4-3
日が沈む前にアーシャの家に到着した。
空はあいかわらず重く、雪が降り始めていた。今夜は吹雪になるかもしれない。
戸をたたくとアーシャが出てきた。
彼女に続いて居間に入った。見慣れた室内。
およそ十日ぶりだが、それはずいぶん昔のことのように感じた。
「サフィは寝室か」
アーシャはうなずいた。
寝室に向かって顎をしゃくった。
話の前に、会ってやってくれということである。
カクリは一人で寝室に入った。
サフィは起きていた。力なく横たわっていたが、入ってきたカクリを見てあわてて身を起こした。
「そのままでいい」
カクリは言った。
サフィは首を振った。
「ごめんなさい。大変な時に呼んでしまって」
「いや。俺も会いたかった」
カクリはベッドのそばに腰を下ろし、彼女の頬に手をやった。
温かかった。サフィは生きているのだ。
彼女の白い肌に血が巡って、淡く紅がさした。
「よかった。本当に。生きていてくれてよかった」
サフィの瞳がうるんだ。
襲い来る蜘蛛の恐怖を思い出したのか、彼女は小さくふるえた。
カクリは彼女の手をにぎった。
「ここは安全だ」
「はい」
「父さんは勇敢だったか?」
サフィは大きく何度もうなずいた。
「どんな最期だった」
「ナジルさんは、私をかばって。それから、最後まで、一人でも多く逃がそうとして。一人であの蜘蛛と戦ったんです」
「そうか……」
カクリは目を閉じ、少しの間沈黙した。
嘘だった。
サフィはナジルの最期を知らない。
ナジルと一緒に居間にいた彼女は、寝室からはい出てくる蜘蛛の姿を見た。
だが、それから先のことは何も覚えておらず、気がついた時にはこの部屋で姉と二人でいたのだ。
だからナジルの死に様も、自分が助かった理由も、サフィには何も分からない。
一つだけ確信を持って言えることがあるとすれば、
「ナジルさんがいなかったら、きっと私も、誰も生きてはいられませんでした」
あとは何も言えない。
謝るべきなのか。礼を言うべきなのか。
謝るのはナジルの誇りに傷をつけるような気がして、礼を言うのはカクリの悲しみを煽ってしまうような気がして、結局何も言えずにサフィはただ黙った。
彼女の葛藤は、カクリにも伝わっていた。
何となく、救われたような気がした。
父は生きているのだと思った。サフィの中に。もちろん俺の中にも。
これまでになく、彼女を愛おしく思った。
カクリはサフィに口づけした。
衝動的だった。彼女にそうしたのは初めてだった。
サフィは一瞬ぽかんとした後、激しくうろたえた。
見たことがないほど赤面し、視線をあちこちにさまよわせた。
カクリは彼女を強く胸に抱きしめた。
サフィはしばらく身を固めていたが、やがてゆるりとくつろいで、そっとカクリの背中に手を回した。彼の胸に頬をこすりつけた。
二人は密やかに、つたなく愛を確かめ合った。
少しの時間が過ぎた後、伝えなければならないことがあると、サフィは言った。
彼女の顔はまだ赤かったが、目はしっかりしていた。
カクリも姿勢を正した。
「エグト・ラッシャというものをご存知ですか?」
それは、カクリが聞いたことのない単語だった。
「何かの名前か」
「蜘蛛の名前です。あの夜ナジルさんが調べていたんです。それがエグト・ラッシャ。本当はごく普通のほんの小さな蜘蛛のはずなんですけど、これじゃないかと思うんです。ナジルさんもそう思っているようでした」
「それが、村を襲っている蜘蛛の正体か!」
カクリの声は思わず高くなった。
サフィはうなずいた。
「小さなってどのくらい?」
「正確な数字は……。見たんですけど、ごめんなさい、覚えていません。だけど普通の蜘蛛の大きさだったはずです」
「見たというのは」
「図鑑があったんです。そこに書いてあって」
「父さんの書斎に?」
「はい。今も、あるはずです」
「どうしてそいつが大蜘蛛の正体だと?」
「大きさ以外の特徴がよく似てて。その、ミラン君のこととか……。それにお姉ちゃんに聞いたんです。カクリさんは、村に来ている獣の正体を、ただの蜘蛛が何かの理由で変化したものだと考えているって」
「ああ。そうだな」
忘れていた。確かにそんな話をした。
もっとも、大蜘蛛の実物を見た今となっては、あの化け物が、もとは取るに足らないただの蜘蛛だったなどとは、受け入れ難くなっているのだが……。
「父さんは図鑑を見て、何か言ってたか」
「いえ。ごめんなさい」
父は、獣の正体をどう見ていたのだろうか。カクリは思った。
実在の蜘蛛の図鑑を探していたということは、父も通常の蜘蛛が変貌したものだと思っていたのか。
そうだとして、変貌の理由はどう考えていたのか。
分からなかった。
父とそういう話をしていなかったことが悔やまれた。
しかし、とにかく、書斎で件の図鑑を確認しなければならない。
サフィの息が荒くなってきた。無理をさせたようだった。
カクリは、彼女の華奢な体をベッドに押し戻した。
「悪い。体調が戻ってないのに」
「ごめんなさい」
「いいや。役に立ってくれた。助かった。だから今は休め」
サフィはうなずいた。
そして下からじっとカクリを見つめた。そうしてから目を閉じた。
目もとが赤くなっている。
唇にひかえめな期待が込められていた。
カクリはそこにそっと口づけた。
長く、そのままでいた。やがて離れて、二人は見つめ合った。
サフィは笑みを浮かべた。
幸福そうな、しかし悲哀の入り混ざった笑みだった。
目を閉じ、落ちるように彼女は寝入った。やはり無理をしていたのだ。
カクリは彼女の美しい金髪をすいた。
そして立ち上がった。