3-3
その夜のナジル宅は、特別暗い空気に包まれた。
ナジルの家では今、二十四人が寝起きしている。
ナジル親子とアーシャとサフィが寝室で寝食し、それ以外の人間が、居間と書斎に分かれて生活していた。
男女入り混じってプライベートもない空間での生活だったが、それを不満に思うほど余裕のある人間はいなかった。
カクリが日暮れ前に戻って来た。疲れ切った顔をしていた。
彼は日に日にやつれていくようだった。
居間にひしめく村民たちには構わず、一直線に寝室に向かった。
寝室では、アーシャが一人で槍の調子を確かめていた。
「今夜も雪だ」
カクリはぼそりと言った。
アーシャは槍を置き、カクリに目をやった。
「疲れた顔をしているな」
カクリは答えず、腰に下げている剣鉈を床に投げ出した。
剣鉈が、床に置き放してあった食器にぶつかって大きな音を立てた。
カクリは舌打ちした。
「ミランも死んだってな」
「ああ」
「まだ三歳だった」
「ああ」
「誰よりも、殺してはならないやつだった」
「ああ」
カクリは苛立ちの目で、アーシャを見た。
「冷静だな、お前は。どうしてそんなに冷静でいられるんだ?」
「分からない」
カクリはふるえる手を握りしめ、足もとの食器を蹴り飛ばした。
木の食器は壁に当って転がった。ざわついていた居間がしんと静まった。
ナジルが寝室に入って来た。
「帰ったか。この三日よくやってくれたな」
「よくやった? 何を」
「お前にできることだ」
「何もしてない。俺は二人に何もできなかった。俺がやったことは、ムルガさんやミランには何にもならないことばかりだ」
「落ち着け」
「落ち着いていますよ。俺は落ち着いています」
落ち着けるわけがなかった。
兄弟のいないカクリにとって、ムルガは年の離れた兄のような存在だった。
ミランのことは弟のようにかわいがっていた。
その二人を、同じ日になくしたのだ。
彼は、二人に何もできなかった。
村民の指揮にかまけている間に、全ては彼の手の届かないところで終わってしまっていたのだった。
胸の中に、重い泥がわだかまっているようだった。滅茶苦茶にわめきたてて、全て吐き出してしまいたかった。
しかし、危うくそれをこらえた。
本当に苦しい時ほど、何も口に出さずにいるべきだった。
ナジルもアーシャも何も言ってない。苦しいのは同じはずなのに。
ふるえと一緒に、全ての泣き言を押さえつけた。
「つまらないことを言いました……」
「食べて休め」
「アーシャも。悪かった」
「いい」
サフィが食事を持って現れた。
扉の所で、話が落ち着くのを待っていたのだった。
四人は無言で食事をして、すぐに床に就いた。
カクリはなかなか眠れなかった。気が立っていた。
隣から寝息が聞こえてきても、彼は暗闇をにらみつけていた。
「お姉ちゃん、起きてる?」
不意に聞こえてきたのは、サフィのささやきだった。
外で吹雪き始めた風の音にまぎれていたが、カクリの意識は正確に音を拾った。彼は息をひそめた。
「どうした?」
「今日は我がまま言ってごめん」
「いや、いい」
「どうしても、お別れを言いたくて」
「ミランも喜んださ」
「違うの。私はただ、自分がそうしたかっただけだから」
「それがうれしいはずだ。死んだ人間には」
「うん……」
「お前はできる限りのことをした」
アーシャの声は、カクリが聞いたことがない優しさだった。
「でも、ミラン君は死んじゃったもの」
「人は死ぬ」
「そんなこと。だけど」
「サフィ、今はあまり思い悩むな。このことが終わってから考えればいい」
「でも」
「言うな。もう言うな」
「うん」
それからしばらく沈黙が続いた。
アーシャの忠告通り、次にサフィが言ったことは、全く違うことだった。
「お姉ちゃん、昔、私が五歳くらいの時、熱を出してスノーベリーが食べたいって言ったことを覚えてる?」
「ああ」
「実はね、それを言ったこと、私は覚えてないの」
「そうなのか」
「うん。熱で苦しくて、頭がぼうっとしてて、うわ言で何か言った気もするんだけど、それが何なのかは全然分からなくて。ただ、ふと目を覚ましたら、お姉ちゃんがいなくて、あの時は心細かったな。私が寝込んだら、いつも隣にはお姉ちゃんがいるものだったから。一人きりになるの、あの時が初めてだったから」
「……」
「お姉ちゃんはスノーベリーを取りに行ってくれてたんだよね。でもその時の私は、見捨てられたんだって思って、腹が立って悲しくなって、家の中のものを投げ散らかして、泣いてるうちにまた寝ちゃってて。次に目を覚ましたら籠いっぱいのスノーベリーがあって、隣には泥だらけのお姉ちゃんがいて。あの時の私、私が苦しい思いをしてるのに、お姉ちゃんは外に遊びに行ってたんだって思い込んで、すごく怒ったよね」
「そうだったな」
「ごめんね」
「いい」
「スノーベリー、ありがとう。美味しかったよ」
「そうか。よかった」
姉妹の話は一度そこで再び途切れた。
サフィのくぐもった嗚咽が、聞こえてきた。
アーシャが動く気配がした。泣いている妹を抱きしめたのだった。
「お姉ちゃん、死なないで」
「ああ」
「お願い。お願いだから死なないで。もう我がまま言わない。ずっと一緒にいたいなんて言わない。生きてさえいてくれればいいから。だから、死なないで」
「死なない。私は死なない。私もカクリも、村の誰もこれ以上は誰も死なない。何も心配しなくていい」
しばらく、サフィの鼻をすする音が続いた。
やがてそれは寝息へと変わった。
「死なないさ。絶対に。誰も」
と、アーシャが言った。それで彼女も眠りについた。
カクリは全てを聞いていた。
胸の内から熱いものがこみ上げて、何だか叫び出したいような気分だった。
翌日、ナジルは朝から高熱を出した。
無理もなかった。
ほんの一時でも耐えがたい腐臭の中に、丸三日も身を置いていたのだ。
ほとんど昏睡のような状態でベッドから身を起こすこともできなかった。
村の指揮はカクリが取ることになった。
この冬一番の晴天だった。
夜の間に降り積もった雪が、日の光を反射して輝いていた。
村の男たちはムルガ宅に集まった。
馬の配置を変えたからには、それに応じた場所に新たに落とし穴を掘らなければならない。その作業の最中だった。
作業の途中、男の一人が獣の開けた大穴から家の中に入った。
囮の馬はそこから屋内に引き入れたのである。
男はすぐ出てきて、カクリに耳打ちした。
「馬、死んじまったみたいだ」
カクリは驚かなかった。予想していた。
男は不安そうに続けた。
「死体でもおびき寄せられると思うか」
「それは大丈夫ですよ」
カクリは断言した。
馬やミランを溶かして殺したのは獣の仕業に違いなかった。ならば獲物が死ぬというのも、獣は折り込みずみだろう。
むしろ、獣は獲物が死ぬのを待っているのではないかという気がしていた。
昼前には穴を完成させた。
天気はくずれる気配を見せず、男たちは周辺の雪を踏み固める作業に移った。
アーシャが男たちの食事を持ってやって来た。芋の粉をこねて焼いて作ったパンと干肉のかたまりを配り、最後にカクリの方にやって来た。
「今夜は晴れそうだと、ダルムさんが」
と、彼女は小さく言った。
ダルムとは村の女である。変わった女で妙に鼻が利き、その日の天気を読むのを得意としていた。そしてそれは、めったに間違えることがなかった。
カクリはうなずいた。黙っている。
昨夜の盗み聞きのことを思い出して、彼女の顔を直視しにくかった。
「行くか」
と、アーシャは言った。『狼の爪痕』に偵察にということである。
「いや、今日はミランを送りたい」
「そうか。そうだな」
アーシャはカクリのそばに腰を下ろし、肉をかじり始めた。
「勝てると思うか」
カクリは言った。
それは、他の村民たちには聞かせられない、弱気な本音だった。
カクリが期待した通り、アーシャは動揺を見せなかった。
「勝つさ」
「どんな獣だと思う」
「巨大な蜘蛛だ」
「だが、人や馬をねらうような蜘蛛なんているか?」
「聞いたことはない」
「なら、なんでそう言い切れるんだ」
「勘だ」
身も蓋もない答えだった。
カクリは脱力し、かすかに笑みをこぼした。
「お前らしいな」
「考えるのは、私じゃなくお前の仕事だろう」
お前はどう思っているんだ?
アーシャは視線で問うた。
「秋の狩りで一頭目に仕留めた赤熊がいただろう? 病気持ちでどうしようもないから埋めておいたって言ったやつ」
「ああ」
「じっくり見たわけじゃないから確かじゃないが、多分同じだ」
アーシャはかすかに眉根を寄せた。
「皮膚だよ。溶けて腐っていたんだ」
「何だと?」
「つまり、あの時すでに、獣は山にいたんだ。冬になって雪が降って山に獲物がいなくなったから、村までやって来たんだ」
「そういうことか」
「一体いつから獣はいた? 一年前の冬には何も起きなかった。タララ村だけじゃない。この付近で正体不明の獣の噂なんて全く聞かなかった。つまり、一年前の時点では、獣はまだいなかったんだ」
「そうかもな」
「今年になって、どこからかミスラ山にやって来たのか。いや、馬を襲う巨大な獣が、移動してきて、痕跡が何も発見されてないのはおかしい」
「……」
「もともと山にいた取るに足らない獣が、今年に入って突然、人や馬を襲う化け物に変貌したという考えはどうだ。これなら、獣の正体は『もともと蜘蛛だった何か』ということになって、色んなことに辻褄が合う」
「何がどうなれば、ただの蜘蛛が化け物に変化する?」
「見当もつかない」
カクリはため息をついた。
「結局答えは出ないんだ。考えるには情報がなさすぎる。だからこんなのは、何の意味もない考察だ。なのにそういう無意味なことを、このところずっと考えてしまう。ぐるぐる。自分が嫌になるよ」
「お前は頭がいいからな」
カクリは顔をしかめた。
「やめろ、馬鹿。なぐさめているつもりか」
「べつに。ただ、今のようなことは私には思いつかないからな。お前のそういうところは、頼りにしてるんだ」
彼女らしからぬ優しさに、かえってカクリは気味が悪くなった。
「おい、お前、急にどうした。気でも狂ったのか?」
アーシャはそれには答えなかった。
ちらっとも視線をよこさず完全に無視した。
表情はいつもの不機嫌顔だった。
カクリはほっとした。
「俺も、お前のことは頼りにしているよ」
やはりアーシャは反応しなかった。黙って固い肉を咀嚼している。
カクリはすっかり安心して、肉を頬張った。
この素っ気なさと容赦のなさこそが、カクリにとってのアーシャなのだった。
だが実際には少し違う。
アーシャはただ無口なだけで、べつに心まで木石のような女というわけではない。
この時、実は彼女は照れていた。
カクリの言う通り、自分らしくもなく余計なことを言ってしまったと考え、自省していたのだった。
なぜだ?
久しぶりにサフィを抱いて寝て、気がゆるんでいるのかもしれない。
落ち着かなければならない。
冷静さを取り戻すため、アーシャは妹の寝姿と匂いを頭の中に思い浮かべた。
落ち着いた。
彼女の中身は、ただの筋金入りのシスコンだった。
そこに少しの天然がふくまれている。