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5-5

 翌日。

 雲一つない青空が広がったが、人々は明るくなりようがなかった。

 戦いに臨んだ四十三人のうち、十六人が死んだ。蜘蛛は追い払ったものの、傷一つ負わせることもできなかった。

 大敗というべきだった。


 しかし、絶望しているひまはなかった。

 エドラルは、被害状況と獣の脅威を書に封じて、生き残った衛兵に持たせローディ市に送った。

 しかしどう考えても、ローディ市にあの大蜘蛛を殺す戦力はなかった。


 ローディ市からさらに南へ下ると、王国の北部と中央を結ぶ巨大な都市クリアがある。

 そこまで応援を頼むしかなさそうだった。

 しかし、それにはどれほどの時間がかかるのか。


 先の見通しは全く立たなかったが、考えるのをやめるわけにはいかなかった。


 エドラルは、カクリを初め、各村の代表を集めて話し合った。

 次の応援が来るまで、蜘蛛にどう対処するのかというのが、主題だった。


 話し合いは、タララ村を放棄して逃げるべきか、ということから始まった。

 しかし、それはエドラルによって却下された。


 ここで村から人が消えれば、蜘蛛は新たな猟場を求めて移動するだろう。

 近辺の村や都市に現れるかもしれない。さらに南方にまで移動するかも。

 そうなれば、被害は一気に広がる。

 あの蜘蛛を解き放つわけにはいかない。自分たちを餌にしてでも、ここに釘付けにしておく必要があるのだ。


 残酷な事実に、男たちは顔をしかめたが、反対の声は上がらなかった。

 蜘蛛が移動すれば、次に襲われるのは自分たちの村になるかもしれないし、同胞を何人も殺されておいて、尻尾を巻いて逃げるというのも、彼らには耐えがたいことだった。


「とにかく、応援が来るまで耐えるしかない」

「しかし応援といっても、一体何が来ればあの蜘蛛を仕留められるのか。鋼も火もあいつには通じなかった」


 男の一人が言って、部屋に絶望的な空気が満ちた。

 エドラルがカクリに言った。


「紅令師の話を、シーラから聞いているか」

「はい」

「どうなっているか分かるか?」

「分かりません」


 男の一人が口をはさんだ。


「そもそも、その紅令師とやらは、呼べば本当に来るのか?」

「それは、おそらく大丈夫です。紅令師はこの秋、山で何かを探していたと聞いています。タイミングからして、探し物は蜘蛛で間違いないでしょう。ここに蜘蛛がいると伝えてやれば、来るはずです」

「それはいつになる?」

「分かりません。ただその紅令師は雪には慣れていなかったようですし、探し物を諦めて帰っていなければ、今もアカリア村のすぐ近くに張っているでしょう。探せば見つけるのは、容易であると思います」


 幸いとは言い難いが、昨日今日と天候には恵まれている。うまく落ち合っていれば、今日か明日にも来てくれるはずだとカクリは言った。

 それが楽観的な目測にすぎないことは、承知の上だった。


 男たちは黙り込んだ。


 今や、彼らの希望の大部分は、顔も知らない紅令師にかけられていた。

 昨夜の惨劇は、数の力を根拠とした彼らの自信を、根こそぎ折ってしまったのだった。


 結局、紅令師にせよクリア市からの応援にせよ、蜘蛛を倒しうる戦力が来るまでは、馬を餌に耐えしのぐしかないという結論が出て、話し合いは終わった。

 それは、十日前にカクリが出したものと全く同じだった。






 村の下流では、ちょっとした諍いが起きていた。


 死んだ十六人の遺体の処理のため、最寄りの家を使おうとした男たちの前に、アーシャが立ちふさがったのである。

 彼女は剣鉈を手に持ち、男たちを威嚇した。


「誰も、ここには入るな」


 アーシャがただ一人の身内を失ったらしいことは、その場の皆が知っていた。

 しかし誰もが、彼女の気持ちを慮る余裕など、すでになくしていた。


 男たちはアーシャを取り囲んだ。


「何人死んだと思ってやがる。勝手なことをぬかすな」


 アーシャは答えなかった。しかし、その場を譲る気はないようだった。


 男たちはいきり立ち、次々にアーシャを罵った。

 戦いの舞台が本来予定されていたナジル家ではなくアーシャ家になったのは、アーシャが身内の遺体をいつまでも放置していたからだと言う者が現れた。そのせいで被害はここまで大きくなったのだと、その男は言った。

 他の者たちも彼らに同調する空気となって、アーシャを取り囲んだ。


 アーシャは何も言わず、彼らの責めを大人しく受けた。しかし彼らがアーシャを押しのけて戸に手をかけるに至って、異常な反応を示した。

 男を押し飛ばして威嚇した。

 そうなれば男たちも収まらなかった。アーシャを激しくののしった。男の一人がサフィを侮辱する言葉を放った。

 アーシャの目に危険な光がともった。剣鉈を持つ手が、大きく振りあがった。


 カクリがやって来たのは、ちょうどその時だった。


「アーシャ! 止めろ!」


 破裂寸前だった場の空気が一気に静まった。

 カクリは騒ぎの真ん中に走り寄って、アーシャの肩に手をかけた。彼女はそれを乱暴に振り払った。


「これは、何事だ」


 エドラルも現れた。

 囲いの男たちが退いた。気まずい空気で、彼らは顔を見合わせた。


「誰か説明しろ。何があった」


 アーシャと争っていた男たちが、身振りを交えて自分たちの正当性を主張した。

 全てを聞いた後で、エドラルは言った。


「お前たちの言い分はよく分かった。だが経緯がどうあれ、この非常時に集団の和を乱す者は罰さねばならない。与えられた家に戻っていろ」


 男たちは反論しかけたが、ぐっと飲み込んだ。

 彼らは皆、槍を持って蜘蛛と戦った班の生き残りだった。自分たちを助けるために死地に飛び込んできた二人の衛兵を思った。何も言えなくなった。


 エドラルがカクリを見やった。分かっているな。と、その目は言っていた。

 もはや、やむを得なかった。


「アーシャ、剣鉈をよこせ」


 アーシャはそれを無視した。じっと、サフィを侮辱した男だけを見つめている。


「アーシャ。言うことを聞け。流血は許されない」


 アーシャは、やはり答えなかった。


 エドラルが、彼女の隣をすり抜けて戸に手をかけた。


 そこから先は、カクリの目には映らなかった。

 風が吹いて雪が舞い上がったと思った瞬間には、エドラルが剣を鞘ごと外して振り抜いており、アーシャは雪中に倒れていた。


「弱った体でよく動く」


 と、エドラルが言った。

 それで、アーシャが猛スピードでエドラルに飛びかかり、彼はそれを抜かずにたたき伏せたのだと分かった。


 エドラルは戸を背にして剣を構えた。やはり鞘からは抜かなかった。

 アーシャは跳ね起きた。剣鉈には、初めから鞘などない。


「アーシャ」


 止めようとしたカクリに、エドラルが首を振った。


「構わん。好きにやらせろ」


 アーシャが突っ込んだ。

 彼女の動きは、先ほどより明らかに精彩を欠いていた。カクリの目にもはっきりとらえられた。

 当然エドラルには通用しなかった。

 上からたたき伏せられ、彼女の体は雪上でバウンドした。カクリの足もとまで転がってきた。


 アーシャは間を置かず、起き上がろうとした。

 しかし手足は雪をかくだけだった。立ち上がれないようだった。


 カクリは膝をついて彼女を抱え起こした。


「アーシャ、もうやめろ」


 しかし彼女はやめなかった。

 カクリの足を払い、雪の中に引きずり倒した。その体を後ろから羽交いじめにして、首に剣鉈を突きつけて、彼女は言った。


「その戸を開けるな。離れろ」


 声は静かだったが、やけに響いた。

 エドラルは目を細めた。


「お前、自分が何をやっているのか分かっているのか?」

「そこから離れろ」

「引き返せないぞ。その刃を振るえば」


 アーシャは答えなかった。


 カクリは反射的に手足をばたつかせた。

 しかしアーシャの拘束はビクともしなかった。逆に首筋の刃がより強く押し付けられた。


「カクリ、動くな。殺すぞ」


 アーシャの声は冷徹そのものだった。脅しの刃ではなかった。

 カクリは動きを止めた。


 何が、どうなっている?

 頭が回り始めた。遅ればせながら、状況を理解し始めた。

 俺は人質に取られている。その事実が胸に落ちた。

 信じられなかった。だが現実だった。

 彼は、彼が最も信頼する友に、冷たい殺意を向けられていた。


 なぜだと思った。なぜこんなことになっている?

 お前は、こんなことをするほどまで、追い詰められていたのか?

 あわれみが初めにわいた。

 だがすぐに、そんな思いを圧倒的に凌駕してかき消す激情がふくれ上がった。


 何があっても自分だけは、彼女の敵にはなるまいと決めていた。

 妹の死に囚われ、どうしようもなく孤立していく彼女の、最後までそばにいてやるつもりだった。

 それが、カクリが友として彼女にできる、精いっぱいのことだった。


 しかし、カクリのそんな気持ちなど、アーシャにはまるで関係ないのだった。

 こいつにとって俺は、こうして一時を凌ぐために使い捨てにする程度の存在だったのか?


 手ひどく裏切られた気分に襲われた。


 それはいかにも自分勝手な理屈だったが、カクリ自身どうにもできない心の深い場所からの感情であり、彼には自分がなぜ激情に駆られているのかも分からなかった。

 ただ、アーシャを滅茶苦茶に責めてやりたい衝動に襲われた。

 それを押さえられるだけの冷静さは、この時のカクリにはなかった。


「お前、ふざけるなよ」


 声はきしんだものになった。


「大切な人を失ったのが、俺たちだけだと思っているのか。そんなわけない。皆だ。皆が、誰かを失った。それでも皆、それに耐えているんだ。これ以上誰も死なせないために、苦しみに耐えている。お前だけだ。お前だけが現状を理解しようとせず、自分の苦しみを人に押し付けている。お前は、我がままで、身勝手で、幼稚な、恥知らずだ」


 アーシャは答えず、カクリのうなじに熱い息を吐きかけるだけだった。


 密着しているところから、彼女の体温が伝わった。

 熱い。悲しくなるほど、彼女の体は熱かった。その熱が、逆にカクリの激情をすっと冷ました。

 再びやるせない気持ちが胸を満たした。


 俺は何を言っているんだ。お前は何をやっている。

 俺たちは、互いを最も頼りとする友ではなかったのか。それが、どうしてこんな馬鹿げたことになっている?


 悔しかった。どうしようもできない無力感が、胸の中を吹きすさんだ。

 蜘蛛よりも自分の無力さの方が、今は呪わしかった。


「アーシャ、俺は、お前の願いを何にもかなえてやれない。サフィを生かしてやることもできなかった。あいつの終わりをお前に任せてやることも。すまない……。俺は、お前たちのことを一番に考えてやれなかった。皆を生かさなきゃいけないんだ。蜘蛛を倒すことを、まず考えなくちゃならないんだ」

「……」

「恨むか、俺を。構わない、この刃を突き立てても。俺は、恨まない。アーシャ、お前がもう終わりにしたいのなら。俺は、お前とだったらべつにいい」


 そしてカクリはエドラルにうなずいて見せた。


「あとのことは。サフィのことは、どうか」


 エドラルは動かなかった。

 怒りを押し殺した硬い無表情で、アーシャをじっとにらみつけている。


 空気が張り詰め、皆息を忘れた。そのまま固着した。

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