3-4
食事の後、皆でオハラ宅に上がった。
そこでミランの葬儀が行われた。
アリムは、伯父であるシーラが放った。
そしてナジルの指示通り、家に火が放たれた。
火はなかなか燃え広がらなかったが、燃料を増やしたり風を送ったりしているうちに、やがて大きく広がった。
一度広がると、あっという間だった。
橙色の温かい炎が、家ごとミランの体を包み込んだ。
燃えつきるころには、日は西の空深くにかかっていた。血のような空だ。
ダルムの言葉通り、今夜は星が見えそうだった。
日が落ちた。
村民たちは、戦える者と戦えない者に分かれた。
戦える者は穴にて獣を待ち、戦えない者はナジル宅とネロス宅にて吉報を待った。
穴には十三人が集まった。
もちろんカクリもアーシャもいる。
アーシャ以外は男であり、するどく研いだ槍と弓矢を持っていた。
ナジルはいない。熱が下がらず、無理に起こしても役に立たないと判断された。
丸い月が、東の空から上がっていった。
寒い。
体にのしかかってくるような重い寒さだった。
男たちは、穴の中で身を寄せ合ってすごした。
火はつけなかった。
穴の中では息が詰まるし、何よりも獣に気づかれるのを恐れたためだ。
カクリがそう判断した。
幸い月明りは十分で、視界は利いた。
男たちは寒さと緊張で、絶え間なくふるえていた。一人がふるえ始めて、瞬く間にそれが全員に伝播したのだった。
時間の進みが信じられないほど遅かった。
皆、もう何日も穴にこもっているような気がしていたが、月はまだ東の空にあった。
「獣は来ると思うか」
静寂に耐えきれず、一人の男が言った。
「来ます」
カクリは、穴の淵からじいっとムルガ宅を見ていた。
「来ない理由がない」
「だけど、本当にこっちに来るのか。上流のどちらかの家に来たら、戦える人間は誰も残ってないんだぞ」
「そうはなりません。万一そうなったとして、上の二家では今晩はずっと家の前でガンガンに火を焚いているはずです。獣も警戒して近づかないでしょう」
「そうかな」
「間違いありません」
自分でも信じきれていないことを、カクリは言い切った。
彼は、この時自分の顔が驚くほど父親そっくりになっていることに気づいていなかった。
「しかし、女子供だけ残すのは、やはりまずかったんじゃないか。いっそのこと、全員連れてここで待ち伏せした方が」
「寒さに耐えられない老人や病人はどうするんですか」
「それは」
「俺たちの役目はここに現れた獣を殺すことです。残してきた皆の心配をすることじゃありません。大丈夫。彼らもタララ村のグランダだ。信じて託しましょう。何でもかんでも、自分でやらなきゃいけないと、勝手に背負った気になるのは良くない。そのことは、俺自身、今回で身にしみました。皆がいなければ、こんな準備は絶対にできなかった。こうやって準備万端で獣を待っていられるのは、皆がいて俺がそれに頼ったからだ。今晩も頼らせてください。獣を倒して村を守るために」
男たちは顔を見合わせ、うなずいた。
不安はつきないが、ここで何かを言っても始まらないことは理解したのだった。
男たちは再び重い沈黙の時をすごした。
やがて月が中天にかかった。
何か異音がした気がして、カクリは息を止めた。
誰も何も言わない。
カクリは気のせいかと思った。
だが違った。
木立がゆれている。
月明りがあるとはいえ夜の山は黒く、シルエットが暗闇に浮かんでいるだけだったが、それが不気味に蠕動していた。
カクリは無言で背後の男たちに手を振った。
アーシャが真っ先に気づいて隣にやって来た。
その動きで他の男たちも気づいた。張りつめて切れそうな緊張感が穴に満ちた。
隣にやって来たアーシャに、カクリはゆれる木立を指し示した。
ゆれはだんだん近づいてきていた。
カクリはアーシャの顔色をうかがった。
彼女はじっと木立をにらんでいた。月明りのせいか青白い顔をしていた。
男たちが一斉にカクリの隣に並んだ。
八人が弓に矢をつがえ、近づいてくる木のゆれにねらいを定めた。
残りは痛いほどに槍をにぎりしめた。
近づいてくる。すごい速さだった。
巨大な何かが雪を踏みしめる音は、今や耳に痛いほどだった。
姿を現した。
男たちはうめき声を上げた。
それはやはり一匹の蜘蛛だった。
しかし、その巨大さのために別のものに見えた。
彼らが目にしたどんな生き物よりはるかに大きかった。ちょっとした小屋くらいの大きさがあった。
穴にいる男たちの目からでは全容がつかめなかった。
長い脚が、それぞれ別の生き物のように動いた。
細く頼りないはずの蜘蛛の肢が、意外なほどの力強さで雪を踏みしめた。
びっしり生えた剛毛が、雪に食い込んだ。
ぐいっと体が持ち上がった。
八本の肢が交わる頂点に、蜘蛛の胴体はあった。
それ自体は人間ほどの大きさだった。
肢と同様、全体に細い針のような体毛が生えている。
前方からのぞくのは、二列に並んだ八つの赤い光球だ。それぞれが好き勝手にぐりぐり動いている。眼だ。
そして赤眼の下には、脚の出来損ないのような短い触手が左右に一対、濃い体毛に覆われている。
その間から、光沢のある太い牙が見え隠れしていた。
見ているだけで、カクリは吐き気がした。
ちっぽけな虫けらをただ大きくするだけで、ここまでのグロテスクさが生まれるのか。
「巨大なだけじゃない」
アーシャが言った。
それは声にもならないほどの小さなささやき声だった。
実際にその声を拾ったのは、間近にいたカクリだけだった。
カクリも気づいた。
腹部。体毛の隙間から、何か光るものがのぞいていた。
月明かりを反射しているのか。
と、カクリはまず思った。それほどに淡い光だった。
しかしそうではなかった。
光は一定の間隔で明滅していた。
光源は体表面ではない。中身だ。腹の中に何か光るものがあるのだ。
「まるで鼓動だ」
と、カクリは言った。
アーシャが隣でうなずくのが感じられた。
「どうすればいい、カクリ」
恐れのにじむ声で、アーシャが言った。
どうする。カクリは心の中で反芻した。
あの蜘蛛が落とし穴に落ちるのかを、まずは考えた。
決まっていた。落ちるわけない。
カクリたちは獣の大きさを予想するのに、ムルガ宅の壁に開けられた穴を基準にして、せいぜい馬くらいの獣だと考えていた。
落とし穴もそれに対応する程度のものしか作っていない。
ならどうする?
正面から戦うのか。あんな化け物と?
考えている間に再び蜘蛛が動いた。
初動がつかめなかった。それほど急激な加速で、ムルガ宅に近づいて行った。
音はなかった。
無音でこれほど巨大なものが高速で動く様は、悪夢としか思えなかった。
蜘蛛がムルガ宅に肢をかけた。
そこで一瞬動きを止めた。
次に地面をたたいた。そこに穴はない。横に移動してたたいた。そこも違う。
とうとう寝室の壁に回った。
地面をたたいた。底が抜けた。穴は見破られていた。
蜘蛛は穴をのぞき込み、突き立った杭をいじった。
すぐに飽きて、肢を器用に折りたたんで壁の穴から家の中に入っていった。
「どうするんだ」
硬直していた男の一人が、初めて声を出した。
蜘蛛が視界から消えて、少しは冷静さを取り戻したのかもしれなかった。
だが、声には明らかな焦燥があった。
「突っ込もう、カクリ」
言ったのはアーシャだった。
「肢のせいで大きく見えたが、本体はそれほどでもなかった。場所を選べば、槍の一突きで倒せるはずだ。何人かで突っ込んで、頭に槍を突き刺す。矢の援護があれば、誰か一人はたどり着けるはずだ」
口数が多い。それにやけに早口だった。
こいつもおびえることがあるのかと、カクリはこんな時なのに妙におかしかった。
それで少し落ち着いた。
「よし。突っ込もう」
「おい、正気か」
男が聞き返した。
「そうするしかないだろう。あいつはムルガさんを殺した。村の人間を五人も殺した。ここで殺さなければ。逃がせばどんな被害が出るか。それに、勝算がないわけじゃない。アーシャが言ったことは的を射ています」
反論はなかった。
ガチガチという音がした。歯の鳴る音だ。
カクリは、皆を見た。
皆、血の気の失せた顔でふるえていた。アーシャもふるえていた。
自分もふるえているのかと、カクリは思った。手で探ってそれを止めようとした。
違った。
彼は血がにじむほど強く、歯を食いしばっていた。
「各々の役割を決める」
全てカクリが決め、指示した。
六人が槍を持って突っ込み、残りの七人が弓で援護するように決めた。
カクリは自分とアーシャを、槍を持つ六人に入れた。
反論は、誰からも出なかった。
「やつが家から出てきたところでかかるんだ」
続けてカクリは、それぞれの待ち伏せする位置を指示した。
それで、皆で穴から外に出た。
全員で腰を引きながら家に近づいていった。
恐怖しながらじりじり進んでいき、やがてムルガ宅が近づいてきた。
ここで散開を。
カクリは身振りで指示した。
しかし、皆は散らばろうとしなかった。
ここで身を寄せ合っていても何の意味もないことは、誰もが知っていた。
しかし今や、その無意味な温もりだけが彼らの拠り所なのだった。
彼らは、自分たちの立場が常とは全く違っていることを感じていた。
彼らは今、山を支配する者などではなく、巨大な肉食生物に捕食されるあわれな獲物にすぎなかった。
雪中での不毛な揉み合いが続いた。
幸い、蜘蛛はまだ出てこなかった。今のうちに動かなければならない。
初めに集団から離れたのはアーシャだった。
多大な労力を払って心を決め、一人でカクリに指示された持ち場に歩いて行った。
他の者も、順番に散っていった。
全員が配置についた。
全て壁の穴が見える位置だった。
しかし、ぽっかりと空いた穴は光を吸い込んでいるようで、中はまるで見通せなかった。
のっぺりした濃淡のない闇だ。
その中で何が行われているのか。
チキチキチキ……
という音を、カクリは聞いた気がした。
しかしあまりにかすかな音だったため、どこから流れてきたのか、そもそも本当に聞いたのかも分からなかった。
目が痛くなるほど、闇を見つめた。
寒さは忘れていた。
不意に、もぞりと闇が動いた。
気のせいではなかった。闇は巨大な像を結んだ。
蜘蛛だ。
出てきた。
蜘蛛は、すでに意味をなさない落とし穴をひとまたぎにした。
そこで動きを止めた。
見られている。カクリは気づいた。
十三人が全く同時に視線を感じていた。
無機質な、ただ獲物を見定めるための視線。すさまじい嫌悪感だった。
それを振り払うように、全員が叫び声を上げた。
四人が槍を構えて一斉に飛び出した。少し遅れて二人が飛び出した。
七人が弓を引き、ねらいを定めた。
蜘蛛は動かない。
そこにぱらぱらと矢が飛んだ。
七本の矢のうち三本は、蜘蛛の肢の間をすり抜けて雪に突き刺さった。
四本が、ねらいたがわず胴体に当たった。しかし、突き刺さることなくはじかれて地面に落ちた。無力だった。
蜘蛛は全く動かなかった。
そこに槍を持った四人が殺到した。
カクリとアーシャもいた。
蜘蛛が、前方二本の肢を広げた。予備動作がなく、しかもすさまじい速さだった。
カクリがまともに薙ぎ払われた。
避けようとか、そういうことを考える間もなかった。
気づいた時には体が宙を舞っていた。
空中で一瞬気を失った。墜落、衝撃。
目を覚ました。だが動けない。体がバラバラになったようだった。
叫び声が闇を切り裂いた。
最前の、己を鼓舞する雄叫びではない。人間の尊厳も、プライドも、何もかも投げ捨てるような、痛ましい、許しを請う叫びだった。
カクリは、横になった視界でそれを見た。
男が地面に押し倒され、蜘蛛にのしかかられていた。
蜘蛛は吟味するように、ゆっくりと男に口を近づけていく。
悲鳴がさらに大きくなる。
牙が刺さった。食いちぎられた。
叫び声が止んだ。
矢が再び蜘蛛に飛んだ。
七本のうち六本が、見当違いの方向に飛んだ。
一本が蜘蛛の胴体に当たったが、やはり何の意味もなさなかった。
蜘蛛は七人の射手を同時に見た。
その瞬間には、矢を当てた一人の目前にいた。
跳躍したのだ。
しかし人の目には映らなかった。時間が切り取られたようだった。
射手は枯草でも踏みつけるように、頭からたたきつぶされた。
それで、男たちの戦意は完全に萎えた。
初めから勝機などなかった。人の手の及ばない相手だったのだと悟ったのである。
起き上がれない者が三人。
呆然と真っ白になって膝をついた者が三人。
残りの五人は武器を捨てて逃げた。
蜘蛛は逃げた五人を追った。五人とも殺された。
動く者はいなくなった。
蜘蛛は少しの間その場でじっとしていたが、やがて去っていった。
十三人のうち、七人が無為に死んだ。
敵は、その全てに興味を示さなかった。
それだけの結果だった。