5-3
夜明けと同時に、カクリはアーシャの家に向かった。
一人ではまだ歩けず、肩をシーラに支えられながら、歩いていった。
アーシャは、家の前にうずくまっていた。
彼女の姿は、死者のように生気がなかったが、そのすぐ隣には火が焚かれており、周りには食事をしたあとが散乱していた。
彼女自身は、いつもの毛皮の上にもう一枚、灰狐の毛皮を羽織っている。
生きるつもりはあるらしい。
カクリは少し安心した。
だが、実はこれらは全て、隣家に住むセシルが勝手に世話を焼いた結果だった。
アーシャ自身が、生きようとしてやったことではない。
セシルがいなければ、彼女は同じ場所でうずくまったまま凍死していたに違いなかった。
カクリが目の前に立っても、アーシャは反応しなかった。
何度か声をかけられて初めて、彼女はゆっくり顔を上げた。
カクリたちの姿は視界に入ったはずだが、虚ろな目をしており、そうと認識したかは怪しかった。
「アーシャ、返事をしろ」
「……」
「アーシャ」
重ねて強く言うと、彼女は初めて言葉を発した。
「何だ、生きていたのか、お前」
「お互い様だ」
「放っておいてくれ」
アーシャは投げやりに言った。
会話をする気がないようだった。
「無理にでもやるか?」
シーラがささやいた。
無理にでも、彼女をどうするのだろう。
ここから引き離すのか。妹にすがりつく彼女を? 俺にそんなことができるのか?
しばらくの思考の後、カクリは首を振った。
あとのことは任せるように言い、黙ってアーシャの隣に腰を下ろした。
そしてそのまま無言になった。
シーラはしばらく二人を見守っていたが、やがて去った。
セシルの家へ行き、カクリの分の上着と食事も用意してやるように伝えて、自分の仕事に戻っていった。やることは山ほどある。
セシルは言われたものを用意して、向かった。
隣り合ってじっと座っている二人にあれこれ世話を焼き、彼女もまた、何も言わず去った。
置かれた食事に、二人は手を付けなかった。
すぐに料理は冷めた。
アーシャは何も話さない。
カクリも無言だ。
二人並んでいると、自然とサフィのことが思い出された。
ここには思い出が多すぎた。
もうそのことしか考えられなくなった。
サフィはもういないのだと思った。
美しい彼女の白い肌が、思い浮かんだ。
同時に、ぐずぐずに腐った馬の死体が浮かび上がった。
二つが断続的に連想された。
衝動的に、自分の体を滅茶苦茶に痛めつけたくなった。
生きている者は皆、皮膚を一枚破れば、グロテスクな肉のかたまりが露出するのだ。それだけのことなのだ。……
カクリは頭を振って思考を追い出した。
こんなことは考えるべきではない。陰鬱な気分になって、黙ってじっとした。
アーシャがぽつりと言った。
「腹が減るんだ」
彼女の目は虚ろで、どこを見ているのかも判然としない。
「サフィが死んだのに、私は腹が減るんだ」
「お前は生きているからな」
「違う。私はもう、命などいらないと思った。何もせずにいようと思った。なのに、何もしなくても腹は減って、気がついたらこんなものを食べているんだ。サフィはもういないのに、私は生きるために食べている。なぜだ?」
生きているからだ。
アーシャ、俺たちは今もまだ生きている。
生きているからには、やらなければならないことがあるはずだ。
「アーシャ、サフィを弔ってやらなくちゃいけない」
「あいつは死んでない!」
アーシャの言葉は、急激に明確な形を持って放たれた。
初めて彼女はカクリを見た。
その目には、どろりとした激情が宿っていた。
「あいつはまだ生きている。なぜ死んだと思う。なぜだ。ふざけたことを言うな。生きているんだ。サフィはまだ生きている」
怒涛のようにたたきつけられた激情に、カクリは唖然となった。
「お前、何を言っている?」
「あいつは死んでない。今も、中で一人戦っているんだ」
「お前、看取ったんだろう」
「見ていない。あいつが死ぬところなんて誰も見てない。生きているんだ。私はこの家を守らなくちゃいけない。サフィが今も戦っている、この家を」
生きている? 本当に?
一瞬、カクリの胸に強烈な喜びがわきあがった。
しかしそれは嘘だとすぐに分かった。
生きているなら、今この場に漂っているこの腐臭は何なのだ?
アーシャの目は現実を映してはいなかった。
サフィは、死んだのだ。
「アーシャ、蜘蛛が来るんだ」
「それがどうした」
「サフィの体を、蜘蛛に犯させるわけにはいかない」
「私が守る」
「馬鹿な。何をしても勝てないと言ったのはお前じゃないか」
「そう。そうだな。なら、ここにいれば、私は蜘蛛に殺されるのか。サフィと同じところに行けるのか……」
いつの間にか、アーシャの言葉は再び形を失っていた。
「カクリ、蜘蛛はいつ来る?」
カクリは答えず立ち上がった。
アーシャの手をつかんで、引き上げた。彼女の体は、簡単に持ち上がった。
アーシャは、ぼんやりとカクリを見つめるだけだった。
しかし家に引き込もうとしたとたん、彼女は猛烈に抵抗した。
「アーシャ、サフィは死んだんだ。分からないのか」
「うるさい! お前は何なんだ!」
「サフィに別れを告げてこい。自分が今何をすべきなのか考えろ」
「黙れ。そんなことは許されない」
「誰が許さないんだ」
「あいつは最期に一人になることを望んだ。それがサフィの最期の望みだったんだ。私は拒めなかった。今さら会えるはずがない」
「馬鹿な。そんな」
「黙れ。もう黙ってくれ」
「……」
「カクリ、頼む」
アーシャの言葉は、いつの間にか懇願の響きをふくんでいた。
カクリはアーシャの手を離した。
彼女はくずれるように尻をついた。その場で再び膝を抱えうずくまった。
それは、みじめなほどの弱々しさだった。
カクリは言葉を失い、アーシャを見つめた。
俺のせいなのか。
この女がこんなふうになったのは、俺がサフィの最期を彼女一人に背負わせたからなのか。
しかし、他にどうすればよかったんだ。
俺も一緒に背負うべきだったのか?
だが、サフィはそれを恐れていた。
俺だけは、あいつの変わってゆく姿を見るわけにはいかなかったのだ。
違うのか?
この思いがそもそも、俺の逃避願望から生まれた卑怯な考えだったのか?
いくら考えても、答えは出なかった。
答えなど、初めから存在しないのかもしれなかった。
「アーシャ、聞け。サフィの遺体をこのままにはしておけない。明日には皆がやって来る。お前は力ずくで押さえ込まれるだろう。そうなる前に、お前自身が決着をつけてやるべきだと俺は思う」
しかしアーシャは何も言わない。
もはやどうしようもなかった。
彼女が納得しようとすまいと、エドラルがこの家に押し入ってサフィの遺体を葬るのを、誰も止めることはできない。
それは明らかに必要なことだからだ。
その時、こいつはどうなるんだろう。
俺は、どうするのか。
分からなかった。
だがせめてその時が来るまで、こいつと一緒にいようとカクリは思った。
それくらいのことはしてやるべきだった。
カクリは再びアーシャの隣に腰を下ろした。
二人は無言の時を過ごした。
その間も、雪は降り続けた。
空にはずっと、灰色の雲が重く垂れさがっていた。
もはや天気は晴れることのないまま、本格的な冬が始まるのかと思われた。
しかし、夕刻。
刷毛でさっとぬったように空は晴れた。
風がぴたりと止まり、薄紫の空に星が輝いた。東からさえざえした月光がもれてきた。
ぐっと気温が下がった。
耳の底にしびれが走るような重い静寂だった。
カクリはじっと空の光をにらんだ。
蜘蛛が来る。




