1話 目覚め
眠れない夜に羊を数えるという話をよく聞く。羊が1匹、羊が2匹、羊が3匹……というように。だが、この方法で俺が眠れたことは1度もなかった。むしろ羊を数える程目が覚めてくるまである。
俺はベッドに腰掛け、目の前に浮かんでいる羊を見つめながらそんな事を考えていた。そもそも、何で数えるのが羊なんだ?確かに枕にしたら気持ちいいかもしれないけど…
「勝手にルウを枕扱いするな。」
見ると、羊は心底嫌そうな目で俺を見ていた。ふわふわの毛が枕にぴったりだと思ったんだけどな。
それより何で人の考えてること分かるの?ちょっと怖いんですけど…きっと言葉を交わさなくても心で繋がってるとか以心伝心とかそういうことですね!ないか。
そんな枕になる心配しなくてもサイズ的にお前を枕にできないし…それとも俺の頭を手のひらサイズに改造しろと?いや、無理。
「安心しろ。お前に俺の枕は務まらない。」
「何となくムカつく言い回しだな…そもそもルウはお前の枕に志願してない!」
そう言って羊は呆れたようにはぁ、とため息をついた。
羊でもため息をつくのか…などとどうでもいいことを考えていると、コンコンと軽い音を立てて部屋のドアがノックされた。わざわざ俺の部屋のドアをノックするような人は一人しかいない。
「お兄ちゃん、おはよう。もう起きてる?」
そう言ってドアを開けて隙間から顔を覗かせているのはつい先日俺と同じ高校生になったばかりの妹の葵だ。
腰の辺りまで伸ばした艶やかな黒髪が揺れ、つぶらな瞳がこちらを窺っている。小柄な体は上下お揃いでピンクの可愛らしい寝間着に包まれていた。
「もうすぐ8時だよ。今日の朝ご飯は私が作ったから、早く一緒に食べよう?」
普段は母さんが朝食を作るが、今日は葵が作ってくれたのか。出来のいい妹をもってお兄ちゃんは嬉しいよ…
「ああ、分かった。すぐ行くよ。」
俺が返事をすると葵は満足したように、うん!と言って笑顔でドアを閉めてリビングに向かっていった。俺は朝食を食べなくても葵とのやりとりですでに今日1日分のエネルギーが補給された気がした。妹って、ステキ。だが、葵の様子に違和感があった。
「お前、葵には見えてないのか?」
葵が俺の部屋を覗いたとき、この羊は俺のすぐそばに居て、葵からは確実に見えるはずだった。こんな手のひらサイズの浮いている変な羊を見れば、何かしら反応があってもいいはずだ。
だが葵に特に変わった様子はなく、至っていつも通りで優しく、可愛らしい、俺とは似ても似つかない、自慢の妹のままだった。
「お前、じゃなくてルウと呼べ!」
羊…もとい、ルウが怒っていた。怒るところはそこなのか…さっき心の中で変な羊とか言っちゃってたけど心を読まれてなくて何よりだ。…読まれてないよね?
「分かったよ。それで、実際のところはどうなんだ?ルウ。」
俺が名前で呼んでやると、ルウはそれでいい、とでも言いたそうに頷いていた。何でこいつちょっと偉そうなんだよ。
「今は見えてないけど、近いうちに見えるようになる…はずだ。お前と葵以外の人にはルウが見えることはない。」
ルウはそう言ったが、日本人の言う「近いうち」の信用の無さは異常。似たようなものに「また今度」がある。一体いつになるか分かったもんじゃない。でもこいつ日本人じゃないのか。羊だし。
それより、自分のことは名前で呼ばせておいて、俺のことはお前呼ばわりってどうなの?しつけがなってないようですね…
「俺はルウのことを名前で呼んでるんだから、俺のことをお前呼ばわりするな。俺には都康斗っていう、ちゃんとした名前があるんだよ。」
俺がそう言うとルウは仕方ないな…と呟いていた。
俺の名前呼ぶのそんなに嫌なのか…いくら羊とはいえ会ったばかりの奴にまで嫌な顔されるとさすがの俺も傷つくんだけど…
もしかしてツンデレ?羊のツンデレとか誰得なんですかね…
「分かったよ。康斗。確かに、しも…パートナーのことは名前で呼ばないとな。」
また俺のこと下僕って言いかけやがった。しかしこいつについて気になることは多々あったが、俺はそんなことよりも遥かに重大なことに気を向けていた。
「そう言えば康斗、ルウに聞きたいことがあったんじゃないのか?」
「ああ。ルウに聞きたいことは山ほどあるが、話は葵が俺のために作ってくれた朝食を食べてからだ!」
葵が俺のために作ってくれた朝食を食べることより優先することがあるだろうか、いやないだろう。
俺はルウを部屋に残して急いでリビングに向かった。しかし、今の話の切り方、「話は魔物を片付けてからだ!」みたいな感じだったな。どこのRPGだよ。
都家の朝は早い。両親は始発に間に合うように家を出て仕事に向かい、出る直前に俺をたたき起こす。俺が朝起きられないから…というわけではなく、人がこれから仕事に向かうというときに、のんびり寝ているのが腹が立つといった理不尽極まりない理由だ。もはや八つ当たりである。今朝のことはわからないが、おそらく昨日の夜遅くまでゲームをしていたからか、朝の親の目覚ましにも屈しなかったのだろう。
俺がリビングに着くと、ちょうど葵がテーブルに朝食を並べているところだった。
炊きたての白ご飯に、湯気が立ち上る味噌汁、形の整った玉子焼き、飲み物は紅茶。なんとも和風なメニュー…紅茶?紅茶は洋風ですね。他のメニューからすれば緑茶あたりが妥当だと思うんだが…
「ごめんね、お兄ちゃん。今緑茶切らしてて。飲み物だけ洋風になっちゃった。」
まるで俺の心を見透かしたかのようなタイミングで葵が申し訳なさそうに謝ってきた。
「いいや、全く問題ない。むしろ紅茶があることで和と洋が共存してて異文化交流の大切さに気づかされるまである。だから葵が謝る必要は一切ない。」
俺が訳のわからないフォローをすると、葵は安心したようにほどよい大きさの胸を撫で下ろした。葵がすくすく育ってくれてお兄ちゃんは嬉しいよ…
「ありがとう。お兄ちゃん。」
それほど感謝することでもないのに、そう言って葵は屈託のない笑顔を俺に向けてきた。
そんな純粋な笑顔を見せられたら相手は妹なのに動悸が速くなってしまう。寝起きの俺(寝坊)には刺激が強い。ここは一旦外の空気を吸って落ち着くべきだな。そうでもしないと道を踏み外してしまいそうで怖い。この辺は住宅街だからあまり空気が澄んでいるとは言えないが。
「あー…その、なんだ、ちょっと朝刊を取ってくる。葵はそこで待っててくれ。」
動揺に気づかれないように、俺は一方的に言い残してそそくさとリビングを出た。可愛い妹を持つと大変ですね!理性を保つのが。
そう言えば今日は日曜日だったはずだけど両親が家にいなかったのはいつも通り休日出勤させられているんだろうな…
将来俺も働かないといけないと思うと気が滅入ってしまう。
そんな自分の将来への不安を溢しながら、家の外にあるポストから朝刊を取るために玄関のドアを開けた。ドアの隙間から朝日が射し込み、思わず手で庇を作る。
「眩しい…今日は快晴だな。こんな日は葵と一緒に外へ出掛けるのがいち…ば、ん…?」
俺が言葉を途切らせてしまったのは、寝起きのだらしない格好を近所の人に見られたからでもなく、ましてや、空から女の子が降ってきたからでもない。
視界に入った光景が、いつもの閑静な住宅街とはかけ離れた景色だったからだ。
家の周りは見渡す限り草原が広がり、爽やかな風の音と風に揺られる草の音だけが聞こえる。
現実の喧騒を忘れさせてくれる平穏な世界。
そして、草原の真ん中に俺の家だけがぽつんと建っている。
俺の頭の中を猛烈な既視感が襲う。これは夢の中で見ていたはずの景色だ。
「……どうなってるんだ?これ。」
俺はそんな呟きを溢すことしか出来なかった。