二人がやって来た。
紅令師はフードをすっぽり被っていたが、中から歯の鳴る音が聞こえるほど激しくふるえていた。フードを取ると顔の表皮はバリバリで、垂れた鼻水がツララになっていた。
「よく来られましたね」
カクリは言った。
皮肉のつもりはなかったが、そういう響きになってしまったらしい。エドラルが少し眉をひそめた。
紅令師自身は、気にした様子もなく笑った。
「凍死すると思った。ヴァリスにここで暮らすのは無理だな」
「馬はどうでしたか?」
「駄目だ。食いつくされている。食われる前か、ちょっとでも食べ残しがあれば、蜘蛛の心も少しは残っていたんだろうが」
紅令師はアーシャに目をやった。
「それで、お前か、問題児は。ごねているらしいな」
アーシャは立ち上がった。ためらいなく剣鉈を構えた。
エドラルが前に出ようとしたが、紅令師はそれを止めた。
「お前の妹の死体を調べたい」
「……」
「駄目か。なぜだ。蜘蛛を倒すのに必要なことだぞ」
アーシャは答えない。ただ、無表情の仮面をかぶって戸を背にしている。
紅令師が、嘲りの笑みを作った。
「役立たずが、邪魔をするなよ」
「何だと」
「現実を見ろよ、駄目人間。お前の妹は死んだんだ。そしてお前らはその仇も討てない。何もできない。無力なお前らに代わって、俺がお前の妹の死体をせいぜい役立ててやると言ってんだよ」
「貴様……!」
アーシャの怒気が、ふくれ上がった。体が一回り大きくふくらんだように見えた。それほどの殺気とともに、剣鉈が振り上げられた。
何かを、紅令師が言った。
人には理解しえない言葉。それは赤い靄となってアーシャに吹きかかった。ぴたりとアーシャは止まった。
彼女の手から剣鉈がこぼれ落ちた。手はまだにぎりの形を取っている。
動けないようだった。
目だけが、驚愕を映してせわしなく動いた。
「狂犬のようなやつだな」
紅令師がアーシャの横をすり抜け、戸に手をかけた。
その肩を、カクリがつかんだ。紅令師が振り返る。そこに拳が突き刺さった。
紅令師は軽々と吹き飛び、扉にたたきつけられ、跳ね返り、顔面から雪に倒れ込んだ。
「にゃにをする!」
がばっと身を起こした紅令師は、鼻血をまき散らしながら怒鳴った。
カクリは憎悪を込めたふるえ声で、
「黙れ。お前はそこに入るな」
「なんでそうなる!」
「お前のようなふざけた男に、こいつの何が。サフィの、俺たちの何が分かる……!」
紅令師は唖然と口を開けて、
「馬鹿だな、つまらんことにこだわっている場合か」
「黙れ」
「ああ、もう。駄々っ子め。いいか、カクリ。お前はせっかく頭がいいんだから、少しは感情を制御して論理に従う癖をつけろよ。宝の持ち腐れだ。お前とこの女、それから死人の関係は知っているが、村長としてのお前にとっては、村人の一人にすぎないはずだろ。お前はお前が決めた通り、一人じゃなく皆を生かすことを考えろよ。それができないなら、お前はあの夜、この女の誘いに乗っておくべきだったと、」
「紅令師殿」
延々続きそうな紅令師の長口上をさえぎって、エドラルが言った。
「その辺にして、早く検分に入られよ」
「エドラル! こんな男に、俺たちの死をもてあそばせてたまるか!」
「冷静になれ、カクリ。今、私たちが本当にしなければならないことは何だ? 蜘蛛を倒して同胞を守ることだろう」
「こんな男に守られるのが、望みか!」
「カクリ」
カクリは歯を食いしばり、沈黙した。
言葉と一緒に激情も飲み込んだ。そうしなければならなかった。
エドラルの言うことは正しかった。
紅令師がほっと息をついた。
「まったく、未熟者め。自分の本当の望みくらい、あらかじめちゃんと把握しておけ。そうしないから、こんな土壇場でどっちつかずの半端なことを、」
「紅令師殿」
紅令師の口上を、再びエドラルが止めた。
「三度は言いません。早く検分に。ミスラの雪は深く冷たい。こんな場所でいつまでも話していれば、埋もれて永遠に上がって来られなくなりますよ」
口調はやはり淡々としていたが、明らかな脅迫だった。
今すぐ黙ってやることをやらないと、殺して埋めてやるぞ。
紅令師はエドラルを見返した。続けてカクリを見、アーシャを見た。この場に自分の味方がいないことを悟って、最後に延々と降り積もる雪を見た。
ため息をついて、俺はいつもグランダに嫌われるんだとぼやきながら、家の中に消えた。
同時にアーシャが膝をついた。戒めが解けたのである。
エドラルは、彼女が家に飛び込んでゆかないように警戒した。
しかしアーシャは、息を切らせるばかりで動かない。
やがて彼女は、虚ろな声でつぶやいた。
「分かってるんだ。何と言われても、あの夜、私は去るべきじゃなかったんだ。嫌がられても泣かれても、最期までそばにいて、私もあいつと一緒に死ぬべきだったんだ」
何かを、カクリは言おうとした。
だが、それが何か分からないままに言葉は萎えた。
彼女の絶望を、カクリは痛いほど理解していた。彼女たち姉妹の絆の強さを、ずっと一番近くで見てきたのである。
何も言えるわけがなかった。
アーシャは、このまま死んでしまうのではないかと思った。
それが彼女の本当の望みであるようにも思えた。
紅令師は、すぐに出てきた。
何か分かったのかというエドラルの問いに、彼はうれしそうにうなずいた。
「蜘蛛は死体に未練たっぷりだったよ。おかげで簡単にたどれた。大体分かったよ。今どこにいるのか、次にどう動くつもりでいるのか、どうすれば倒せるのか」
「倒す方法が? 本当に」
その問いには答えず、紅令師はカクリの方を向いた。
「さっきのお返しだ」
その言葉は、赤い靄となってカクリの頭に取りついた。
何が、と言う間もなく、彼の頭の中にがつんとした衝撃が走った。
同時に一つの思念が、カクリの頭に伝わってきた。
それはサフィの心だった。
サフィは苦しみ抜いて死んだのだ。それを思い知らされた。
だがそれだけではなかった。
「アーシャ、サフィはお前に感謝していたぞ」
アーシャは何も言わない。彼女の耳には何も聞こえていないようだった。
カクリは彼女の肩をつかんで顔を上げさせた。
「サフィはお前に感謝していたぞ」
カクリはもう一度言った。
それは彼の言葉というよりは、もっと別の、正体の知れない何かに突き動かされて発せられた言葉のようだった。
アーシャの顔が、困惑でゆがんだ。
「何を言っている」
「死に際のサフィの心を知った。あいつはお前に感謝していた。死を繰り返すような苦しみの中で、それでも最期まで一心にお前を愛し、感謝していた」
アーシャは、怒りの表情を浮かべた。しかしそれは、泣き顔のようでもあった。
「ふざけるな。そんな。気休め。あいつの心を」
「嘘じゃないぜ」
言ったのは、紅令師だ。
「俺がお前の妹の心を拾い上げて、カクリに伝えた。お前の妹の魂は、今も肉体にとらわれている。お前が弔ってやらないから。かわいそうに」
「馬鹿な!」
アーシャは激昂した。立ち上がった。
「サフィが私に感謝している? なぜ。そんなことあるわけがない。私は、私にはそんな資格なんて。私は逃げたんだ」
逃げたのだ。
そう口にしたとたん、彼女の心はあの夜に戻った。
サフィを捨て、苦しみから逃げ出したあの夜に。後悔してもし切れない、あの夜。
「安心したんだ、私は」
苦しみが、言葉となってあふれ出た。
「あいつに、出て行ってほしいと言われ、私は安心した。苦しかったんだ。美しかったはずのサフィが、時間ごとにくずれていった。見てられなかった。あいつの人生は、一体何のためにあったんだ? ずっと、たった一人、病に苦しめられる人生。それが、ようやく、もうすぐ幸せになるはずだったんだ。女として、人として、幸せに。なのに、その何もかもが、あっという間に、理不尽に、奪われてしまった……。苦しかっただろう。無念だったろう。なのに、あいつはじっと耐えていた。一人で! 終わりが見えても、あいつは何も言わず、たった一人で。それがあわれで、悲しくて、苦しくて、見てられなくて、私は、気が狂いそうだった。だから、出て行ってくれと言われて、その苦しみから逃げられると思って、私は安心した。サフィの絶望も苦しみも、なくなるわけじゃないのに。その全てを放り出して、私は逃げたんだ。私はあいつを捨ててしまった。たった一人の、何より大切だったものを。私があいつに愛されているなんて、あるわけがない。そんなこと、あっちゃいけない……」
アーシャは自分の肩を抱いた。背中を丸めた。もう何も聞きたくなかった。
しかしカクリを動かす何かは、アーシャを逃がさなかった。
「いいや、サフィはお前に救われていたよ。あいつが最期に恐れたのは、死ぬことでも体が溶けていく苦しみでもなく、世界に取り残されて忘れ去られてしまうことだった。だが、サフィはその恐怖に憑り殺されはしなかった。絶望しなかった」
「……」
「心の中にお前がいたからだ。お前の心の中に自分は遺っている、遺ってゆくのだと確信していたからだ。お前と一緒に生きてゆける。その思いにあいつは救われていた」
ふざけるな。気休めを言うな。
と、彼女は思った。
しかしその言葉は、不思議とアーシャの心をとらえて離さなかった。
覚えていて。
最後にお前が言ったのは、そういうことだったのか?
私の心に自分の最期の意思を残した。そんな希望に、お前は救われていたのか?
馬鹿な!
そんなことで!
「そんなはずはない。私はあいつを守れなかった。そばにいてやることも。それだけが、私の望みだったはずなのに」
「あいつは最期に何と言った? 思い出せ。恨み言でも、嘆きの言葉でも、苦しみのうめきでもない。ありがとうと言ったはずだ」
暗闇の中、じっと天井を見つめていた妹の姿が浮かんだ。
何と言った。
ありがとう。と、言ったのか。
そうだ。確かにお前はそう言った。今までありがとうと。
「サフィは、最期までお前を愛していたんだ」
言葉は忘れた。アーシャは両手で顔を覆った。声を放って泣いた。
言葉にならない声で彼女は謝った。謝り続けた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
と、誰かが言った。幻聴ではないはずだった。




