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3-5

 同時刻。ナジル宅。


 家にいる十六人は、誰も眠っていない。

 交代で常に二人が表で火の番をし、残りは家の中で家族の無事を祈っていた。

 十六人はほとんどが非力な女であり、彼女らの父親や夫は今下流のムルガ宅で獣狩りの最中なのだった。


 獣を打ち倒してくれればそれが一番だ。

 しかし、ほとんどの者は、獣が現れないでいてくれればいいと考えていた。

 サフィもその中の一人だった。


 彼女は今、ナジルと二人、書斎にいた。

 書棚をあさるナジルの後ろから、彼の手もとを照らしている。


 ナジルはついさっき目を覚ましたのだ。

 安静にするように求める声を振り切って、彼はすぐさま書斎にこもった。

 それからずっと本をあさっている。


 ナジルの求めに応じて、これまで黙って明かりをかざしていたサフィだったが、土気色に近くなってきた彼の顔色に、とうとう我慢できなくなって言った。


「ナジルさん、探している本は何なんですか。言ってくだされば代わりに探しますから、今は休んでください」


 しかしナジルは、それを全く無視した。


 彼の探し物は、獣の正体についてだ。

 べつに今すぐに見つけなければいけないものでもなかった。

 獲物を溶かし食らう獣というところに漠然とした覚えはあったが、それが書物から得た知識なのかどうかも不鮮明なのである。


 ナジルはただ、じっとしていられないだけだった。

 今、彼の子や村の男たちは、彼が決めた方針に従って戦いの場に出ている。

 なのに、ナジルには待つことしかできないのだ。

 何かしてないと気が狂ってしまいそうだった。


 ふと、ページをめくっていたナジルの手が止まった。

 彼は猛然と読み始めた。


「ナジルさん?」


 サフィの呼びかけにも、彼は答えなかった。


 サフィは後ろから紙面をのぞいた。


 エグト・ラッシャ。俗称『腐肉食らい』。

 蜘蛛の図が、ややグロテスクなほど精緻に記されている。


 それは図鑑だった。


 サフィは解説文に目を通した。


 体長は雄二チェイン、雌五チェイン程度。(五チェインとは、子供の掌いっぱいに収まる程度の大きさ)


 ティシリア王国やカンドラ王国の北部など、寒冷地の森林部全般に分布する。

 背に二本の赤い筋があり、細く長い脚が特徴的。


 そういった概要に続いて、生態について詳細な解説がされていた。


 腐肉食らいは糸で巣を作って罠を張るのではなく、直接狩りをして獲物を捕らえるタイプの蜘蛛である。


 この蜘蛛は、手頃な獲物を見つけてもすぐには捕食しない。

 背後から忍び寄り、かみついて毒液を注入し逃げ去る。

 未発達な消化器官しか持たないこの蜘蛛は、通常の獲物を摂取しても栄養を取り込めないのである。


 毒を注入する時に使われる牙は、上あごから左右に生えている二本の鋏角――いわゆる一般的な蜘蛛の牙ではなく、鋏角の間から前方にまっすぐ伸びる一本の副牙である。

 普段は上あごの中に収納されており、必要に応じて長く伸ばすことができる。

 非常に細くするどく、かまれた獲物は気づかないこともある。


 毒は獲物の体液を巡り、肉体を破壊する溶解毒である。

 獲物の大きさにもよるが、数日から十日以内には、全身を破壊する。


 またこの毒は、肉体を侵食するのに異常を知らせない。

 獲物は体を溶かしながら、それに気づかず日常を過ごす。

 毒を抱えたまま巣に帰り、毒が発するフェロモンによって蜘蛛にその場所を教え、そこで体中が溶け落ちて死ぬ。


 腐肉食らいは獲物が死んだ後に悠々と現れ、腐肉を存分に食う。

 それから次の獲物に毒液を注入して姿を消す。

 それが繰り返される。

 ……


「あの、これ」


 サフィが言った時、不意に地面がゆれた。

 サフィもナジルもその場で投げ出された。雷鳴のような激しい音が続いた。


 ナジルは立ち上がり、よろけた。

 サフィがそれを支えた。


「な、何が、一体」

「無事か」

「は、はい。でも、これって、何が」

「分からん」


 状況がつかめなかった。何が起きた?


 しかし、続けて聞こえてきた女たちの悲鳴が彼らにそれを教えた。

 寝室だ。

 獣がこちらにやってきたのだ。


「ここにいろ」


 ナジルは言って、書斎から出た。

 サフィはそれをあわてて追いかけた。足もとのおぼつかないナジルに肩を貸す。


「あの、お姉ちゃんは。カクリさんも」

「ああ」

「無事でしょうか」

「分からん」


 獣がここに来たということは、姉が待ち伏せしている方には来なかったということか。

 それなら姉は今も無事のはずである。


 だけど、もしそうでなければ。


 サフィは眩暈がした。


 恐怖だった。

 今までどんな時も、姉がいると思えば怖いものなど何もなかった。

 しかし今彼女は一人だった。


 混乱する女たちにナジルが何かを怒鳴っている。

 寝室の方から再び破砕音がした。

 女たちの悲鳴。怒号。


 しかしサフィの耳には何も入らなかった。

 暴れる鼓動は頭が痛むほどだった。


 姉は生きているのか。それだけを思った。





 ナジル宅の混乱は、ネロス宅に避難していた者たちの耳にも届いた。

 それは初め、人の叫びではなく、するどく吹きすさぶ風の音のように聞こえた。

 しかし風は吹いていない。

 音は上流から聞こえてきていた。


 表で火の番をしていた二人は、じっと目をこらした。

 暗い。ナジル宅の表で燃え盛っている炎だけが小さく見える。

 それがゆらめき、ふっと消えた。


 何かが起きたのだ。


 二人は家の中にいた者たちに急を告げた。

 獣が来たのだと誰かが言い、皆の顔から血の気が引いた。


 混乱の中、話し合いがもたれた。

 救援に向かうべきだという者と、行っても意味がないという者に分かれた。

 圧倒的に後者が多かった。

 彼女たちは皆、戦う力を持たない女子供と老人たちだった。


 ムルガ宅で獣を待つ男たちはどうなったのだと一人が言った。

 皆がはっとなった。


 男たちは何も知らずに、今も獣を待っているのに違いないということになった。

 もう一つの悲惨な可能性については誰も口には出さなかった。


 男たちに、ナジル宅の急を知らせることに決まった。

 二人の若い女が選ばれて、下流に向かった。


 二人の女は松明を持って走った。

 上流から聞こえてくる高い音は、今やはっきりとした悲鳴となって、背を向ける彼女らの心を締め付けた。

 急がなければならない。


 しかし道半ばで、彼女たちの足は止まった。

 下流から息も絶え絶えにやってくる六人に、鉢合わせたのである。


「何が。一体」


 彼女たちは先頭の男に聞いた。

 彼は、また別のぐったりした男を背負っていたが、彼自身も恐ろしく憔悴していた。

 死人のような顔をしている。


 その後ろにアーシャがいた。彼女はカクリを背負っていた。


「頼みがあります」


 と、アーシャは女二人に言った。


「カクリをお願いできますか。ムルガさんの家にまだ七人いるんです。私は彼らを運ばなければならない」

「どういうこと。皆はどうなったの」


 アーシャは首を振った。悔しげに唇をかんでいた。


 女二人は呆然とした。

 助けを求めるはずの相手がすでに全滅していたのである。

 その中には、もちろん彼女たちの家族もいた。


 アーシャは彼女たちに気を失ったカクリを押し付けて、ムルガ宅に戻ろうとした。

 女たちは、あわててそれを止めた。


「待って! 今、ナジルさんのところに、来てるの」

「来てる?」

「あそこに、獣が、来てるのよ!」

「獣。それは、どういう」


 アーシャのそれは、全く無意味な問いかけだった。

 女の言ったことがじわりと頭に入った。

 その瞬間、アーシャは悲鳴を上げていた。

 人間的なものではなく、追い詰められた獣の断末魔のようだった。


 彼女はもはや他の全てを忘れ、上流にひた走った。


 ナジルの家には今サフィがいるのだ!


 雪に足を取られながら、滅茶苦茶に手を振り回して地面を蹴った。

 すでに残り少なかった体力はすぐにつきた。

 目の前が暗くなった。

 しかし暗闇の中で不思議と、どこに何があってどちらに向かうべきなのかは感じられた。


 ネロス宅を越えてさらに行ったところに、女が二人いた。

 一人は子供を抱えている。


 ナジル宅から逃げてきたのだ。

 彼女たちは我を失って、意味のないわめき声を上げていた。

 雪にまみれ、ぐるぐる同じところを走り回っている。


 サフィ!


 アーシャは叫んだ。

 しかし喉から声は出ず、代わりに血が出た。

 必死にそれを飲み下した。

 三人の顔を確かめた。違った。


「何があった」


 しかし女たちは答えない。

 アーシャは思い切り彼女らの顔面を張り飛ばした。


「蜘蛛か。蜘蛛が来たのか」


 女は目を回しながらも、何度もうなずいた。


「来た。来たの。蜘蛛が、大きな、蜘蛛が」

「他に逃げてきた者は」


 女は首を何度も振った。その体が激しくふるえ始めた。

 女は自分の肩を抱きしめ、その場に縮こまった。

 虚ろな声でつぶやき始めた。


「分からない。何も、分からない。分からないうちに、皆、吹き飛んで」


 もう用はなかった。

 アーシャは身をひるがえして再び走り出そうとした。


 だがそこに、子を抱いた女がしがみついた。


「待って。待って。この子を」

「ネロスさんの家に行ってください。道中はもう安全です。私は行かないと」

「いや。待って。置いていかないで」


 アーシャはそれを蹴り飛ばした。そして走った。

 他の何にも、構う余裕はなかった。


 ナジル宅は静まり返っていた。

 表の火はほとんど消えかけて、月明かりだけが地面を青白く染めている。


 門前に四つの遺体があった。誰も何も動かない。


 蜘蛛は去ったのか。


 アーシャは恐る恐る遺体を確かめていった。

 無残な遺体だった。どれも背後から一撃で刈り取られている。

 逃げようとして殺されたのか。


 遺体はどれもサフィではなかった。


 アーシャは家の中に入った。


 居間だ。

 暗くて何も見えない。

 しかし血の匂いがした。今までかいだことのないほど濃い血の匂い。


「サフィ、いるのか。聞こえたら返事をしろ」


 しかし返事はない。


 アーシャは耳をすませた。静寂だった。

 彼女自身の荒い息づかいと鼓動だけが、耳にうるさかった。


 彼女は一度表に出て火を持ってきた。それを炉に移した。

 ここまで来たのとは打って変わって、のろのろした動きになった。


 薪を組み、炉の火を大きくする。

 居間が照らされていった。


「ああ……」


 惨憺たるありさまだった。

 血と肉と骨の残骸が一面に散らばって、その中を大きく欠損した遺体がごろごろ転がっている。

 この世のものとは思えない光景だった。


 アーシャは慎重に一つ一つ確かめていった。

 どれもサフィではなかった。


 寝室の扉の所にナジルがいた。

 ナジルは腰の辺りで二つに断ち切られた状態で、うつ伏せになっていた。

 下半身は見当らない。


 さすがに息が詰まった。

 つい先日まで元気に動いて話していた恩人が、今はものを言わないただの冷たい物体になって、自分の腕の中に収まっている。

 衝撃だった。

 同時に彼女は、生きている自分を強く意識した。


 ナジルは目を開き、宙をにらんでいた。

 アーシャはその目を閉じてやり、そっと遺体を横たえた。


 寝室に入った。壁に大きな穴が空いていた。

 部屋はズタズタに荒れていたが、そこに遺体はなかった。


 居間に戻った。

 続いて書斎に入った。暗い。


 アーシャは明かりを取ろうと居間に戻ろうとして、その場に固着した。

 息づかいが聞こえた気がした。


 蜘蛛がまだいるのか。


 冷汗が背中をぬらした。

 アーシャは全身を耳にした。目をこらして闇を透かし見た。

 確かに何かいる。それもすぐ近くに。


「サフィか」


 返事はない。


「違うのか。私だ。アーシャだ」


 動きはない。

 人ではないのか。蜘蛛なのか。


 後ずさり、書斎から出た。

 炉から火のついた薪を取り、もう一度書斎へ入る。ぐるりと見回した。


 部屋の隅、書棚の陰に誰かいた。

 女。

 ふるえている。生きているのだ。


 アーシャは駆け寄った。

 女は、頭を抱えてうつ伏せになっていた。

 アーシャは、彼女を抱え起こした。老女。スフェラという女だった。


「サフィは。どこにいますか!」


 スフェラは答えない。目が虚ろだった。瘧のようにふるえている。

 冷たい。ほとんど体温を感じられなかった。


「スフェラさん」


 しかしスフェラは遠くを見ている。

 アーシャはスフェラを放って、再び書斎を照らした。


 見て回る。いない。人も、蜘蛛も。


 居間に戻り、もう一度全ての遺体を確認した。

 違う。サフィではない。


 寝室。遺体はない。


 壁の大穴から外に出た。


 いた。サフィだ。


「サフィ!」


 アーシャは飛びついた。妹の白い頬に触れた。

 ぴくりと動いた。

 生きている!


 全身をなでさすった。怪我もなかった。

 うめき声と一緒に涙がにじんだ。父が死んだ時にも出さなかった涙だった。

 腰が抜けてくずれるような安堵だった。


「サフィ、もう大丈夫だ。お前は助かったんだ」


 妹の髪についた雪を払ってやった。


「行こう」


 抱きかかえた。冷たかった。

 このままでは風邪を引いてしまうだろう。温めてやらなくてはならない。

 アーシャは走った。


 他に、彼女がするべきことは何もなかった。

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