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1-1

 グランダの土地は寒い。

 年の半分以上が冬で、しかも毎年尋常じゃない雪が降る。

 人が住むには厳しい土地だ。


 しかし同時に、彼らの王国は大陸中で最も豊かな国でもある。

 王国の祖となったリブルム神が、豊穣の神と呼ばれる理由だ。


 古代、この地に国ができるよりも以前、グランダは飢えて凍え死ぬものだった。

 彼らの主は常に冬であり、人はその気まぐれで殺される小さな存在だった。


 それが今では、土地を耕せば短い夏の間に十分な実りを得られ、山に入れば山菜果実が手に入り、鳥獣を狩ることができる。

 飢えは、ほとんど過去のものとなった。


 だから、大抵のグランダはリブルム神を大いに崇めているし、その末裔であるティシリア王家にも心からの敬意を払っている。

 それは、大地から神が去って三千年過ぎた今も変わらない。


 季節が秋から冬に変わる前、王国民はリブルム神――つまりはティシリア王家に、その年の収穫物の一部を奉納する。


酬恩祭イル・ラ・ハガ』と呼ばれる国儀だ。

 国父リブルム神を祭る儀式であり、同時に王国への納税手続きでもある。






 ティシリア王国の北部、はるか辺境にタララ村という山村がある。


 村の青年カクリは、今年もリブルム神に捧げる赤熊モディトを狩るために、ミスラ山へ入った。村民九人での狩りである。


 秋も半ばに差しかかっている。

 先日まで山を真黄色に染めていたキサーウッドも、今ではかなり葉を落として、するどいこずえの端々には早くも冬の気配が感じられる。黄色い針のような落ち葉が地面に層になって堆積している。


 この時期の獣たちは、長い冬を越すために脂肪を蓄えている最中であり、一年で最もうまい獲物となる。

 中でも山の主ともいえる赤熊は特別たっぷり山の幸を食べて、十分に太っているはずだった。


 夜が明けてすぐに山に入り、運よく昼前に真新しい足跡を見つけた。

 大きな足跡だ。赤熊のもので間違いなかった。

 男たちはさっそく追跡にかかった。


 しばらく追っていると、足跡の様子が変わった。

 足跡の主が、土の上ではなく痕跡の残りにくい岩場や落ち葉の上を歩き始めた。何度も沢を渡る。

 追跡者の存在に気づいたのだ。

 さらに進むと足跡は乱れ始めた。追跡者をまこうとしてまけないことに苛立っている。赤熊の焦燥がはっきり読み取れた。


 道中、ムルガという男がカクリに言った。


「こいつは誰が仕留めるんだ?」


 三十歳に近いムルガが、十九歳のカクリに指示を求めたのは、カクリが村長の一人息子だからである。

 昨年まで秋狩りの先導役は、村長のナジルが務めていたのだが、ナジルは今年それを自分の息子に任せたのだった。


 カクリが父の代わりに村の人間を先導するのは、これが初めてだった。

 その初めてが、村にとって最も大切な秋の赤熊猟であるというのは、非常な名誉だったが、同時にプレッシャーであり、カクリにはあまりありがたくない差配だった。


 しかもこの場にナジルはいない。

 せめて今年くらいはそばについて後見してほしかったのだが、ナジルは知らん顔だった。

 そんな父について来てくれと言わないだけのプライドは、カクリも持っていた。


 結局、父が任せたということは自分でも何とかなるということだろうと思い切り、それ以上気にしないことにしているのだった。


「やりたいんですか」


 カクリはムルガに聞き返した。

 聞いてきたということはそういうことだろう。ムルガは体も大きく度胸もある男だった。狩りも慣れている。

 本人がやりたいなら、任せてしまって問題ないだろうと思った。


「やらせてくれるのか?」


 カクリは他の七人に、それでいいかと確認した。

 誰も文句はないようだった。

 ムルガより年長の者は四人いたが、彼らは過去に奉納の赤熊を仕留める栄誉を経験していた。


 だが、そのうちの一人がカクリに言った。


「お前はいいのか?」

「ムルガさんならうまくやるでしょう」

「そうじゃない。今年はお前の婚前最後の祭りなんだぜ。サフィにいい土産話を持って帰りたくないのかってことだよ。なあ、アーシャ」


 と、その男は隣にいる女に話を振った。

 女はちらっと男を見ただけで、何も言わない。無口な女なのである。


 アーシャは九人の中で唯一の女である。

 二十一歳のまだ若い女だが、村のどんな男より力が強く、鋼の扱いにも習熟しており、本人の不愛想な性格もあいまって、村では男と同じ仕事を任されていた。

 彼女もそれで文句を言わなかった。


 サフィというのはアーシャの妹だ。十六歳。

 妹の方は全く姉に似ない、華奢で可憐な美しい少女だった。


 カクリはサフィと、翌春に結婚することが決まっていた。男はそのことを言って、カクリを焚きつけているのである。


 カクリは男のお節介を一笑して言った。


「ご心配なく。俺はまだ若いし、この先いくらでも機会はあります。今年は、老い先短いムルガさんに譲ってあげます」

「てめえ」


 ムルガが笑いながら、カクリを殴りつけた。


「俺は、あと三百年は生きるぞ」

「化け物じゃないですか」


 皆が笑って、そういうことに決まった。


 狩りは一日では終わらず、山中で一夜を過ごして再び追跡にかかった。

 足跡の主を実際に目にしたのは二日目の昼だった。


 ムルガがカクリの肩をたたいた。

 彼の指差す風上をカクリは見上げた。いた。大きい。木立の間から黒っぽいものがちらっと見えた。

 一度木立に隠れ、また一瞬見えた。歩いている。カクリたちに背を向け、山の斜面をゆっくり登っていた。

 追いつかれたことに気づいていない。足もとがおぼつかないようだった。一日追跡を受けて消耗しているのか。


「どうする?」


 お手並み拝見というようにムルガがささやいた。


「待ってください。今考えます」


 カクリは地形を頭に思い浮かべた。

 赤熊の向かう先には尾根があるはずだった。その手前に岩場がある。

 ぐるりと迂回して先回りして、そこで待ち伏せするのがよさそうだった。赤熊の歩みを考えても、十分に時間はありそうだった。


「予定通りムルガさんが仕留め役を。一番上。尾根の手前の岩場で」


 赤熊の向かう先をカクリは指さした。


「他の人間でそこまで追い立てます」


 カクリは九人全員の配置を、赤熊を包み込むような形で指示した。

 カクリが秋猟に参加するのはこれが四度目だ。先導者になるのは初めてだったが、父のやり方は覚えていた。

 指示は正確であり、文句をつける者はいなかった。


「俺は一番下にいて合図を送ります。そうしたら一斉に」


 そういうことに決まった。


 年長者二人が、音もなく斜面を駆け上がっていった。

 ムルガとアーシャがそれに続く。

 嫌というほど歩き慣れた山であり、槍弓を持っていても、彼らの動きは呆れるほど素早かった。

 先行した四人の配置は、尾根に近い辺りだ。追い込まれた赤熊を待ち構える役であり、合図を送るカクリと並んで最も重要な配置である。


 他の五人は散開し、それぞれゆっくりと配置についていった。


 やがて日は中天を越え、南西の空にかかった。

 赤熊はかなり尾根の方に近づいていた。

 カクリもそれを追う形でずいぶん登ってきている。


 今や、カクリの目から赤熊の様子ははっきり視認できた。

 あいかわらずよろよろしている。

 追跡者の存在だけではなく、何か別のものにも気を取られている感じだった。だがそれが何かは分からなかった。


 そろそろ頃合いかと思われた。


 カクリは弓に矢をつがえ天に放った。風を裂いて矢が飛ぶ。

 同時に弓を放り出して声を上げ獣追いの小鐘をたたき始めた。頭がしびれるようなものすごい音だ。


「おい! おーい! おい!」


 赤熊は一瞬ひるんだようだった。


 赤熊に限らず、ディトが逃げる時には必ず坂を登っていく。それは山に生きる者の常識だった。

 だからそうやって逃げた赤熊の行き先をふさぐように、人を配置していた。

 その最終地点に、仕留め役のムルガが待っている。


 しかしこの時、赤熊は登らなかった。突然自分を押し包んだ騒音におびえて、その場で警戒をあらわにした。

 動かなかった。


 どうして逃げない。

 予想外な熊の行動にカクリの胸にあせりが生じた。一層声を上げ小鐘をたたいた。山全体が鐘の音でゆれた。


 赤熊が首を振る。その視線がカクリを射抜いた。

 目が合った。


 だがそれでもなお赤熊は逃げなかった。それどころかカクリに向かって猛然と斜面を降りてきた。

 信じられない行動だった。

 手負いでも子連れでもない赤熊が、人に会って逃げずに立ち向かってきたのだ。


 カクリはとっさに小鐘を三度、断続的に打った。

 それは仲間たちに異常発生を知らせる合図だったが、その音が彼らに届いたかは分からなかった。皆、声を上げて鐘をたたいているのである。

 そしてそれを確かめている時間はなかった。


 カクリは小鐘を放り出し、槍をつかんだ。横飛びに跳んだ。

 そこを赤熊の質量が通りすぎた。


 カクリは受け身を取って着地し、跳ね起きた。

 槍を構える。


 その穂先で赤黒いかたまりが立ち上がった。

 大きい。

 赤熊は、普通立ち上がっても人の肩くらいにしかならない。だがこの赤熊はカクリの目線よりも高くなった。

 真っ赤に充血した目が怒りをたたえてカクリを見すえた。


 地をはうような声を上げた。

 それは赤熊の声であり、カクリの声だった。


 槍を構えたまま、カクリは突進した。

 赤熊は避けなかった。大きく右前脚を振り上げた。

 カクリも避けない。突っ込んだ。


 衝撃が走った。

 一瞬、何がどうなったのか、カクリは分からなかった。

 目が回って、上下が分からない。口の中で土の味を感じた。どしんと再び衝撃。キサーウッドの幹にたたきつけられたのだった。


 それでようやく、斜面を転がり落ちていた自分に気づいた。

 カクリは身を起こし、見上げた。


 赤熊はまだ立っていた。

 その胸の真ん中に槍が垂直に立っていた。

 地響きを立てて、赤熊が地面に沈んだ。動かなくなった。


 カクリは自分の体を確かめた。

 体に欠損はない。大きな怪我もなかった。


 赤熊に近づこうとして、足のふるえに気づいた。

 膝を拳で打った。それでもなかなか斜面を登れなかった。

 はうようにして進んだ。


 ようやく赤熊にたどり着いて、間違いなく死んでいることを確かめた。

 小鐘を取り、自分の無事と狩りの終了を知らせる鐘を打とうとして気づいた。


 赤熊の腰から尻にかけて毛がなかった。

 爛れている。ひどい腐臭がした。


 病気持ちの赤熊だ。異常行動の理由が分かった。

 よく見れば、体は大きかったがこの時期の赤熊としてはあり得ないほど貧相にやせた赤熊だった。


 狩りが徒労に終わったことを知って、カクリは肩を落とした。

 まさかこんなみすぼらしい獲物を、神への捧げものにするわけにはいかない。

 かといって人が食べるわけにもいかない。

 どんな病気になるかもしれない。


 同時に、命を落としたのに、どうとも使われようのない赤熊があわれになった。

 ミスラでは主と呼ぶべき獣だ。

 こんな無残な姿は誰にも見られたくないだろう。

 堆積したキサーウッドの葉をかぶせて隠してやった。


 何となくサフィの美しい横顔を思い出した。

 無性に彼女に会いたかった。

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