4-6
アーシャはすぐ寝室に戻ってきた。
サフィはほっとした。
言い出せなかったが、一人になるのが怖かった。姉にそばにいてほしかったのである。
「カクリが解毒の薬を作っている」
「うん」
「あいつのことだ。何の心配もない。すぐにでも作って持って来るだろう」
「うん」
「私たちは待てばいい。大丈夫だ」
「うん」
サフィはベッドから手を出した。
何も言わなくても、姉はそれをにぎってくれた。
硬い手。皮膚がごつごつして、力を込められると怪我をしそうだった。
しかし、もっと強くにぎりしめてほしかった。
「お姉ちゃん。私、大丈夫だから」
「その通り、当り前だ」
「うん。ねえ、お姉ちゃん、昔の話をしてほしい」
昔、サフィはもう覚えていないが、彼女は何度も死の淵をさまよい、そして結局死ななかったのである。
その話が聞きたかった。
今度もきっと同じなのだと思いたかった。
「して。お願い」
「昔の話とは思い出話ということか?」
「うん。何でもいいから」
アーシャは困った。
はっきり言って全くそんな気分になれなかった。
しかし今、妹の願いは何でもかなえてやりたかった。
「赤ん坊のお前は、夜泣きがひどくてな」
思いついたことをそのまま口にすると、身も蓋もない話になった。
期待していたのとは違う話に、サフィは頓狂な声で、
「ええ。嘘?」
「本当だ。毎晩泣いた。いくらあやしても泣き止まない。なのに私が背負って家の外に出るとぴたりと泣き止んだ。それで安心して家に戻るとまた泣き始める。父さんじゃ駄目だった。私の背中じゃないと、お前は泣いた」
赤ん坊とはいえ、五歳のアーシャには重かった。
それを一晩中、しかも屋外で、ほとんど毎晩のように背負い続けたのである。
隣にはいつも父がいた。
アーシャと父は、サフィのおかげで立ったまま寝られるようになった。
一年以上もそういう生活をしていると、色んなことがある。
父が不在のある夜のこと、あまりにサフィが泣くものだから、禁を破ってたまらず一人でサフィを連れ出したことがあった。
アーシャたちの住んでいた一画は、治安が悪い場所ではなかったが、夜中に五歳の少女が赤ん坊を背負って立っていて、何も問題が起きないほどではなかった。
知らない男に話しかけられ、気づいた時には連れ去られそうになっていた。
アーシャは抵抗したが意味はなかった。
結局、騒ぎを察知した隣人が飛び出してきて、その場は事なきを得たのだが、アーシャのショックは大きかった。
彼女が、父から剣を習い始めるきっかけとなった出来事だった。
「だから、剣も、寝つきの良さも食事の速さも、私の得意と言えるものは、全てお前のおかげで身についたようなものだ」
サフィは恥じらいで顔を赤くしていた。
「そんな話、全然知らなかった」
「話さなかったからな」
「教えてくれればよかったのになあ。残念……」
サフィは静かに目を閉じた。
自分の手を包む姉のぬくもりを確かめるようになでた。
「お姉ちゃん、ごめんね」
「いいや。お前がいて、私は幸福だったよ」
「ううん、そうじゃない。私、分かってるの。蜘蛛は初め、馬をねらった。その次は、馬の近くにいたムルガさんたち。次は、ずっとミラン君の近くにいたナジルさんと私。ねらった相手の近くにいた人が、次にねらわれちゃうんだよ」
「ああ」
「だからね、私は、本当はお姉ちゃんに、どこかに行ってって言わなきゃいけないの。そばに来ないでって。私は一人で大丈夫だからって……」
「サフィ、そんなことは」
サフィは目を開け、姉を見つめた。すがるような目をしていた。
「だけど、ごめんなさい。言えない。怖いの。一人になるのが。ごめんなさい、お姉ちゃん。お願いします。お願い、そばにいて。私を一人にしないで」
たまらなくなってアーシャは妹を抱きしめた。
嗅ぎ慣れた妹の甘い匂いに、かすかな腐臭が混ざっていた。
叫びそうになった。それをこらえ、言った。
「当り前だ。何と言われたってそばにいる」
「ごめんなさい」
「謝るなと言っただろう」
サフィはうなずき、再び目を閉じた。
熱が出てきたらしく顔が赤くなっている。額に汗をかいていた。
アーシャはそれをぬぐってやった。
「少し眠れ。昨日は眠れなかったんだろう」
「あのね、手を」
「離さない。ずっとにぎっておいてやる」
「ありがとう、お姉ちゃん」
サフィは小さくつぶやいて、後は黙って浅い呼吸を続けた。
妹の美しい横顔を、アーシャはじっと見つめていた。
夕方、アーシャは妹の赤く爛れていく体を洗い、布を巻いた。
自分の体を見ずにすむように、その間はサフィの目には覆いをかけた。
美しかった妹の白い体が、どんどんくずれていく。
本人に見せるのは、あまりに忍びなかった。
食事は、隣家に住むセシルが運んできてくれた。
その日サフィは半人前ほどの量を腹に入れたが、一夜明け、次の朝には口にふくむこともなかった。
その首筋にまで赤い爛れがのぞいたのを見て、アーシャは我慢できなくなった。
アーシャはセシルに、カクリは今どうしているのかと聞いた。
行方不明。それが答えだった。
「そんな。あいつは解毒の心当りがあると」
「ああ、それは聞いてる。だから、皆でエグト・ラッシャとかいう蜘蛛を探してるところなんだけど、こんな天気だろ。見つかる物も見つからない」
「行方不明というのは?」
「他の男たちは、ある程度でチームを組んで探しているんだけど、あいつは一人で山に入っていったみたいでね。もしかしたら『狼の爪痕』に行ったんじゃないかって。吹雪が弱まったら男たちで様子を見に行くことになってる」
「それはいつ?」
セシルは首を振った。
当然だ。山の吹雪がいつ弱まるかなど誰にも分からない。
今日なのか明日なのか。
春まで続くこともあり得る。
アーシャはセシルを送り出した後、寝室に戻りサフィに言った。
「カクリを手伝う必要があるようだ」
赤く充血した目でサフィは姉を見上げた。
「解毒方法は見つけたそうだが、材料の入手に手間取っているらしい」
サフィは無言のまま小さくうなずいて、もとの姿勢に戻った。
頭を傾けるわずかな動作すら、億劫になっているのだった。
「だから少しの間留守にして手伝ってくる」
「うん」
「飲み水は置いておく。あとはセシルさんが来てくれるから」
「うん」
アーシャは剣鉈と短剣を腰に下げて、縄を長く切り出した。
用意をすませて、サフィの額に浮かぶ透明な体液をぬぐってやった。
「行ってくる。すぐに戻るから」
「待って」
サフィは、布の巻かれた細い手で、力なく姉のそでをつかんだ。
「行かないで」
「サフィ?」
「もう、いいの。私は、もういいから」
「何を言っている」
「いいの。私はもう十分だよ。お姉ちゃんがいなかったら、私はずっと小さい頃に死んでたんだもん。だから、もういいから。最期まで、私と一緒にいて」
アーシャは歯を食いしばった。
もれそうになったうめきを、何とかこらえた。
「馬鹿なことを、言うな」
サフィは一度きつく目を閉じた。そして手を離した。
「そうだよね。ごめん」
「サフィ、弱気になるな。お前は死なない。絶対だ。私が死なせない。これまでだって、ずっとそうだったろう? お前はこの村で生きていくんだ」
サフィは小さくうなずいた。
アーシャは家を出た。急ぐ必要があった。
まっすぐ『狼の爪痕』に向かった。
ひどい吹雪で全く視界が利かなかったが、すでに通い慣れた道だった。
目を閉じていても、どこに何があるのかは把握していた。
彼女はほとんど地面をはうようにして、山道を進んでいった。
不意に吹雪が晴れた。
振り返ると下方はまだまだ吹雪いていた。雲を抜けたのだ。
雪まみれになった体をゆすって雪を落とした。
体の芯から冷えていた。グランダは寒さに強い種族だが、それでも限界はあった。
アーシャは急いだ。歩くうちに体は暖まった。




