Why do detectives solve the mysteries?
あの年の九月一日は記録的な豪雨だった。学校の最寄駅を通る路線が止まったことにより、福岡市立新博多中学校の生徒たちは始業式終了後も校内で待機するよう指示されていた。時計の針が午後二時を過ぎた頃、二年五組の教室には海幸御幸、海桜苗子、曽似久、七星小律、玻璃光彦、緑礼斗の六人が残っていた。彼らは部活動に入っていない。談笑や読書で暇を潰していた。
「あれ、そう言えばかもめちゃんは?」
ふと、苗子が声を発した。その場の全員が一人のクラスメイトの不在に気づいた。その名は天道かもめ。学級委員長で、特に小律と仲の良い生徒だ。ホームルームが終わり、部活動に向かう生徒が全員退出した後「ちょっとトイレ」と出て行って以降、教室に戻っていない。彼女が昼食後にトイレに行くのはいつものことだが、少し心配になった小律が校内を探し始めた。
数分後、静かにドアを開けた小律は亡霊のように青ざめた顔をしていた。
「かもめちゃん、死んでる……」
仲の良い苗子と御幸にかけた声は光彦にも聞こえた。
「どこだ?」
警察官とマジシャンを両親に持つ光彦が椅子から立ち上がる。小律の案内で到着したのは、一階の資料室だった。
廊下は雨で濡れていた。ソフトテニス部がマットを敷いてストレッチをしている。その間をすり抜け、資料室に入った。そこには口から泡を吹き、横たわったかもめの遺体があった。白のシャツと唐紅色のスカートに雨で濡れたような跡はない。
「自殺かな?」
戦慄するでもなく、普通のトーンで小律が尋ねる。顔色は既に戻っていた。
「どうだろうな。遺書があれば確実に自殺なんだけど……。あ、これか」
遺体近くの本棚にノートを破いた遺書と思しき紙があった。毒のような白い錠剤入りの小瓶もある。光彦が紙を取り上げて黙読する。
「先生呼んでくるね」
小律がそう言って振り返ると、光彦に止められた。
「だめだ。通報されたら現場から追い出される」
どうやら光彦は、この事件を自力で解決するつもりらしい。
遺書の内容はおおよそこうだった。
『トイレから教室に戻ろうとしたとき、資料室の中から小さな物音が聞こえた。中を覗くとサッカー部の指宿君が私の知らない女子生徒とキスをしていた。指宿君への恋が叶わないことに絶望し、ここで自殺することを決めた』
「遺書があるってことは、やっぱり自殺?」
小律がもう一度尋ねる。光彦は鋭い目を小律に向けた。
「間違いなく他殺。この遺書は被害者が書いたものじゃない。それに、容疑者はさっきまで二年五組の教室にいた俺たち六人だ」
わざわざ格好付けて被害者や容疑者という言葉を使う。
「どうして?」
「後で話す。それより今は他の証拠探しだ」
光彦は床を調べ始めた。やはり濡れていなかった。
「光彦、どうなってた?」
久が教室に戻った光彦に話しかけたが、光彦はそれを無視して教壇に立ち、五人に言った。
「死んでるのは事実だ。そして、こんな遺書が出てきた」
先ほどの遺書を磁石で黒板に留めた。
「この遺書は他人が書いたものに違いない。そしてその他人とは、ここにいる六人の可能性が高い」
「どうして?」
小律と同じ言葉で、苗子が質問を投げかける。
「『資料室の中から小さな物音が聞こえた』らしいが、そんなはずはない。今日は朝からずっと大雨が降ってるから、小さな音なんか聞こえない」
「ああ、確かに。現に窓際の俺が筆箱落としても、気づいたのは近くの三人だけだったもんな」
礼斗が納得した声を上げた。遥か天空から叩きつけられる水の音によって、柔らかい素材の筆箱が落ちる音は簡単に掻き消された。始業式後の学活で今学期の委員会の希望を書いていたときのことだ。
「そう。そして容疑者がこの六人だけというのは、ここの部分から絞り込める」
光彦は『トイレから教室に戻ろうとしたとき』という文を指でなぞった。
「天道がトイレから教室に戻ることを知っていたのは俺たちだけだ。通り魔ならそもそもどこから来たのかも知らないだろうし、トイレから尾行していたとしても行き先はわからない。どこかの部室かもしれないんだから」
「教室を出たところから尾けられてたとか?」
苗子が指摘する。
「確かにその可能性もある。だから、犯人が俺たちの中の誰かとは断定できない。でも、死因が十中八九毒殺なんだ。親しい人間でない限り、いくら同じ学校の生徒でも得体の知れない物体は飲まないと思う」
「指宿が犯人じゃねえの?」
久の問いに、今度は回答した。
「サッカー部は特別規律が厳しいからなあ。特に指宿はストライカーであると同時に部長でもある。練習を抜け出して人を殺して遺書まで用意してまた戻るなんて事をしたら目立ちすぎると思うし、やっぱりこの内容の遺書は書けないはずだ」
そっか、という久の声が雨に消えた。沈黙の後、次に言葉を発したのは礼斗だった。
「てか、警察は?」
「そう言えばかもめちゃん死んでるんだよね! なんでこんな冷静に推理してるの?」
御幸が騒ぎ出した。光彦がやはり冷静に制止する。
「俺が解決する。通報は犯人がわかった後だ」
五人は揃って『そんな馬鹿な』というような感情を顔に出した。
「最大の謎は」
付け足すように光彦が言った。
「犯人がどうやって被害者を殺害し、資料室から脱出したか、だ」
「そう言えば、廊下にテニス部がいたね」
小律が言うように、巨大な棺となっていた資料室の前の廊下はソフトテニス部が使用していた。彼らに見られずに資料室を出入りする方法は窓からしかない。
「この天気じゃなあ」
礼斗が窓の外を見る。依然として雨は止まない。犯人が窓の外に出たとすると、確実に濡れるはずだ。しかも資料室は年末の大掃除を除いて清掃すらしていない部屋だ。ほとんど誰も使用しない部屋に入るだけでも相当不審に思われる。光彦は小律の案内で資料室に入る際、ソフトテニス部の部長から言われた一言を思い出した。
「今日はその部屋人気者だな」
不審に思われて教員を呼ばれるリスクを背負うので光彦としては乗り気ではなかったが、ソフトテニス部を尋問することにした。ただし、あくまで世間話のようにさり気なく、と心がけた。ちょうど休憩中だった。
「また資料室に用事か?」
光彦の姿を見るなり、部長の柚符晋平はからかいのニュアンスを含めて言った。
「まあ、ちょっと。ところで、さっきも資料室が人気者だとか言ってたけど、誰か来てたか?」
「ああ。四時四十五分くらいにお前のクラスの天道が。そういや、出て行くところは覚えてないな」
まずい、不審に思われる。とっさに光彦は嘘を吐いてごまかした。
「心配するな。天道なら、窓から出て壁をよじ登って教室に戻ってきた」
晋平は水筒の中身を吹き出して大笑いした。
冗談と思われたことへの不満と、ごまかせたことへの安堵が渦巻く中、光彦は教室に戻って推理を再開するため、階段を登る。四時四十五分頃、被害者は一人で資料室に入った。それ以外では小律と光彦しか見ていないらしい。もっとも、晋平が嘘を吐いていなければ、だが。顧問を含めたソフトテニス部全体による犯行かもしれない。しかしそれでは遺書の問題が解決しない。やはり真犯人は教室の六人、より正確に言えば光彦自身を外した五人だと思われる。
「よし、今度はアリバイを整理しよう」
ドアを開け放ち、そう言った。要するに推理に行き詰まったのだ。かもめの他にも、それぞれ教室を出ている。御幸は本を返しに図書室へ、苗子は生徒会の用事で職員室へ、久と礼斗は淳の忘れ物を取りに美術室へ、光彦は借りていた辞書を返すために隣の四組へ。教室から出ていないとされるのは小律だけだ。かもめに続いて御幸、苗子、光彦、久と礼斗が続けて教室を去り、苗子、久と礼斗、御幸、光彦の順に戻ってきた。その五分から十分程の間のアリバイは久と礼斗が共犯である可能性を除き、彼らしか持っていない。
その時間帯は、かもめが殺害されたと思われる四時四十五分前後も含まれている。ソフトテニス部に姿を見せさえしなければ、誰にでも犯行は可能だったということだ。
「そうだな」
「そうなるな」
久と礼斗は頷いた。
「意外に拒否しないもんなんだね。まあ、あからさまに『俺は違う!』とか言ったら余計怪しいけど」
光彦の瞳の中で苗子が言う。
「小律ちゃんも悲鳴とか上げなかったよね」
「うん。自分でも不思議だった。現実感がないからかな」
御幸と小律は落ち着いた口調で会話する。確かに、この現状は悪夢でも見ているようだ。光彦は正常性バイアスという言葉を思い出しながら、二人の顔を窺っていた。事件現場まで光彦をエスコートした冷静な態度は演技だったのだろうか。創立以来、新博多中学校には演劇部は存在しない。そもそも、この学校は第二次ベビーブーム世代が一期生であり、さほど長い歴史は持っていない。
光彦たちの代は部活動では良い成績を残していないが、苗子と礼斗は難関高校の受験を目指すなど学業が秀でた生徒がいる。この二人なら、あるいは魔術師すら驚く密室トリックを立案できるかもしれない。二人はどちらも光彦ではなく、窓の外を見ている。光彦には、迷宮入りしかけている謎を解こうとあれこれ考えているように見えた。
「なんだって?」
久が礼斗に尋ねた。窓際で何かを呟いたように聞こえた。礼斗が振り向いて答える。
「いや、計画的な犯行であることは確かだよな、って思っただけ」
「なんで?」
「もし遺書の通りに衝動的な自殺だったとしたら、毒は使わない。だって持ち歩いているものじゃないからね。同じように、犯人もあらかじめ用意してなければ毒は持っていなかったはずなんだ」
「そうか。計画的だったのか。確かにそうだな……」
光彦が考え込み始めた。強い雨の音に混ざって、多くの人間が階段を走って登る音がかすかに聞こえる。ダラダラするな、と怒鳴る声も聞こえた。
「霧島先生が顧問だから、サッカー部は大変だね」
「ひょっとして生徒会の顧問やってるストレスをサッカー部で発散させてんじゃない?」
小律と御幸がそう言う。いつもなら笑いが入るのだろうが、二人の会話はそこで終わった。
「……わかった。犯人がわかった」
鋭い目で光彦が見つめた先には、一瞬肩を震わせた苗子がいた。
「犯人は海桜だ」
光彦が苗子を苗字で指名する。
「どうして?」
少しの沈黙の後に発せられた、今日何度目かもわからない「WHY」の質問。光彦は答える。
「資料室のトリックから推理しよう。犯人は計画的に犯行を行った。つまり、自分がこの犯罪を起こすと知っていたんだ。だからあらかじめ犯行現場を用意していた。遺書と小瓶だ」
犯行前日までにその二つを資料室に置いておく。そして決行当日、かもめを追ってトイレで錠剤を飲ませる。恐らく口臭を抑える薬だとか偽ったのだろう。それからこうでも言えば良い。
『先生が手伝ってほしいことがあるから資料室で待っててって言ってたよ』
そしてかもめは毒によって意識をなくした。
「これが資料室のトリックだ。そしてこの時点で犯人はトイレに入れる女子三人に絞られる」
「ちょっと待って。かもめちゃんがもしトイレに行かなかったらどうするの?」
御幸がかばうように反論する。
「明日に予定をずらせば良い。資料室は誰も使わないし、もし誰か来ても資料の一部だと思って触りもしないだろう」
光彦は冷徹に言った。
「さて、これでわかったのは海桜にも犯行が可能だったということだ。次に海桜にしか犯行ができない証明をする。犯行時刻、女子三人はそれぞれ海幸が本を返しに図書室、七星が用事なしで教室、海桜が生徒会の用事で職員室にいたと証言した。どれも裏を取ってないから不確かだ。だが、海桜の証言だけは明らかに嘘だとわかる。曽似、生徒会の顧問は?」
久は覚えていなかった。代わりに礼斗が答える。
「霧島先生だな」
「その霧島先生、職員室にいたか?」
階段から野球部の足音が聞こえる。彼はずっとサッカー部を厳しく指導していたのだ。職員室にはいなかった。
「本当はトイレに行ったんだろ?」
苗子は犯人であることを否定した。決定的な決め手がないからだ。
「違う。私じゃない」
「お前だよ、天道を殺したのは。あの血みたいに赤い小瓶の薬で」
「違う、私じゃ……赤い小瓶?」
墓穴を掘ったと気づいた頃には、言葉は口から出てしまっていた。
「瓶が赤くないと知ってるんだな」
犯行現場を見ているのは光彦と小律と犯人だけだ。苗子は知っていた。苗子は光彦ではないし、小律でもない。残る選択肢はたった一つ。苗子が、犯人だ。
「嘘ついてごめん。私が殺した」
「今度は俺が聞く。何故殺した?」
探偵は最後は聞き役に徹する。後に私立探偵として生きていく光彦のポリシーだ。
「これは夏休みから計画してたの。怖いことをしてみたかった。ただそれだけ」
「そうか。どうだった?」
「すごく怖かった。いつばれるか、とっても怖かった」
「……そうか」
光彦は学力では苗子や礼斗に遠く及ばない。異次元とも言えるその頭脳は、どのような経路を辿ってこのスリルを欲したのだろうか。
「じゃ、先生呼んでくるね」
やっと光彦の許可が下り、小律と御幸が職員室に向かった。久と礼斗は警察が来る前に、天国へ向かうであろうかもめに別れを告げに行った。もしかすると今更ながら殺人犯から逃げたかっただかもしれない。
「でも誰でも良かったわけじゃないよ」
突然、苗子が話し始めた。
「かもめちゃんを資料室に行かせた言い訳は先生じゃないんだ」
あのとき、錠剤を飲ませる前に苗子はこう言った。
「資料室に来てくれって玻璃くんが言ってたよ。どうかしたの?」
「さあ」
何も知らないかもめは、鏡越しに嬉しそうな顔を見せた。
「そうだ。ミント味だけど、どう?」
別の容器に入れた錠剤を渡す。かもめは苗子の陰謀に気づかず、それを受け取った。
「かもめちゃん、玻璃くんが好きだったみたいだよ」
「それが動機の一部なのか」
「そうだね。むしろそっちが第一の理由かも。ねえ、玻璃くんは私のことどう思ってる?」
回答するまでに、さほど時間はかからなかった。
「悪いが、殺人犯の恋人は御免だ」
雨がまた一段と強くなる。光彦には被害者への鎮魂歌を奏でるように聞こえた。
「そうだよね。人殺しは嫌だよね。玻璃くんにだけは知られたくなかったのに、玻璃くんが謎を解いちゃった。ねえ、なんで推理したの?」
あなたが何もしなければ迷宮入りできたのに。苗子の発言には、そんなニュアンスが含まれているように感じられた。漆黒とも言える雲が太陽の光を阻む。
「真実を知りたかったんだ。俺は好奇心が強いから」
「……そっか」
苗子がその場に座り込んだ。しかし、光彦はさらに残酷な問いを投げかける。
「海桜の頭なら気づかなかったはずはないよな、俺を殺せば確実に迷宮入りできたってこと。もう二年も同じ学校に通ってて、今まで俺が探偵じみた行動ばかり取ってたの知ってるじゃないか。どうして俺を標的にしなかった?」
深く俯向く苗子から、雨によく似た雫と湿っぽい声が落ちた。
「そんなこと、できないよ」
業火のように光彦の中で燃えていた正義感が、一滴の涙で消火された瞬間だった。
「犯罪さえやってなけりゃ、俺としては今の一言でストライクだったんだけどな」
ゆっくりした歩調で光彦が苗子に近寄る。しゃがんで、苗子に耳打ちした。
「いいこと教えてやるよ。罪は償えるんだぜ」
刑務所を出た苗子は、姓を玻璃に変えた。