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3-1

 四日、何もない夜が続いた。


 ナジルが予想した通り、星のない夜に獣が姿を見せることはなかった。

 村民たちはナジルへの信頼を深めた。彼の指示に従えば、雪がやんだ夜には必ず獣を仕留められるものだと信じた。


 村民は獣を迎え撃つ準備を進めていた。準備はカクリの主導で行われた。


「罠を張って待ち構える」


 と、カクリは決めた。


 村民たちは首を傾げ、顔を見合わせた。

 言葉の意味が分からなかったのである。

 彼らグランダは、狩猟を生業の一つとしていたが、それは大人数で追跡して、取り囲んで仕留めるものであり、罠を張って獣を待つ文化を、彼らは持たなかった。


 知らないものを全くの無から発想できる者は少ない。

 村民たちにそれはできず、カクリにはできた。

 もっとも、カクリもそれを、狩猟の一環として発想したわけではなかった。なるべく被害を出さないで獣を倒す方法を模索した結果、たまたま思い至ったのにすぎなかった。


 これまでに経験したことのない手段を講じるのに、初め村民は難色を示した。

 しかし、カクリは彼らの思い違いを正した。


「これはいつも俺たちがやっている猟ではありません。山に入ってそこにいる獣を狩るのではなく、村にやって来る獣を迎え撃つんです。状況が違う。戦う相手も違う。同じことをやっていても、勝てはしないでしょう」


 若輩が偉そうに言いすぎたかと思ったが、村の男たちは思いのほか素直にカクリの言葉を受け入れ、従った。


 彼らは、ムルガ宅の馬屋の周りに穴を掘り、底に先を尖らせた棒を突き立てた。

 容易に抜けないように、棒には返しが作られた。

 そして薄い板でふたをし、雪をならして偽装する。落とし穴である。


 その穴を眺望できるところに、より大きな穴を掘った。こちらの穴は、すぐに出入りできるよう側面をゆるやかにし、さらに簡単な屋根も作られた。

 星の見える夜、ここで村の男たちが夜通し獣を待ち伏せするのだ。


 また、葬儀も行われた。二日目の朝だった。


 三人の遺体が外に出された。

 遺体は修復されている。ほとんど傷みもなかった。ミスラ山の厳しい寒さは、命つきたグランダを優しく守護してくれる。


 アリムを放ったのはムルガだった。


 三本の矢が一直線に昇り、空でわずかな光を放って消えた。はるか南東の空に存在するオグドル神の領界に旅立ったのである。


 遺体に火がつけられた。

 魂の抜けた肉体はたやすく灰になった。

 一つかみの灰が聖樹の根に埋められた。そこが村の共同墓所である。


 どんな死に方をしようと、グランダの魂はアリムに乗ってオグドル神のもとへ還り、肉体は灰となって大地へ還る。

 遺された者たちには、それが救いだ。


 ムルガは正気を取り戻していた。家族の魂と肉体をあるべき場所に還した後は、獣への復讐のみを胸に抱いて一心に穴を掘った。

 雪の中、村民たちは総出で凍り付いた地面を砕き、掘った。


 四日かけて、二つの穴が完成した。


 その夜も、空は晴れず獣も現れなかった。もうずっと、まるで獣など初めから存在しないかのように静かだった。


 しかし村の人間が気づかないところで、異変はゆっくりと進行していた。

 それは長毛馬だった。ムルガ宅で飼育していた馬だ。


 馬は、ずっと具合が悪そうにしていた。

 発熱して目を充血させていた。食べる藁も常よりも明らかに少なかった。

 しかしそれを気にかける者はいなかった。獣に何日もつけねらわれていた疲れが出ているのだと思われていた。


 そのまま五日目の朝になった。


 ナジル宅の馬屋にて、ナジルとムルガが馬の手綱を引いた。獣への囮とするため、罠を張り終えたムルガ宅に移動させるのである。


 しかし、馬は熱い息を吐いて、その場を動こうとしなかった。


「おい、どうした」


 ムルガが声をかけても馬は動かない。歩くのを面倒がって足を踏ん張るのではなく、その場を動けないでいる感じだった。


「ナジルさん、ちょっと」


 ナジルに手綱を渡し、ムルガは馬の横に回った。

 そこで彼は気づいた。馬の腰から尻にかけて、広い範囲で毛が抜け落ち、爛れたような真っ赤な湿疹があった。


「何だこれ」


 ムルガは何の気なしに、指で湿疹に触れた。

 瞬間、馬が悲痛な声を上げた。湿疹がつぶれ、赤黒く濁った液体が飛び散った。鼻の曲がりそうな腐臭がただよった。


「うおわっ、何だ!」


 腐汁は大半が馬屋の壁に飛び散ったが、一部ムルガの手のひらにも付いた。そこからピリピリした刺激が伝わった。


「ちくしょう。何なんだよこれは」

「どうした」


 異常を察したナジルが、どうにか馬を落ち着かせた後、回り込んできた。

 ぎくりと立ち止まる。肉の腐った匂いをかいだのだ。


「何があった」

「分かりません。こいつの尻に変なあざみたいな物ができてて、そいつに触ったらわけの分からない汁が飛び出してきたんです」


 ナジルはムルガの言うあざに顔を近づけた。腐汁の匂いが強く鼻を突いた。

 ナジルの接近を察知した馬がびくりとおびえた。


「ムルガ」

「分かりました」


 ムルガは前に回って馬をなだめた。

 手綱を引いて無理やりに馬屋から出した。


 明るいところで改めて、ナジルはあざを見た。

 皮膚病のようだった。腰の辺りから後ろ足まで、じくじくと爛れている。

 ただの皮膚病ではなかった。腐汁の飛び出したところは大きな穴が空いて、肉が露出している。皮膚だけではない。中の肉まで爛れて腐っていた。


「ムルガ、いつからこうなっていたか、分かるか」


 ムルガは困惑し首を振った。


「すいません」

「いや。私も気づかなかった」


 ムルガが、ナジルの隣に並んでしゃがんだ。

 爛れた腐肉を気味悪げにながめた。


「これ、何なんですか」

「分からん」

「こいつ、どうなっちまうんでしょう」


 ナジルは答えられなかった。

 はっきりしたことは分からなかったが、何となく口にするのもはばかれる未来が、この馬を待っているような気がしたのだった。

 それはムルガにも伝わって二人の間に嫌な沈黙がただよった。


 ふと、ナジルは思い当たった。

 獣に遭遇して生きているのはこの馬だけではない。もう一人いる。


「ムルガ。ミランは今どうしている」

「いや、まだ眠ったままで」


 ムルガの息子は、家族が惨殺された夜以来ずっと高熱でうなされていた。丸三日、触れられないほどの高熱が続いたが、村の女たちの必死の看病もあって、ようやく峠を越えて熱は下がり始めていた。

 しかしいまだに目を覚まさず、オハラ宅にて寝込んでいる。


「ミランがどうしたんです」


 言ってから、ムルガも同じことに思い当ったようだった。


「もしかしてミランも」


 不安で息を荒くしながら、ムルガは聞いた。

 家族を全て失った彼にとって、息子は唯一残された生きる希望だった。


 ナジルは答えない。黙って馬を馬屋に戻し、オハラ宅に向かった。


 ムルガも重ねては聞かなかった。無言でナジルを追い越して、下流へ駆けていった。不安がどんどんふくらんで足がもつれた。



 オハラ家はナジル家の一つ下流にある家だ。

 現在そこには、村の女や子供を中心に十七人が避難している。


 彼女らは、村民たちの夕飯の用意をしていた。家の中の炉では間に合わないため、表に簡単なかまどを組み上げて作っていた。


 そこに、ムルガが走り込んでいった。


「ミランは!」


 飯を炊いていた女たちは、顔を見合わせた。うち、一人が言った。


「どうしたの。ナジルさんと、馬を連れに行くんじゃなかったの?」


 ムルガは構わなかった。走ってきた勢いのまま、家の中に飛び込んだ。

 居間にいた女たちは、何だ何だとムルガを見た。

 ムルガはその全てを放って寝室に入った。


 ミランがいた。


 あとは女が三人。

 うち一人はサフィだった。彼女はミランの額にぬれた布を当て、汗をふいてやっていた。


 ムルガには息子以外は何も見えなかった。


「ミラン!」

「安心しな、あんたの息子は無事だよ。まだ目を覚ましてないけどね。けど熱はもうほとんど下がってるんだ。明日か明後日には目を覚ますさ」


 年長の一人が優しく言い聞かせた。


 尋常でないムルガの剣幕にも、女たちはあわてなかった。

 あの日以来、ムルガがこうして発狂することは、めずらしくなかった。そのたびに村民は彼をはげまし、元気づけた。

 時には理不尽に殴られることもあったが、誰も彼を責めなかった。

 突然、獣に家族を奪われたムルガを、誰もがあわれみ、悲しんでいたのである。


 しかし、今はそうではないのだ。

 ムルガはサフィを押しのけて、そこに座った。ふるえる手でミランの服を剥いだ。


 真っ白い胸に、ぽつぽつと赤い湿疹があった。


「汗疹かね」


 と、女が言った。

 それはムルガの耳には入らなかった。


「やめてくれ。頼む、やめて」


 弱々しくつぶやいた。

 ムルガは湿疹に触れようとした。できなかった。

 身を裂かれたような馬の悲鳴が耳に残っていた。


 ナジルがやって来た。


 ムルガだけでなくナジルも姿を見せたことで、ようやく女たちは、何か良くないことが起きたのだと知った。動揺し、顔を見合わせた。


「ムルガ」


 ナジルはムルガの隣に座った。彼は凝然とミランの湿疹を見つめた。


「ナジルさん。違うよな。これは、違う」


 ムルガの声は祈るようだった。


 ナジルはためらいを殺して、ミランの胸に顔を近づけ、匂いをかいだ。

 かすかな腐臭。

 目のくらむような絶望だった。


「どうなんですか。違うんですか」


 ナジルは無言で、ミランのはだけた服をそっと直した。


 ミランは何も知らず、昏々と眠っている。

 熱が下がってきたというのは本当のようで、数日前と比べると安らかな寝顔だった。

 それが一層あわれだった。


「ナジルさん!」


 ムルガはナジルの胸もとにむしゃぶりついた。

 ナジルは目を伏せた。


「諦めるな。この先どうなるかはまだ分からないんだ」


 ひいっ、とムルガの喉が音を立てた。


「嘘だ! そんなの嘘だ」

「落ち着け。ムルガ」

「死んじまうんだ。ミランは死んじまうんだ!」


 女たちは状況をつかめず、おろおろして視線でナジルに助けを求めた。


 しかし、ナジルは固まって動かない。

 実はこの時、彼の頭の中に浮かびかかっていたものがあった。

 獣の正体。

 獲物を溶かし腐らせる生き物。妙な既視感があった。


 しかしそれは、はっきりとした像を結ぶ前に思考の渦に消えた。

 もう思い出せなかった。


 ナジルは頭を振った。思考を重ねる余裕はなかった。

 ミランのこと、そしてそれが村の人間に及ぼす影響について考えなければならない。

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