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5-6

 その時、南から何かが山を登ってきた。

 馬だ。と、誰かが言った。


 黒い馬が猛烈な勢いで山を駆け上ってきた。

 人が二人乗っている。大人と子供のようだった。

 大人はタララ村の男だった。ロドア。紅令師への使いとなった男だ。


 戻って来たのだ。それでは後ろの子供がそうなのか。


 人だかりになっていた騒ぎの前で馬は止まった。

 馬に乗っていたロドアは、不可解な状況に目を白黒させたが、とにかく伝えるべきことをまず言った。


「紅令師だ。見つかったんだ」


 皆、その後ろに乗っている子供に目を向けた。

 毛皮の外套を着ており、フードで顔は隠れていた。


 子供は無言で馬から飛び降りた。

 凍った雪で足をすべらせ、尻もちをついた。フードが脱げて面相が明らかになった。


 グランダではない。

 醜い男だった。少なくとも、グランダの感覚ではそうだった。

 紅令師と聞いて連想する、神秘な雰囲気など全くなかった。


 糸のような細い目だ。

 鼻は低く、薄い唇は口角の辺りでゆるく上がっている。

 肌も、グランダとは比べようもなく黄色くくすんでおり、汚れて見えた。

 矮躯は丸きり子供で、顔貌は十代半ばの若者のようだったが、グランダの目からは、実年齢ははっきりと予想できなかった。


 腰に一振りの剣を下げており、その剣は、抜かなくても分かる、小男には見合わない立派な拵えをしていた。


 その男はまず、顔をしかめて言った。


「ひどい匂いだなあ」


 そして辺りを見回して、


「何だこれ。死体だらけじゃないか」


 まるでこの場にふさわしくない、のん気な言い草だった。


 唇を全く動かさない、不可思議なしゃべり方だった。

 そしてその言葉は、強い北部なまりのあるティシリア王領語――つまり、この場にいるグランダたちの最も慣れ親しんでいる言語となって、彼らの耳に届いた。

 グランダですらない人間が、北部のティシリア語を話したのである。

 しかし、外部との接触に慣れていないグランダたちは、その奇妙さには思い当らなかった。


 エドラルが剣を腰に戻して、男に近づいていった。彼の眼前で膝をつき、貴人に対する礼を取った。


「紅令師殿でしょうか?」


 男は無言で、懐から銀の短剣を取り出した。

 それは記章だった。紅令師たちの自治する都市セイトラッドにて、大きな功績を残した者に授けられる短剣である。


 エドラルはその存在を知らなかったが、身分証だろうという推測は立った。

 短剣には精緻な細工が施されており、彼が一定以上の地位にある人物だというのは間違いなかった。

 紅令師と考えて問題なさそうだった。


「救援をお受けいただき感謝します。事情は?」

「ある程度は。この男から」


 紅令師は、馬上のロドアを顎で指し示した。


「それは重畳。私が、現在指揮を取るティシリアの白護衛士、ローディ市にて第三分隊士長の階を授かるエドラルと申します」

「くわしい内情を、お前と、それからカクリという男に聞きたい。どこにいる?」


 その場にいる全員の視線が、カクリに集まった。

 紅令師の視線がそれを追った。

 カクリは今もアーシャに羽交いじめにされている。


「あいつか。何をやっている」

「身内のことです」


 エドラルは短く言って、詮索を拒んだ。

 特に興味がなかったらしい。紅令師も、それ以上聞かなかった。


「とりあえず、寒すぎるからな。火に当りたいから、適当な家に案内してくれるか。話は火のある場所で聞きたい」


 エドラルはうなずいて、アーシャに向かって言った。


「先ほどの話はまた後だ」


 しかしアーシャは動かない。

 エドラルが皆に手出しを禁じると、ようやく彼女はのろのろとカクリを解放した。


 カクリは立ち上がり、アーシャを振り返った。

 彼女はじっとうつむいている。何も言わない。


 カクリはしばらくその姿を見つめていたが、言うべき言葉が見つからず、逃げるように踵を返した。

 アーシャも、最後まで顔を上げなかった。





 エドラルとカクリは、紅令師を先導して上流に向かった。


 道中、紅令師は何度か足を取られて転び、雪まみれになった。

 舌打ちした後、ふわっと宙に浮き上がった。

 ぎょっとする二人に、彼は言った。


「雪の中を歩くのには、慣れてないんだ」


 紅令師の足もとには、赤い靄のようなものがわだかまっている。

 浮くだけで空中を自在に移動できるわけではないらしい。紅令師は無断でカクリの肩に手を置いた。

 そうやって、すべるように宙を引かれた。


 適当な家に到着した。

 エドラルは女たちに火を大きくするように言った。それから主だった男たちを呼んでくるように伝えた。


 三人の女たちがすぐに出発した。

 部屋の中では炉が燃やされ、湯が沸かされた。湯気が立ち上がって温かくなった。


 紅令師は上着を脱いで、雪をばさばさ落とした。

 炉端にあぐらをかいて、湯気に顔と首筋をさらした。ぶるりと大きくふるえて暖気を全身に取り込んだ。

 まるでそこが我が家であるように、くつろいでいる様子だった。


「しかし寒い。ここの冬は毎年こうなのか?」

「こんなものはこの辺りでは冬のうちに入りません。これからです」

「正気か。信じられんな」


 しばらく湯気に当ってようやく落ち着いたらしい紅令師は、まずカクリに、今回の件を時系列順に追ってくわしく話すよう求めた。


 カクリは話し始めた。

 途中、周りの女たちやエドラルから簡単な補足が入りつつ、詳細に話した。

 ナジルのこと、サフィのことについても、気が重くなりながら、なるべく感情的にならないように話していった。


 蜘蛛の話を、特に紅令師は聞きたがった。

 外見、習性、能力。エグト・ラッシャという種について話が及ぶと、ぜひ図鑑を見たいと言った。


 途中、男たちがやって来た。

 彼らは待望の紅令師が早くもやって来たと聞いて、いずれも喜色を浮かべていたが、カクリと話すいかにも頼りない小男がそれだと知ったとたん、落胆に肩を落とした。

 グランダの目に映る彼は、女の肩ほどまでしかない矮小な男だった。

 あの蜘蛛を倒せるとは、到底思われなかった。


 カクリの話が一区切りつくのを待って、エドラルが言った。


「蜘蛛には火も鋼も通じませんでした。そのようなものに対抗できる手段を、あなたはお持ちですか」

「さあ? その蜘蛛が、何に耐えられて何に耐えられないかを、知らないことにはな。切ろうが突こうが平気な生き物が、水をかけただけで死ぬこともある。なでた衝撃で死ぬような生き物が、高温にはやたら強いということもある」


 男の一人が口をはさんだ。


「そういうことじゃなくて、あんたは紅令師でしょう。俺たちにはできないことが、あんたにはできるはずだ。それで、蜘蛛を倒す方法はあるのかということです」

「それはつまり、俺が使う『言葉』に、蜘蛛を倒せるものはあるのかということか? それなら答えは一つだな。ないよ。紅令師としての俺にできるのは『知ること』と『伝えること』。二つだけだ。攻撃したり戦ったりは一切できん。ついでに言うと、肉体的にだって子供にも負ける貧弱さだよ、俺は」


 気負いもてらいもなく、紅令師は答えた。

 男たちは、今度こそ失望をあらわにした。険悪な空気で場がざわついた。


「戦えないなんて、あんた本当に紅令師なのか」

「それは間違った先入観だな。紅令師というのは、基本的に引きこもりの研究者だ。戦う手段を持たなくても、それが普通だ。驚くことじゃない」

「だけど」

「言いたいことは分かるよ。外の人間が耳にする紅令師は、戦ってばっかりだろうしな。誤解しても仕方ない。確かに紅令師の中には、都市の外に出て、人食いの化け物を専門的に討伐するおっかない集団がいる。目立つから、そいつらの活躍は物語になって歌われたりして、一般に知られることになるけどな、そいつらはむしろ紅令師としては例外で、普通は違う。俺は違う」


 男たちは黙り込んだ。

 彼らの誰も、紅令師についてほとんど何も知らない。本人に言われれば、そういうものかと納得するしかない。


「先ほど、宙に浮いてみせたのは? 知ることとも伝えることとも違うようですが」


 と、エドラルが言った。


「ああ、あれは違う。あれは紅令師としての力じゃない。むしろその逆。何の応用も効かない、ただ浮かんでしまうだけの現象だよ」

「それは、つまり?」

「ややこしい話になるぞ。本当に聞きたいのか」


 面倒くさそうにする紅令師に、エドラルはうなずく。

 蜘蛛への対抗手段になり得るなら、どんな些細なことでも知る必要があるのだ。


 嫌がったわりに、紅令師の説明は丁寧で分かりやすかった。

 それは紅令師たちの宿命だった。


 紅令師とは、六柱神が一柱、ハクラ神が人に残した『力ある言葉』を宿した者であり、それは、世界のあらゆる事象を意のままに操る、まさしく神の力である。本来、人に扱えるようなものではない。

 その理を曲げて、人が紅令師となるには、自らを人たらしめているものを捧げなければならない。


 自らの魂をけずり、そこに『力ある言葉』を刻んでいくのだ。


 必然、言葉を習得するごとに彼らは摩耗してゆき、やがて臨界を越えると、紅令師は人とかけ離れた存在になる。


 大地から見捨てられ、宙に浮かぶ存在になったり、肉体を物質的に喪失したり、塩の結晶になったり、地をはう獣になったり。

 その末路は様々だが、最も多いのは、人食いの化け物になる者である。

 喪失した人間性を取り戻そうという衝動が、そうさせるのだ。

 だがいくら人を食おうと、一度外れた紅令師が戻ることはない。


「臨界までにいくつ言葉を習得できるかは、人によって違う。大抵は一つで精いっぱいという感じだが、中には三つも四つもモノにするやつもいる」

「あなたは臨界を越えたのですか?」

「いいや、その手前だな。越えたらこんなふうにまともに話せない。食べたり眠ったり話したり笑ったり考えたり孕んだり孕ませたり、そういった人間じみた活動は、何もできなくなる。俺なら、ただ空中をただようだけの肉のかたまりになる」


 場は静まっていた。理解できない価値観を、さも当然のように語る紅令師が、気味悪くなったのである。

 皆、嫌悪の目で紅令師を見ていた。


「あなたは、恐ろしくないのですか? そんな存在になってしまうのが」

「恐ろしくないことはないけど、学ぶためだしな。仕方ない」

「学ぶため……」

「未知を既知とする。その喜びは、何にも代えがたい」

「それで、人食いの化け物になったとしても?」

「それはそれで、仕方ない。もっとも、俺はそうはならないけどな」

「紅令師とは、そんな方ばかりなのですか?」

「それは、人それぞれじゃないか?」


 エドラルと紅令師のやり取りを黙って聞いていたカクリが、不意に口をはさんで言った。


「あの蜘蛛は、紅令師が変じて生まれた存在なんですか?」


 あっと、皆が息を飲んだ。

 蜘蛛の正体の手がかりが、思いもよらないところからわき出してきたようだった。


 部屋の中が、にわかに不穏な空気で満たされた。

 目の前のこの男は、同胞を何十人も殺した化け物の同類なのかもしれない……。


 紅令師は苦笑いで答えた。


「まあ、ばれるよな。その通りだよ。だけど、まあ待て。そう殺気立つなよ。俺だって被害者なんだぜ。蜘蛛に変貌した紅令師と俺は、直接何の関わりはないんだ。なのに、こんな北国まで追いかけるように、上から命令ちゃったんだから」

「嘘ですね」


 即座に断定されて、紅令師は真顔になってカクリを見た。


「嘘じゃない。知らないやつだよ」

「そうじゃない。あの蜘蛛は、紅令師が変じたものじゃない。もしそうなら、ここに来るのは戦う紅令師だったはずだ。あなたは言った。人食いの化け物を討伐する紅令師がいると。本来研究者であるはずの紅令師の中に、なぜそんな集団がいるのか。少し考えれば分かる。外れた紅令師を、自分たちの手で始末するためでしょう?」

「……」

「だが来たのは、戦う術を持たないあなただ。偶然じゃない。あなたはこの秋からミスラ山で何かを探していた。ここで異変が起きることを知っていたんだ。おそらく、他の紅令師たちの誰にも内密にして。だから一人で来た。あなたは蜘蛛の正体を知っているんだ。そしてそれを誰にも知られないように、事態を収めようとしている。俺たちにも知られないように。今、蜘蛛の正体をあざむこうとしたのは、そのためだ。違いますか?」

「……」

「答えてください。あの蜘蛛は、何なんだ」


 紅令師は何度かうなずいた。どこかうれしそうだった。


「お前、名前は?」

「俺の? ご存じのはずです」

「うん。まあそうだけど、お前の口から直接聞いておきたくてな」

「カクリ」


 紅令師は、口の中でその名前を何度か転がした。

 そして、聞かれたこととは全く別の話を始めた。


「これは俺の持論だが、知性とは知識から生まれるものだ。存分に知識を蓄えた者が、それを下地に発揮するのが知性だ。だがまれに、ろくな知識も経験もないまま、思いもよらぬ知性を発揮する変なやつもいる」

「何の話ですか?」

「お前、この村を出て、セイトラッド市に来ないか? ハクラ神の信徒が治める学術都市だ。あそこは、言葉だけじゃない。この世に存在するありとあらゆる学問を修められる場所だ。お前のようなやつはあそこへ行って、より広い見識を持つべきだと思う」

「お断りします」


 考えるまでもない。何やら見込まれたようだが、うれしくも何ともなかった。

 むしろ、話をはぐらかされた不快感だけが胸に溜まった。

 そんなことより、蜘蛛の正体を教えろという意を込めて、紅令師をにらみつけた。


 紅令師もそれを察したか、二度は言わなかった。

 代わりに、彼は何かをつぶやいた。

 声は、音ではなく赤い靄となって部屋に広がり、その場にいる男たちの周囲を飛び過ぎ、すぐに消えた。


 その時には皆、蜘蛛の正体について疑問に思う心をなくしている。


 カクリが目を瞬かせ、紅令師に焦点を合わせた。

 何かをされたという意識すら、彼の頭には残っていない。


 紅令師がにやっと笑った。


「紅令師としての、俺の本領は知ることだ。まずは死体の検分をさせてもらおうか。蜘蛛を倒す方策を見つけられるかもしれない」

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