2話 ひとときの食卓
いくら立ち尽くしていても、元の住宅街の風景に戻ることはなく、草原が果てしなく見えるだけだった。
ふと思いついて、試しに自分の頬をつねってみる。……痛い。
夢かどうかを確かめる為に頬をつねるという方法をよく聞くが、実際にやってみるとあまり判別がつかない。
「ここは夢…なのか…?」
再度呟く。まぁいくら呟いたところで状況は変わらないし、いいねや拡散だってされない。気を取り直して、俺は当初の目的であった新聞をポストから取ろうとしたが、ポストの中は空だった。
「……こんなところじゃ新聞も配れないか。」
俺は諦めて、見渡す限りの草原に囲まれた玄関先を後にした。
「お兄ちゃん、遅いよ。せっかく作った朝ご飯が冷めちゃうよ。」
葵は俺を見つけると、遅くなったことを咎めるように俺に詰め寄ってきた。とりあえず現状を把握するには葵に聞いてみるのが手っ取り早いはずだ。俺は葵に真剣な表情で向き直り、問いかけてみる。
「葵、ここは…どこだ?」
葵は突然聞かれてきょとんとしていたが、しばらく考えて葵なりの答えを導き出す。
「えー…っと、…家?」
……仕切り直し。
「葵、家の外で変わった様子はなかったか?」
葵は、うーん…と唸って考え始めた。この質問なら期待する答えが返ってくるはず…だよね?
「いや?いつも通りだったと思うけど…外が焼け野原にでもなってた?」
焼け野原って…さらっと恐いこと言ったな。いつも通り、ということは、俺だけがこの状況に違和感を感じているのか。
つまり、ここが夢だろうと異世界だろうと、俺のナビゲーターは葵と考えていいな。最高。羊?知らない子ですね。
「おかしなこと言ってないで、早く朝ご飯食べよう?」
葵が急かしてくるので、俺はおとなしく従うことにした。
俺は席に着き、食卓に並べられた料理を見る。うん、実に美味しそうだ。ちょっと冷めてるけど。
「いただきます。」
「いただきまーす♪」
俺たちは揃って手を合わせ、ようやく朝ご飯を食べ始める。二人で食べるご飯は美味しい。なんなら葵と一緒に食べれば何でも美味しく感じるまである。いや、何でもは言い過ぎだな。不味いものは不味い。こんなことを口に出すと、すぐシスコンだなんだと言われるから困ったものだ。
そういえば、少なくとも外の景色は夢の中で俺が住むことを望んでいた世界だ。ルウが本当に俺の願いを叶えたとしたら、案外ルウはいい奴なのかもしれない。態度は生意気だけど。それならご厚意に甘えて、葵と二人でのんびりゆったり快適ライフを送るとしようじゃないか。
「そんなうまい話があるわけないだろ。アホ。」
「…………」
意気揚々としていた矢先に、小馬鹿にしたような声が聞こえた気がしたが、俺は無視して味噌汁を啜った。美味しい。さっきの声は気のせいだ。玉子焼きを勝手に頬張っているルウが見えるのも断じて気のせい。それ俺の分なんですけど…
「無視するな。康斗。」
俺がルウを無視して食べ続けていると、ルウは俺の目の前に来て話しかけてきた。やっぱり気のせいで済ませてくれないですよね。知ってました。あと、口の中に食べ物を入れながら話すのはやめろ。マナーが悪い。
「あ、ルウちゃんだ!」
俺はルウが来たことにげんなりしているのに対し、葵はどこか嬉しそうにルウを見て声をあげていた。なんでそんなに嬉しそうなの?お兄ちゃん、ちょっとジェラシー感じちゃうよ?というより、本当に近いうち、だった。さっきまでもったいぶって葵がルウを見れなかったのは何だったのか…
「ルウをちゃん付けで呼ぶな!」
ルウは葵の言葉にかみつくように反論していた。そのかみつきぶりはさながら狂犬のようだ。羊だけど。
「ルウちゃ〜ん、玉子焼きだよ〜美味しそうでしょ〜?食べないの〜?」
だが、葵は葵でルウの話を完全に無視し、満面の笑みを浮かべてルウを餌付けしようとしている。楽しそうにしているけど、それ俺の分なんだよな…
「うぅぅ……た、食べるっ!」
ルウはしばらく我慢していたが、葵の誘惑に負けて玉子焼きに食らいついた。まぁ、葵の笑顔に迫られて屈しないはずがない。なんなら俺が食いつきたいレベル。
「それで?なんでルウはこっちに来たんだよ。せっかく部屋においてきたのに。」
部屋に置いてきたというあたりに、葵との朝食の時間を邪魔するなという意味を込めているのだが、ルウはそんなことを意にも介さなかった。
「そりゃあ、美味しそうな匂いがしてきたら匂いの元を辿るのは動物としての本能だろ。」
そんな威張って言われても反応に困るが、その言い草だと街に行ったらすぐどっかにふらふらしそうだな。街があるのか知らないけど。
「そう言えば、ここからは全然見えなかったけど、街はあるのか?」
俺はルウに向かって訊いたが、それを聞いた葵は訝しむような表情で俺を見てきた。
「お兄ちゃん、記憶喪失でもした?今日は何か変だよ?まさか……にせもの?」
「違う!俺は正真正銘本物だ!」
葵に疑われて俺は慌てて弁明したが、葵と俺とで記憶の違いがあるのはずっと一緒に過ごしてきた日々を否定されたようでへこむな……むしろ目の前にいる葵が本物の葵なのかどうかわからない。わからないが、確かめる手段もない。
「なんだ。もう外を見てきたのか。お前が来たがってた所だろ?」
俺の気持ちを知ってか知らずか、ルウは得意げに言ってきたが、俺は素直に喜べなかった。
「場所は、な。このまま葵と二人でゆっくり過ごすことができれば文句はなかったけど。」
「何贅沢なこと言ってるんだよ。そんなうまい話はないってさっき言っただろ。それより、康斗も葵も、さっさと食べ終わって出掛ける準備をしろよ。」
唐突な話に俺と葵は首をかしげ、葵はルウに聞き返した。
「出掛けるって、どこに?」
「さっき康斗が訊いた、街だよ。」
それだけ言い残してルウは二階へと姿を消した。
出掛ける準備、なんていっても着替えるくらいしかとくに思いつかない。持ち物は携帯、財布、と考えて携帯の画面を見ると、圏外になっていた。やっぱ使えないか。懐中電灯の代わりくらいにはなるだろうと思い、念のため持っていくことにする。財布は部屋にあるはずだが、財布には少しばかりの現金とポイントカードが数枚入っていたはずだ。おそらく使う機会はないだろうが、これも一応持っていく。これはあれだ、いつか使うときが来るから、とか言って使わなくなったものを捨てられないやつだ。ま、備えあればなんとやら、と思い、気にしないでおこう。
「じゃあお兄ちゃん、準備が出来たらここにいてね。」
俺が持ち物の確認をしている間に既に朝食を食べ終わっていた葵は、そう言って自分の部屋に戻っていった。
「街……か……」
リビングに一人残された俺は何とはなしに呟いて、ルウが言っていたことを頭の中で整理する。
ルウは俺のことをパートナーだと言っていた。それは街で何かをする上でのパートナーなのか……?そうだとしたら、葵を一緒に連れていく意味は?ここでゆっくり過ごすことができないと言っていたことから、これから街に行って何かをしなければならないことはほぼ確実といっていいだろう。どう考えても、これから面倒なことになるのは間違いないんだよな……
「仕方ない、俺も準備するか。」
どのみち、俺に拒否権は与えられてないし、何より葵が行くと言うのであればついていくしかない。
俺は朝食をたいらげ、重い腰を上げて食器を片付け、観念して俺の部屋へゆっくりと足を進めた。