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『悪神の心臓』と呼ばれるものがある。
古代、手にしたものに万の力を与え、地上に無数の悪しき神を生み出したとされる伝説の宝玉である。
目的はそれだった。
寒い。
紅令師は凍える白い息を吐いた。
信じられない寒さだった。
暦の上ではまだ冬は遠いはずなのに、すでに身にしみる冷気だった。
それほど北にやって来たのだ。
南方育ちの彼には未体験の寒さだった。
旅の途中だった。追跡の旅だ。
現代によみがえった古代神話の破片。それを持ち去った女を追う旅だった。
平和なこの時代に、時の流れの果てからまぎれ込んだ、混乱の種をまくわけにはいかない。という義侠心で追っているわけではない。
彼は利己的で享楽的な人間だった。
ただ、己の欲望のために、追っているだけだ。
女の居場所は常に把握していた。
彼にはそれだけの力があった。
初めから、追いつめるだけの旅だった。それでも一年以上かかった。
だが、もうすぐだ。
細い街道を歩いて行き、やがて山に入っていった。
さらに気温が下がった。
道とも言えないような、細く険しい道が続く。
深い山だ。すぐそこに無数の獣の気配が感じられる。
紅令師は辺りを見回した。何もない。ただ、黄色く染まった針葉樹の連なりがあるだけだ。だが確かに獣はいる。豊かな山だった。
山歩きには慣れていなかった。泳ぐようにして、どうにか前に進んだ。
自分がどこを歩いているのかも、すぐに分からなくなった。厚く重なった山の葉にさえぎられ、日の光もほとんど届かない山の中である。
それでも、目的の女がどこにいるのかだけは逃すことはない。迷いを見せず一直線に進んでいった。
渓流の瀬音が聞こえてきた。近づいていった。
一気に視界が開ける。明るい。
ほっと息をついた。
激しい清流。川幅はそれほどでもないが、水量はかなりありそうだった。流れは強く、離れていても水しぶきがかかった。
紅令師は休むことなく、川沿いを登っていった。
簡単な道ではなかった。大きな岩をいくつも上り下り、迂回した。
不意に、岩肌に小さな穴を発見した。腹ばいになればどうにか潜り込める程度の穴。
それが旅の終点だった。
女はその中にいるようだった。
穴に近づいていくと、異臭が彼の鼻を突いた。穴の中から腐臭がわいていた。
紅令師は顔をしかめた。
その場で火を熾し、穴に入れた。のぞき込む。火は燃え続けている。呼吸ができる空気は通っているようだった。
腰から剣を外して、紅令師は穴に潜り込んでいった。
臭気がむうっと押し寄せて、彼を包み込んだ。
暗い。
闇のせいで余計に敏感になった嗅覚が、耐えがたい不快感を伝えた。
入り口の他に、奥にもう一つ小さな穴が開いているらしい。
高い音を鳴らして風が通っている。
それでも払いきれない臭気がこもっている。
闇の中で、火を大きくした。ぼんやりと中が照らされていった。
入口の狭さに反して、立ち上がって歩き回れるだけの空間の広がりがあった。
そこに、死体が浮かび上がった。
無残な死体だった。
皮と肉は全て溶けて残っていない。骨と、その周りに散らばる毛髪だけになっていた。なぜか眼球がそのままの形を持って残っていた。
それが、追い続けていた女の最期の姿だった。
紅令師は眉をひそめた。面倒な予感がした。
死体の周りを探し回った。しかしやはり目的の破片は見つからなかった。
何者かがこの女を殺して持ち去ったのか。それとも女が死ぬ前にどこかに隠したのか。
しかし……。
紅令師は改めて死体を見つめた。
彼女の居所は、常に把握していたのだ。女が山に足を踏み入れたのは、ほんの十日ほど前のことだ。死んだのはその後だ。
この寒さ。普通なら十日やそこらで、ここまで死体が腐敗するはずがない。
しかし現実に死体は腐敗しきっている。
なぜだ。何か普通ではない死に方をしたのか。それはどんな死に方だ?
分からない。
紅令師は死体を念入りに調べた。
だがそこには何の情報も残されていなかった。
手がかりは消えた。探し物を見つけるには、山を総ざらいするしかなさそうだった。
長期戦になるのは間違いなかった。
山の麓に小さな村があったのを彼は思い出した。
そこを拠点にするべきだろうと思った。
紅令師は穴をはい出た。来た道を戻り始めた。