3-2
ナジルの予感は正しかった。
日ごと、腐食は進んでいった。
体の大きさゆえか、馬の変化はゆるやかだったが、ミランは急激だった。
翌日には服で覆われていない部分まで爛れ、溶け始めた。
そうなる前に、ナジルは女たちをオハラ宅から追い出した。
この先、ミランが馬と同じ道をたどるなら、そのありさまを女たちが見れば大混乱になると予想したのだった。
ミランの変化は、ナジルの予想をはるかに超えて凄惨なものになった。
彼は、それから二日生きて、三日目の未明に死んだ。
意識が戻らなかったのは、かえって幸いだった。ミランの遺体は、人としての形を留めていなかった。
ナジルは、自分とムルガ以外の人間には決してミランの姿を見せなかった。
カクリの他にはオハラ宅に入ることすら禁じた。
しかし、ムルガは息子の変貌に耐えきれず、二日目にオハラ宅を飛び出した。獣を呪うわめき声を上げながら山に入っていき、戻らなかった。
だからミランの最期は、ナジルが一人で看取った。
皮膚はなく、肉も液状になっていたので肋を取るのは簡単だった。
肉の惨状に対して、骨格は綺麗に形を保っている。
それを厳重に厚い布でくるんでいった。
その場で聖樹の枝をけずってアリムを作っていった。
アリムを遺体に添えて、ナジルはしばらくぶりに外へ出た。
外は明るく、ナジルは一瞬眩暈がした。
無理もなかった。ミランの異常に気づいた日から数えて三日、最初の犠牲が出た日から数えると八日目の昼になっていた。
アーシャとサフィ、それに女たちが数人そこで火を囲んで待っていた。
ナジルを見て、皆がはっとして立ち上がった。
「ミラン君は」
ふるえ声でサフィがナジルに聞いた。
「死んだ」
ナジルは短く答えた。
分かっていたことだった。
しかし、悲しみはおさえられなかった。
サフィは何も言わず、唇をかんでうつむいた。雪にいくつも涙が落ちた。
女たちのすすり泣く声が続いた。
ミランは村で最も幼い子供だった。それが失われたという事実が、彼女たちの胸を締め付けたのだった。
「あの子、中にいるんですよね。一人で」
サフィが家に入ろうとした。
それをナジルは止めた。
「入ってはいけない。誰も、入るな」
抗議の目でサフィはナジルをにらんだ。
彼女が村の誰かにそんな目を向けるのは、初めてのことだった。
「ですが弔わないと」
アーシャが妹の代わりに言った。
彼女は泣いていなかった。険しい顔をしているが、それは普段と同じで、全く動揺していないようにも見えた。
「アリムはすでに私が作った。遺体は明日家ごと燃やすことにする」
「そんな。せめて」
サフィが言いかけたが、それは彼女の姉が止めた。
「それが必要なことなんですか?」
「そうだ」
ナジルの返答は断定的だった。
それで女たちは諦めた。
だが、ただ一人サフィだけは聞き分けなかった。
幼児のように駄々をこねた。
彼女は、ミランに異常が確認されるまでずっと彼の看病をしていたのだ。ミランを、病弱だった幼い頃の自分と重ねて、そして自分はその姉になった気持ちでいた。
熱が下がってきた時は、本当にうれしかった。
ミランを救ったのではなく、自分が救われたような気持ちだった。
しかしそれはただの幻想だった。
状況はめまぐるしく移り変わって、サフィが何もできないでいるままに、ミランは死んだのだった。
熱に浮かされたミランの幼い寝顔を思った。
悔しかった。
わずか三歳で死んだ彼が、かわいそうでたまらなかった。
自分の無力さが、腹立たしかった。
「必要か不必要かなんて、私には分かりません。だけど、せめて最後のお別れくらいはしたいんです。お願いします。どうか」
サフィはナジルに頭を下げた。必死だった。
ナジルは迷ったが、結局それを許した。
しかし遺体に巻いてある布を取ることだけは許可しなかった。
サフィとアーシャが家に入り、女たちが続いた。
そして皆が、家の中にこもっている腐臭に立ちすくんだ。
家の外にも匂いはもれてきていたが、中は全く違った。物理的な圧迫感さえ感じられる、目を開けていられないほどの臭気だった。
女たちはその場を動けなかった。
サフィが一人、恐る恐る寝室に向かった。
その後をアーシャが追った。
寝室はさらにひどい匂いだった。肌が粘つくような空気だった。
薄暗闇の中、ベッドの上に強く縛られた赤黒い布のかたまりが転がっていた。
それがミランだった。
サフィは動けなかった。
変わり果てたその姿に胸を突かれたのだった。
「サフィ、もう出た方がいい」
アーシャが言った。
これ以上この場所にいれば、それだけで病気になりそうだった。
彼女は妹のことが心配だった。
サフィは首を振った。
姉の気持ちは分かっていたが、もう少しここにいたかった。
ベッドに近づいてゆき、恐る恐る布に手を置いた。それは冷たかった。
「ごめんね」
落ちた涙のしずくが、赤い布にしみ込んで消えた。
「忘れないからね。あなたのこと……」
家を出た皆の体には、耐えがたい腐臭がまとわりついていた。すぐにこの場を離れなければ本当に病気になってしまいそうだった。
雪のちらつく中、重い足取りで歩いていく。
道中、ナジルはこの三日のことについて、アーシャから報告を受けた。
オハラ家にこもっている間、カクリが逐一報告に来てくれていたことは覚えていたが、それはナジルの耳を素通りして何も残ってなかった。
刻一刻と人としての形を失っていくミランを目の前に置いて、冷静に話を聞いて飲み込むことは、ナジルにも不可能だったのだ。
「囮とする長毛馬をムルガさんの家まで運びました。歩こうとしなかったので、ソリを作って五人がかりで。体はひどいありさまですが、まだ生きています」
「馬を見た皆の様子は」
「いえ、カクリが馬を皆の目から遠ざけるようにと言って。だから、獣が開けた穴から家の中に運び込みました。馬を見たのはあいつが選んだ五人だけです。動揺は広がってますが、戦えないほどではありません」
ナジルはほっとした。
懸念が一つ晴れた。カクリの手柄だった。
カクリはもともと頭のいい男だったが、その代わりどこか悟ったところがあって、良く言えば要領がよく、悪く言えば小賢しく、村民を先導して責任をかぶるようなことは、できるだけ忌避するきらいがあった。
だが獣が現れてからというもの、彼は人が変わったように、生来の知性をいかんなく発揮して、存分に村民たちを率いて立ち回っていた。
そのことに、ナジルも村の人間も実はかなり助けられていた。
「囮の馬を、馬屋ではなく家に配置することになったので、今は皆で集まって作戦の練り直しをしているところです」
「ムルガの捜索はどうなった」
一番気にかかっていたことを、ナジルは聞いた。
アーシャは一瞬口ごもった。彼女にしてはめずらしいことだった。
それで、彼女の次の言葉をナジルは察してしまった。
「今朝、山でムルガさんの遺体を見つけました。獣に襲われたのではなく、岩場を滑落して亡くなったようでした」
ナジルはしばし瞑目した。
これでムルガ一家は本当に皆殺しにされてしまったのだ。
一人ででたらめに冬のミスラ山に入っていって、数日戻らなかったのである。
ムルガが生きていないことは分かっていたが、それでもわずかな望みはかけていた。
それが絶たれたのだった。無念だった。
「遺体はどうした」
「『狼の爪痕』を下りようとして滑落したらしく、崖の途中の岩場に。引き上げるのは難しいかと思います。少なくとも冬が終わるまでは」
「獣の通り道だったな」
「はい。おそらく単身で獣を討とうと崖を下りて、滑落したのかと」
「それは、間違いなくムルガだったのか」
アーシャはうなずいた。
「そうか。……」
春になれば、村総出でムルガの体を引き上げて弔ってやらなければならない。
雪に埋もれて死んだ人間は、春になると、雪と一緒にぐずぐずに溶けてひどいありさまになる。
大変な作業になるだろう。
しかしそれも、村が無事に春を迎えられればの話だ。