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4-4

 寝室を出るとアーシャが待ちかねていた。


「眠ったか」

「無理をさせてしまった」

「いや、お前を心配して話したがっていた。喜んでいるだろう」


 カクリは彼女の隣に座った。


 まずは、カクリから話した。先ほど決まった村の方針についてだ。

 女たちにはあえて伏せたことも、アーシャには全て話した。


 衛兵を待つことにしたが、たとえ来たとしても蜘蛛にはまず勝てないであろうこと。

 勝つためには、王族か紅令師が必要だと見込んでいること……。


 一通り話し終え、カクリは聞いた。


「紅令師とは、都市にどのくらいいるものなんだ」

「いや、分からないな。フォード市には何人かいたようだが」

「ローディ市にはどうだ」

「分からん」

「お前の故郷とローディ市は、どちらが大きい都市なんだ」

「圧倒的にフォード市だ。規模で言えば十数倍はあると思う。フォード市は、この国で王都に次ぐ都市だ」


「そんな都市に何人かしかいないのか」

「いや、私が知らなかっただけでもっといたのかもしれない。父の話に何度か出てきた覚えがあるだけだから。それに紅令師は国家には属さないものらしいから、一国に定住せず漂流している者も多いと聞く。そういう人間が、もしかしたら近隣にいるかもしれない」

「であれば、助かるけどな」


 カクリは何気なく言ったが、国に属さない存在ということが気にはかかった。それはつまり、紅令師は国の命令に従う義務を持たないということだ。

 都合よくローディ市に紅令師がいたとしても、その人物がタララ村への救援に行くのを拒否すれば、それを強制することは誰にもできないということではないか?


 だが、それは今考えていても、仕方ないことだった。


「それで、お前の話とは何だ。人に聞かせられない用事なんだろ」

「そうだな」


 アーシャはなかなか話し始めなかった。何から話すか考えているようだった。

 赤々と燃える炉の炎に枝を放った。

 じっと炎を見つめながら、彼女はぽつりと言った。


「これからどれほど死ぬと思う」


 それは、今カクリが一番考えたくないことだった。


「分からない」


 ぶっきら棒にカクリは答えた。

 そんな話ならこれで終わりにしたいと、言外に込めたつもりだった。


 しかしアーシャは食い下がった。


「予想でいい」

「分からん。大体、なんで俺に聞く」

「お前だからだ。お前は、私の知る中で最も頭のいい男だ。どんなことでも、お前なら答えを出せると思ったんだ。だから聞いている」


 カクリは舌打ちをした。


「買いかぶるな。どんなことでも分かるなんて」

「今聞いたことも分からないのか」

「分かりようがない。蜘蛛は星の見える夜に来る。俺たちが蜘蛛を倒しうる戦力を整えるまでに、どれほど晴れるかによって全く変わるだろうから」


「十日ほどか?」

「じき厳冬期だ。そんなには晴れないだろう」

「五日ほどか」

「三日くらいじゃないか」

「三日晴れたとして、犠牲はどれほど出る。出ないはずはないだろう。たった一日で十八人も死んだんだ」

「だから、できるだけそれを減らすような工夫を今こらしている」

「しかしゼロにはできないだろう」

「何が言いたいんだ」


 とうとう我慢できなくなって、カクリは声を荒げた。

 アーシャは視線を床に落とし、言った。


「私は怖いんだ」

「何?」

「次に死ぬのはサフィかもしれない。今度こそ、あいつは死んでしまうかもしれない。蜘蛛がサフィをねらった時、私はそれを止められない。何をしても殺される」

「それは、そんなこと」


 言いかけたカクリを制して、アーシャは続けた。


「私が何かをして、あの化け物を止められるならそうしよう。それがどれほど薄くても、ほんのわずかでも止められる可能性があるなら、私はあらゆる手をつくし、お前たちとともにあの蜘蛛と戦うだろう。だが、そうじゃない」

「……」

「あれを殺しうる戦力が村にやって来るまで、私たちの命運は完全に、あの一個の蜘蛛に委ねられている。サフィの命が他の何かににぎられて、私にはそれをどうすることもできない。それが、私は心底恐ろしい」


 アーシャの声はふるえていた。彼女は本当におびえているのだった。

 他でもない、アーシャが、おびえている。

 カクリはたまらなくなった。


「馬鹿やろう。そんなもの、皆そうだ。家族を失うことにおびえているのが自分一人だとでも思っているのか。皆、同じ恐怖の中でそれでも踏みとどまって戦っているんだ」


 叱責するつもりが、なだめるような言い方になってしまった。


 悔しかった。

 彼女のことを、誰よりも強い人間と尊敬していた。

 しかし、今目の前にいるのは、ただのおびえた女にすぎなかった。

 どうして?

 あの蜘蛛を見たからか。お前の心は、あの化け物に負けてしまったのか?

 それが、どうしようもなく悔しく、また恐ろしかった。


「皆が耐えているから、私も耐えられるわけじゃない」

「だったらどうするんだ」


 今度こそ強い言葉でカクリは迫った。


「お前、逃げるつもりなのか。この村から。サフィを連れて二人で」


 アーシャは目を伏せた。

 それは、肯定したということだった。


「勝手にしろ! だがサフィを無理やり連れて行くのは許さん。あいつはお前の妹だが、もうこの村の人間なんだ。あいつは残るぞ、村に」


 カクリは言い切ったが、それはどうだろうと思った。

 アーシャとサフィが、ただの姉妹という以上の特別な絆で結ばれていることは、痛いほど知っていた。

 姉に強く説得されれば、サフィはついていくかもしれない。


 しかし、アーシャ自身はカクリの言葉を肯定した。


「そう。あいつは承知しないだろう。サフィはお前を愛している。お前がいる限り、あいつは村を離れようとしないだろう」

「当り前だ」

「だから、お前も一緒に行くんだ」


 何を言われたか、一瞬分からなかった。

 飲み込んだとたん、言いようもない強烈な不快感がふくれ上がった。


「馬鹿な!」

「聞け、カクリ」

「ふざけるな。誰が!」

「いいから聞け! 抗いようのない危険から、大切な人と一緒に逃げることは、そんなに悪いことか? 自らの家族を守ること。それが、人が人として生きるのに、一番に考えるべき務めじゃないのか」

「……」

「私は五年前の私じゃない。どこででもサフィを守って生きていける。お前もそうだ。どこででも自由に生きられる力がある。カクリ、南へ行こう。都市で暮らすんだ。蜘蛛など出ようもない、大きな都市で」


 アーシャは本気の目をしていた。


 ふざけるなと思った。

 しかし、頭の中に一つの情景が浮かび上がるのを、どうしても止められなかった。


 見たこともない大都市で、彼は、美しい妻と、頼りになる義姉と、三人で暮らしていた。

 彼は都市の調合師になっていた。

 それは、彼の父が若い頃志した職だった。

 父の果たせなかった夢を継いだカクリは、やがて都市でも有数の調合師になり、タララ村での慎ましい暮らしとは比べようもない豊かな毎日を送るのだ。……


「カクリ、生きよう。三人で」

「黙れ!」


 カクリは、アーシャの顔面を思い切り殴りつけた。

 アーシャは避けなかった。

 床にたたきつけられた彼女の口から、一筋の血が床に落ちた。


「二度と言うな。次に言えばお前でも許さない」


 しかしアーシャは止めなかった。

 その場に手をついて言った。


「頼む、カクリ。私たちと逃げてくれ」

「お前!」


 カクリの腕が、再び振り上げられた。

 しかしそれはすぐ、力なく垂れさがった。

 もう、カクリはアーシャを殴ることはできなかった。

 じっと頭を下げている彼女の姿を見ていると、胸が詰まった。


「なぜだ。アーシャ。どうして」


 分かっているはずだろう?

 何があっても、俺がそんな願いを受け入れるわけにはいかないことは。

 俺はもう、ただのカクリじゃないんだ。この村の皆の命を背負って、ここにいるんだ。

 お前も、分かっているはずだろう?

 なのにどうして?


 アーシャは答えない。床にうずくまっている。


 彼女の気持ちを、カクリは分からない。

 それは、彼女が今までただの一度も、己の心を誰にも明かしたことがないからだ。



 彼女にとって、カクリは初めての、そしてただ一人の友なのだ。


 物心ついた頃に母を亡くして以来、アーシャは自分が妹の母になるのだと決めた。

 彼女の時間は全て、妹のためのものだった。

 それが彼女の幸せだったし、そういう自分に彼女は満足していた。


 タララ村に来て、ナジルの家に暮らし始めて、初めて自分の時間ができた。

 そうしてできた友が、カクリだった。

 賢く優しい、尊敬すべき男だった。


 アーシャはカクリを、深く愛していた。

 友として。そしていつしか女として。


 そんな素振りは、誰にも一度も見せたことはない。

 この先も、決して見せることはない。


 しかし、アーシャの中には、ごまかしようもなくある思いだ。

 サフィ。カクリ。

 かけがえのない大切な二人を、彼女はどうしても失いたくなかった。

 何をどうしても。



「アーシャ、顔を上げろ」


 と、カクリは言った。

 アーシャはそうした。

 眼前にカクリの硬質な瞳があった。それはもはや小ゆるぎもしなかった。


「俺は逃げない。悪いが話はここまでだ」

「それは、サフィの危険を見過ごしてでも、この村と心中したいということか」


 アーシャもまた、硬い声で聞いた。


「心中はしない。生きるんだ」

「同じことだ」


 カクリは眉をひそめたが、否定しなかった。


「お前のそれは、自己満足だ。生きている者たちのことを思えば、今すぐに村の全員で逃げるべきだ。死んだ者は、自分の仇討ちのために生きている者が無為に危険を冒すことなど、望まないだろう」

「死者の代弁者気取りか。なぜそんなことが言える」

「お前が死んだとして、生き残った者にあの蜘蛛と戦うことを望むか」


 カクリは考え、少し笑った。


「そうだな。お前は正しい。しかし、生きている者と死んだ者が逆だったとしたら、父さんもムルガさんも、必ず俺と同じ道を選ぶはずだ」


 アーシャは顔をゆがめた。


「心は変わらないのか」


 カクリはうなずいた。迷いはなかった。


 アーシャは全身を使って跳ね起きた。

 光の速さで腰の短刀を抜いて、もう一方の腕でカクリの足を払った。


 こらえる間もなくカクリは床に転がされた。

 その時にはアーシャはカクリに馬乗りになっている。


 カクリは眼前の切っ先を、唖然として見つめた。

 拘束を抜けようともがいたが、アーシャの体は吸い付いたように離れなかった。


「なんて速さだ、お前」

「……」

「お前でも、あの蜘蛛は殺せないのか」

「満身で槍を突き立てても、まるで食い込まなかった。矢も同じだ。私には、あれをわずかに傷つけることもできない」

「そうか……」

「そんなものを相手に、お前は意地を張るのか?」

「仕方ない。俺たちはグランダなんだ」

「馬鹿……」


 アーシャは一瞬泣き顔になった。

 だがそれはすぐに、鋼の無表情に取って代わった。


 もはや手段は選んでいられない。カクリを気絶させて村から連れ出そうと思った。

 意識のないカクリを背負って、村の誰にも気づかれずに、冬のミスラ山を下りられるか?

 蜘蛛と戦うよりはよほど成算があるように思えた。

 アーシャは心を決めた。


 しかし彼女が動くことはなかった。


「お姉ちゃん。やめて」


 アーシャは息を飲み込み、振り返った。

 寝室からサフィが出てきていた。


「サフィ。なぜ。眠ったんじゃないのか」

「起きちゃうよ」


 サフィはおぼつかない足取りで、動かない二人に近づいていった。

 あっさりと姉の短刀を取り上げて、


「私、行かないよ」

「サフィ」

「お姉ちゃん、私たちはもうタララ村の一員なんだよ。ナジルさんに助けてもらって、この五年間、それだけのものは受け取ってきたと思う。私、この村のことが大好きだよ。お姉ちゃんもそうでしょう?」

「お前が残ることに何の意味がある。何の恩返しにもならない」


 正論だった。しかし意味はなかった。


「恩返しとかじゃない。この村の一人として私がそうしたいの。だからごめん。私はこの村に残るよ」

「カクリが逃げることに同意してもか」

「カクリさんは逃げないよ」

「……」

「お姉ちゃん。私は死なないよ」


 サフィは姉の手をにぎった。


「だってお姉ちゃんがいるから。カクリさんがいるから。二人がいる限り、誰も死なない。私は知ってるよ。二人が力を合わせたら、できないことは何もない」


 アーシャは、無言でカクリを振り返った。

 カクリはまっすぐにアーシャを見つめている。


 アーシャは妹を見た。

 サフィもカクリと同じまっすぐな目をしていた。


 アーシャは胸が苦しくなった。

 自分がひどく醜いもののように思えた。


 彼らの言葉は、何の根拠もないただの戯言にすぎないはずだった。

 だが、不思議とアーシャの心を捕らえて離さない。

 本当にそうかもしれないと思えた。


 それはいかにも現実逃避的な思考だったが、そうと分かりながら、それに身を委ねる誘惑は抗いがたかった。


 アーシャは立ち上がり、妹の肩に手を置いた。

 しっとりと温かかった。


「サフィ。お前を失うのは」

「大丈夫。私はこの村できっと幸せになるから」

「なぜ、そんなことが」

「分かるもん」


 本当にそうなのか? 馬鹿な! しかし。

 アーシャはうめいた。身もだえするような葛藤だった。


 しかし、とうとう彼女は白旗を挙げた。

 挙げざるを得なかった。

 全身が脱力した。


 アーシャは複雑な気持ちで、カクリを見下ろした。

 何を言えばいいか分からない。


 脅しとはいえ、刃を突きつけたことを謝罪するべきか。

 それとも、妹の心を奪ってくれた恨みをぶつけるべきか。


 結局、どちらでもないことを彼女は言った。


「カクリ。次の冬が来るまでに、お前は必ずサフィと婚儀を上げるんだ」


 それまでに、誰も死なせることなく蜘蛛を殺せと言っているのだった。

 カクリはためらわずうなずいた。


「約束する」


 それで話は終わった。


 いつの間にかずいぶん夜も更けているようだった。

 外は吹雪いているらしく、家全体がきしみを上げている。


 この日、三人は身を寄せ合って眠った。

 互いの体温を肌で感じ合い、彼らは久しぶりに深く眠った。


 彼らの心には希望がわいていた。

 暗い気持ちで日を送るより、希望を持って動いた方が万事うまく回るはずだと思った。


 それは違った。

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