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4-7

 崖口に到着すると、そこは晴れ、日さえ照っていた。

 カクリはいない。

 崖口にほど近いキサーウッドの太い幹に、縄が結び付けられていた。

 縄は崖下に伸びている。


 カクリはここを下りたのか。


 縄の下端は、崖下の深い霧にさえぎられて見えなかった。

 しかし吹き上がる強い風に翻弄されて、右に左に跳ね回っている。

 今、この縄の向こうにカクリはいない。下りようとして落ちたのか。

 だとすれば、死んだのか。


 カクリが。死んだ?

 そんな。嫌だ。


 助けなければならない。


 アーシャは剣鉈を放り出して縄をつかんだ。何度か引っ張って、強度が十分であることを確かめた。

 その背後から声がかかった。


「アーシャ」


 はっとして振り返ると、そこにカクリがいた。


「カクリ。カクリ! 良かった」


 アーシャはカクリに駆け寄った。


 彼の全身は傷だらけだった。

 特に左腕がひどかった。汚れた布が乱暴に巻き付けられており血がしみている。

 顔色は真っ青だった。大量の汗をかいている。


「落ちたのか」

「いいや。岩壁に」


 下りる途中、風であおられてたたきつけられたのだと、カクリは言った。


「よく上って来られたな」

「……」

「蜘蛛は見たか」

「……」

「毒をどうにかする方法は」


 カクリはアーシャの問いに何も答えなかった。


「アーシャ、こんなところで何している」

「お前を探しに来たんだ」

「どうして来た。サフィのそばにいてやれと言っただろう」

「解毒の方法は、見つかったのか」

「帰れ。サフィのところへ」


 カクリはアーシャに背を向けた。離れていく。

 アーシャはそれを追った。肩をつかんで振り向かせ、強引に目を合わせた。


「答えろ。解毒方法は」

「……」

「カクリ」

「ない。そんなもの、初めからないんだ」


 何かを投げ捨てるように、彼は言った。


「何? 何を言っている」


 冗談を言っているのか。こんな時に。

 アーシャはカクリを見つめた。

 カクリの表情は変わらない。本気で言っている。サフィを助ける方法はないと、他でもないカクリが、本気で。

 アーシャの心は空白になった。


「そんな馬鹿な。なぜ。お前は心当りがあると」

「もう戻れ、アーシャ。サフィに残された時間は少ない。その短い時間を、一人で過ごさせてやるな」

「ふざけるな。ふざけるな。何を言っている。私は諦めない。お前だってそうだろう。諦めてないから、今もこうして何とかしようとしているんじゃないのか」


 カクリは無事な右手に剣鉈を持っていた。

 それで木を裂きほじくり返して、蜘蛛を探していたのに違いなかった。


「手伝う。蜘蛛を探せばいいんだな」

「アーシャ、帰れ」

「探すんだ」

「いいから、帰れ。お前はサフィのそばにいろ」

「探すんだ!」


 カクリは、力なくかぶりを振った。


「意味がないんだ。蜘蛛など探しても」

「何!?」

「毒が手に入ったところで、それを中和する薬など、誰がどうやって作るんだ。あの化け物が本当にエグト・ラッシャなのかも分からない。薬を作っても、それはサフィには効かないかもしれない」

「だが、お前は諦めていない! 今も探している!」

「他にないからだ」

「何が!」

「こんな無意味なことしか、俺があいつにしてやれることはないんだ」


 カクリは、見たこともない荒んだ目をしていた。


 唐突にアーシャは理解した。

 サフィは死ぬのだ。どうあっても助けられないのだ。

 体の奥底から猛烈なふるえが来た。


「お前。お前、ふざけるなよ。サフィを幸せにすると言ったじゃないか」

「……」

「冬が明ければ、婚儀を挙げると」

「すまない」

「謝るな」

「……」

「謝るな!」


 今度は、アーシャがカクリを思いきり殴りつけた。

 カクリは朽木のように倒れ込んだ。


 アーシャは燃えるような息を何度も吐き出した。

 そのたびに、氷のかたまりを飲み込んだように胸が冷たくなった。

 カクリの胸ぐらをつかんで引きずり起こした。


「カクリ、頼む。方法はないのか」


 カクリは首を振った。


「嘘だ」

「戻ってやれ。それが一番、サフィのためなんだ」

「嘘だ。嫌だ」

「あいつは待っている。そばにいてやれ」

「何か、ないのか」

「アーシャ」

「お前なら、思いつくはずだろう? 何でもいいから。何でもやるから。頼む」

「戻れ、アーシャ」

「カクリ。何かないのか」

「あいつを一人にしてやるな。俺じゃ無理なんだ。お前だけなんだ」


 カクリの答えは変わらない。何をどう頼んでも変わらない。

 現実は変わらない。


 アーシャの手はカクリを離した。

 全ての気力を喪失して、彼女は膝をついた。


 下山した彼女は、家の前で立ちすくんだ。

 すさまじい腐臭が、表にもれてきていた。

 セシルが顔をしかめていた理由をようやく理解した。

 中はさらにひどかった。ずっと家でサフィといたので気づかなかったのだ。


 寝室で力なく横たわるサフィをしばらく呆然とながめていた。


 サフィは何も言わない。眠っているのか。


 しかし妹は目を開いた。


 どうだった?


 と、問いかける目をしていた。

 しかしそれは、同時に、答えを悟りきった諦観の眼差しでもあった。


 言葉はアーシャの喉につまった。

 妹の目を直視できず、彼女はうつむいて、「薬はもうすぐできるようだ」と、言った。

 サフィは身じろぎ一つしないまま、「そう、よかった」と、言った。






 翌日の昼には、爛れは顔面に及んだ。


 顔面の右半分が溶け落ちた時、サフィは何が何だか分からないというふうに自分の顔をさぐった。そして体をびくんと跳ねさせた。

 するどい悲鳴とともにのけぞった。

 体験したことのない痛みが走ったのだった。


 肩で息をして痛みをやり過ごした。


「私、どうなったの」


 アーシャは答えられなかった。


 美しかった妹が、見るも無残に変貌していた。

 もとの美貌を残した左側とのコントラストが、余計に悲壮だった。


 姉の驚愕の気配から、サフィは敏感に事態を察した。

 遮二無二、体中に巻かれた布を取ろうとした。しかし思うように体が動かなかった。

 むしり取るようにして、強引に体表に癒着した布をはがそうとした。


「サフィ、よせ、何をしている」


 あわてて、アーシャが妹の手を押さえた。


「手伝って」

「なぜ」

「見たいの。自分がどうなってるのか」

「そんなこと」

「いいから。手伝って」


 サフィは、身に着けたものを全て脱ぎ捨てた。

 裸になった。しかしそれは、人間の体というより、汚物を固めて作った人形のようだった。

 十六の処女の体ではなかった。


 サフィはそれを無感動な目で見下ろした。


「もう、カクリさんに可愛がってもらえないね」


 平坦な声だった。

 しかしそこには、恐ろしいほどの無念が込められていた。


「こんなことなら、もっと勇気を出せばよかった。私がきれいでいる間に、見てもらえば。抱いてもらえば……。でも、もう遅いんだね」

「サフィ、あいつなら、そんなことは……気にしない」


 アーシャはやっとそれだけ言った。


 サフィは答えなかった。

 ただ、姉の白く美しい肌を見る彼女の目が、わずらしそうににぶく光った。嫌な目だった。

 サフィはそれを恥じるように、すぐ顔を伏せた。


 布を巻かないまま、彼女はベッドに戻った。

 背中はすでに感覚をなくしているらしく、藁が刺さっても何も言わなかった。

 ただ無言で、じっと天井を見つめていた。




 日が変わる頃、サフィの面相は完全にくずれ落ちた。

 美しい長髪が、ばらばらベッドの上に散らばった。

 彼女はそれを床に払い落とした。

 まぶたをなくした大きな目を、暗闇の中でぎょろぎょろさせた。


 アーシャはベッドの脇でじっとうつむいている。


「お姉ちゃん」


 サフィは言った。

 かろうじて聞き取れるかすかな声。

 そのうえ水の中で無理やり話しているような、異様な声だった。


「もう、一人にしてほしい」

「……」

「今ね、私すごく嫌な気持ちなの。これ以上お姉ちゃんがそばにいたら、お姉ちゃんを嫌いになっちゃいそうな。滅茶苦茶に当り散らして、憎んじゃいそうな。私、嫌だよ。私、そんなみじめな人間になりたくない。みじめに死んで、お姉ちゃんの中に、みじめな妹として残りたくない。だから、ね、お願い。もう一人にしてほしい」

「……」

「お姉ちゃん、行って。私の、最期のお願い。行って、みじめじゃない妹として、私のことを覚えていて。忘れないで」


 アーシャは立ち上がった。

 姉のことを、サフィはじっと見つめていた。

 赤黒いかたまりの中で、そこだけ白い二つの眼球が……。


「サフィ」

「もう、行って。お願い」

「サフィ」

「これ以上、私のそばにいないで」

「サフィ」

「さようなら、お姉ちゃん。今まで、ありがとう」


 決壊した。

 アーシャは家を飛び出した。


 走った。わめき声をあげた。魂ごと吐き出すような叫びだった。


 生きることを諦めた妹に、姉である自分が、何かを言わなければならなかった。

 しかし何も言えなかった。

 悔しかった。

 悲しかった。

 苦しかった。

 しかし同時に、心のどこかで安堵している自分がいた。


 これでもう、腐ってゆく妹を見ずにすむ。醜く終わってゆく妹から、逃れられる。

 この苦しみから、解放される。


 吐き気がした。

 なぜ、そんな気持ちがわいてくるのか。

 そんなに我が身が大事か。我が心の平穏が大事なのか。

 何よりも大切な妹のはずではなかったのか!


 許せなかった。

 自分自身を、彼女は憎んだ。こんな女がなぜ生きているのだ。


 アーシャは山に飛び込んだ。


 雪は降り続いている。風も強い。

 白い帳の中を、無茶苦茶に走り回った。

 自分がどこにいるのか、すぐに分からなくなった。


 体力がつき、その場に倒れた。


「ここだ!」


 アーシャは慟哭した。


「蜘蛛め! 化け物め! 私はここだ。ここにお前の獲物がいるぞ! 来い! この身を引き裂いて、今すぐ私を無残に殺してくれ!」











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