5-4
雪を踏みしめる音が近づいてきた。
エドラルだ。後ろに四人の衛兵を引き連れていた。
「星の見える夜が来た。月がちょうど南にかかる頃、蜘蛛は現れると聞いている。そうだな?」
カクリはうなずいた。
「それが、よりによって今夜とはな。遺体の処理が終わっていない。タイミングの悪いことだ」
エドラルはさすがに苛立ちを隠せず、厳しい目でアーシャを見た。
だが、アーシャはまるで我関せず、蜘蛛がやって来るであろう方を見つめている。
「間違いなく、蜘蛛は、ねらった遺体の存在する、この場所にやって来るだろう」
「はい」
「アリムはまだだろうな?」
「はい」
「なら、まだ遺体を焼くわけにもいかない。ここで戦うしかないな」
「すみません」
エドラルは、カクリの様子をながめて、
「お前の調子もまだのようだな」
「分かっています」
カクリの体はずいぶん復調していたが、走ったり飛び跳ねたりは、まだできそうになかった。
蜘蛛と戦えるかというと疑問だった。かえって邪魔になるだろう。
「女を連れて去れ。ここは戦場になる」
「ここにいます。ここで壁に」
役には立てないと分かっていたが、それでもせめてこの場にいたかった。それが、勝手な感傷にすぎないとは分かっていた。
エドラルは眉をひそめたが、重ねては言わなかった。
「蜘蛛には、槍も矢も効きませんでした」
「聞いている」
「どうするおつもりですか?」
「炎を使う」
エドラルは簡潔に答え、二本の槍を残して背を向けた。
その槍は、村で使われている狩猟用の物よりずっと重く、するどかった。
男たちが続々やって来た。
日の明るみが完全に消える前に、三十八人が集まった。
彼らはまず、その場の雪を踏み固めていった。
さすがにこの人数での作業であり、すぐに場は整った。
次に火が焚かれた。
無数の篝火が連なって、辺り一帯から夜が払われた。
武器を持つ男たちの姿もはっきりとあらわになったが、構わないとされた。
隠れて待ち伏せても、蜘蛛に通じないことは分かり切っていた。
三十八人はそれぞれの適正によって、あらかじめ弓を持つ二十四人と槍を持つ十四人に分けられていた。
弓を持つ二十四人は、さらに八人ずつ三の班に分けられ、それぞれに衛兵が一人ついて、九人で一班とされていた。
槍の十四人は、七人ずつ二の班に分けられ、それぞれに衛兵がついて、八人で一班とされている。
彼らは班単位で配置が定められた。
蜘蛛は『狼の爪痕』から一直線にやって来るものと予想できた。それを迎え撃つ形に収まった。
見張りは三交代制が取られて、全体の三分の一ずつ休むことが許可されたが、誰も休もうとしなかった。
皆が山をにらみ続けた。場が緊張で硬くなっていた。
エドラルの指示により、各々に少量の酒が配られた。暖を取るためでもある。
月が高くなり、空が明るくなった。カクリは酒をふくんだ。
「どうなるかな?」
カクリはつぶやいた。
「アーシャ、お前、体は動かないだろう。こんな場所に何日も座り込んでいたんだ」
「……」
「この人数で蜘蛛を倒せると思うか?」
アーシャは何も答えない。ただ虚ろに座り込んでいるだけだ。
もともと、答えを求めて聞いたことではなかった。
カクリの中に、答えはすでに出ている。
倒せるわけがない。
シーラを初め、直接蜘蛛と対峙したタララ村の男たちも同じ気持ちでいるだろうと思った。
あの蜘蛛は、人には殺せない。
だが、俺は決して逃げはすまいと思った。
せめて一突き。あの化け物にほんのわずかな痛痒を与えて、悲鳴を上げさせてやろう。
月が南天に差しかかった。
先触れは同じだった。木をかき分ける音がした。
防風林。聖樹から種子を取り、吹きおろしてくる雪風から村を守るために植えられた常緑のそれだ。
ゆれていた。風はない。ゆれは猛烈に近づいてきた。
蜘蛛だ。
林間からわき出すように、巨大な黒いかたまりが現れた。
皆、呼吸を忘れて注視した。
巨大だった。
想像していたものよりも二回りは大きかった。
それは、カクリやシーラたちにとってもそう見えた。
以前よりも大きくなっている。カクリは思った。
それは緊張からくる錯覚だったが、彼の頭は事実としてそれを受け止めた。確かに大きくなっている。
なぜだ。俺たちの命を食って成長したのか。
父さんの命を。サフィの命を。
体がふるえた。恐怖ではなかった。
怒りだ。全てが赤く染まるほどの怒りだった。
蜘蛛は動きを止めていた。
山から出てきて不意に目の前に現れた明るさに困惑しているようだった。
わずかも動かない体の中、ほのかな光を孕む八つ目だけが明滅した。眼前に集る小さく弱い獲物たちを観察しているのか。
風が吹いた。
篝火がゆれて火の粉を吐き出した。薪がはじけた。
蜘蛛も人も動かない。川のせせらぎだけが変わらない。
弓の三班の班長が「構え」と小さく言った。
弓を持った二十四人が、いっせいに矢に火をつけた。火矢だ。
矢じりに細工して、油のしみ込んだ綿布くずを仕込んでいる。容易に消える火矢ではない。
弓が引きしぼられ、蜘蛛に向けられた。
同時に、槍を持つ二つの班の男たちが一斉に構えた。
それぞれの先頭に立つ衛兵二人は、陶器をぶら下げている。
『狼追いの爆粘液』が入った陶器の壺だ。
それをゆっくりと頭上で振り回し始めた。
蜘蛛は動かない。
「行くぞ!」
声を上げ、陶器を持つ二人が走り出した。速い。
槍を持つ男たちが追った。
「今!」
弓班の号令一下、火矢が奔った。二十一の流星だ。
ねらいたがわず、蜘蛛の胴に当った。パッと火がはじけた。
だが刺さってはいない。燃え移ってもいない。
それでよかった。二十一の火矢は目くらましだった。三本残っている。それが本命だ。
今、それが放たれた。
同時に、突っ込んでいた衛兵二人が蜘蛛に陶器を投げた。陶器の壺は蜘蛛の硬い外殻に当たって割れ、粘液をまき散らした。
蜘蛛はやはり動かない。
そこに、左右から火矢が突っ込んだ。
蜘蛛が炎に包まれた。
乾ききった空気の中で、炎は盛んに燃え上がった。
火だるまになった蜘蛛に、槍を構えた十四人の男たちが殺到した。
この数日、エドラルの指揮で、何度もシミュレーションした流れだった。
少しは抵抗されるのを予期して訓練していたが、それもなく、全て図に当った。
しかし、無意味だった。
抵抗がなかったのは、その必要がないからだ。
それを思い知らせるように蜘蛛はするりと炎を脱いだ。こげ目のない金属質な黒い外皮が現れた。
気づいた時には全てが遅かった。
蜘蛛の二本の前腕がぶれて消えた。一人、体を変にねじ曲げて宙を舞った。
現実味のない光景だった。悲鳴はなかった。
残る十三人が槍を蜘蛛に突き込んだ。刺さらない。衝撃は全て跳ね返ってきた。巨大な岩に体当りしたようだった。
蜘蛛は、一転して素早く動いた。
二本の前腕を大きく広げた格好のまま、正面の男を押し倒し、のしかかった。そこで動きを止め、八つ目で恐怖にゆがむ男を見つめた。
悲鳴。牙がゆっくり近づいていく。
取り囲む十二人は狂気のようになって槍をたたきつけた。無意味だった。手がしびれただけだった。
男に牙が触れた。男が断末魔を上げた。食いちぎられた。悲鳴は止んだ。
火矢がいっせいに飛んだ。そして再びはじかれた。
衛兵二人が、槍を持って蜘蛛に突撃した。
自らが殿となって、槍班の男たちを一時撤退させようとした。
「後退! 体勢を立て直して」
言葉の途中で、頭からたたきつぶされた。二人同時だった。
何年も何年も、厳しい訓練に耐えて、やっと作り上げた男の肉体だった。それがぼろくずのように打ち捨てられた。
白い衛兵の服がずたずたになって、血をふき出した。
パニックになった。
男たちは槍を放り出して逃げようとした。後ろから千切られた。
一度に三人死んだ。続いて二人。また三人。
「動くな! 動かなければ、この蜘蛛は襲ってこ」
叫んだシーラが、蜘蛛の肢に腹を貫かれた。
シーラはかっと目を見開いた。
憎悪の目で蜘蛛を見た。拳で肢をたたいた。肢はびくともしない。
シーラはもう動かなかった。
蜘蛛は彼の体を貫いたまま、肢を持ち上げて振り回した。
シーラの体はすっぽ抜け、飛んで行った。血が雨のように降った。
さらに恐慌する男たちに、背後から蜘蛛が飛びかかった。
濃い血の煙が舞った。次々死んでいった。
三度、矢が飛んだ。
あせりで点火を忘れ、半分以上に火がついていなかった。
それが逆に良かった。まぶしい火矢に慣れた蜘蛛は、暗い矢に気づかなかった。
一本が偶然赤い目に当った。
刺さらず、はじかれた。しかしその矢は、初めてのにぶい感覚を蜘蛛に与えたのだった。
蜘蛛は警戒して、ぴたりと動きを止めた。
男たちは、その間に雪の上を転がるようにして逃げた。
蜘蛛は、ゆらゆらと体をゆらしながらその場に留まった。
口もとの触腕のみが、落ち着かなさげに素早く動いている。
人は動けず、緊迫したにらみ合いが続いた。
不意に、蜘蛛の姿がかき消えた。
人は息を飲んで手に持つ武器を振りかざした。
しかし、何も起こらない。蜘蛛の急襲はなかった。
耳をすます。木をかき分ける音が遠ざかっていった。
逃げた。蜘蛛は逃げたのだった。




