4-5
カクリとアーシャのいさかいの夜から、何もなく三日が過ぎた。
カクリは、サフィに伝えられた図鑑をナジルの書斎から発掘したが、先日対峙した蜘蛛の化け物が、図鑑に記されているそれと同じものかは分からなかった。
サイズが違いすぎるし、実物を冷静に観察できたわけでもなかった。
しかしカクリはそれを読み込んだ。
生前の父が最期に探していた本だという事実が、彼にそうさせた。
死んだ者の葬儀も行われた。
死者は多く、葬儀は二日に分けて行われた。
蜘蛛の餌食となった馬の検分も行われた。
馬はほとんど骨だけになっていた。皮膚の一部と散らばった毛、黒々した腐汁のしみだけが残されており、腐肉はなくなっていた。
どうしてか、眼球がそのままの形で残されていた。
馬の死体は捨て置かれた。
少しでも蜘蛛を刺激することを恐れた。
最後に、村に残された二頭の馬を、ナジル宅とムルガ宅に配置した。
今まで蜘蛛が現れた二家である。馬を与えていれば、人は襲わないのかもしれない。
二頭の世話は男たちが請け負った。
あとは衛兵を待つだけだった。
天候は依然悪く、晴れ間がのぞくことはなかった。
蜘蛛は現れず、静かな日が続いた。
サフィの体調は、いさかいの翌日には完全にもとに戻った。
しかし、二日目の朝からまた調子をくずした。熱は出なかったが、妙な倦怠感があった。
が、大変な時である。彼女はそれを押し殺して働いた。
三日目の朝には、不調を隠せなくなった。
サフィはベッドから起き上がることができず、朝から姉に看病された。
姉妹は、事態をそれほど重くは考えなかった。
サフィにとってこの程度の不調は、よくあることだったし、女に定期的に訪れる排血のタイミングがちょうど重なっていたためでもあった。
サフィのそれは人よりも少し重かった。
だが原因は、全く違うところにあった。
三日目の昼過ぎ、異常に熱い汗を大量にかいた。
その時アーシャは、カクリと一緒に『狼の爪痕』に偵察に行っており不在だった。
サフィは、体をぬぐおうと服を脱いだ。
そして胸に浮かんだ湿疹に気づいた。
足の先から頭のてっぺんまで、さあっと血の気が引いて冷たくなった。
彼女はミランの症状の推移を聞いていた。
サフィは自分の目から湿疹を隠すように、素早く服を着た。
しかし不安は全く消えない。
もう一度服を脱いだ。湿疹は依然そこにあった。
これは何なのか。
恐る恐る指で触れた。痛みはない。
馬は触れられた痛みで鳴いたと聞いていた。これは違うはずだ。
服を着てベッドに横たわった。眠れなかった。
しばらく時間がたち、もう一度服を脱いだ。
湿疹がわずかに広くなった気がした。
先よりも強く触れた。かすかな痛みがあった。
声を上げるような痛みではない。
だから違う。違うはずだ。
急いで服を着てベッドで丸くなった。
頭がしびれるような不安が襲いかかってきた。
姉に早く帰ってきてほしかった。
しかし同時に、今は会いたくないとも思った。帰宅した姉に異変を悟られるのを恐れたのである。
アーシャが帰宅したのは、日が落ちる少し前だった。
帰宅した彼女は、まず寝室をのぞいた。
「サフィ。起きているか」
暗闇の中、ベッドの上に黒いかたまりがあったが、動きはなかった。
眠っているのかとアーシャは思った。
しかし近づいて顔をのぞき込んで気づいた。
妹は起きていた。目を開いて部屋の闇をぼんやり見つめていた。
「サフィ。どうした」
軽く肩をゆするとサフィの焦点が合った。
「お姉ちゃん」
「どうした。何かあったのか」
「うん。ううん。何でもない」
「誰か来たのか」
「ううん」
「何かあったんだろう? 蜘蛛のことか」
サフィは目を伏せた。
ここで初めて、アーシャの背を冷たいものがなでた。
「サフィ」
「あの、ううん。大丈夫。ちょっと夢を見たの。あの夜の夢。それで怖くなって、それだけだから。だから、大丈夫。大丈夫だよ」
サフィはベッドから起き上がった。
しっかりした顔つきになっていた。
「ご飯にしないと。ね」
「……」
「大丈夫だから」
「サフィ。何かあったのなら私に言え」
「ありがとう。そうするね。でも平気。夢を見ただけだから」
二人は簡単に食事をすませ、その日は早々に床に就いた。
だがサフィはもちろん、アーシャにも眠気は全くきざさなかった。
闇の中、サフィが言った。
「お姉ちゃん、起きてる?」
「ああ」
「……」
「どうした」
「うん。ミラン君のことなんだけど」
「何だ」
「見つかった時、どんな感じだったのか、知ってる?」
「見つかった時?」
「一番初めの、あの朝に」
「ああ。意識がなかったと聞いている」
「誰が見つけたの?」
「いや。それは」
アーシャは答えられなかった。
ナジル、ムルガ、カクリ、三名の誰かだとは知っていたが、くわしい経緯については聞いていなかった。
「カクリに聞けば分かるだろうが。なぜだ」
「うん。ちょっと」
「サフィ?」
「大丈夫。何でもないよ」
それきり、サフィは黙り込んだ。
異様な緊張感とともに、二人は眠れない夜を過ごした。
翌日。夜も明けないうちからアーシャはネロス宅に向かった。
カクリからミランを発見した時のことを聞くためだ。
サフィの見送りはなかった。
彼女は寝たふりをして姉と話すのを拒んだ。
アーシャの覚えている限り、それは初めてのことだった。
すでに、アーシャもサフィの身に何が起きているのか、心のどこかで予想していた。
背を向けて身を縮める妹を無理やり起こして、服を剥ぎ取って確認したい衝動はあった。
だが、それで逃れられない現実が明らかになってしまうことを、彼女は恐れた。
サフィもまた、それを恐れているのだと理解していた。
ネロス宅に到着した時には夜は明けていた。
強い雪が降り始めていた。
夜明けに現れたアーシャのこわばった顔から、何か良くないことが起きたのだとカクリはすぐに理解した。
しかし彼は何も聞かなかった。聞かれたことにただ答えていった。
話は、ミランのことだった。
いくつかの質問に答えた。
ミランは、壁に開けられた大穴のそばで発見されたのだと聞いたとたん、アーシャは外へ飛び出していった。
カクリは追いかけた。
この時、彼もすでに、何が起こったのかを察していた。
十分あり得たことだった。
なぜ思いつかなかったのか。それとも、思いついていながら目をそらしていたのか?
雪まみれの二人が戻ってきた時、サフィはまだ寝室だった。
走ってきた勢いのまま、二人は寝室に飛び込んだ。
さすがにサフィは驚いた顔をした。
アーシャが言った。
「サフィ、服を脱げ」
サフィの顔色が変わった。
彼女はぴくりとも動かなかった。ただゆれる瞳で、姉を見つめるだけだった。
アーシャは大股で妹に近づいて行った。
サフィは身を硬くした。
恐怖の目でカクリを見た。おびえている。
カクリは、はっとして目線を外した。
蜘蛛の毒にかけられた馬の惨状を思い出した。
今からあらわになるものは、自分だけは決して見てはならないものなのだ。
アーシャが妹の服に手をかけたところで、彼は寝室を出た。
壁にもたれかかり、ずるずると座り込んだ。
姉妹のやり取りが聞こえてきた。
「いつ気づいた」
「昨日のお昼。ごめんなさい」
「謝るな!」
怒鳴り声。
アーシャがサフィに怒鳴ったのだった。
「いいか、サフィ。必ず助けてやる。必ずだ。お前は絶対に死なない。だからお前も隠し事はなしにしてくれ。分かったな」
「うん」
「大丈夫だ。私に任せろ。カクリもいる。私たちが力を合わせれば、できないことは何もないんだ。そうだろう」
「うん」
少ししてアーシャが出てきた。
一人だった。憤怒の形相をしていた。全身から湯気が立っているようだった。
怒りか憎しみか、それとももっと別の何かか。
ぞっとするようなすさまじいエネルギーが放射されているのだった。
「何としても解毒方法を探す」
黙っているカクリを、アーシャは殺さんばかりににらみつけた。
「俺が探そう」
カクリはとっさに言った。
「お前は、あいつのそばにいてやれ」
「なぜだ。二人で探した方が」
「お前は、お前にしかできないことをやれ。俺もそうする」
「……」
「大丈夫。心当りがある」
「本当か!」
アーシャの瞳に強烈な希望がわいた。
カクリは胸の内を表に出さないように、硬い無表情で小さくうなずいた。
そうするしかなかった。
「本当だ。だからお前はここにいてやれ」
アーシャは迷いを見せていたが、やがてそれを承知した。
カクリは家を出た。
自宅の跡地に向かい、ナジルの残した本のうち、毒物に関するものに目を通した。調合師であったナジルは、毒物にもある程度精通していた。
しかし、図鑑の蜘蛛、エグト・ラッシャの毒に関する記述はなかった。
当然だ。普通であれば人には全く関わりないはずの毒なのだ。
やはり、実際にエグト・ラッシャを探すしかない。
毒の実物が手に入れば、中和方法もどうにかなるかもしれない。
あの大蜘蛛が、もとはエグト・ラッシャと同じものであり、毒も同じものであると信じるしかなかった。
自分の直感と、父の遺した手掛かりを信じる。
幸い、エグト・ラッシャは成虫で越冬する蜘蛛である。
地中や木の洞でじっとして冬を越すのだ。
カクリは村の家々を回って、村民に事情を話した。
近隣の木の洞を探って、背に二本の赤い筋のある蜘蛛を探すように頼んだ。
村民総出の蜘蛛探しが始まった。
心当りと言えるような確かなものではない。それはカクリにも分かっていた。
エグト・ラッシャを見つけたところで、どうやって毒を抽出するのか。
抽出した毒からどうやって解毒方法を探すのか。
その解毒方法は本当にサフィに効くのか。
考えるほどに絶望的な結末しか浮かんで来ず、カクリは思考を放棄した。
俺は意味のないことをしている。
嫌でもわき上がってくるその思いに必死でふたをしながら、カクリはひたすら吹雪の山中をさまよった。