表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/32

4-6

 アーシャはすぐ寝室に戻ってきた。


 サフィはほっとした。

 言い出せなかったが、一人になるのが怖かった。姉にそばにいてほしかったのである。


「カクリが解毒の薬を作っている」

「うん」

「あいつのことだ。何の心配もない。すぐにでも作って持って来るだろう」

「うん」

「私たちは待てばいい。大丈夫だ」

「うん」


 サフィはベッドから手を出した。

 何も言わなくても、姉はそれをにぎってくれた。

 硬い手。皮膚がごつごつして、力を込められると怪我をしそうだった。

 しかし、もっと強くにぎりしめてほしかった。


「お姉ちゃん。私、大丈夫だから」

「その通り、当り前だ」

「うん。ねえ、お姉ちゃん、昔の話をしてほしい」


 昔、サフィはもう覚えていないが、彼女は何度も死の淵をさまよい、そして結局死ななかったのである。

 その話が聞きたかった。

 今度もきっと同じなのだと思いたかった。


「して。お願い」

「昔の話とは思い出話ということか?」

「うん。何でもいいから」


 アーシャは困った。

 はっきり言って全くそんな気分になれなかった。

 しかし今、妹の願いは何でもかなえてやりたかった。


「赤ん坊のお前は、夜泣きがひどくてな」


 思いついたことをそのまま口にすると、身も蓋もない話になった。

 期待していたのとは違う話に、サフィは頓狂な声で、


「ええ。嘘?」

「本当だ。毎晩泣いた。いくらあやしても泣き止まない。なのに私が背負って家の外に出るとぴたりと泣き止んだ。それで安心して家に戻るとまた泣き始める。父さんじゃ駄目だった。私の背中じゃないと、お前は泣いた」


 赤ん坊とはいえ、五歳のアーシャには重かった。

 それを一晩中、しかも屋外で、ほとんど毎晩のように背負い続けたのである。

 隣にはいつも父がいた。

 アーシャと父は、サフィのおかげで立ったまま寝られるようになった。


 一年以上もそういう生活をしていると、色んなことがある。


 父が不在のある夜のこと、あまりにサフィが泣くものだから、禁を破ってたまらず一人でサフィを連れ出したことがあった。

 アーシャたちの住んでいた一画は、治安が悪い場所ではなかったが、夜中に五歳の少女が赤ん坊を背負って立っていて、何も問題が起きないほどではなかった。


 知らない男に話しかけられ、気づいた時には連れ去られそうになっていた。

 アーシャは抵抗したが意味はなかった。

 結局、騒ぎを察知した隣人が飛び出してきて、その場は事なきを得たのだが、アーシャのショックは大きかった。


 彼女が、父から剣を習い始めるきっかけとなった出来事だった。


「だから、剣も、寝つきの良さも食事の速さも、私の得意と言えるものは、全てお前のおかげで身についたようなものだ」


 サフィは恥じらいで顔を赤くしていた。


「そんな話、全然知らなかった」

「話さなかったからな」

「教えてくれればよかったのになあ。残念……」


 サフィは静かに目を閉じた。

 自分の手を包む姉のぬくもりを確かめるようになでた。


「お姉ちゃん、ごめんね」

「いいや。お前がいて、私は幸福だったよ」

「ううん、そうじゃない。私、分かってるの。蜘蛛は初め、馬をねらった。その次は、馬の近くにいたムルガさんたち。次は、ずっとミラン君の近くにいたナジルさんと私。ねらった相手の近くにいた人が、次にねらわれちゃうんだよ」

「ああ」

「だからね、私は、本当はお姉ちゃんに、どこかに行ってって言わなきゃいけないの。そばに来ないでって。私は一人で大丈夫だからって……」

「サフィ、そんなことは」


 サフィは目を開け、姉を見つめた。すがるような目をしていた。


「だけど、ごめんなさい。言えない。怖いの。一人になるのが。ごめんなさい、お姉ちゃん。お願いします。お願い、そばにいて。私を一人にしないで」


 たまらなくなってアーシャは妹を抱きしめた。

 嗅ぎ慣れた妹の甘い匂いに、かすかな腐臭が混ざっていた。

 叫びそうになった。それをこらえ、言った。


「当り前だ。何と言われたってそばにいる」

「ごめんなさい」

「謝るなと言っただろう」


 サフィはうなずき、再び目を閉じた。

 熱が出てきたらしく顔が赤くなっている。額に汗をかいていた。

 アーシャはそれをぬぐってやった。


「少し眠れ。昨日は眠れなかったんだろう」

「あのね、手を」

「離さない。ずっとにぎっておいてやる」

「ありがとう、お姉ちゃん」


 サフィは小さくつぶやいて、後は黙って浅い呼吸を続けた。

 妹の美しい横顔を、アーシャはじっと見つめていた。





 夕方、アーシャは妹の赤く爛れていく体を洗い、布を巻いた。

 自分の体を見ずにすむように、その間はサフィの目には覆いをかけた。


 美しかった妹の白い体が、どんどんくずれていく。

 本人に見せるのは、あまりに忍びなかった。


 食事は、隣家に住むセシルが運んできてくれた。

 その日サフィは半人前ほどの量を腹に入れたが、一夜明け、次の朝には口にふくむこともなかった。

 その首筋にまで赤い爛れがのぞいたのを見て、アーシャは我慢できなくなった。


 アーシャはセシルに、カクリは今どうしているのかと聞いた。

 行方不明。それが答えだった。


「そんな。あいつは解毒の心当りがあると」

「ああ、それは聞いてる。だから、皆でエグト・ラッシャとかいう蜘蛛を探してるところなんだけど、こんな天気だろ。見つかる物も見つからない」

「行方不明というのは?」

「他の男たちは、ある程度でチームを組んで探しているんだけど、あいつは一人で山に入っていったみたいでね。もしかしたら『狼の爪痕』に行ったんじゃないかって。吹雪が弱まったら男たちで様子を見に行くことになってる」

「それはいつ?」


 セシルは首を振った。

 当然だ。山の吹雪がいつ弱まるかなど誰にも分からない。

 今日なのか明日なのか。

 春まで続くこともあり得る。


 アーシャはセシルを送り出した後、寝室に戻りサフィに言った。


「カクリを手伝う必要があるようだ」


 赤く充血した目でサフィは姉を見上げた。


「解毒方法は見つけたそうだが、材料の入手に手間取っているらしい」


 サフィは無言のまま小さくうなずいて、もとの姿勢に戻った。

 頭を傾けるわずかな動作すら、億劫になっているのだった。


「だから少しの間留守にして手伝ってくる」

「うん」

「飲み水は置いておく。あとはセシルさんが来てくれるから」

「うん」


 アーシャは剣鉈と短剣を腰に下げて、縄を長く切り出した。

 用意をすませて、サフィの額に浮かぶ透明な体液をぬぐってやった。


「行ってくる。すぐに戻るから」

「待って」


 サフィは、布の巻かれた細い手で、力なく姉のそでをつかんだ。


「行かないで」

「サフィ?」

「もう、いいの。私は、もういいから」

「何を言っている」

「いいの。私はもう十分だよ。お姉ちゃんがいなかったら、私はずっと小さい頃に死んでたんだもん。だから、もういいから。最期まで、私と一緒にいて」


 アーシャは歯を食いしばった。

 もれそうになったうめきを、何とかこらえた。


「馬鹿なことを、言うな」


 サフィは一度きつく目を閉じた。そして手を離した。


「そうだよね。ごめん」

「サフィ、弱気になるな。お前は死なない。絶対だ。私が死なせない。これまでだって、ずっとそうだったろう? お前はこの村で生きていくんだ」


 サフィは小さくうなずいた。


 アーシャは家を出た。急ぐ必要があった。


 まっすぐ『狼の爪痕』に向かった。

 ひどい吹雪で全く視界が利かなかったが、すでに通い慣れた道だった。

 目を閉じていても、どこに何があるのかは把握していた。

 彼女はほとんど地面をはうようにして、山道を進んでいった。


 不意に吹雪が晴れた。

 振り返ると下方はまだまだ吹雪いていた。雲を抜けたのだ。

 雪まみれになった体をゆすって雪を落とした。

 体の芯から冷えていた。グランダは寒さに強い種族だが、それでも限界はあった。


 アーシャは急いだ。歩くうちに体は暖まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ