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人形夜話  作者: 夜尋いさし
1/1

旅立っては見たけれど

 小さな王女様が、小さな噴水の前に立っていました。噴水はとても小さくて、真ん中には可愛らしいブリキの男の子の人形が立っています。そして小さな宮殿の小さな裏庭にこっそりと隠されているのです。

王女様はこっそりと、噴水の取っ手を右に回します。そうすると、噴水から細く流れていた水がとまりました。

「ミッヒ。でておいで。やっと準備ができたわ」

 王女様なのになまりのある言葉です。もしも乳母がきいたらひどく叱られてしまいます。でも王女は召使たちが使うこの言葉の抑揚が好きなのです。

 まだ揺れている噴水の水面から、黒いどんぐりが浮かび上がりました。いえ、どんぐりよりも少し大きくて、まつぼっくりくらい?小さな王女様がにぎりしめたこぶしよりは少し小さいくらい。

それくらいの黒くて丸いものがうかびあがって、横に一直線にひかれた線が、上下にひらきました。

「なあ、ほんまに行くんけ?」

 それから二つの小さな突起が飛び出して、真っ赤な目玉が二つあらわれます。

 よく見ると黒くて丸いものは、大きなカエルの頭でした。噴水の水面にうかびあがり、水の下にやっぱり真っ黒な両手両足をだらんとさせています。

「あたりまえやん。お父様がいつまでもうちをここに閉じ込めておこうとしたかて、うちはそんなん耐えられへんし」

 その言葉を聞いて、カエルはカエルらしくないため息をつきました。

「お行儀作法覚えたら出れるんやで。こないだきてはったお妃はんもゆーてたやん」

「なに盗み聞きしてんの、あんた」

 王女様が黒いカエルを睨みつけます。

「いやいや、お妃はんがあんたを叱るんはこの裏庭でやないの。わしのすみかはこの噴水やさかいな。嫌でも聞こえるで」

「ほしたら余計なことを聞いたやろ」

「なんのことや?」

「とぼけんといて!」

 そう言って王女様が足元の小さな小石をひろうと、黒いカエルはあわてて噴水の反対側にまで泳いで行きます。

「あかんで。水がよごれたらわしの力が減ってしまう。そしたら宮殿を抜け出すこともできんようになんで」

 王女様は唇をかんでくやしがります。小石を手から放して、そして黒いカエルを手招きします。

「とにかくうちは嫌やねん」

「女の幸せを手に入れるには、ここにおったほうがええでー」

 カエルの言葉に王女様は右足を三度ふみならして文句を言いました。

「うちは女ちゃう!女の子や!うらわかい乙女や!まだまだ夢も希望もあるねん!」

「十三ゆーたら結婚できる年やがな。あんたのねーさん達もみーんな十三か十四で嫁いどるがな。一番上のねーさんなんて十二で嫁いではったで。そりゃもうきれいな結婚式やったなぁ」

「うちはうちや!プライドすてて他の貴族みたいな標準語話すのもいややし、おしゃれと子ども作ることだけが仕事みたいな生活もいややねん!」

 王女様がじだんだを踏んでいやがります。その様子を見て、カエルはやっぱりカエルらしからぬため息をつきました。

「まあええわ。わしがここにおることを知ってる王族も、今やあんたともう一人くらいやしな。これが最後のおつとめかもしらんし。準備してきたんかい?」

 それを聞いて、やっと王女様が微笑みました。

 見た目はとってもうすよごれているけれど、その微笑みだけはたしかに最高の王女様のものです。

 そういえば王女様がどんな女の子なのか書いていませんでした。

 流れるような金色の髪?

 真っ白な陶器のようなうるわしい頬?

 雪におちたバラのひとひらのような唇?

 いえいえ。そんな王女様ではありません。

 もしかすると、本当はそんなおとぎ話にでてくるような王女様なのかもしれません。でも、ずっと王女様を育てている乳母も、たまにやってくるお妃様も、小さな宮殿でそうじとかせんたくとか料理とかをしてくれている七人の召使いたちも、そんな王女様の姿は知りません。

 金色っぽい長い髪の毛は、適当に頭のてっぺんに太くくくられて、後ろに馬のしっぽのようにたれています。

 きっと高価な分厚い絹のブラウスも、袖から肩までよごれています。その袖でなんどもふいたであろう頬もすすけています。

 長くて開いたスカートを支える細い木の枝の枠もはずしてしまって、みっともなくぺしゃんこ。おまけに馬に乗るときのような固くてかかとが平たい編上げのブーツなんてはいています。

 今日はさらに、召使の一人から無理やりうばいとってきた、肩掛け型の皮袋も手にしています。

「……ま、ええやろ。これから七日間のあいだ、あんたは王女様やのうて、人形使いの男の子になるんや。その間に、ちゃんと探し物をさがせたら、あんたは自由と希望と力を手に入れる。でも」

「わかってる。でも?」

 黒いカエルはやれやれ、と首をふります。

「……もしあかんかったらな、あんたが人形になるんや。そうして、また誰かが来る時まで、ずっと人形としてただ待ち続けるんや」

「……そんでもええ。どうせ今も人形みたいなもんやし」

 黒いカエルはじっと王女様を見つめます。王女様も口を横にむすんで、じっとカエルを見つめ返します。

黒いカエルは、今日なんどめかのため息をつきました。それから、のっそりと噴水の真ん中にのぼり、ブリキの男の子の人形に両手をかけました。

「これがあんたと一緒に旅をする人形や。ほれ」

 そう言いながらカエルが短い両手で、ブリキの男の子の人形を王女様にほうりなげました。人形はくるりと回って、それから王女様の前に両足からおちて、そしてぴたりと立ちました。

 王女様が人形に手を伸ばそうとすると、ブリキの男の子は片手を胸に、おじぎをしました。王女様はびっくりしました。

「王女様、ブリキ人形のコッペと申します。以後お見知りおきを」

 ブリキ人形が話すのを聞いて、王女様はもっとびっくりしました。びっくりしすぎて、おもわずスカートの両はじを指先でつまんで、両膝をそろえてかがめるおじぎをしてしまいました。その様子を見て、ブリキの男の子は言いました。

「恐縮にございます。さあ私をお手に取りください」

 おそるおそる両手を伸ばすと、ブリキの男の子が両手をあげて、もちあげやすいような姿勢をとりました。そして王女様の前で言いました。

「これから私に芸をさせる時は、『バカなブリキ人形』とおっしゃってください。そうすれば私は皆様を楽しませる歌や踊りをご披露いたしましょう。もし私のこのからっぽの頭からなけなしの知恵を引き出したいときには『カラッポのブリキ人形』とおっしゃってください。私が見聞きしてきたことがらをお聞かせしましょう」

 王女様はびっくりしすぎて言葉もでません。なにせこのブリキの男の子は、王女様がこの小さな宮殿にやってきて、そして小さな噴水と、黒いカエルのミッヒを見つけてから、ずっと目にしてきたものなのですから。でも、ブリキの男の子が動くのもしゃべるのも、見たのは初めてでした。

「あと、この髪留めをわたさんとな。ほら、つけてみ」

 黒いカエルのミッヒが口を閉じ、そして舌を長く伸ばしてきて、鈍い鉛色の髪留めを王女様のあしもとに落としました。王女様がおそるおそる手にしたそれは、なぜかべたべたしていません。手にした髪留めと黒いカエルのミッヒを交互に見ていると、ミッヒがいいました。

「つけてみ。ほしたらわかるから」

 王女様が髪留めをつけると、髪留めからほとばしるおおげさな光があたりを照らしました。

 そして気がつくと、王女様は、きらきらしたベストにすそが広がった赤いズボン、先のとがった銀色の靴をはいた、立派な男の子に姿を変えていました。

「うち……男の子になったん?」

「ほら、もううちとかゆーたらあかんで。それに人形使いはお客様の前で失礼な言葉をつこたらあかん。あんたのなまりも今後は人形と二人の時しかつこたらあかんねんで」

「ほしたらどないゆーん?」

「標準語やがな。使えるやろ。『うちは人形使いやねん。みなさんよろしゅー』って標準語でゆーてみ」

「……『あた、いや、僕は人形使いです。皆さんよろしくお願いします』」

「まあええやろ。どうこうゆーても七日間や。その皮袋に食べ物ははいっとるんやろ?」

「うん。パンとチーズのかたまりが三つずつ」

「足るかな。お金は貴族さんはもってへんやろしな。まああとは人形の芸を見せてかせいだらええわ。お金の代わりに宿にとめてもろてもええし」

 そう言われて男の子になった王女様はとたんに不安になってきました。

 なにせ生まれてから、父王様のいる大きな宮殿と、そこからずいぶん田舎にあるこの小さな宮殿しか知らないのです。おまけに宮殿の外ではいつも馬車に乗っています。ご飯だって七人の召使いが用意してくれますし、ベッドもふかふかにしてくれています。

 これからのことを考えると、胸の奥がぎゅっとしめつけられるような、氷のような冷たさが体に広がりそうになりました。そして胸にブリキ人形を抱きしめると、人形が声を出しました。

「大丈夫ですよ、王女様。困ったときは『バカなブリキ人形』か『カラッポのブリキ人形』とおっしゃってください。私めがお力になりましょう」

 そう言われて、男の子王女様は少し胸の氷が解けたような気持ちになりました。

「ありがとう。あんた……いや、君のことはこれから何て呼べばいい?」

「なにも求めておられないときには、ただ『コッペ』と。私はあなた様をなんと呼びすればよろしいでしょうか」

 そう言われて王女様は考え込みました。

 自分の名前はどう考えても女の子のそれです。そして父王様から伝わる、ながったらしいたくさんの名前もついてきます。

「『パン』でええやろ。あんたの国とは違う名前で、異国情緒がある。それに、あんたの名前と似てないこともない」

 男の子の瞳で、王女様は元気よくうなずきました。それからちょっと黙って、あたまをくるくるさせていろいろな想像をしました。最後に、くすくす笑いながら、胸を張って、ブリキの男の子を抱え上げていいました。

「そう。僕の名前はパン。長靴みたいな半島からやってきた人形使いさ。ブリキ人形のコッペと旅をしているんだ。そして……そして何を探せばいいんだい?」

 男の子王女様は、黒いカエルのミッヒを見下ろしました。カエルはあくびをして、それから答えました。

「あんたがさがすもんは、『よろこび』や。それも、『人を動かすよろこび』や。わしが知る限り、それは七つある。でも、そのうち三つを探せたら戻っておいで。そしたらわしが『自由と希望と力』をあんたにわたしてあげよう」

 王女様は微笑みました。そして、元気よくうなずきました。

「ミッヒ、僕が無事に帰ってきたら、君は僕にもうひとつ、大事なものを送ってくれないか」

「あんた標準語しゃべれるがな……まあええ。何が欲しいねん」

「それは内緒だよ。でも約束しておくれ。僕の願いをひとつ、余分にかなえるって」

あくびをするかと思った黒いカエルのミッヒは、目を閉じました。それから少し風が吹いて、木々をざわめかすあいだもずっと黙っていました。

やっと目を開いたあと、黒いカエルのミッヒは言いました。

「あんたは無茶を言おうとしてる。わしにはそれがわかるし、それはわしの力を超えることやということもわかる。でも、わしはあんたの願いを聞き入れんと仕方がないようや。ええやろ。戻ってきたらかなえたろ。それがたとえ、わしのすべてを費やすものになったとしても」

 それを聞いて、男の子になった王女様は、今日一番の笑顔で微笑みました。

「ミッヒ、ありがとう!あ……でも僕がいない七日間の間、乳母や七人の召使いはどうしよう……」

「そんなんわかりきっとる話や。ちゃんと、代わりを用意しといたる。心配せんでも、あんたはあんたできばっといで」

「ほんと?!なら大丈夫だね。じゃあ僕はいくよ。人形使いのパンとして、ブリキ人形のコッペと旅に出るんだ。三つの『人を動かす喜び』をさがすために」

 瞳を輝かせる男の子王女様を前にして、黒いカエルのミッヒは、大きなあくびをしました。それから首を振って、いやいや、と独り言を言いました。

「ともかく、あんたはこれから、あんたの父王さんの国を旅することになる。どっから行ってもいいけど、お勧めは東の穀倉地帯や。それから北の丘陵をめぐって、西の伯爵領に行き、それから南の港湾都市を目指すとええ。あんたにむちゃくちゃの神様が微笑んでくれるのなら、それで三つの探し物は手に入るやろ」

 男の子王女様はうなずきました。そして右肩に皮袋をさげ、左手でブリキ人形のコッペをかかえました。

「ミッヒ。じゃあ七日後にね。その間のこと、よろしく頼むよ」

 男の子王女様は元気よく足をふみだ……そうとして立ち止まりました。

「え……と、どっから行けばいいのかな」

「……そこの梢を抜けていき。ほしたら荷馬車が入る裏門がある。門番にはあんたの七人の召使いのうちの一人がおるけれど、王女様に呼ばれて来た人形使いです、ゆーて出て行ったらええ。それからどんどん道を進んだら、昼過ぎには東のだだっぴろい小麦畑に到着するやろ」

「ほんま?」

「『ほんと?』やろ」

「あ、うん。じゃあミッヒ、僕は行ってくるよ。今度こそ、僕が『自由と希望と力』を手に入れるために」

 そういって、男の子王女様はずんずんと梢の間を進んでいきました。右肩に皮袋を、左手にブリキ人形のコッペをかかえて。

 その姿を見送りながら、黒いカエルのミッヒは、今度は少し小さなためいきをつきました。そして誰にも聞こえない独り言を言いました。

「今度こそと思い続けてもう138年や。これがわしにとっての最後の機会やな」

 それからあくびをして、噴水のはしから、くるりと宙返りをしながら飛び降りました。それは、男の子王女様の代わりになるための、魔法の仕草だったのです。



 男の子王女様-こう話すと長くなるので、これからは男の子と話しますね。

 人形を抱えた男の子は、梢を抜けて裏門を開きました。すると宮殿の七人の召使いの一人、ちびっこジャックの背中にぶつかりました。門番なのですから宮殿の外にて、宮殿には背中を向けているのです。

 ちびっこジャックがふりむきました。そうして、人形を持った、見たことのない男の子を見て、目を丸くしました。そして言いました。

「なんやなんや……」

 それから腰に手を当てて、偉そうな感じで裏門をとおせんぼをします。

「こらこら、お前は何者や?何しにこの宮殿に入った?なんでこの裏門から出る?答えんかったら通すわけにはいかん、いかん」

ちびっこジャックが偉そうなのを見て、男の子はちょっと驚きました。それから少しだけ、腹を立てました。だってちびっこジャックはいつも、他の6人の召使いたちに小突かれて、からかわれているからです。小さな王女様を見ても、遠くからぺこりとするだけで、近寄ってきたことすらありません。

だから男の子はいいました。腹が立っていたので、つい王女様の口調で、なまりもでてしまいました。

「ちびっこ!あんたこそ、そこをどき!そやないと、他の人らにいいつけんで!」

 男の子の言葉に、ちびっこジャックもおどろきました。

 ちびっこジャックは、ちびっこだけれども一人前の男の人でした。そして本当にいろいろなことができました。ここから二回も海をわたったところにある生まれ故郷では、村のおばあさんから魔法も習っていたのです。

 ちびっこジャックは、ただ小さい、というだけでずいぶんといろいろな苦労をしてきました。人並み以上にてきぱきと動けるし、いざと言う時には剣も使えます。そして魔法だって少しは使えるのです。なのに、ただ背が低い、というだけで人からバカにされたりもします。

 ちびっこジャックは、目の前にいる、見たことのない男の子にバカにされて腹が立ちました。そして、今までにいろいろな人にからかわれた、嫌な言葉をたくさん思い出しました。そうすると、もっともっと腹が立ってきました。

 でもジャックは、それを心の中でゆっくりと落ち着けました。

 それから、今まで生きてきた中で、一番意地悪に笑いました。

「ええやろ、ええやろ。お前の言葉通りに、ここをどいてやろ。お前は言葉で人を動かそうとした。ほな、その言葉の通りに行くがいい」

男の子は、ちびっこジャックの言葉に耳を貸しませんでした。だって召使いが道をあけるなんて当然なのですから。そうしてそのままブリキのコッペを左手に、皮袋を右手に、どいたちびっこジャックの隣を通りすぎようとしました。

その前に、ちびっこジャックが男の子の肩に手をかけました。ちびっこでも、男の子よりは背が高くて少しみあげるようになります。

ちびっこジャックは男の子を見下ろしながら、言いました。

「お前はこのまままっすぐ行く。お前の前にはたくさんの壁ができる。その壁を言葉でどかすたびに、お前はお前の大事なことを一つ忘れるだろう」

男の子はその言葉の意味がわかりませんでした。ジャックはそんな男の子の様子を気にせず言いました。

「さあ、もう一度言ゆうてみ。門番の俺はどないしたらいい?」

 男の子は両肩を振って、ふん、といいました。それから言いました。

「さっさとそこをどいて。それからうちを通しなさい!」

 その言葉を聞いて、ちびっこジャックは少しだけ、おや? と思いました。

 でもその違和感はすぐに消えました。それよりも、自分がかけた呪いがうまくはたらくかどうかに興味があったのです。だからその場をすぐにどきました。

 男の子が一歩、踏み出します。

 それから、もう一歩、もう一歩、踏み出します。

 ちびっこジャックはどきどきしながら、男の子に声をかけました。

「なあ人形を持ったそこの坊主。お前の名前はなんや?」

 男の子はその言葉にふりむきました。

 唇を開いて、それから声を出そうとして……くびをかしげました。

「え……僕、の、名前……?」

 ちびっこジャックは今度こそ、生きてきた中で一番意地悪に笑いました。

「そやそや。お前の名前や。なんや、忘れてしもたか?」

 男の子はなにをいってるんだろう、と首をかしげながら答えました。

「僕の名前は、パンだよ。人形使いのパン」

そう答えられて、ちびっこジャックはがっかりしました。彼がかけた呪いでは、最初に忘れてしまうものは名前のはずだったからです。でも、この男の子は、名前を忘れていませんでした。ジャックはとてもがっかりしました。

 そして手のひらで追い出すように遠くを示しました。

「もうええ、もうええ、さっさと行け」

男の子は、自分の手にしたブリキの人形と、革のカバンを見ました。

 実は小さな背丈の門番の質問に答えようとしたのに、どうしても自分の名前が思い出せなかったのです。だから、とっさに覚えていた名前を答えました。それは自分の名前のはずだけれど、なぜか男の子にはそうは感じられなかったのです。

 でも人形使いの男の子、実は小さな王女様は、本当に楽天的な性格をしていました。だから「まいっか」とつぶやいて、それから後ろをふりむかずにどんどん歩き始めました。

 とにかくこれからこの国をまわらなくてはいけないのです。まずは東にあるたくさんの畑とその間の村々。それから北にあるいくつもの丘を抜けて、西の伯爵のお城を目指します。そのあとで南の港町に行くのです。それはしっかり覚えていました。

 でも、それはなぜ?なんのために?

 そのことは頭の中でぼんやりとしていて、よく思い出せません。

「まいっか」

 もう一度つぶやいて、それからずんずんとさらに歩いて行きました。


「ふん」

 小さく鼻を鳴らして、小さな男の子が出てきた門を閉めようとして、ちびっこジャックはとびはねました。その裏門から、この宮殿の小さな王女様が顔を出したからです。

「あ、あの、どうされましたでしょう……か?」

 ちびっこジャックは門番として、なんとか声を絞り出しました。

 そして、今のやりとりを見られていなかったか、すごく気にしました。

 小さな王女様はそんなちびっこジャックを気にせず、ずんずんと歩いていく小さな男の子を見つめました。

 それからぽつりと言いました。

「無事にやりおおせるといいんやけどな」

 その言葉はちびっこジャックの耳にも入りました。そうしてちびっこジャックは考えました。あの男の子は、小さな王女様のお客だったのだろうか。だとしたら、自分がかけた呪いは、とてもまずいことになるだろうか。

 一瞬で顔色を青くしたちびっこジャックですが、小さな王女様はそのことには気づいていませんでした。それから何も言わずにまた、裏庭に駆け込んでいきました。

 その駆け込み方が、少しだけ、ぴょん、ぴょん、と飛び跳ねるような感じだったことに、ちびっこジャックは気づきませんでした。

 それよりも。

 自分はとってもまずいことをしたんだろうか、とそれだけが頭の中をぐるぐるとかけめぐっていたのです。でも、しばらくして、やっぱり自分の呪いは失敗していたんだろう、と思いました。だからその夜の召使い同士の食事の頃には、男の子のこともすっかり忘れてしまっていました。


 人形使いの男の子、パンはずんずんと歩いて行きました。

 でも、まだ宮殿からそう離れていないところなのに、もう足が痛くなってきました。かかとが痛いし、つま先が痛いし、ブリキ人形を抱えた左手も、カバンをかけた右肩も痛いのです。

歩いてきた道は馬車のわだちや行き交う人の足で固められてはいます。でも、パンはこんなにでこぼこの道を歩いたことがないことに気づいていました。

 誰かと出会うこともまだありませんでした。見渡す限りのなだらかな草原と、ところどころにある小さな森がすべてです。道は続いているけれども、その先に本当に町や村があるのかもわかりません。

 おまけにのども乾いてきました。そこでパンは、「お水!」とおもわず叫びました。でも、もちろん水はどこからも出てきません。パンは、自分で水をどこからか持ってきたことが無いことに気づきました。そういえば水はどこで手に入れるのでしょう。

 風が少しだけふいて、少し離れたところにある木々を揺らしました。

草原が波打つようにながれていきます。

パンは、こんな景色を見るのも初めてでした。

 くたびれたのと、初めて見る景色にうれしくなったのとで、パンは道端の切株に腰掛けました。そういえば、チーズがカバンに入っていることを思い出したのです。パン(こちらは食べ物の方です)を食べるとのどがかわくけれど、チーズなら少しはのどを潤してくれるかもしれないと思ったのです。

 ブリキ人形を草の上に置いて、それからひざでカバンを開きます。

 きれいに布につつまれた大きなチーズの塊が三つと、ふかふかのパンが三つ、入っています。

 チーズの包を一つあけ、それからひとかけらをちぎって、口にします。

 よく噛んで、それからのみほすと、少しのどがましになった気がしました。

 それからもう一度立ち上がりました。とにかく、水をもらうために歩いてみよう。そう考えて歩き始めたのですが、左足でブリキ人形をけとばしてしまいました。

 草の上に置いたブリキ人形を、わすれそうになったのです。

「そうだ、これを持っていかなきゃ。そういえば……こいつにも名前があったような気がするんだけど……」

 なんということでしょう。

 小さな王女様は自分の名前を忘れてしまうことで、王女様でないとわからない、全部のことを忘れてしまったのです。王女様として過ごしていたあいだにおぼえた、召使たちの言葉のなまりも忘れてしまいました。

 だから、カエルのミッヒのことも、しゃべるブリキ人形のコッペのことも、全部忘れてしまったのです。

 おまけに「人をうごかすよろこび」を探す、ということすら忘れてしまっていました。

「まいっか。君の名前はブリキだからブリキンでいいね。じゃあ行くよ、ブリキン!」

 ブリキンと声をかけられても、ブリキ人形は何も答えません。

 自分が王女様であることを忘れてしまったパンは、それから頑張って痛い足を我慢しながら、歩き続けました。

 そしてお昼を少しすぎたくらいに、やっと村の入り口を示すらしい、小さな柱のところにたどりつきました。

 村の入り口、といっても柱の向こうはこちらがわと特に変わりません。

 ただ、そのさらに向こうに、草原とは違う、緑のふさふさとした畑が見えました。

「流れ者は村に入ってくんなよ」

 柱の影からいきなり子供の声が聞こえました。

「なんだよ、きれいな服着やがって」

 もう一つの柱の影からも、声がしました。

「そうだそうだ」

 今度は小さな女の子の声がしました。

 そして、人形使いのパンの前に、大きな男の子と、中くらいの男の子と、小さな女の子が出てきました。

 パンは三人があらわれても、別に何とも思いませんでした。ただ、人が前に出てきたので、こう言いました。

「僕は村にいって水を飲むんだ。そこをどいてくれよ」

 パンがあまりにもどうどうと言うので、おもわず大きな男の子がよこによけました。それを見て、中くらいの男の子もよけました。でも、小さな女の子だけがよけずに、パンの前に立っていました。

「その服きらきらしてるね」

 女の子はそう言うと、パンに近づいてきました。

「そう?」

 答えてからはじめて、パンは自分の服装をまじまじと見つめました。きらきらしたベストにすそが広がった赤いズボン、先のとがった銀色の靴は、まるで自分のものではないようです。

「それに、そのお人形、かわいいー」

 ブリキの人形を指差します。いつのまにかブリキ人形は、パンの左腕にしがみつくようにぶらさがっています。

 すたすたとパンに近づく女の子を、あわてて大きな男の子と中くらいの男の子が止めました。それからいいました。

「なんだよ、そんなブリキ人形。腕にくっつかせてバカみたいじゃないか」

「そうだそうだ」

 そう言われてパンは考えました。いつのまに自分の手にしがみついているのだろう。だからこう答えました。

「『バカなブリキ人形』じゃないよ。ブリキンっていう……」

 パンがその言葉を口にした途端、ブリキ人形はパンの左手を離れました。

 そして村の入り口の地面に降り立つと、くるくる、とまわって礼儀正しく挨拶をしました。

「わたくしは『バカなブリキ人形』でございます。本当は名前もあるのですが、ご主人様のパン様が忘れてしまわれました。ああ、なんということでしょう。これ以上の悲しみはございません」

 踊ってしゃべる人形を見て、大きな男の子と、中くらいの男の子は「うひゃあ」と腰を抜かしました。その隣で小さな女の子が「うわぁい」と両手を叩いてはしゃぎました。

 パンもとても驚きました。でも、なぜだか、ブリキ人形が踊ることを知っていたような気もしました。

 そういえば、自分でも門番に言っていました。「僕は人形使いのパン」だって。だからきっと自分は人形使いなんだ。人形使いなら、動く人形を持っていても当たり前かもしれない。そう考えて、パンはブリキ人形に言いました。

「『バカなブリキ人形』。悲しがっていないで、この女の子に踊りを見せてあげて」

「承知いたしました、ご主人さま。では私めのおどりを、こちらの小さなお嬢様にお見せいたしましょう。うまく踊れたら拍手喝さいを!」

 そう言うやいなや、ブリキ人形はくるくると回りました。それから固くてでこぼこの道の上を飛び跳ねて、ころびそうになりました。

「あぶない!」

 大きな男の子と、中くらいの男の子と、小さな女の子が叫びます。パンも息を飲みます。それでもブリキ人形はそのままくるん、と回って両手を高く上げました。

 それから高く跳ねて、パンの肩に飛び乗り、すっくと立ち上がったのです。

「いかがでございましょう」

 深くお辞儀をするブリキ人形に、三人の子どもたちと、それからパンも大きく手を叩きました。それから三人は、ブリキ人形を肩にのせたパンにかけよってきました。

「お前、いい流れ者だったんだな」

「その人形、すごいな」

「すごいすごい!」

 それから三人は、くちぐちに自分のことを話してくれました。

 大きな男の子は、アベル。中くらいの男の子はバジル。小さな女の子はクロディーという名前でした。三人は兄弟で、それからパンを引っ張って、村の真ん中の方まで案内してくれました。

 パンはその間、実はあまりしゃべることがありませんでした。

 というのも、ブリキ人形がこんな芸をするなんて知らなかったからです。そもそも自分が人形使いだということも、いまひとつしっくりきません。僕はなぜこっちに来たんだろうか。三人の兄弟が喜ぶ顔を見せるたびに、実はそんなことを考えていました。そして、ブリキ人形も黙ったまま、それきり話すことはなかったのです。

 やがて三人とパンは、粗末な小屋が集まった、小さな集落にまでたどりつきました。

「父ちゃん!楽しい人形使いが来てくれたよ!」

 小さな女の子=クロディーが最初にかけだしました。それから中くらいの男の子=バジルが駆け出しました。大きな男の子のアベルはしばらく迷っていましたが、それでもやっぱり駆け出しました。

 パンは自分が来た道を振り返りました。

 大きな入道雲がわきあがっています。

「雨がくるのかな」

 そうつぶやいたパンに、ブリキ人形は答えてくれませんでした。

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